3月2日(土)、囲炉裏に桃の花が飾られた長野市「お茶ぐら・ゆいまある」での「哲学カフェ」に20余人が参加。
長田洋一さんは1979年、34歳で文芸作品の出版で有名な名門・河出書房に入社。当時、三島由紀夫・高橋和巳・野間宏・渡辺淳一など戦後作家を輩出した名編集者の坂本一亀(ミュージシャン坂本龍一の父)や寺田編集長との飲み屋での会話が、自分の一番実になったとのこと。
同世代の小説家・中上健次を担当したのは1年目。“無頼”とか“酒豪”さらには“暴力的”と言われていた中上を、恐いもの見たさの心境で初対面。何社もの原稿を抱え疲労感の漂うドス黒い顔を見た時、作家に死の影が近づいていることを予感したそうです。
文藝に「死んだ時に追悼ページを100ページ取りましょう」という発言が気に入られ、その日から毎晩、新宿ゴールデン街で彼との濃密な時間がスタート。夕方から朝方まで数軒ハシゴ、最後はガード近くの牛丼屋で紅生姜をつまみに飲んで、「今夜またね」と言って別れるという連日。これで1本も原稿をもらえなかったらどうなる?
そんな関係を続けていたら思えてきたのは、長編の『枯木灘』を超える短編連作を書かせようと。結果として『千年の愉楽』が誕生することに・・・
いつもと同じように、ゴールデン街でハシゴして飲み足らず、バーのママによこせって言ってもらい受けたウイスキーを二人でラッパ飲みしながら千駄ヶ谷の河出書房まで歩く。構想も煮詰まり、書きはじめるまでにあと一歩という段階で作品を象徴するタイトルが思い浮かばず悩んでいたのですが、話が彼の好きなガルシア・マルケスに及んだ時、『百年の孤独』か。うーん、百より千だよね。千年か、それだ!それだ「千年の愉楽」でどうだ? それスゴイよ! 早朝の出版社に潜り込み、まだ1枚も書けていないのに警備員室で祝杯を上げ崩れ落ちた。
朝9時に出勤した社員たちは死んだように眠りこける二人の姿に唖然としたそうです。
書くモードにスイッチが入り、「これから新宮へ行くぞ」と、夜の東名を車で走らせ、旅館に着くと食事も取らずコーヒーのみで、集計用紙に向かい原稿用紙7枚分を2時間ごとコンスタントにひたすら書き続けたそうです。FAXが無い頃なので、南紀白浜空港から航空便で羽田へ送り、文芸部員が印刷会社へ届ける。残りは赤坂の山ノ上ホテルで逃げ出さないよう缶詰め状態に。さらに間に合わない時は、大日本印刷の鍵を掛けられた部屋でテーブルの上に腹ばいになって書き上げたというエピソードも。
「人間苦海烈しく吹雪せよ中上健次、都はるみよ」と福島泰樹さんは詠んだ。都はるみの復帰を精神的に支えた中上はフランス・韓国・大阪などを共に旅し、兄妹のような濃密な関係だったという。彼が歌う「カスマケプ」は腹の底まで沁みるほど上手かったと。
そこで、ゆいまあるの店主が同店でもライブをした在日韓国歌手・新井英一と中上健次が唐津のリキさんのために作詞作曲したCDから中上の肉声を流すというサプライズも。
コーヒータイムの後の談話会では999賛助会員で紀伊民報編集局長石井晃さんから寄せられた「中上健次と熊野の言葉」の資料からの話題や、長田さんの塩尻市立図書館「本の寺小屋」のルーツ「熊野大学」、被差別や宗教問題、中上の好物まで意見交換を。「作家と編集者の関係を知ることができ宝物の時間でした」との発言もありましたが、長田さんの魅力的な話にグイグイ引き込まれあっという間のひとときでした。
『文藝』80年11月号に掲載の『千年の愉楽―天狗の松』生原稿や『文藝』冬季号の特集追悼中上健次、ゴールデン街案内、年譜のコピーなど貴重な資料もいただくことができ、参加者から大変喜ばれました。
※若松孝二監督『千年の愉楽』は長野ロキシーで4月12日(金)まで上映
次回の6/16公開談話会もどうぞご期待ください!