
最近、私にとって大きな発見があった。新約聖書の専門家にとっては承知のことかもしれないが、私は佐藤研(みがく)「旅のパウロ」を読んでいて、清新な驚きを覚えた。それは、「人の義とされるのは・・キリスト・イエスを信じる信仰による」(ガラテア2:16)とあるのは、むしろ「キリスト・イエスの信(忠実、誠実)」のおかげで義とされる、と読むべきだという指摘であった。田川建三も同じ見解であり、米国のある学者はその解釈が確立されているとさえ述べている。

先ずこの部分の原語、ギリシャ語はδιὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ (through faith of Christ Jesus) で、「キリスト・イエス」の部分が属格(英語の所有格)になっていて、「キリスト・イエスの信」、言いかえると「キリスト・イエスの信実=忠実、誠実」によって人は義とされる、と訳せると言うのである。ギリシャ語πίστις [pistis] は「忠実、信頼、信頼できること」の意である。佐藤は敷衍して、「キリストが顕している信、すなわち誠実さ(さらに言えば、忠実に贖罪の業を行なったこと、沼野)によって私たちは義とされる」と言う。田川建三、太田修司、上村静も同じ見解であって佐藤は「イエス・キリストの信」と訳すのが正しいと思われると書いている(p. 222)。前田訳(1978年)も「キリスト・イエスのまことによる」となっている。
古い聖書の翻訳を調べてみた。すると、ラテン語のブルガタ聖書、最初の英訳ウィクリフ聖書、欽定訳に先行する6つの英語訳の内、ティンダル訳、マシュー訳、大聖書、ジュネーブ聖書、主教訳聖書、そして欽定訳聖書が「イエス・キリストの信(faith)」と訳していた。ラテン語の系統を引くリームズ・ドゥエイ聖書も同様であった。聖書翻訳の系譜、下図参照。


どこで、今日の faith in Christ Jesus になったのかというと、調べた範囲ではルーテルのドイツ語訳が an Jesum Christum (an は英語のon) とイエス・キリストの部分が対格になっていた。そして「改訂訳」(RV、1885年、英)、「改訂標準訳」(RSV、1946年、米)以降現代語訳(英語、日本語訳)ではほとんど例外なく、「キリストを信じる信仰」(faith in Christ) となっていて圧倒的に優勢である。
そして、その後、今日に至ってギリシャ語の属格を見直して「キリストの信」に戻っていくのだろうか。しかし、問題はそれほど単純ではない。それは属格に目的格的用法というのがあって、非常に複雑だからである。以下、II に記す。
参考
佐藤 研(みがく)「旅のパウロ その経験と運命」岩波書店、2012年
寺沢芳雄、船戸英夫他「英語の聖書」冨山房、1969年
Lenet H. Read, "How the Bible Came to Be: Part 8, The Power of the Word" Ensign Sept. 1982 (The author, a mother of 5 then). https://www.lds.org/ensign/1982/09/how-the-bible-came-to-be-part-8-the-power-of-the-word?lang=eng
教会では、聖書の内容について勉強研究する。
それは、聖書に何が書いてあるかを知るのが目的のはずだ。
所が、それを「真理を知る事」と勘違いする人が出て来る。
「聖書の中に何が書いてあるか」と、「真理を知る」とは全く違った行為である。
もちろん、聖書が「神から来た真実の書物である」と信じる人にとっては、それは同一の行為であるが、少なくとも、言語学的に聖書を研究する人たちは、「聖書は人間が書いた物」と言う前提で研究をしているはずだ。
とすれば、聖書の記述を言語学的にさかのぼり、研究をしても、「初期の聖書には何が書かれていたのか?」と言う疑問には答えられても、「真理は何か?」と言う答えには行きつかない。
語学に無知な私などは、日本語の聖書を読んで、その内容を知る事しかできない。そのような人間が、「この聖句の意味は本当はこう解釈すべきなのだ」と言語学的に説明されると、「ああ!それが真実か!!」とふと思ってしまう。
しかし、よく考えると、言語学的に、聖書のルーツをたどってみても、分かるのは「聖書を書いた人は、こういうう意味で書いたのだ」と言う事だけに過ぎない。
本当に何が真理なのかは、物事を論理的に思考し、矛盾のない答えを導き出すことでしか出来ない。
もし、聖書の記述を根拠として、「これが真理だ!」と言う人が居れば、それは、最初に聖書を書いた人に対する信仰でしかない。
聖書の言語学的研究は無意味だとは言わないが、聖書の原文にいかに忠実に解釈をしても、それは「真理」とは別のものだと言う事を、頭に中に持っておかないと、真理とは違った方向に行ってしまうのだ。