[pistis Christou]
ギリシャ語本文は、πίστις Χριστοῦ ([pistis Christou] faith of Christ) 「キリストの『信』」となっているが、ギリシャ語のこの属格に目的格的用法 (objective genitive) というのがあって、「キリストに対する信(仰)」という意味にも読み取れる。それでこの両義に取れることについて、岩波書店の「新約聖書」(2004年)、米の新改訂標準訳(NRSV) は註で触れている(本文は faith in Christ)。A. Marshall の希-英対訳では、faith of(in) Christ と in をカッコに入れている。
この属格の目的格的用法に関連して、H.W.スマイスが「ギリシャ語文法」で詳しく説明している。日本語で言えば、「津波の恐怖」が津波に対する恐れを表すように、ギリシャ語でも心情・感情に関わる言葉(「信仰」「信頼」もその例)を含む表現によく見られ、翻訳する場合、前置詞 in, to などを入れて訳される、と説明している。これを読むとこちらの読み方にも説得力を感じる。新約の例、ヨハネ19:38 fear of the Jews「ユダヤ人の恐れ」ではなく「ユダヤ人に対する恐れ」である。
インターネット上に更に詳しい解説が見つかった。lectionarystudies.com の「ギリシャ語統語法、属格」のページで網羅的に行き届いた分類がしてあった。問題のガラテア2:16 について次のように併記されている。
目的的属格=人は律法の行ないによって義とされるのではなく、イエス・キリストに対する信仰によって義とされる。(IN JESUS CHRIST)
修飾的属格=人は律法の行ないによって義とされるのではなく、イエス・キリストの誠実によって義とされる。(OF JESUS CHRIST)
神学者モールトンはこのような属格の解釈は文法の問題というより、釈義(注釈、解釈)の領域で、最終的には文脈が鍵を握る、と見る。そして、ドイツの新約学者G.A.ダイスマンはこの句について、象徴的な「キリストとの連帯・一致感(fellowship)」という概念にたどり着き、さらに「キリストの血によって義とされる」と解すべきであろうと言う。難しさが残るけれども結局、このような見方が妥当なところではないかと思う。ただ、本文の英訳、和約が今後どのような形になっていくのか大変興味がある。(「行ない」の面を徹頭徹尾否定し、「信仰によってのみ救われる」と強調する福音主義派の人たちの理解が、どの程度キリストの「信」頼性、贖罪を遂行された忠実にまで及んで語っているのか確認してみたい。)行動も重視する末日聖徒は、「『キリストの誠実』によって義とされる」、と訳されている方が受け入れやすいのではないかと感じる次第である。
[ASV=American Standard Version. 3段目はギリシャ語、4段目は矢印で右にまとめ。]
*2018年に出た「JBS共同訳(聖書協会共同訳)」では、「人が義とされるのは、・・イエス・キリストの真実による」(ガラ2:16)としている。
参考
W.F.Arndt & F.W.Gingrich tr. & ed., "A Greek-English Lexicon of the New Testament and other Early Christian Literature" The University of Chicago Press, copyright 1957, 14th printing 1973
New Testament Greek Syntax, The Genitive Case. www.lectionarystudies.com
Herbert Weir Smyth, "Greek Grammar" Harvard University Press, copyright 1920, 10th printing 1976
何もしなくても、キリストの贖罪によって人は義とされる。
無条件義認になっちゃうな??
これぞまさに福音!
でも、それじゃあキリスト教系宗教家は飯が食えなくなるな~
モルモンにとっては「行い」も救いの条件なのは当たり前のことなので、信仰のみの義認に変化の兆しがあるとすれば、歓迎するでしょう。
しかし、一昔前の聖徒の道には「イエス・キリストにただキスすれば良い。」と書かれた記事があって、あれ、ルターの思想?と思ったことがあります。
神様への純良な信仰は人を救いに導く。良い行いは自然とそれに付随してくる。福音派は別にしても信仰義認の一端は末日聖徒にも理解できると思います。
>行動も重視する末日聖徒は、『キリストの誠実』によって義とされる
https://www.lds.org/scriptures/gs/justification-justify?lang=jpn&letter=き&country=de
人は救い主を信じる信仰を通して,『救い主の恵み』により義とされる。
共通点が多いですね。
贖罪により救われるのはあくまで恵みによるわけですね。教義と聖約にあり、スペリーもそれに言及しています。
イエスはみんなを等しく招待して下さっているのに、「ここに入るには資格がいるんですよ、あなたはちゃんとやってるの?」ってインネンつけるのが行為義認ってやつですね。
たとえて言うなら被災地に支援物資が届いて等しく分配しようとしているなかで、「あんたら税金納めてんのか?選挙で投票してんのか?地域に貢献してんのか?キチンと義務を果たしてはじめて救われるんやで!」と怒鳴り散らしているようなものでしょう。
神の恵みの豊かさ、神の愛の深さを知らないために、何か物を受けるには引き換え条件があるのだと言う実に人間らしい発想が『行いが必要』だと思わせてしまうのかも知れません。
しかしではモルモンがどのような行いを救いの条件にしているかと言えば、酒・コーヒー・煙草を我慢する、教会幹部の悪口を言わない(ただし教会批判者の悪口はOK)、収入の1割を何に使われるか確かめもせず教会に上納する、教会特製のステテコを穿き続ける、と精々こんなもんでしょう。
こんなレベルで、信仰義認は間違いだなどと 調子づいたこと言ってたらルター先生も天国で苦笑してるよね。
ってことはつまり、「イエスの贖罪によって、人は罪が無くなった。」って事ですよね。
ここには、「人間が神やキリストに対して信仰を持つ」と言う条件は全く入らないんでしょ?
「人類のすべてが、キリストの贖罪の恩恵を無条件で受けられる。」つまり、仏教徒でも、無神論者でも、ですね。
私はそれで良いと思っていますよ。
でもね、それじゃあ、「信仰を持つ意味は?」って疑問が生まれる。
つまり、「自分が無条件で罪を無くしてもらったので、ただ感謝します。」だけでいいんでしょ?
いや、感謝すらしなくても、贖罪の恩恵は受けられる。ってことに成るでしょ?
それで良いんですか?って質問です。
もちろん、ガラテヤ書に書いてある文言の解釈に限定しての話で良いんですけどね。
私は語学の事は分かりませんが、常識的に考えて、「ガラテヤ書の筆者がそんな事を本当に書いたのでしょうか?」って疑問が生まれるんです。
そんなこと書くはずないだろ、って思うから、その翻訳が間違っているんじゃないの?って考えます。
いくら偉い学者が研究した結果でも、現実に有りえないことは、おかしいと思うのが正しいと考えます。
パウロか誰かは知らないけど、宗教者は、そんなことは書かないと思いますよ。
宗教者と言うのは、すべからく、人々に神への信仰を求めるものですからね。
信仰とは関係なく救われると言うはずがない。
ずっと後世、キリスト教が発展していくなかで練り上げられたものだと思います、多分。
したがって聖書の一次資料の翻訳と言う作業のなかで、現代の私たちの認識とは違う考え方を聖書の記述者が持っていたとしてもそれは当然ではないでしょうか。
その田舎宗教は教義の半分以上は聖書に基づかないものですし、それどころか自分達の創立時の教義も否定してますから。(笑)
それは、「(ユダヤ教の)律法によって人は義とされるのではない」と言う事だ。
まず、ケパが、異邦人を差別していると非難するところから始まって、アブラハムの信仰などを引き合いに出して、「律法を守ることによって、義とされるのではない」との主張を繰り返している。
まず確認しておかないといけないのは、ここで言う「行い」とは、一般的に使うところの、「行動」ではなく「律法を守る」と言う事だ。
つまり、「律法を守るの事によって義とされるか?、イエスをキリストと信じることによって義とされるか?」
この二つについて述べられている。
このスレッドの趣旨のように、そうではなく(キリストに対する信仰ではなく)「キリストの犠牲によって、人は義とされる」と言う趣旨で語っているとしたら、5章の3節をはじめとする「信仰によって義とされる」と言う部分をどう解釈するのだろう?
3章の6節から続く「アブラハムは神を信じたそれによって彼は義と認められた」と言う例は、どう解釈するのか?
そもそも、「キリストの犠牲によって私たちは義とされる(罪が無くなった)」と言うのは、ガラテヤ書の著者にとって、既成事実の確認に過ぎない。
それは、大前提で有って、勧告ではない。
もちろん、そこの認識は極めて重要だが、それを伝えて回るだけでは、宗教集団は意味をなさない。
「イエスはキリストである、だから信仰しなさい」って事で、宗教者がうったえるのは、この「だから信仰しなさい」の部分じゃないのか?
ガラテヤ2:16に戻ると、ここではby the faith ‘IN’ Christ か by the faith ‘OF’ Christ かが問題になっています。faith を否定しているわけではありません。佐藤、田川などが主張しているのは、キリスト『の』「信、誠実」(召しを必ず果たすという)のおかげで義とされる、と言うことです。
私はこの見方に関心が向かっていますが、ギリシャ語の用法から言って、faith in Christ の読みも強い根拠があって、両意見相譲らずの感がします。基底の部分で重なりを感じる要素があって、まだこれからも注目しながら勉強していきたいと考えています。
(既成の認識の確認にすぎないという点ですが、ある聖書辞典ではユダヤ教の律法に戻るように説く勢力が影響力を持ったという知らせを聞いて、この書簡を書いたとあります。「ケンブリッジ聖書案内」)