ノーブル・ノーズの花の穴

麗しき本音のつぶや記
~月に1度ブログ~

「生きる」に特化した人

2021-11-17 09:32:31 | 映画

草を背負ってる姿が、とても悲しかった。

サブタイトル通り、いったい何と戦っていたのか。

フランス人監督による、国際共同製作映画「ONODA」は、
興行目的の作品とは思えなかった。

まるで、楽しむべきものではないかのように、
最初から、パンフレットも作成されていない。

エピソードがフィクションでも、
29年を3時間で、淡々と描いたそれは、
ひたすら虚しい。

しかし私は、それだけでは済まなかったのだ。
改めて、「小野田寛郎」にハマってしまった。
あの頑固さと、晩年の笑顔に惹かれた。

子供の頃TVで見た、オンボロの服を着て、敬礼していた日本兵。
口角泡でしゃべる、プライドの高そうなおじさん。

実家には、当時のインタビューがレコード化されたのがあり、
先日聴いてみた。

いつのまにか、ブラジルに行ってしまい、牧場を経営した後、
子供の為のサバイバル教室を開いた。

枯れ枝で、あっという間に火を点けたのを、TVで見た瞬間、
「さすが、筋金入りのサバイバー!!」と、リスペクトした。

千年の孤独 万に一の奇跡

小野田さんは、29年間、
ずっと1人でいたようなイメージがあるが、
そうではない。

投降や死亡で、味方がどんどん減り、
1972年10月に、最後まで一緒にいた小塚さんが銃殺されるまで、
2人だったのだ。
それから、1974年2月に、鈴木紀夫青年が、
単独アプローチするまでが、本当の1人である。

私が、映画の冒頭シーンで、
草を背負っているオノダを見て、悲しくなったのは、
背負っていたのが、身を隠す為の草ではなく、
恐ろしい孤独に思えたからだ。

私は当時、鈴木さんの事を、
ミーハーなジャーナリストだと思っていた。

しかし彼は、
次のターゲットである雪男を探しに、ヒマラヤに行き、
遭難して、37才の若さで亡くなった。
何て事!!

そんな人が、チャラい気持ちで、
小野田さんを探すはずはない。

小野田さんが、心の中で上げたのろしが、
鈴木さんに伝わったのだろう。

スパボラのオバタさんが、幼児をみつけた時のように、
何か、自分なら探せる、そんな勘があったのではないか。

彼の思いつきと行動力が、
その後の、小野田さんの40年の人生を、
大きく変えたかと思うと、ゾクッとする。

本当にすごかったのは、鈴木さんだ。

映画の中で、
「これから、どうするんですか?」
「1人になってから、どれくらいたつんですか?」
鈴木青年の問いかけに、私の方が涙した。

オノダは、無表情だった。

上官の命令解除があれば、帰国する。
オノダという鬼が、人間に戻った瞬間だった。

英雄なんかじゃない

陸軍中野学校では、
自分が自分の指揮官であれ、玉砕は許さない、
生きて任務を貫徹せよ、と教育されている。

小野田さんは、戦争が終わっているのは知っていた。
しかし、エリートの兄や父が、拡声器で、
「ひろお、出て来い!」と叫んだところで、
のこのこ出て行けるだろうか。

島民から略奪をくり返し、
30人くらい殺しているのだ。
うかつに出て行くと、殺されかねない。

もっと早く投降していれば、
島民も小塚さんも、死なずにすんだかもしれない。
しかし、あれでは、出るに出られない。

それに、カッコ悪いのは嫌だったと思う。

ラストシーンで、
ヘリコプターの中のオノダは、無表情だった。
(ネットで、涙目だったと書いてる人がいたが、私はそうは思わない。)

ルバング島に残してきた仲間の顔や、
29年間は何だったのかという思いがよぎっても、
これから日本で、何が待ち受けていようとも、
孤独からの解放で、頭はカラッポだったんじゃないかと思う。

小野田さんは、任務を果たしたんじゃない。
「生きる」を貫いたのだ。

迎える日本人の狂気

英雄に仕立て上げられる反面、軍国主義とバッシングされる。
それは、本人の問題なのか?
SNSの無い時代だというのに、
過剰な反応は、今も昔も変わらない。

半年もたたないうちに、別宅に缶詰にされ、
手記を書かされる。(しゃべらされる。)

ゴーストライターが、3年後に、
暴露本を出したなんて知らなかった。

暴露も何も、
小野田さんは、最初から本当の事を語っているのに、
内容がヤバくて、ありのままを書けなかったライターと、
英雄本にしたかった出版社が悪いんじゃないのか?

滞在中の家の池の鯉が、
鷺に狙われる様子を写真に撮りたいと、
1日中カメラを構えていたそうだ。
まるで、ハシビロコウみたいだな。

稀有な人生だったが、自らの経験を生かし、
サバイバル教室に転じた小野田さんは、幸せだったろうか。

本当に強い人ならではの、穏やかな笑顔を拝見して、
そうあってほしいと、私は心から願った。

ちなみに、ネットによると、
最初の頃の、サバイバル教室のメニューは、
そうとうハードだったらしい。
子供相手でも本気なところが、小野田さんらしいと笑える。

91才で亡くなった時、
「え、死んじゃったの。」と、とても寂しかった。
私にとって、小野田さんは、不死身の人だったから。

今頃、鈴木さんと再会しているかなぁ。

身内は言う。
生き延びられたのは、南国だったからだろうと。
そういえば、水木しげる氏も、ラバウルだった。

そういう条件も、運も能力も、
小野田さんにはあったのだろう。

これほど「生きる」事に特化された人はいない。

私が1人になった時、
小野田さんの強さを、思い出そう。

今、ここにいない人は、
誰かが探してくれる事を、待っているかもしれない。

岸田さん、拉致被害者の人達、探してやれよ!!

 


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