私は閉所恐怖症なのかもしれない。
震災で山崩れのニュースを聴くたびに、生き埋めになった人達の惨状を思い浮かべてしまう。
のしかかる圧力と息苦しさに、必死で救いを求めてしまうのだ。
その言い難い絶望と窒息感に私は絶えられない。
津波にのみ込まれた人たち。ビルの下敷きになったたくさんの命。許しがたい戦争や人災の悲劇。
そのただ中にあって奪われた無数の人々の心が叫んでいる。これは救いのない不幸なのかと。
永遠に苦痛と苦悩のまま私はその人たちのことを思い続けなければならないのだろうか。
せめて忘れ去るだけで、・・・しかし解決のないそれはごまかしのままなのだ。
そんなとき
「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません・・・
・・・千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」
この「千の風になって」の歌詞がしみわたってくる。
のこされたものは、生き埋めの苦痛と苦悩にこうして心を和らげる。
千の風、これが「空体」の正体ではないのか。
私はあるときそう思い至ったのだ。
身体を襲った不幸は、しかしその人々のすべてを奪い去ったのではない。
残った半身は傷一つない、千の風になって健やかに吹き渡って行く。
私達の半身、「空体」とはそんな実体なのだと思う。
この空体を身体レベルで認識する事。
これが新しい文化をつくる礎になる。
そう信じたいのである。
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