自分は何なのか。
その最も単純な答は、
自分と自分でないものの境界を探ることだ。
そこで目を身体に向けると
自分の境界は一目瞭然だ。
説明のいらないこの身体のことである。
ところが空体に意識を向けると
自分と、自分でない境界を見つけることが出来ないのだ
空体に自分でない部分を想定することは出来ない。
自分の身体を組み立てている素粒子。
素粒子が自由に運動を続けられるのは、宙に浮んでいるからである。
自在に身体を組み立てて行けるのは
全ての素粒子が、例外なく
一つひとつの全てが同じ空間に包まれているからに他ならない。
その空間はどこまでいっても切れ目も境界もない。
空間と空間でないものの境界線
つまり
空を覆いつくす物質など存在しないのだ。
(物質を覆いつくす空はあっても)
スケールを転ずれば
その空間は地球や太陽を包んでいるのである。
その同じ空間が私の身体を包み、自由な躍動を可能にしている。
さらに、命の証しでもある呼吸を保証しているのだ。
この空間を
私の半身、
すなわち空体と呼ぶのだ。
空体がなければ、身体は一瞬も存在しえない。
自分とは何かと考えたら
空体の存在を否定できない。
つまり
空体は身体とうらおもて、私の半身なのだ。
普段そんなことは考えないが、
しかし真実を突き詰めていくと
空体は超リアルな実在であり
触れるよりなお近いところに存在していて、
私を生かしていることに気付くのだ。
その空体の秘密を
共に解き明かしていきたいと思う。
その過程で
不思議な現象である幽体離脱など、精神的な現象が論理的に理解できるようになる。
新人類と呼ぶべき意識の改革が
出来るようになる。
その可能性が
あるのだ。
意識の変革のヒントとなる
ルビンの壺
次回まで是非この壺に思いを遊ばせて頂きたい。
自分と、自分でない境界を見つけることが出来ないのだ』
納得できました。
バレエを習っていると
自分の意識では正しくやっていると思われるのですが、
先生の尺度や鏡に写る実体では
正しくやっていないと見えます。
空間にある私とされる空体は
正しい角度をやっているとされるのに、
空間に確かに存在している実体は
間違った角度を示しているのです。
それに気づくことは辛いし、
自分のイメージの破壊
自画像のズレなど
肉が離れるような痛みを覚えます。
のしてんてんさまが論じる空体の概念と
私が実感している空体と実体のズレは
視る角度が違うでしょうけど、
その観え方や捉え方に着目しただけで
私には実利的です。
不思議に先生から指摘されるたびに
空体と実体のズレについて
比較分析できるから、苦痛ながら
面白いと思ってはいます。
自分を二つの視点で見ると、意識が立体的になって、良いと思っていたことが一面では隠れて見えなかった所にズレを発見できるのかもしれませんね。
これは桂蓮様の体験の中で理解されることなのですが、役に立ってもらえたのなら本当に嬉しいです。
バレエの表現が身体の美しさを追求するものでしたら、身体と空体が完全に合体して共鳴している境地が着地点なのかもしれませんね。
もしそうなら、このアプローチは何か得るものがあるかもしれません。
何らかの発見がありましたら幸いです。