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知っていましたか、「農耕隊」のこと

2020年03月20日 | 臥龍つぶやき

 郷里を出てから68年。その当時から引きずってきたことがある。
 この秋になって成程そういう事だったのかと解け始めた。雨宮剛編者『もう一つの強制連行 謎の農耕勤務隊―足元からの検証』(2012年刊自費出版 2016年文芸社刊 700円)を手にすることができたからだ。
 これまでも帰郷の折に市史や学校史の編纂に関係している友人に、農耕隊について調べてほしいと頼んだことがあったが進展はなかった。今年の夏、市役所勤めの甥に意を伝えてみたら早速、市立図書館に駆け込んで同書の該当箇所のコピーと著者への連絡先を送ってくれた。著者の雨宮さんと電話でのやり取りができたのは11月。

―私はパーキンソン病を患っています。以前のように動けません。貴方がこの問題に関心を持ってくれるのは嬉しい―
ということで著作と貴重な諸資料をどさっと送ってくれた。奥付のプロフィールに依れば、1934年愛知県豊田市生れの農家の七男。アメリカでも学んで青山学院大学教授(現名誉教授)。

 1945年春、僕が国民学校4年生になったばかりの頃、農耕隊と呼ばれる朝鮮青年たちと少数の日本兵士が突如体操場で寝泊まりするようになった。著書によれば町の南端に位置する原生林(現在の養命酒駒ケ根工場の東側)の松と原野に植えた薩摩芋から油を搾り取ることを任務としたとある。
 農耕隊について学校からの説明はなかったように思うし、彼らと接することもなかった。僕は1回だけ彼らが校舎の空き地で豚を追いかけていたのを見た。後で誰かが農耕隊が豚の頭を鋸で切っていたと言っていた。
 ある夜、僕の家の裏戸を叩く音がした。片言の日本語で食べるものが欲しいと言っている様子で、母親が何もないけれどこれを持ってお行きとか言って、干した柿の皮を渡した。僕が農耕隊を気にするようになったのは、この情景が脳裏にこびりついているからだ。

 農耕隊とは何か。著書から引いてみる。
 1945年1月、軍令「農耕勤務隊臨時動員要領」が発令。目的は軍用機の代用燃料の生産。編成規模は日本兵2,500人、朝鮮人(15~20歳)12,500人。全5編隊、一編隊3,000人、第5編隊は長野県に配置。伊那地方を中心に御代田、山ノ内、明科が確認されており赤穂町(現駒ケ根市)には300人。敗戦間もなく農耕隊は姿を消した。
 この年の秋、僕らは鍬を担いで4キロも先の山畑に農耕隊が植えた芋を掘りに行った。拳半分ほどの小さなものだったが「農林1号」「沖縄」などただ大きいだけで水っぽい芋とは違って栗のようにほくほくして甘かった。

 日本政府と軍隊は、松と芋の油で本土決戦に備えていたのだろうか。正気の沙汰ではない。この年1月に発令して4・5月には12,500人もの朝鮮人青年たちが海を渡って動員されたことになる。生け捕り同然で強制連行してきたのだ。15歳だった隊員は90歳にもなる。その後、彼らはどのような人生を歩んできたのだろうか。日本政府が平然として偉そうに交渉を拒んでいる徴用工問題などは氷山のごく一角であると認識したい。

 この著書には『夢声戦争日記』第7巻(中公文庫1977年刊)からの「赤穂農耕隊慰問」が紹介されている。
 生徒4,000人、日本一大きな国民学校。そこで初めて農耕隊を前にして話をした。司令官に日本語はわかるのかと聞くと八割はわかると答えたとある。残酷な日本の植民地支配の実態が見える。姓氏改名、徹底的な日本語の刷り込みなどである。