[龍造寺明里]
(リュウゾウジ アカリ)
龍造寺明里は龍造寺総合病院の心療内科医長。まだ若いが院長の娘ということで誰も文句は言わない。代々続く大病院の娘だけに尊大に見られがちだが、類まれな美貌で周囲の評判は悪くなかった。生まれつき喘息持ちで体が弱いため、仕事はかなりセーブしており、外来診療はほとんど他の勤務医があたっていた。そのうちの一人、狐原妖雅は彼女の医大の先輩にあたり、個人的にも学生時代から交際している。とはいうものの狐原の実家が医療用薬品や医療器具を扱っており龍造寺総合病院の恩恵を受けているためか、歳上であり恋人でもあるのに狐原と明里の会話に温度差があるのは否めない。この美男美女は誰が見てもお似合いで、将来狐原が婿となり2人で龍造寺総合病院を担うのだろうと皆が噂していた。
明里は万人に対して親切で優しい狐原を信頼していたし、狐原が明里をとても大切にしていることは誰の目にも明らかだった。しかしプリンセスに仕えるナイトのように常に紳士的で控え目な狐原を怪しみ財産や地位目当ての腹黒な野心家と疑う者もいた。
明里が医大に入って間もない頃、長身の男子学生が声を掛けてきた。
『龍造寺総合病院の御令嬢でいらっしゃいますね?お世話になっております。狐原妖雅と申します。』
実家が病院の出入業者だというその医学生はもう既にインターンで、明里より5歳年上だった。歳上で先輩なのだからと明里がいくら言っても狐原はいつもかしこまった態度を変えなかった。明里は成績優秀な狐原に卒業後龍造寺総合病院に勤めるように勧め、明里が実質的に病院を受け継いだ今も狐原は非常勤ながら勤務を続けている。
明里は大学時代に初めて出会ったと思っているが、狐原にとって明里との出会いはもっとずっと昔のことだった。
明里が幼稚園の年中組の時だった。年少組に入った妹のために両親が七夕に夏祭をしようと思いついた。明里にはそのようなことがなく、幼心に親の情は妹にだけ注がれているのだと感じていた。
「…狐原さん、君のところにもお子さんがいるそうじゃないか」と父の声。
「あら、そうでしたの?是非連れていらっしゃいな」と母の声。
「はぁ、しかし躾もろくにしていない不出来な子でして…」消え入りそうな声で男性がペコペコしながら答えている。
両親に押し切られるように男性は
「はぁ、ではご挨拶だけ…」と言いつつ席を立ち逃げるように帰っていった。
龍造寺家の夏祭には、病院のスタッフは勿論、出入業者その他関係者が家族ぐるみで招待され、大勢の人で賑わっていた。龍造寺夫妻は愛娘を伴い、会場のあちこちで招待客と談笑していた。会場の片隅で明里は一人。いたたまれない気持ちで庭に出ると、桜の木の下に少年が一人立っている。
10歳くらいだろうか、女の子かと思うほど色白で華奢で、親兄弟の姿もなく所在なげに佇んでいた。
明里に気付くとはっと驚いた表情をしたのも束の間、すぐに非のうちどころのない笑顔で振り向いた。その少年こそ狐原妖雅だった。まだ幼かったしほんの短時間のことなので明里の記憶には残らなかったが、狐原はその時のことを今も鮮明に覚えている。漆黒の長い髪の少女が自分を見上げて言った言葉。
「ひとりぼっちなの?あかりと一緒ね」
その後しばらくその少女と一緒にいた。
「みんな妹がかわいいの」
少女は小さなその体に溜め込んだ哀しみが涙となって大きな瞳から溢れ落ちないように必死に耐えていた。健気だと思った。そして自らの空虚な心が彼女で満たされていくのを感じた。その少女が龍造寺総合病院の後継者たるべき令嬢だと知った。狐原は医師を志し必死に勉強した。いつか彼女の側に。それだけが夢であり目標だった。院長は娘を出身大学に入れるつもりだろうと予想し、そこを目指した。予想は的中し、明里が後輩として入学した。既に実家とは絶縁していたが、実家の名前を利用して彼女に近付いた。狐原は長い歳月を経てあの幼い日に出会った少女、明里の恋人になるという夢を叶えたのだった。