ここ最近数年の慣例であるが、lds 教会ではイエス・キリスト降誕を祝う12月の安息日に礼拝を通常のほぼ三分の一の時間で切り上げるよう米本部から通達がきて、日本の教会もそれに従っている。
アメリカではこの季節、家族・親族がみんなそろってクリスマスを祝う習慣があって国中大移動が起こることに起因している。礼拝にも行くけれども折角みんなが集まっているので早く家に帰って楽しい再会とクリスマスを楽しみたい気持ちで一杯なのである。それに教会が理解を示して通常3時間続く日曜日の集会(実際は聖餐会、日曜学校、扶助教会・神権会の三部)を聖餐会だけでよろしい、としているわけである。
日本のような異邦の国では、人々を教会に招く格好の機会であるのに、集会を短縮するのは、伝道強調の教会にしてはその機会を見逃している逆行の方向である。久しぶりに教会に出席してみようとするお休み会員を迎えるよい態勢とも言えない。日本の教会指導者はおとなしい。
日本ではアメリカと違ってクリスマスの時期に大移動が起こるわけではない。大移動が起こるのは日本では正月元旦にかけてである。しかるに米国本部は正月元旦(に近い第一週)の集会は3時間プログラムを行うように指示を出している。米でクリスマスは短く終わってもよいとするなら、同じような事情で正月に集まっている日本でも短い集会で終わって家に帰ってよいとするのが自然であろう。
マーク・R・マリンズは社会学的視点から「外来の特徴を手放さないでいるかぎり、輸入した宗教は周縁的な人々の気を引くくらいが関の山だろう。輸入した宗教が広く受け入れられるためには、異質な現象だとか逸脱した現象だと見られなくなるまでに、受け入れ側の社会の文化に根付かなければならない」と書いている。(「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」2005年)。
この視点で言えば、教会の監督職をビショップと呼ばせているのは、異質で逸脱した現象の典型であると言われても仕方がない。また、中高生を対象とした週日早朝セミナリーの実施も米のlds教会の環境でできていることを日本やヨーロッパに当てはめようとするもので、かなり無理があると懸念する声がある。
ただ、文化的な違いを考慮したと思われる面もある。アメリカの開拓者記念にちなんだ活動はもうかなり前から日本では言及されなくなっている。また、日本に教徒のために共同墓地が用意されているのは、一代前の先輩会員が教会本部に掛け合って教会が理解を示し実現したものとして評価できる。
参考
本ブログ 2009/03/31 モルモン教会、「監督」をビショップに
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というのは、教会から給料をもらっている指導者が、たくさんいるということです。財政面で独立していない日本の教会指導者が、アメリカの教会の方法に従うというのは、あたりまえのことです。彼らは、教会を離職すると家族を路頭に迷わすことになります。また自分のボスの機嫌をとるのもあたりまえの行動だとおもいます。(行動は実に日本的です)
教会に経済を依存しなくてよいような指導者は、教会運営に直接関わらないような70人職になっているようですが
その辺が、おかしな教会用語の押し付けや、クリスマスの短時間プログラムの実施(地方では実施してないユニットもある)に現れているのではないかと考察します。
ちなみに統一教会の宗教用語に独特な四字熟語がありますが、たいへんこれが大学生の知的興味をそそる言葉になっていて統一教会の伝道に貢献したのでは考えます。
札幌神殿が作られることになりましたが、経済的にますますアメリカ依存に拍車がかかるのを心配しています。
以上はデータに基づかない私的考察です。立腹される方がいらっしゃいましたらごめんなさい
昔、メキシコに骨のある地元指導者たちがいたのに、教会教育部の職員になる者が出てきて、すっかりおとなしくなったという話を読んだことがあります。
地方でクリスマスの日の集会を短縮していないところがあると聞いて、少しほっといたしました。
欧米諸国の風習を日本の上に置いて選民思想に酔ってるクリスチャンが「社会の無理解や進まぬ伝道」を何故嘆くんでしょうか?
欧米に本部のある教団でなくても欧米からの輸入品崇拝や高級宝飾品の様な捉え方は、廃したほうが良さそうです。
某教会で教会の建築様式の話題で盛り上がった時に感じたのですが、和風建築=ダサいアジアの小国(JAP)の伝統なんて反キリスト的だと捉える傾向が顕著であり、自虐史観と酷似した要素があります。
欧米に先進国が多いのもキリスト教が普及しているからであり、キリスト教が普及してない日本が先進国と云うのはケシカラン事だそうです。
欧米追従しない教会なんて信者が認めませんし、牧師や役員や教職者が説教を通して、欧米追従をキリスト的とする風習を解くのも容易ではありません。
地域ごとのキリスト教系連盟や協会から離脱を迫られないとも言えません。
モルを非難する信徒や教会がありますが、親和性の無さでは互角です。
イエスキリストの誕生をお祝いするクリスマスプログラムを、今年は天皇誕生日に行いますので!!!?
ただし一々ステークに報告すると面倒なことになると思います。
ちなみに教会指導総合手引きに、祝祭日、国旗を教会の敷地に掲揚するように書かれていたと思うのですが、実施していたユニットを見たことがありません。(日教組勢力が教会で強いということでしょうか)
とある元信者さんへ アメリカでは数多くの民族が移民した社会で国の統一をはかるため、国旗掲揚もそれだけ強調されているようです。図書館や役所、警察署など星条旗を目にすることが多いです。その習慣が教会の手引きに反映されたのでしょう。そのような慣習のない日本でその通りする必要はありません。(ここでは自主性が見受けられますね。)
日本のクリスチャンは前の大戦時、社会全体の戦争支持の風潮に同調したことを反省して、今日の姿があると見ています。(同志社大学がまとめて本を出しています。)反日とか日教組勢力が教会内にとか考えるのはうがった見方ではありませんか。愛国心は人後に落ちないと思います。
いずれにしても、日本語と日本人をバカにしているように思わないのかと思うのです。(大袈裟でしょうか?)
それに対してお上(笑)に抗議しない日本の指導者のバカさ加減には正直呆れています。(私が教会を離れている原因のひとつ)
様々な原因はあるでしょうが、
一番の原因は「盲従」ではないかと思います。
預言者や幹部のメッセージを全く租借せず、
ただただ従うだけの教会員。
こんな人が多いと「考えない」人間が出来、
従っていれば大丈夫、シオンは万事良いというわけで、安穏としているわけです。
そういう人は大事にされ、私のようなウルサイのは、
左遷(あくまでジョーク)されていけば、
考えない指導者の出来上がりというわけです。
伝道が上手くいかないのもそんなとこでしょう。
まっ、教会をこうして批判してはいますが、
私は反モルモンではないのでご安心を(笑)
どっかの元野球選手ではありませんが、
ベンチ(教会指導者)がアホやから、野球(教会員)が
出来ひんと引退(お休み)したわけです。
私は自分の弱さに気付き、信仰を持ちたいと色んな宗教を渡り歩き50歳でこの教会に辿り着きました。
でも、私は宗教人になる積りは毛頭なく信仰者となるべくこの教会を通して学んでいます。
宗教者になってしまうと皆さんがおっしゃっているように教会の方針、指導者の善悪を問うようになってしまうのです。
私は数多い宗教な中で、私が知っている限りではこの教会が真の神の教会だと感じています。(まだ触れていない教会もありますので、敢えて唯一とは申しませんが)
自分の選択を人の所為にしないで、自分で神様と相談し導きを受け、その上で、教会の指導者や兄弟姉妹の助けを頂きながら御心を行っていけるようになるのだと思います。
難しい宗教論は分かりませんが、私たちは生きている限り主に近づく努力をしていかなければならないのでしょう。
信仰は個(神)対個(自分)だと思うのです。
そう言いながら、他の宗教ではそれが許されませんでした。
自分さえしっかりして御心を悟り、行うことこそ真の信仰者と言えるのだと確信しています。
何も分かっていないのに、生意気なことを申し上げてしまいましたが、私にとってこの教会は信仰を培ううえで、最適の教会だと思っています。
たしかに説教台からは「唯一真の教会」が繰り返し唱えられますが、それは、ここに集う私とあなたにとって、またここに集いたいと望むすべての人にとって「唯一真の教会」であれば充分だと考えています。
最近、もともと唯一真にこだわっていない(信じていない)新会員の方が、教会で充実した信仰生活を送っている姿を見て、とても励まされさらにこの信仰に希望を抱くようになりました。
「信仰者」の姿勢をよく示していただきました。私は「真の神の教会」と述べることについても十分理解することができます。
>信仰は個(神)対個(自分)だと思うのです。
その通りです。モコポリさんのコメントに感謝しています。その意味では各自みんな生き様を問われる立場にいます。
ZOOさんのレスにも感謝致します。
はじめまして。30年ほど前にモルモン教会に改宗し、20年ほど前に離脱した者です。
モコポリさんのコメントで数か所気になるところがあったので、意見具申します。
>真の神の教会・・・(中略)・・・敢えて唯一とは申しません。
モルモン教会がローマ・カトリック、ギリシア正教、プロテスタント、さらに同様にカルト扱いされている統一協会、JW等ほかのキリスト教会と教義面で相違点があることはよく知られています。
それらを含めて「真の神の教会」というのであれば、それは「唯一の」と同義語です。
モコポリさんには「神の教会」であっても、他者にとっては違うというのであれば、このような表現は適正さを欠いていると考えますが、どうでしょうか。
>信仰は個(神)対個(人)であると思うのです。
であれば教会の存在理由は何でしょうか?
まして「唯一の」とか「真の」とかの冠は無用の長物だと思うのですが。
>他の宗教ではそれが許されませんでした。
作家の故遠藤周作氏は子供のころにカトリックの洗礼を受けたが、青年期を迎えるにつれカトリックの教義と自分の感性や思想が合わなくなってきたと感じた時に「自分に合わせて聖書を読もう」としたと聞きました。
私も改宗してから、そのような事態に陥りました。そこで遠藤氏と同様に「自分の聖典を読む」取り組みを始めました。
しかし・・・モルモン教会ではそのような読み方は認められませんでした。聖書をはじめとする聖典の解釈権を持つのはあくまで教会です。
元来モルモン教会は既存のカトリック、プロテスタントの聖書解釈は間違っているという観点から出発しているので「教会の聖典解釈が全て」という立場を崩すわけにはいかないのです。
ですから、モコポリさんが実際に改宗されると現在の様な聖典解読は難しくなります。
それでもそれを続けるのであれば、リベラル派としてZOOさんやNJさんと同様の教会の教義と現実とのギャップに悩まされるのは確実でしょうね。
>何も分かっていないのに
モコポリさんのスタンスは戦争のない国で「戦争反対」を訴えている人々に似ているように思えます。
モルモン教会は30年ほど前にろくな教義の提示もなく改宗だけさせて、あとから「これは神の戒めです」と無理やり従わせてロボットの様な人間を作るようなことをしていました。
そのような事実があったということにも目を向けてください。
1 まず教徒が「神の教会」と受けとめることですが、キリスト教会はそれぞれの教派(また教会)がユニークな存在であって、信徒にとって「唯一」な教会となっているのが一般的でしょう。(今日の宗教社会学。バーガーなど)。
モコポリさんが「唯一の」という点で、控えめな表現をされたのは、彼女の謙遜な人柄と他の立派なキリスト教会を尊重する姿勢の表れであると見ます。
2 信仰は個(神)対個(人)について。これは常識的に見てすぐ理解できるほどのことではないでしょうか。教会の存在理由についても、矛盾することはない。NTに2,3人が集まるところには・・とある通りです。
3 聖典の解釈について。現代において、ldsも含めて教会の信徒はそれぞれの世代、教育、教会歴に応じて、あるいは保守/進取などの傾向に応じて、それぞれが自分で解釈する時代になっています。現にトトロさんも今集っている人々もそうしているではないですか。
広島にいた時アメリカから来た夫婦宣教師が、コロンブスのアメリカ発見は神の導きによる、と証をしたので私はその結果中南米の抑圧された人は賛成するでしょうか、ノーべル賞を受けた女性はインディオの人権活動の貢献で受賞したが、そのように考えないでしょうと指摘しました。こんにち、人は考えながら読んでいるのが現状であると思っています。ロボットではありません。
トトロといえば宮崎作のアニメの暖かいイメージが浮かびますが、totoroさんは違うのですか。
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