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信仰義認論に変化の可能性?その行方 I

2015-10-27 23:59:34 | 聖書
[2010年. 読みたいタイトル]

最近、私にとって大きな発見があった。新約聖書の専門家にとっては承知のことかもしれないが、私は佐藤研(みがく)「旅のパウロ」を読んでいて、清新な驚きを覚えた。それは、「人の義とされるのは・・キリスト・イエスを信じる信仰による」(ガラテア2:16)とあるのは、むしろ「キリスト・イエスの信(忠実、誠実)」のおかげで義とされる、と読むべきだという指摘であった。田川建三も同じ見解であり、米国のある学者はその解釈が確立されているとさえ述べている。



先ずこの部分の原語、ギリシャ語はδιὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ (through faith of Christ Jesus) で、「キリスト・イエス」の部分が属格(英語の所有格)になっていて、「キリスト・イエスの信」、言いかえると「キリスト・イエスの信実=忠実、誠実」によって人は義とされる、と訳せると言うのである。ギリシャ語πίστις [pistis] は「忠実、信頼、信頼できること」の意である。佐藤は敷衍して、「キリストが顕している信、すなわち誠実さ(さらに言えば、忠実に贖罪の業を行なったこと、沼野)によって私たちは義とされる」と言う。田川建三、太田修司、上村静も同じ見解であって佐藤は「イエス・キリストの信」と訳すのが正しいと思われると書いている(p. 222)。前田訳(1978年)も「キリスト・イエスのまことによる」となっている。

古い聖書の翻訳を調べてみた。すると、ラテン語のブルガタ聖書、最初の英訳ウィクリフ聖書、欽定訳に先行する6つの英語訳の内、ティンダル訳、マシュー訳、大聖書、ジュネーブ聖書、主教訳聖書、そして欽定訳聖書が「イエス・キリストの信(faith)」と訳していた。ラテン語の系統を引くリームズ・ドゥエイ聖書も同様であった。聖書翻訳の系譜、下図参照。




どこで、今日の faith in Christ Jesus になったのかというと、調べた範囲ではルーテルのドイツ語訳が an Jesum Christum (an は英語のon) とイエス・キリストの部分が対格になっていた。そして「改訂訳」(RV、1885年、英)、「改訂標準訳」(RSV、1946年、米)以降現代語訳(英語、日本語訳)ではほとんど例外なく、「キリストを信じる信仰」(faith in Christ) となっていて圧倒的に優勢である。

そして、その後、今日に至ってギリシャ語の属格を見直して「キリストの信」に戻っていくのだろうか。しかし、問題はそれほど単純ではない。それは属格に目的格的用法というのがあって、非常に複雑だからである。以下、II に記す。

参考
佐藤 研(みがく)「旅のパウロ その経験と運命」岩波書店、2012年

寺沢芳雄、船戸英夫他「英語の聖書」冨山房、1969年

Lenet H. Read, "How the Bible Came to Be: Part 8, The Power of the Word" Ensign Sept. 1982 (The author, a mother of 5 then). https://www.lds.org/ensign/1982/09/how-the-bible-came-to-be-part-8-the-power-of-the-word?lang=eng


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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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言語学の限界 ()
2015-10-28 09:32:53
人間は、ある方向に思考が固まると錯覚を起こす。

教会では、聖書の内容について勉強研究する。
それは、聖書に何が書いてあるかを知るのが目的のはずだ。
所が、それを「真理を知る事」と勘違いする人が出て来る。
「聖書の中に何が書いてあるか」と、「真理を知る」とは全く違った行為である。
もちろん、聖書が「神から来た真実の書物である」と信じる人にとっては、それは同一の行為であるが、少なくとも、言語学的に聖書を研究する人たちは、「聖書は人間が書いた物」と言う前提で研究をしているはずだ。

とすれば、聖書の記述を言語学的にさかのぼり、研究をしても、「初期の聖書には何が書かれていたのか?」と言う疑問には答えられても、「真理は何か?」と言う答えには行きつかない。

語学に無知な私などは、日本語の聖書を読んで、その内容を知る事しかできない。そのような人間が、「この聖句の意味は本当はこう解釈すべきなのだ」と言語学的に説明されると、「ああ!それが真実か!!」とふと思ってしまう。

しかし、よく考えると、言語学的に、聖書のルーツをたどってみても、分かるのは「聖書を書いた人は、こういうう意味で書いたのだ」と言う事だけに過ぎない。

本当に何が真理なのかは、物事を論理的に思考し、矛盾のない答えを導き出すことでしか出来ない。

もし、聖書の記述を根拠として、「これが真理だ!」と言う人が居れば、それは、最初に聖書を書いた人に対する信仰でしかない。

聖書の言語学的研究は無意味だとは言わないが、聖書の原文にいかに忠実に解釈をしても、それは「真理」とは別のものだと言う事を、頭に中に持っておかないと、真理とは違った方向に行ってしまうのだ。
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分かります (NJ)
2015-10-28 10:41:30
お説ごもっとも。II で同じ方向の答えを多少見出していただけるのではないかと思います。言語面・文法的分析の限界について。
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