生涯を振り返ってブッシュマンは、ハーバード大学で学んでいた時に大きな転機を迎えた。2年生の時、厳しい信仰の危機を経験している。著名な教授から個別指導を受けることになって、その教授がモルモニズムは「がらくた」みたいだ、と言った時、ブッシュマンは何も言えなかった。日曜学校や家で習ってきた言い方で反応しても、教授には愚かなこととしか思われないことが分かっていたからであった。
ここには次のような不文律があったのだ。それは、人は何を信じても構わないが、なぜそれを信じるのか説明が求められ、聞く人に受け入れさせることができないにしても、なるほどと感じさせる賢明な答えでなければならなかった。少々ヘンであっても、筋の通った印象を与える信条説明である必要があった。
例
Q:「どうしてジョセフ・スミスが信じられるのか」
A:「モルモンとして暮らす時、それが自分に合った生き方であると感じるのです」
Q:「モルモン書をどう思うのか」
A:「学識あるクリスチャンが聖書を読むのと同じ読み方で読んでいます。この本の史実性やほかの問題があっても、書かれている言葉が真実であると感じずにはおれないのです。」
普通に教会で聞く表現に固執すると、事実上相手に関心を寄せず無頓着な態度を取っていることになる。相手に私たちの言い方に理解を持って欲しいと求め、私たちは歩み寄ろうとしていない。何十年も学問の世界で暮らしてきて、様々な同僚に自分の信仰を説明する立場にたち、「転がる粗石」を書くに至った、とブッシュマンは語る。あの本は私の信仰と研究が重なり合っている、と自己評価する。
日本の末日聖徒も皆同じように、周囲にどう説明したものか経験してきているが、大変参考になるのではないかと思う。知恵を用いて、相手毎にもう少し準備された、積極的なトーンで返事したいと思う。
Source:
Richard Lyman Bushman, “Finding the Right Words: Speaking Faith in Secular Times,” in J. Spencer Fluhman, Kathleen Flake, Jed Woodworth ed., “To Be Learned is Good: Essays on Faith and Scholarship in Honor of Richard Lyman Bushman,” Neal A. Maxwell Institute, Brigham Young University, 2017.
それって10年以上前から護教派というのか知的派というのか分かりませんがNJさんの周囲の方々が好んで提唱していますよね。
そんな二枚舌の態度が私は嫌なんですよ。それはウソつきの始まりじゃないですか?賢い態度だと思われますか?自分の魂が汚れていく気がします。実際、そういう物言いでずっと前からネットで発言している末日聖徒を知っていますが彼からは不誠実さしか感じません。
教会内でも外部でも同じ言葉、同じ姿勢でありたいものです。私ならこう回答します。
Q:「どうしてジョセフ・スミスが信じられるのか」
A:「信じているのではなく探求しています。神の予言者から狂人までのあらゆる可能性についてを。それはイエスやルター、ヒトラーやガンジーについても私は同様の姿勢です。実に興味深いことだけは確かです」
Q:「モルモン書をどう思うのか」
A:「多くの検証からこの本に史実性はないと理解しています。しかし末日聖徒と自称する多くの人たちがこの本からみたまを感じると言います。そのみたまが単なる自己暗示なのか神からの啓示なのかを探求するための格好の材料ととらえています」
外部の人に伝えるために賢く言葉を変えようなんて小賢しいマネをしていると、あぁこの人、実は信じてないんだなとは見透かされますよね。
私は自分がどの程度信じているかを正直に表現すると先のコメントのようになります。だからそれで良いと思っています。
>ここには次のような不文律があったのだ。それは、人は何を信じても構わないが、なぜそれを信じるのか説明が求められ
これって記事のためのレトリックですね?そんな不文律ないですよ。それなら説明が苦手な人は信仰を持てないことになります。
信仰を合理的に説明しようとするのは一つの試みとしてアリかもしれませんが、それに拘泥するというのであれば、それは実は信じていないからでは?
モルモニズムは重箱をつつくレベルではそうではないとしても、大枠は単純明快なものなのだから、納得感のある説明は可能なはずですよ。
例えばクリスチャン文化の中であるならば、一見矛盾するような難解なイエスの言葉や喩えをいくつか引用して、モルモニズムで解き明かすならば、(同意はないとしても)周囲の理解は得られるし、そのようなモルモニズムを近代になってから提供した無学のJS(聖書読んだけど分からんかったわレベル、からスタートした預言者)は、少なくとも霊的指導者として支持できる理由になりうるでしょう。
大切なのはウラオモテのない人格を築くことなのでは?私の友人で下ネタばかり口にする人がいるけど仕事の上では仲間を裏切らない、だから信用されてるし私も彼を信用している。私はそう考えます。
時宣にかなった言葉
http://ncode.syosetu.com/n8139cx/25/
箴言解読文書
教会員Rさんが示した箴言は、
タイミングとチャンスとその人にいま大事であろうとする言葉を発することを意味をしている聖句ではないでしょうか。
一方的に福音を伝えたとしても、その言葉がその人に伝わるかと言えば伝わらないこともあります。
福音を同じ事を学んで話しても、伝わるときと伝わらないときがあります。その人に今必要なこたをタイミングよく話せることがこの聖句の意味ではないでしょうか。
ブッシュマンさんの話は、よく準備して自発的に学んでないと、いざ話す必要な時に話せなくなりますよっていうことでしょう。
教会内で通ずる説明とは、祈りによってJSやモルモン書を問答無用に全肯定していることを前提にして、それを土台にして話し合うから、お互い通ずるのです。
一般の人はそうでないので、問答無用の部分をある程度論理的に説明してみなさいと教授が言うので、ブッシュマンさんの教会向けの説明では、いくら日曜学校で勉強して満点でも、いくら熱心に神話を述べても、教授にガラクタ(言い換えると自家中毒くらいのニュアンス)だと言われてしまうのは当たり前だったということ。
モルモニズムのすばらしさを外部に論理的に説明できるようになるには、少年JSのように外部の宗派を色々研究してそれぞれに限界を感じたプロセスを得て、初めてモルモニズムの需要が分かるものだったりする。 そうなれば外部への論理的な説明も簡単になるし、だからその原点であるJSが価値があるという結論にたどり着く。
勿論うちの教会ではそういうのは推奨していないから、宣教師もそこが盲点になっていて、真面目な会員ほど、ガラクタの説明をしてしまうってこと。
https://www.lds.org/study/history/topics/masonry?lang=jpn
おっしゃるとおりです。
「その人」の需要を満たす言葉でしょう。
>普通に教会で聞く表現に固執すると、事実上相手に関心を寄せず無頓着な態度を取っていることになる。
はまさにそうでしょう。 ミュージカル「BOOK OF MORMON」でさえ受け止める余裕が教会に出来ているのなら、「転がる粗石」が安心して内部に浸透できるように、中央幹部の誰かから会員の警戒を緩める程度の援護射撃が欲しいですね。
きっとそれは宣教師にも役立つツールになると思います。
エンダウメントがメイソン儀式のパクリだというのは(英語圏では)多数の指摘があり、教会もその関連を認めなければならなくなったということですかねぇ。
教会の公式サイトの説明ではジョセフ・スミスや初期の幹部がメイソンに加入していたり、儀式に似ている部分がある事を認めていますが、エンダウメントはメイソンの単なる模倣ではないとしています。
この表現は微妙ですね・・・ある人は両者に関連がないと受け取るだろうし、ある人はやはり元ネタになっているのかと受け取るでしょう。最近のLDS教会はこうした説明表現にばかり長けてきているように思います。
最近ビショップから神殿に行かないのかと勧められましたが、もう何十年も前に受けましたし何をそんなシャカリキに何度も行く必要があるのかと思うので、断ったのですが。
私らの頃は、エンダウメントの誓約を漏らす者があれば首チョンパされるとか、サタンが牧師を遣わしているとか、まぁこの記事のテーマで言えば「それどうやって外部の人に説明するのよ?」って内容が盛りだくさんでしたね。
まぁ現在の行われているエンダウメントの内容が見たければ Youtube に神殿儀式の隠し撮り動画があがってますので誰でも見れます。
https://www.youtube.com/watch?v=Ms6ny86rXU4
何度も足を運ばなくても家庭にいながらエンダウメントの内容を学びなおせるのは良い時代になったものだと言える・・・かな?(笑)