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気になる。気になる。あぁ気になる

2021年06月18日 | 臥龍つぶやき
気になる。気になる。あぁ気になる
 一つ目、句読点がいつの間にか「,(カンマ)」と「。」になっている。小学校で句読点は「、(テン)」と「。」と教えられたはずなのに。
新聞で読点を使い始めたのはまだ日が浅い。昭和初期までの新聞記事に読点はない。読点の打ち方にも決まりはない。だからと言って、読点は“カンマ”でも良いとは思えない。
裁判所の判決文はいつのまにか“カンマ”と“まる”になっている。文部科学省の役人が決め裁判所がそれに従ったらしいと言うことだ。
  二つ目、文章を書くときは「書き出しは一字下げる」「段落が変わったら一字下げる」ということを教えられる。しかし、下げないのが当たり前のようになっている。デザインの一つと言うが、知人の大学講師に聞いたら、学生の論文でも字下げをしない学生が多いそうだ。
なんだかこっちがおかしいのかと不安になり、マイクロソフトの影響かとも思い、字下げは日本語だけか?と思ったが、英語も同じ。
 三つ目、格助詞「を」や「行う」「〇○したり」がやたらに出てくる文章や話が多い。
例えば「判断をし」「話をし」は、「判断し」「話し」で良いのに、「を」をわざわざ挟む。国の代表者たる首相も「ワクチン接種をし」と言っている。
 ニュースで「現在○○線は、順調に運転を行っています」とアナウンサーが伝える。「運転を行う」なんて言わなくても「運転しています」と言いえばいい。「会議を行う」も「会議をする」で良い。
  ご丁寧といえばご丁寧だが、「行う」を使う必要はない。
四つ目「○○したり」は「受付したり、話をしたり、会議をしたり」“したり”ってなんだと、ふと疑問に思った。
 「受付し、話し、会議し」で良いのに“○○したり”って何もしていないのに何かしたように伝わる。“たり”ことばは必要なのか。いらない。
どうでもいいと言えばいいのだが、気になる。
 「ら抜き言葉」がかつて議論になった時、「言葉は変化するものだ」と言った学者がいた。そうだと思うが、あまりにひどくないか。話し言葉は百歩譲っても、書き言葉、文章までルール違反はいかがなものか。
  ツイート・ラインなど、気軽に伝える文を書く機会は増えたが、そこに書く文章に責任を持たないのが当たり前のようになっている。
  文の力が削がれていると言ったら言い過ぎなのか。これこそ活字文化の衰退ではと、大げさに思う。(会員K・U)