NPO・999ブログ    本を読んで 考える力を養おう

「自分のできることを できる時に できる処で」
市民的知性の地平を拓くNPOふおらむ集団999

第4回ふるさと・内山塾 テーマ「教育を問い直す」

2018年08月21日 | ふるさと・内山塾
内山節先生の『ふるさと・内山塾』は、去る7月7日(土)に開催されました。




 今回は85名ほどの参加者がありました。遠く新潟県上越市からの参加者もありました。
 内山さんは、明治(近代)になって教育は国家による教育に大きく変わったと言います。

≪内山さんの講演要旨≫
◎共同体による教育から、国家による教育へ
 近代以前(江戸期)の教育は共同体による教育だった。つまり、家庭内教育や寺子屋教育で、親から子へ、先輩から後輩へ、日常生活に必要な技や技術を伝承させていた。例えば、鎌や鍬の使い方、鋸の目立て、炭焼きの技術、祭りや伝統行事の作法、共同で行う用水の管理、山林の手入れ、火事や水防の対処等々地域共同体の中で、先輩後輩の関係をとおして生活の知恵を伝える共に生きる教育だった。識字率は1900年ごろ日本は50%ほどあり、フランスは10%ほどだった。たたら製鉄は日本各地で行われていて日常生活に必要な刃物などの製造に10万人もの人が従事していた。これらのことを明治政府は、古いもの、遅れているものと排除して、西欧のものをゼロから積み上げることにしたのである。漢方医学は西洋医学に、たたら製鉄から大砲や軍艦を製造できる溶鉱炉を持つ製鉄所建設に切り替えたのである。
 これは国家の求める人材をつくる教育(国家による教育)の推進だった。国家の役に立つ人材育成、勝ち抜ける個人を育成する教育を推進した。勝ち抜ける個人を育成する教育は少数のエリートを育成し、多数の「エリートに従う人」をつくるもので、言わば階層社会を成立させるものである。その階級社会を安定することが国家の安定になり、「優秀なエリート」による強い国家の建設を目指したものである。

◎近代教育はなぜ行き詰まっているのか
 しかし、この国家に役に立つ人材育成、勝ち抜ける個人を育成する教育は現在さまざまな問題を引き起こしている。勝ち抜かなければならないという意識が個人を圧迫しているし、勝ち抜けない人達が下層へと追いやられているのである。また、勝ち抜ける個人の育成は、勝ち抜ける個人の利益を目指したものであり、他の個人は使い捨てられていくことになる。個人を基盤とした社会は、個人主義的、自己責任型社会をつくることになり人々に豊かな「生」を与えることにはならなかった。こうした近代社会のあり方が投影した教育は、世界中でうまくいっていないものになっており、すでに破綻している、行き詰まっていると言える。
 近代社会(明治150年)は成功だったのか、世界中で考える時(=考える問題)である。
関係が自己をつくるという視点から多様な関係をつくりだす教育を
目指すべきは、共同体とともに生きる力の教育である。この共同体は昔の共同体とは違うものである。自然と結び合う、人々と結び合う、共に生きる社会である。その共に生きる社会の中で、役割を持つ人をつくる、そういう教育が必要である。それは伝統回帰することだ。ヒントは過去にある。近代の問題点が発生する前に戻るということ、江戸期にヒントがある。寺子屋的な教育である。それは地域の人から教えてもらう、人は教える立場に立てば学ぶものだから教える立場に立つ人を多数つくる、世代の違う人と遊び、世代の違う人から学ぶことだ。そして子が子に教える教育、地域社会の大人が教える教育をすることだ。
 つまり、様々な人と様々な関係をつくりだす教育をすることだ。教育制度は一つでなくてよい。教育は子が学ぶ場であり、大人も学ぶ場にすることだ。多様な教育の場をつくるのがいい。
 内山さんは、近代教育が行き詰まっている今、豊かな「生」を取り戻すために多様な関係をつくりだす教育を主張しました。

談話会では活発な質問!!

≪講演の後の談話会≫
今回は自分の生活の中での実践に基づく質問が多く出され、時間が足りないほどでした。内山さんの回答要旨は次のとおりです。
Q:ボランティアとして行事をしながら学習支援をしているが、学校教育との板挟みを感じている。どう調整したらよいか
(内山)今の教育は追加のみだ。追加して学んだら次に一つ減らすことだ。やらなくてもよいものまでやっている。例えば小学校でのパソコン教育や英語教育。これらは小学校では必要ない。小学校の先生達は抵抗すればいい。検討して見直すことが必要。

Q:既存のものを改めるのは難しい。どうすればいいか
(内山)現在のきまりを疑ってみる。そして、必要なもの、不要なもの、今やるもの、後でもいいもの、などに分けて考えてみる。

Q:森の幼稚園をやっている。今の学校、子供が子供に教えるものが無い
(内山)子供は工夫の余地があるものをおもしろいと感じる、それが楽しい記憶になる。現在は工夫できるものが無くなっている、工夫できるものを考えることだ。

Q:教育の中で人を評価することが難しい、自分の視点をどこに置いたらよいか
(内山)評価は難しい。ある一面のみで評価しているに過ぎない。
19世紀の教育は、マスターできるかどうかで評価した。できるようになればそれでOKだった。例えば、お稽古事や運転免許を取るのと同じ。日数が多くかかっても短くてもよい、技術をマスターすればよいのだ。20世紀の教育は、時間内でマスターすることが必要となった。時間内にマスターすることに価値を求めたのだ。例えば、入試で60分以内に解けば○で、62分かかって解けば×になる。時間を有効に使う効率化を「善」とする市場経済の考えそのものになってしまった。

Q:普通の生活とそれ以外の生活は
(内山)国が必要とする学力にとらわれ過ぎている。昔の人は役割をこなしただけだ。役割は関係のなかにある。自然との関係、家族との関係、地域との関係、仕事上での関係、そういう関係のなかでの役割を持つのである。例えば、専業主婦は肩身が狭いとか自立していないこと、仕事を持つのが自立だ、と考えるのは考え方の違いに過ぎない。どんな関係のなかでどんな役割を持つか、関係のなかでの役割をこなす、このことは人によって違うのは当たり前、どっちが「真」であるかは関係のあり方の違いだけ。近代化としての、目的をもって実践することや経済的側面のみを重視するのは間違いである。
 関係をうまく作れない人、例えば、新幹線内の殺人事件の犯人などがそうだ。個人がホッとする場所=ゆるい関係の場、成果を出さなくてもいい場が必要だ、こういう場が少なくなった。こういう場を多くつくることがいい。