日付が変わって既に昨日のこと。
ふと考えた。
同じことをするのに抵抗なくできる、寧ろ無意識に進んでしてあげたいとさえ感じる人と上手いこと調子を合せてみせてはいるけど本当は抵抗がある、無意識に嫌だと思ってしまっている人がいるのはどうしてだろう。どこからその違いは生まれるのだろうか。
その答えのヒントを先日見つけた気がした。
それは。
一つはgive&take。
相手からしてもらったら、それが嬉しかったら、自分も相手に同じようにしてあげたいと自然に思う。
どちらかが一方的にしたりされたりというのは明らかにフェアじゃない。
機嫌を損ねないよう気を遣って取り繕ってばかりで報われることが無ければきっと疲れ果てて心が折れて全てを諦めてしまわざるを得なくなる。
もうひとつは。
心は鏡だということ。
相手から嫌われてるとか苦手だとか感じたらそれは無意識に自分が相手を嫌ってたり苦手だと思っていたりするから。
相手が自分に気があるんじゃないかなんて自惚れてしまうのは無意識に自分が相手に好意なり興味なり関心なり持っているから。
だとしたら汚いとか気持ち悪いとか思ってしまうのは相手がそう思っているのを察知していたってことなのか。
仕方ないから相手に合せておこうとするのは相手もそう思っているのが見え見えだから。
今になってそのことがやっとわかったのは交友関係が広がり同じ人とばかり向き合わなくなったから。
他の人を知らなければ世の中の全ての人が目の前の人と同じように感じ、思い、行動するかのような錯覚に陥ってしまう。
しかしそうではない人も存在すると知ったら、自然と何故その違いが生まれて来るかという疑問を初めて抱いた。
頭で考えるより先に感じることが出来て初めて今までは先にいろいろ考えすぎていたんだと気付く。
それは多分相手も頭で考えているから。
心のまま感情のままに自然に行動できるのは相手も頭で考えるのではなく感じたまま変に気を遣っていないから。
だからといって決して相手を蔑(ないがしろ)にしている訳ではないけれど。
気を遣わないでね。お互い言いたいことは言おうよ。それでぶつかったらその時は話し合えばいい。
言いたいことも言わずお互いの腹の探り合い。
自分を譲れない。
察してよ。わかってよ。
でも口にはできない。
似たもの同志。
このままでは終わりたくない、何とかしたいと思うけど、じゃあどうしたらいいかというとわからない。
狭い世界の中から一歩外の世界に踏み出してみた価値はあった。
一生知らないままで終わったらきっと死んでも死にきれなかったなんて言うと大袈裟なようだが正直な気持ちだ。
理屈では割り切れないものがこの世の中には存在する。
例えそれなりの犠牲を払うことになったとしても決して無駄ではなかった。
どこまで行っても平行線が交わることはないのだ。
いつか遥か彼方で接点が現れるのではなんて有り得ないことを望んでも空間を捻じ曲げでもしない限り不可能なのに。
ならばいっそその線から逸脱することで見えてくる「見たことのない景色」を見てもいい。
開き直り?
何と言われようとかまわない。
今まで見て来た世界とは違う景色が見られたからこそ敢えて元の世界と向き合える。
逃げ出した訳じゃない。ちゃんと戻って来た。
知ることは力を得ることだ。成長することだ。
突然目の前の景色が開ける。
山道を歩き続けて尾根道に出て眼下に広がる街並みを見下ろした時のような清々しい気持ち。
時間は限られている。人は永遠に生き続けられるものではない。
生きてきた意味。
生まれて来てよかったと思える瞬間。
他人よりは少々遅かったかもしれないが、遅すぎるということはない。
そんなことを考えていた。