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最近バート・D・アーマンという新約学者の本が目に
留まった。歴史学・批評的神学を修めた著者の信仰に
対する姿勢が興味深かったので、その部分を引用・紹
介したい。彼は次のように肯定姿勢に転じている。

以下彼の講義「新約聖書学」を聴いた学生の反応から
始まる。

- - - - - - - - -

 何種類かに分かれるが、一部の学生はこう答える。
 「新約聖書には矛盾が含まれていることを認めるが、
それでも自分にとって聖書は霊感された書物であり、
生きる指針を示してくれる。」
 こうした学生の多くは聖書が無謬の書だとは考えて
いないし、聖書を西暦1世紀の歴史的背景から切り離
して現代のコンテキストに移し変えることができると
も思っていない。彼らは同じ聖書に書かれた内容でも
箇所によって見解が異なることがあり、時には相反す
ることも認識している。それで聖書の様々なメッセー
ジを自分なりに吟味して、どれが今の自分の状況に適
っているか、見極める必要があることを感じている。
1世紀に住んでいたパレスチナ人ではなく、21世紀
に生きている現代のキリスト教徒として自分に見合っ
た価値観を選び取るべきだと考えている。

著者の反応:
私はこの意見に全面的に共感を持つ。私の講義の目的
は聖書を攻撃することにあるのではなく、また学生の
信仰を叩き潰すことでもない。私が目指しているのは、
信仰のうちに育ってきた人が、受け入れてきた信仰体
系の本当の姿にきちんと向き合う
ことである。

私がしようとしていることは、これまで一般の人々に
知らされてこなかった聖書やキリスト教史の研究成果
や知識を知らせる
ことである。それは欧米の神学校や
神学部で学んだ学者や学生にとっては何ら目新しいこ
とではない。

聖職につく人はなぜこうしたことを信者に教えようと
しないのだろうか。説教壇に立つときはともかく(説
教をするときには敬虔さが求められる)、成人講座な
どにおいても歴史的・批判的アプローチではなく、信
心をもって聖書を読むようにしか語らない。

聖書の歴史的・批判的アプローチが必ず人を無神論に
導くとは限らない。むしろ知的で思慮深い信仰に導き
得る。歴史的批評家が歳月をかけて発見した問題点を
無視して聖書を読むよりずっと奥深い内面的な信仰
到ると確信する。

キリスト教が人間の創造したものであることに気付い
たとき、この宗教の主義主張について自分がどう考え
るか見極める必要
を感じた。そしてキリスト教的な考
えが私の波長に合うという結論に達した。私の世界観
や世界の中での自分の立ち位置と非常に相性がよかっ
たのである。

私は教会を去っているが、聖書理解が私と同意見の友
人の多くは教会を去っていない。彼らにとって神話は
今も有効で心に響いており、信仰に一種の安らぎと力
強さを見出している。彼らにとって信仰と知性は何の
関係もなく、自分たちがキリスト教徒であるとためら
いなく言う。

しかし、信仰を持ち続ける人には、聖書の歴史的・批
判的アプローチの重要性を過小評価するのではなく、
その神学的意義を探求してほしい。

聖書が同じ主題について複数の解答を提示していると
き、読者はどれが現在の生活に照らして、あるいは特
定の状況下で適当か吟味し、選ぶことができる。これ
について危惧する人がいるかも知れないが、すでに誰
もがそういう読み方をしているのではないか。頭を使
って聖書の何が真実で何がそうでないかを判断しなけ
ればならない。人生にしても人はそのようにして生き
ていくものだ。

聖書を敬虔な気持ちで読むことだけがすべてではない。
歴史的・批判的に読むことにも価値がある。聖書に多
くの矛盾が見えたとしても、聖書の内容やメッセージ
を理解するための全く新しい視界が開かれるのである


補足的であるが、聖書を信じなくても聖書から学べる
ことがある。人類の文明、文化を築いた人々の思想、
信条、愛憎、営みを記録した史料として読み、研究す
る価値がある。我々自身の人生の意義やさまざまな問
題について思索するときに助けを得られる。真実を追
究し、抑圧と戦い、正義のために努力するとき、また
平和主義を貫こうとする時、私たちの背中を押してく
れる
。そこから得られる教訓が不要となる時代が来る
だろうか。それは決して来ることはないだろう。

- - - - - - - - -
以上、アーマン著「キリスト教成立の謎を解く - -
- 改竄された新約聖書」の8章から要約・敷衍しなが
ら長文を引用させてもらった。彼の(あるいは訳者津守
京子の)ややセンセーショナルな言葉遣いや内容展開に
必ずしも好感を持たないが、8章に注目に値するものが
あったので掲載した。

アーマンの著:
バート・D・アーマン著、津守京子訳「キリスト教成立
の謎を解く - - - 改竄された新約聖書」柏書房 2010年
(Bart D. Ehrman, “Jesus, Interrupted: Revealing the
Hidden Contradictions in the Bible (and Why We Don't
Know About Them,” 2009)
著者は現在ノース・カロライナ大学宗教学教授。

参考
本ブログ 2006/03/01 神学者がみた聖書の読み方
2011/11/15 現代人はキリスト教を信じられるか:バーガー
の同名の本を読んで


コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
そうであるなら (エリアーデ)
2011-12-01 09:55:36
逆に無理して信仰心を持たなくてもいいような気がしました。

モルモンでは結構無理して信仰心を保とうとしている人がいますし、少なくとも教会全体の雰囲気はこの教会は真実であって去るものは善くない部分があった。

みたいな感じですしね、前に顕正会の人とお話したときは「この宗教団体の強制的な勧誘行為はよくないとは思うが自分一人の力では変えられない」と言っていました。

全体はそうであっても自分ひとりはそうではないと言う考え方は集団というものが平均化されたものであるから教団を擁護する理論にはならないなと思いました。

まぁさりとてこれからのキリスト教、特に末日聖徒には教団の歴史から言っても多くの課題があると感じさせられました。
 
 
 
今日の社会では (NJ)
2011-12-01 17:11:40
信仰心を持つ(持てる)かどうかは個人にかかっていると思います。いずれかの宗教組織、例えば教会に加入する、あるいは所属し続けるかどうかは個人の判断(選択)にかかっています。

現代化の進んだこんにち、宗教は多くの課題に直面していると思います。
 
 
 
そうだそうだ!! ()
2011-12-01 17:26:57
>逆に無理して信仰心を持たなくてもいいような気がしました。

そうです。
信仰や宗教なんて無くても、人間は生きて行ける!
 
 
 
やはり (エリアーデ)
2011-12-01 22:11:20
信仰心を持つ(持てる)かどうかは個人にかかっていると思います。いずれかの宗教組織、例えば教会に加入する、あるいは所属し続けるかどうかは個人の判断(選択)にかかっています。

教会の基本方針はそうではないですけど教会員個人個人はそういう決断を下した場合教会に来る人間はまさしく教会に順応できた人間しかいなくなっちゃうでしょうね、現代の風潮はそんな感じですけど僕の友人の二世会員はどちらかと言えば親に連れてかれて教会に来てる人間の方が多いのでそういった風潮に教会がなってしまえば教会に来る人間って格段に減るような気がします。

なので幹部連中が「信仰は個人的なものである」とは言わないと見ていますが、やはりそういった問題に直面したのもここの教会の上層部は時代に敏感ではないんだと思います、同性愛問題も黒人問題にしてもここの教会は要領が悪いかと存じます。

僕みたいに若い人間からすると表向きは教会来てても親から離れたら教会には行きたくないと思ってる人間は教会員が考えている以上にいると思います、まぁ僕はそういうわけで教会に行きたいとは思ってなかったりします。
 
 
 
見つける ()
2011-12-02 12:08:27
最近、モルモン教会でよく耳にするのが、「準備されて人を見つける」と言う言葉です。

先日のステーク大会でも、招待された伝道部長がその趣旨を強調していました。

つまり、「モルモンの型の中にはまる人だけを探して、バプテスマを受けさせる。」と言うことです。

福音を伝え、キリストの救いに導く、と言う考えからは、とんでもない話です。

選民主義、余任の原則、まるだしで、ぞっとします。

で、自分達会員の子供も、教え導くんじゃなくて、「選ぶ」んですね。選ばれた人を探す。

自分の子供まで、「この子は選ばれなかったんだ・・」って思うしかない親の気持ちはどんなんでしょうね?

そして、「うちの子は、セミナリーに出席し、その後伝道に出た・・」と誇らしげに話す指導者・・・。

なんか、おかしいって思わないんですかね??
 
 
 
この場合は選民ではないのでは? (NJ)
2011-12-02 16:24:26
「準備された人を見つける」は、語りかける宣教師の声に耳を傾け、lds教会が説く福音を受け入れる日本人が大変少ない今日、宣教師を励ます意味で話されたもの。所謂神学でいう選民という意味ではないでしょう。というのは、今準備できていない人も人生を生きていく過程で後にldsの福音を受け入れるかもしれないからです。・・[そもそも広い意味で適用するとしても、「選民」は教会員になってから適用されるもの]

会員が子供を「選ぶ」ような意識を持つことはないと考えます。不活発な子供を持つ親の多くは分け隔てなく子供を愛し、子供たちの物心両面の福利のために心を砕いています。・・[血統から言えば、親が選民なら活発不活発を問わず子も選民]

今教会に来ている子も一生で見るとき走り通せるかどうか、今来ていない子も将来教会に戻るかもしれないし、戻ることがなくてもよい市民として幸せな生活を送り神に喜ばれるかも知れないのです。

私もそうですが、純粋な心で信じている人たち、教会を運営している人たちの姿(敬虔)を尊重することも大切です。・・おかしいと思うことがあっても心の内に留める・・言わずにおれなければここのコメント欄のような場所で言う???

どこかでブログ主宰者のスタンスから逸れていくように感じることがあるのですねぇ。A の次+ uta-san.:D
 
 
 
腹ふくるる・・ ()
2011-12-02 18:12:56
腹ふくるる・・・と言っても、メタポの事じゃないですよ。



七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず。

徒然草(吉田兼好)19段.「折節(おりふし)の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。」より
 
 
 
然らば (NJ)
2011-12-02 18:38:12
わかっちょります。教養・学識に富んだ豚だ。

「猪言草」(いごとぐさ)など折節に綴り、因特網に載せるやよし。われ時折訪ね見るべし。如何。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2013-10-09 21:20:32
>逆に無理して信仰心を持たなくてもいいような気がしました。
・・・信仰とか信心というのは賜物です。親鸞聖人の教えでもそうだし、キリスト教でもそうです。信心を持つことは自力ではなく他力です。ある意味、縁がなければ信じることもない。だから「神義論」などで、この世の苦難・不条理に対する納得いく答えが聖書に見つからないから信じることをやめるとかいうのは、その人自身、そもそもが聖書が示す神に縁がないのです。キリストに縁がない、その父なる神との関係に無かったのです。信心を与えられている人、聖書の道に縁があり、キリストの神との関係の中に生かされている人は、どんなことがあっても信仰を放棄することはできません。十字架です。
棄教というのはせいぜい、キリスト教という一つの相対的宗教をやめることであり、キリストの神への信仰を棄てることではありません。キリストのもとに引き寄せられた者、すなわち聖書の道に縁あり、キリストの神との関係に置かれている者は、自力でその関係から出ることはできません。「神義論」でキリスト教会を出ることと、キリストの神への信仰を棄てることとはイコールではありません。キリスト教徒ではないが、キリスト信徒である人はいます。それはアリなのです。
>聖職につく人はなぜこうしたことを信者に教えようとしないのだろうか。説教壇に立つときはともかく(説教をするときには敬虔さが求められる)、成人講座などにおいても歴史的・批判的アプローチではなく、信心をもって聖書を読むようにしか語らない。
・・・一概には言えませんが、「聖職」と言ってもプロテスタントの場合は「生職・生業」でもあり、その教会でやってゆきたければ信者が喜ばないことはなるべく言わない、やらない方向にゆくのは心理としてわかるでしょう。むしろ牧師や司祭に「聖」なる面など期待する方がおかしい。「聖」なるお方は神のみです。親鸞聖人のように自らを「悪」人と言って人々と交わったような宗教者が逆説的に「聖」なる人だと言えます。
 
 
 
Unknown (nj)
2013-10-09 23:11:17
コメントに感謝します。

前半、>信仰とか信心というのは賜物、縁がなければ信じることはない・・

に同感です。ちょっと関連して「相性」が合うという表現が思い浮かびます。提示された深く、広い視点から学ぶことができます。

後半、聖職者の置かれた立場を再認識することができました。(私はそのような側面に思い及ぶことなく尊敬の念だけ持っていたように思います。傑出した神学者[牧師でもある人]の著作を読んでそのような印象を持つに至っていたようです。)
 
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