大洲市議会でも、TPP参加に慎重な対応を国に意見書を送付したところです。
私も産業建設委員会に所属し、大洲市の現状、県議会の動きなど考慮し、請願に苦渋の選択で賛成は致しましたが、真っ向反対でなく、あくまでも慎重な対応を求める程度の意見書を求めたところで、その後もTPPについては大きな関心を持っています。
下記提案に正にそのとおりと感じるのは、私だけではないはずでしょう。
今後とも注目して生きたいと思います。
産業界と手を組み「黒船」を迎え撃て:木勇樹(NPO法人 日本プロ農業総合支援機構 副理事長)
2011年1月19日(水)13:00
1日も早くTPP交渉の場へ
2010年11月末、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加への道筋をつけるため、政府は菅首相を議長とする「食と農林漁業の再生実現会議」を設置した。しかし、民主党内にもTPP参加に消極的な議員は多く、同会議に対しても農業改革の具体策を議論する舞台としては期待できない、という厳しい見方が存在する。
政府の基本方針は、「情報収集しながら、国内の環境整備を急ぎ、関係国との協議を開始する」というものだが、国内向けならともかく、これはすでにTPPに参加表明した関係9カ国には、通用しない論理である。げんに、曖昧な態度に終始している日本に対しては、交渉へのオブザーバー参加すら認められていない。海外への輸出に依存する製造業を中心に、産業界の苛立ちは募るばかりだ。
いまや国論を二分した感のあるTPP参加だが、私が指摘したいのは、日本がTPPの交渉の場に参加することが、すぐに例外なき関税撤廃の受け入れにつながるわけではない、という点だ。むしろ、コメをはじめ、自由化の例外品目や段階的措置を望むならば、1日も早く関係国との協議交渉に入るべきである。たしかにTPP交渉は、農産物についても原則的に例外品目を認めないという方針で進んでいるが、日本不在のあいだにこうしたルールが固まってしまえば、参加へのハードルがとてつもなく高くなってしまう恐れがある。そうなってからでは遅い。
思い起こすに、1986年からのGATT(関税・貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド交渉では、「コメはひと粒も入れるな」との反対論を与野党はともに支持した。さりとて米欧主導の自由貿易体制からの孤立を恐れた日本は、期限ギリギリまで交渉を先延ばしにした挙げ句、コメについては「例外なき関税化の例外」を認めさせた。だが、その条件として米国の要求する毎年一定量の加重されたミニマムアクセス米(最小限の輸入米)を「丸呑み」せざるをえなくなってしまったのである。このような愚を、TPPでは繰り返してはならない。
日本はいまからでもTPP交渉の場に加わり、それこそ、関係国とのあいだで「情報収集」を進めるべきなのであって、その過程でTPP参加がほんとうに「国益」に適うかどうかを、冷静に判断すればよいのである。
“平成の農地改革”を阻むもの
TPP参加の是非について、国内で冷静な議論が進まない理由の一つには、政局に対する思惑から、政治家の腰が定まらないことがあろう。しかし、TPP参加によって海外から安価な農産物が押し寄せ、日本の農業が壊滅するといった主張には、正直、大いなる違和感を抱かざるをえない。
TPP参加、不参加にもかかわらず、すでに日本の農業は、負のスパイラルから脱しえない状況にある。象徴的な数字を挙げれば、ピーク時には約11兆円あった農業総生産額が、この20年間で3兆円強も減少。また、農業従事者の平均年齢は、いまや65.8歳。ここ10年間で確実に高齢化が進んでいる一方で、新たな担い手となる若年層は激減した。
結局、現在の戸別所得補償制度(国際化に対応するものでないのであれば、“バラマキ”と批判されてもやむをえまい)のような「守り方」を続けているだけでは、日本の農業から「供給力」そのものが失われていく可能性もある。そして財政負担の限界から、最後は「守りきれない」という話になってしまいかねない。まず、この状況を客観的に直視すべきである。
歴史に学べば、昨今の農業問題の原点は、1942年に定められた食糧管理法にある(95年に廃止)。たしかに、戦中、また戦後のある時期まで、国民の「生きる糧」であるコメの安定確保に、食糧管理法が果たした役割は大きい。しかし、政府がコメの需給や価格を完全にコントロールし、流通の規制を行なうという仕組みは、農家から「創意工夫」を実践する意欲を奪うものでもあった。
もちろん、政府主導のコメの価格形成に市場原理を働かせようと、69年に自主流通米が導入され、90年には価格形成の場も発足した。農家のなかには、コメのブランド化や外食産業との提携、餅への加工などといった「経営ノウハウ」の蓄積に成功するところが出てきたのも事実である。
とはいえ、いまだ水田農業全体の足腰を強くするまでには至っていない。それは、農地の集積が進んでいないからだ。いわゆる“農地法の壁”である。
農地法は、大地主の解体を目的に断行された戦後の農地改革の成果の維持を理念として、52年に公布された法律だ。農地は耕作者自らが所有するという思想は「耕作者主義」と呼ばれ、農協のビジネスモデルを支える戦後農政の根幹となったが、2005年には耕作放棄地が約38万haにも及ぶなど、その理念の破綻が明白になった。