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第2回「内山節 哲学塾 須坂精舎」

2021年12月06日 | ふるさと・内山塾
 第2回「内山節 哲学塾 須坂精舎」に55名が参加!




 9月8日に開催予定していた「内山節 哲学塾 須坂精舎」は、コロナ感染の第5波流行の「緊急事態宣言」中になってしまい急きょ中止して、2か月遅れ11月10日(水)須坂市普願寺講堂で開催しました。急な変更だったため、参加者は減少するかと思いましたが、9月の申込者数と変わらず55名が参加しました。講演テーマは「未来社会のデザイン」でした。
 内山さんは、明治以降の近代化した日本の社会を検証する。それは、国民国家、市民社会、資本主義が三位一体となって形成されたもので、その中身は人々が国民という個人に分けられ、国家が一元管理する社会になった。市民という個人、資本家、管理職、労働者、消費者という個人に分けられ、人々が結び合う社会ではなかった。
 サラリーマンは都会で高齢者になると、仕事はなくなる、農業をするにも土地は無く、マンションに住んでいると、やることもなく、孤立し、自分の役割も無い。お金はあっても話す相手はいない、子供があっても話す機会は無いし、つながりが無くなっている状況にある。サラリーマン社会はポジションを取らないと何も得られない世界になる。だから一人ひとり(個人)がポジションを得るために、いい高校に入って、いい大学に入って、いい会社に就職する。そして会社の中でもポジション取りの競争をし、退職後の安定した生活を得ることが目標になっている。そうやって得たポジションだからこのシステムが安定していなくては困るのである。だからこのシステムが続くよう保守主義になる。システムを壊すことを望まないので労働組合に入って改革をしようという人は少数派になってしまう。ますます保守主義が強くなる。
 こういう個人の時代になると、生命も個的に捉えるようになった。しかし生命活動は本来結び合う中にあるものだ。例えばアリの社会は、女王アリがいて、働きアリがいるように全体で一つの生命体となっている。人間社会でも同じ。祖父=子=孫とつながり合う生命を大事にしてきた伝統社会である。人と人が結びついた生命活動、人と自然が結びついた生命活動、さらには死者(先輩)との関係の中に生命活動がある。生命は個体の中に自己完結的に存在しているのではないのだ。自然、生者、死者との関係の中に存在する。
 これからの社会デザインは、自然、生者、死者との関係が基盤となる社会をつくることだ。それを目指さないと、人々は社会の主人公になれない。システムに支配された個人を続けることになってしまう。他者との関係の中に自分の生命があり、他者との関係の中に社会の出発点がある。
自然と生者と死者との関係が基盤となる社会をつくるために、現実的対応と根源的対応の両面を併存させながら、新しいシステムを作っていくことだと話された。
                  

9月29日

2021年12月06日 | 臥龍つぶやき
〇9月29日
 9月29日、甥のお嫁さんと2人の娘から、誕生日のメッセージが贈られてきた。毎年のことで、大概は「元気ですてきな1年にしてください」「これらも元気でいてね」「体に気をつけてね」と、身体を気遣う一言で結ばれていた。今年は「長生きしてね」が贈られた! えっ‥‥、70歳になったとたん長生き‥‥かぁ。
 しばらく時を置いて、「長く一緒にいようね」という純真な気持ちだと気づき頬がゆるんだ。
 70歳は「古稀」として祝う風習がある。唐の詩人・杜甫の詩の一節「人生七十古来稀なり」に由来し、七十歳まで長生きする者は昔からきわめて稀である、という意味から「長寿の祝」とされる。
 ただこの杜甫の詩には「酒債は尋常行く処に有り」という前段があり、「七十は稀であるから今のうちに好きなお酒をたくさん飲んで楽しんでおこう(‥ツケはあるが)」と、不遇の生涯をおくった杜甫の偽りのない本心も歌われている。
 最近は、「古稀」の「稀」が「希」で書かれている。「人生100年時代」、もうマレではなく「70歳でさらなる希望を」「70歳は希望なり」と今日的な解釈もできそうである。そうなると、杜甫のように「七十は稀であるから今のうちにしておこう」と思うことってあるだろうか。正直「死」もまだ遠いと思っている。
 そういえば、還暦になった時は、物事や出来事の意味や内容がストンと腑に落ちる体験をした。嘘のように、何でも理解できた。これが齢を取るということかと、それが面白かった。
 そして、今迎えた古稀。少し前から、来し方のワンシーンが思い出されるようになった。あんなこともあった、あの人どうしてるかなあとか、懐かしむことざら。さらに、ああすればよかった、こうしなきゃいけなかった、と離れた人たちに心が向く。そして反省しきりなのである──。が、私の髪を切ってくれる美容師の先生から「それを思う、今そういう思いに至ったことで、それで良いんだよ」と、名言をいただいた。暗く沈みそうな心を救っていただいた。それからは反省の思いも、身勝手な邂逅も苦もなくできている。時には幸せもよみがえって来る。
 言葉で多くの人を傷つけ悔いが多いが、人の言葉に救われている。そうしてこの先も過去と現在を行ったり来たりしながら生きていくのが、私の一生になるだろう。確かに「長生き」しなくちゃ、懺悔の全部は終わらないなぁ。
 甥家族からのプレゼントの花束は、オレンジ、ヤマブキ色、黄色、白の花々で明るい光を放っている。それを眺めながら、穏やか気持ちで我が人生を考えた今年の9月29日が過ぎ去った。(J.J.)