[moving]
夏の休日の昼下がり。狐原妖雅のマンション。引越が近いため既にほとんどの荷物はまとめられて室内はがらんとしている。青年の独り暮らしとはいえ、あまりにも生活感がなさすぎる。潔癖症なのか、学生時代からずっと暮らしているというのに今まさに引越してきたばかりであるかのように綺麗だ。もともと家具付きのマンションだったこともあり、本やCDやパソコンなどの他には生活必需品がほとんどで、ゲームやスポーツ用品もなく、洋服など身に着けるものも若い医師にしては数も少なくモノトーン中心の至って質素なものばかりだった。
葛野葉月はソファに腰かけて彼がいれてくれた紅茶を飲んでいた。狐原が微笑みながら彼女に話しかけた。
『〔葉月さん〕はもう荷造りは終わったんですか?見ての通り〔僕〕の方は至って身軽だからせっかく来てくれたのに手伝ってもらうこともなくてすみません。』
「私は〔先生〕のように忙しくないですし…薬局の方は耳鼻科のシーズンオフで最近は早く終わるので時間はたっぷりありますから大丈夫です。」
開け放たれた窓から吹き込む風がカーテンを揺らすけれど、熱気を帯た空気は生暖かい。
葉月が熱っぽい感じがするのは温度や湿度のせいだけではない。
独り暮らしの若い男性の部屋に入ったのは生まれて初めての経験だったし、何よりも狐原が〔葛野さん〕ではなく〔葉月さん〕と呼んでくれたり、自らを〔私〕でなく〔僕〕と言ったことに高揚していたのだ。それは狐原が葉月を自分のテリトリーの中に招き入れたということに他ならない。狐原はさりげなく自分の気持ちを伝えるために意識的に葉月に聞かせようとしている。それなのにまだ彼を〔先生〕としか呼べない自分。彼が敢えて『〔先生〕じゃなく名前で呼んで』と言わないのは、葉月にまだ遠慮があることを知りながら、それを楽しんでいる。彼の優しさの裏の少年のような無邪気な残酷さも愛おしいと思った。そしていつか彼を〔妖雅さん〕と呼べたらいいなと密かに思った。
次の休日には2人は次の職場の近くにそれぞれ引越して行く。
小早川教授と龍造寺院長の息のかかった病院では針のムシロかも知れないが今までも辛酸を舐め続けた狐原はそんなことにはもう慣れていた。また、外面のいい好青年を演じていればそれでいい。できるはずだ。ずっとそうやって生きてきたのだから。
葉月もまた狐原の側に居たいというただそれだけの理由で門前薬局に転職した。狐原に必要とされた時、いつでも応えられるように。そして必要のない時は彼の邪魔をしないよう、足手まといにならないよう、独りでひっそりと生きていればいい。切ないけれどできるはずだ。今までもずっとそうやって生きてきたのだから。ただ愛しい人の側にいてずっと彼を見つめていられるならそれだけでいい。必要とされたい。彼の役に立ちたい。葉月の望みはそれだけだった。
夏の休日の昼下がり。狐原妖雅のマンション。引越が近いため既にほとんどの荷物はまとめられて室内はがらんとしている。青年の独り暮らしとはいえ、あまりにも生活感がなさすぎる。潔癖症なのか、学生時代からずっと暮らしているというのに今まさに引越してきたばかりであるかのように綺麗だ。もともと家具付きのマンションだったこともあり、本やCDやパソコンなどの他には生活必需品がほとんどで、ゲームやスポーツ用品もなく、洋服など身に着けるものも若い医師にしては数も少なくモノトーン中心の至って質素なものばかりだった。
葛野葉月はソファに腰かけて彼がいれてくれた紅茶を飲んでいた。狐原が微笑みながら彼女に話しかけた。
『〔葉月さん〕はもう荷造りは終わったんですか?見ての通り〔僕〕の方は至って身軽だからせっかく来てくれたのに手伝ってもらうこともなくてすみません。』
「私は〔先生〕のように忙しくないですし…薬局の方は耳鼻科のシーズンオフで最近は早く終わるので時間はたっぷりありますから大丈夫です。」
開け放たれた窓から吹き込む風がカーテンを揺らすけれど、熱気を帯た空気は生暖かい。
葉月が熱っぽい感じがするのは温度や湿度のせいだけではない。
独り暮らしの若い男性の部屋に入ったのは生まれて初めての経験だったし、何よりも狐原が〔葛野さん〕ではなく〔葉月さん〕と呼んでくれたり、自らを〔私〕でなく〔僕〕と言ったことに高揚していたのだ。それは狐原が葉月を自分のテリトリーの中に招き入れたということに他ならない。狐原はさりげなく自分の気持ちを伝えるために意識的に葉月に聞かせようとしている。それなのにまだ彼を〔先生〕としか呼べない自分。彼が敢えて『〔先生〕じゃなく名前で呼んで』と言わないのは、葉月にまだ遠慮があることを知りながら、それを楽しんでいる。彼の優しさの裏の少年のような無邪気な残酷さも愛おしいと思った。そしていつか彼を〔妖雅さん〕と呼べたらいいなと密かに思った。
次の休日には2人は次の職場の近くにそれぞれ引越して行く。
小早川教授と龍造寺院長の息のかかった病院では針のムシロかも知れないが今までも辛酸を舐め続けた狐原はそんなことにはもう慣れていた。また、外面のいい好青年を演じていればそれでいい。できるはずだ。ずっとそうやって生きてきたのだから。
葉月もまた狐原の側に居たいというただそれだけの理由で門前薬局に転職した。狐原に必要とされた時、いつでも応えられるように。そして必要のない時は彼の邪魔をしないよう、足手まといにならないよう、独りでひっそりと生きていればいい。切ないけれどできるはずだ。今までもずっとそうやって生きてきたのだから。ただ愛しい人の側にいてずっと彼を見つめていられるならそれだけでいい。必要とされたい。彼の役に立ちたい。葉月の望みはそれだけだった。