ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成29年度日本国遠洋練習艦隊出航〜「鹿島立ち」

2017-05-23 | 自衛隊

 

艦上レセプションに続き、水交会での壮行会を見届けた本年度の練習艦隊が、
初夏の横須賀から本日世界に向けて出航していきました。

この瞬間を見届ける貴重な機会をいただいてまいりましたので、
ぜひみなさまにここでご報告させていただきたいと思います。

横須賀地方総監には初めて車で入りました。
前もってナンバーを申告して置くだけで、入り口ではナンバーと名簿を照会、
窓を開けることもなく通過するという仕組み。

車を運転しながらここを通過していることが結構嬉しくて()
記念のために一枚車中から撮りました。

愛車搭載のヘッドアップディスプレイの数字が捉えられています。
一応カーナビを入れたのですが、どうもナビはここではなく、
吉倉岸壁の基地業務隊の方を示していたみたい(笑)

この後、フェンスの手前で左に曲がればよかったのですが、
ついテンパって中に入ってしまいました。

おかげで「かしま」の奥の「はるさめ」の近くに車を停められたので、
写真を撮りながら岸壁を歩いて戻りました。

「はるさめ」の後ろにはSH−60Kがいます。
わたしが今まで見てきた限り、ヘリを積んでいく練習艦隊は初めてです。

どんな風に海外の寄港地でヘリが活躍するのか楽しみですね。

「かしま」実習幹部の家族の方々はもうテント下にいました。
高速の上からちらっと見た時には、岸壁にたくさん白い制服が見えていたので、
幹部と家族は早朝から岸壁で交流していたのでしょう。

来賓の受付が始まる0900に、幹部たちは艦内に戻ってしまったようです。

出航見送りのための赤絨毯の上に、立ち位置を示す名札を張っている人たち。

受付に名前を言うと、テント下の席まで案内してもらえました。
そこに落ち着いてまず周りを観察。

まだこの時間は何も始まっていないので、舷門前の海曹幹部たちも
リラックスした様子で立っています。

儀仗隊は早くから整列しています。
彼らの出番はここから優に1時間後なので、少なくともそれまで
この姿勢で待ち続けていたことになります。

その間も来客が次々と訪れ、知り合いを見つけると
現場の自衛官はこのように挨拶を行います。

甲板の上と舷梯を降りながら、なぜか指差しあう二人。

m9(^Д^)

m9(^Д^)

横須賀音楽隊のメンバーが岸壁に到着しました。
音楽隊の制服は幹部の肩章付きのジャケットに似ていますが、
袖口とズボンにに金の刺繍、肩には飾緒、バックルに錨のマークのベルト、
そして靴は幹部と同じ白、全員が正帽は佐官と同じ仕様です。

帝国海軍時代にも音楽隊の軍服は士官風だったので、
間違えて敬礼してしまう下士官兵が結構いたと言いますが、
我が海自音楽隊の制服はある意味幹部よりきらびやかで派手です。

わたしの席の前はアメリカ海軍とチリ海軍などの軍人さんばかりでした。

この見慣れないグリーンの制服の軍人さんは、
左の幹部に何か用がある模様。

なんか渡してるー。
自国に寄港する「かしま」に何かことづけたとか・・?

アナウンスで遠洋練習航海の予定などが説明された後、
実習幹部が岸壁に整列を始めました。

おそらく先週衣替えになってから、初めて着る夏の白い詰襟制服。
好みもあるでしょうが、海上自衛隊の最もかっこいい制服がこれです。

余談ですが、最近陸自は制服を変えることが決まったようですね。
この間二次会で一緒になった戦車長がもうできたようだ、といっていたので、
どんなのになるんだろうと調べたら、とんでもない記事が出てきました。

陸上自衛隊の制服が紫へ 前幕僚長の『置き土産』が現実味

紫・・・・・?

なぜ前幕僚長が統幕長になれなかったことが統合幕僚監部を意味する
紫に陸自が制服を変えることにつながるのか、全くわかりませんが・・。

整列するための歩調を取るのは音楽隊のスネアドラム。
実習幹部たちはちょうどこのドラム奏者の後ろを通ると、
不自然に一歩中に入った線を行進していきます。

先日の水交会での壮行会で話をした実習幹部によると、彼らは何度となく
この行進と整列、乗艦と登舷礼の練習を繰り返したということでした。

登舷礼の整列も、足元にグレーのテープ(遠目には見えない)で印がつけてあるそうですが、
ここでの整列は岸壁の舗装ラインを目印にしています。

実習幹部の最後尾は女性幹部に続き、タイ国の留学生。
その後ろの女性幹部は「かしま」の乗組員です。

たった一人で祖国を代表して留学先の国の練習艦隊で世界を周る。
この経験が、このタイ国の軍人さんにとっても大きな成果を産むことを祈ってやみません。

彼もまた将来祖国の海軍大将となる人物なのでしょうか。

サイドパイプの吹鳴とともに練習艦隊司令官眞鍋海将補が舷梯を降ります。

先日の艦上レセプションでは、わたしもここをサイドパイプ付きで(略)

眞鍋浩司海将補は防大28期。
前任の岩崎秀俊海将補の31期から急に3学年増えました。

「かしま」乗員の前をゆく司令官。

全実習幹部の前に「かしま」艦長、「はるさめ」艦長とともに立ち用意完了。

ところで、「かしま」舷側には練習艦隊音楽隊が出てきて用意を始めました。

その間、岸壁の横須賀音楽隊は軽快なマーチを演奏し続けていたのですが・・、

一曲終わったところで艦上の音楽隊員二人が「いいね!」×3。

村川海幕長が到着しました。

道満誠一横須賀地方総監がフレンドリーにご挨拶。

村川豊海幕長は防大25期、道満海将は26期。
眞鍋海将補が防大に入学して1年生だったとき、
村川海幕長は4年生、道満海将は3年生という三者の関係です。

カゴに乗る人(4年)と担ぐ人(3年)に対し、わらじ(2年)以下の
石ころ(人間ですらない)の1年生が、今や練習艦隊司令官に・・・。

わたしの前の席の駐在武官はどこの人かは存じませんが、欠席だったため、
おかげでわたしは視界が広くて見学しやすかったです。

右二人アメリカ海軍。
向こう側の人は確か江田島の卒業式で挨拶していたような覚えが・・。

艦橋デッキに見える幹部は、お揃いの緑のストラップの双眼鏡をつけております。
・・兄弟かな?

ヘリのローターの大音響が響き渡ったと思うと、ヘリパッドにSHが
防衛大臣政務官を乗せて到着しました。

ちなみに、米軍軍人の向こうの二人は眞鍋海将補夫人とご子息だそうです。

防衛大臣代理である政務官が観閲を行なっている間、敬礼する幹部。

練習艦隊「はるさめ」艦長樋ノ口和隆二佐。
制服は特別仕立てらしく明らかに周りと色が違います。
夏服の白は違いが目立ちますね。

防衛大臣政務官、小林鷹之氏が観閲を終えました。

やたらお若く見えますが、これでも42歳とのこと。

訓示を聞いている間の隊員の基本形。
彼女は「かしま」乗員の三尉で、掛け声をかけていました。
「いせ」の時もそうでしたが、女性隊員が掛け声をかけるのをよく見る気がします。

埠頭は風が強く、直立している海士のセーラー服の襟がなびいています。
セーラー襟の本来の目的は、船上で耳の後ろにこうやって布を当て、音を聴き取るためだったとか。

写真班は行事の間中ずっと記録を残すためにいろんなところに出没します。
彼はこの後舷梯を登って舷側から岸壁を撮ったりしていました。

この後出席者の紹介が行われました。
エクアドル大使、チリ共和国全権大使代理、江島潔参議院議員、
三浦のぶひろ参議院議員、白眞勲参議院議員、宇都隆史議員代理、
綿貫谷佐全衆議院議長、横須賀市長、在日米軍司令カーター少将など。

写真はカーター少将に敬礼する眞鍋海将補。

海将補はアメリカ海軍の中将ですから、眞鍋閣下の方が階級は上ですが、
ここは来賓ということで先に敬礼しておられます。

続いて花束贈呈。
司令、二人の艦長に花束が贈呈されます。

眞鍋海将補の出航の辞は実にシンプルで明快でした。

「日本国練習艦隊準備よしっ!
ただいまから平成29年度の遠洋練習航海、出発します!
任務完遂に全力を尽くします!往ってまいります!」

 

続く。

 

 

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SDV(潜水ダイバー輸送艇)とSDV(シール輸送潜水艇)

2017-05-22 | 軍艦

アメリカ海軍が港湾防御チェックのために開発し、その後は
潜水艦隊に組み込まれて水質調査を行なっていた特殊潜航艇X-1の
手前にあるのは、さらに小型の潜水艇らしきもの。

SDV (Swimer Delivery Vehicle )

といい、文字どおり潜水員を輸送します。
ダイバー・プロプリュージョン・ヴィークル、水中スクーター?
ともいい、水中で特殊任務を行う部隊を運ぶのですが、
このSDVのタイプには二つあって、一つがウェットタイプ。

ここに展示されているのはウェットタイプになりますが、乗る人が
潜水服をつけたダイバーなので、屋根なし窓なし。

乗ったらそのまま車ごと水中にずっずーいと沈んでいって、海中を
目的地まで快適にドライブしていくという仕組みです。

ウェットタイプではないもう一つのSDVはコンパートメントがあって
乗り込むととりあえず濡れずに潜行してくれるというもの。

 

潜水艦「グリーンヴィル」(えひめ丸事故を起こした原潜)の艦体に
搭載されて運ばれているのが、改良型のSDVです。

ただし、こちらの「S」はスイマーではなく「シール」(SEAL)のこと。
こちら、特殊部隊の「NAVY SEAL」様専用なのです。

ちなみに潜水艇の名前(SEAL DELIVERY VIECLE )が「シール」と単数形なのは、
ネイビーシールズは通常一つの部隊は「シール」と呼ばれ、複数形の総隊を
「シールズ」と呼ぶことになっているからです。

その名の通り「SEA」海、「AIR」空、「LAND」地と、地球上のどこの任務でも
手がける
特殊部隊シールズは、空挺作戦もすれば潜水も行うという具合に、
陸自のレンジャーにさらにダイバーの資格をつけたような最強(狂)部隊。

特にその水中での行動能力は、厳選されたメンバーにさらに地獄の特訓を施すことにより、

「たとえ北極の海でも活動可能」

とも言われております。
彼らは地獄のブートキャンプなどよりも過酷な「基礎水中爆破訓練」を経て
ようやく入隊が許されるのですが、この訓練には志願者のうち
15から20パーセントしか合格することができないんだとか。

シールズは9つの部隊である個々の「シール」から成り、
そのうちの一つが、ハワイのパールハーバーに拠点を置くSDV専門部隊。 

彼らはウェット&ノンウェットのSDVに乗り、海底までこれで行き、
水中爆破などの任務を行う専門チームです。

 

 

シールズのSDV部隊が結成されたのは1962年1月1日ですが、
第二次世界大戦中にも、潜水艇に乗って水中任務を行う部隊が
すでに存在していました。

その時は名称を

 UDT (Underwater Demolition Team)=水中爆破チーム

といい、「モーターライズド・サブマージブル・カヌー」
電気式潜水カヌーという潜水艇で任務を行なっていました。

初代潜水カヌーはイギリスの発明で、あだ名を

「スリーピング・ビューティ」(眠れる森の美女)

といった由。
なんでも発明したヒュー・リーブス自身が、開発中のカヌーの中で
ぐっすり寝ているのを士官が発見したからとかなんとか。

 

こちらスリーピング・ビューティ使用図。

なるほど、ここで寝ていたお姫様ならぬリーブスが
士官のキスで目覚めたわけか。(適当)

ちょっとスリーピングバッグみたいで寝心地はいいかもしれませんね。


電気潜水カヌーの目的は、爆発物の運搬と設置でした。
同じ爆博物を搭載した潜航艇でそのまま敵艦に体当たりしてしまったのが
我が帝国海軍だったわけですが、
イギリスは決してそんなことをせず、
爆弾を重爆撃機の
爆撃目標の近くに置いて、誘爆による攻撃効果を
高めるのを目的とした任務を行なっていたのです。 

 

「最強 世界のスパイ装備 偵察兵器図鑑

この本の「海の破壊工作に使われたカヌー」のページには、
スリーピングビューティを「SB艇」として、 


イギリス、オーストラリア、ニュージランド混成の
「ユニットZ」がシンガポールに停泊していた日本艦船に使用した

と書かれています。

さらに検索したところ、英語の「潜水カヌー」のwikiには、こんな一文が・・・

「攻撃隊の10名は日本軍によって捕虜になり、その後斬首された」

「捕虜になり斬首された」

「斬首」

 

カヌーによる潜航で港湾内に入ったのであれば、これは諜報活動、
つまり「スパイは処刑」とした国際法には違反していないわけですし、
もし本当ならもう少し詳細に事件として記録されそうなものですが。
ましてや現地での裁判を経て敵国人が処刑されるのは双方に起こったことです。

どうも、「10人が斬首」という書き方に印象操作めいたものを感じますね。
wikiも英語のものにはこのような片方の立場から物事を語った
記述が特に戦争関連については多くて、みていて興味深いです。 

 

さて、このサブマリンミュージアムに展示されているSDVが
いつの時代のものでどんなところで使われていたのかについては
詳しい説明がされていないのですが、とりあえず上から見て
アクリルガラスで覆われた内部の写真を撮ってみることにしました。

ガラスが空を反射してどうしてもちゃんとした写真になりませんでした。

操縦席の部分は当たり前ですが、全て海水に浸かる仕様なので、
潜水艦の内部よりも計器類の防水は厳重で作りが大雑把に見えます。 

床には滑車のようなものがありますね。

さらに計器部分を拡大して見ましたが、
例えば「レンジーヤード」と書かれた大きな丸い計器の右下にあるレバーは

「オフ〜テスト〜コンパス〜ドップラー〜セット」

の順番に回すことになっています。
時間の状態を確認するためのインジケーターであることはわかりましたが、
これを海中で、ゴーグル越しに確認するのは結構大変だったような気がします。

SDVは、コンバット・スイマーを母船から海中の現場まで運ぶものですが、
艇長、副艇長(英語ではパイロット、コーパイロットと称す)は
操縦もできるコンバット・スイマーといった役割だったそうです。


ところで、任務のためとはいえこんなものに乗って
(というかこんなものに体を固定して)海の中を進んでいくというのは
あまりに過酷すぎやしないか、と思われたあなた、あなたは正しい。

実際、化け物のような体力と身体能力を持ったシールズをもってしても、
海中での移動の間、海水の冷たさにずっと晒されるというのは大変すぎます。

そこで、先ほどの「グリーンヴィル」が搭載していた「アドバンスド」タイプのように
完全密閉式のものも開発されたわけなのですが、お金がかかりすぎた上、
2008年に試作品が偶発的な事故で火災を起こしたのをきっかけに
開発は途中で放棄されてしまいました。

それではこの改良タイプの開発はもう行われないのでしょうか。

wiki

まあ、こういう写真を見るに、無理してSDVをコンパートメント式にするよりは、
潜水スーツを改良し、体のどこも海水に濡れることのないような
保温性のある装具を開発したうえで、あとはシールズの皆さんに頑張ってもらう、
という路線に落ち着いたのではないかという気がします。


この写真は、原潜「フィラデルフィア」の背面に取り付けられた
SDVに搭乗して、今から発進しようとしているシールの皆さんの姿。

酸素ボンベがスーツと一体化したような形のものを着用ししています。
ちなみにSDV本体にも圧縮空気が備えられていて、非常用の酸素となります。

動力はリチウムイオン二次電池で、それによって推進、ナビゲーション、
通信、そして生命維持の装置を動かしています。 

 

ところで、肝心のここサブマリンミュージアムにあるSDVは
いつのものなのか、なのですが、ここにある写真で似たものを探すと、

Navy Seal Museum


どうもマーク9ではないかという気がします。
この薄型設計が、港湾や泊地の攻撃を目標とし、
水路偵察と武器調達を任務としていたMk9に見えます。

貨物のためのコンパートメントは、二人乗りの船体の
パイロットとナビゲーターの足の後ろに大きく取ってありました。
荷物を運ぶという任務のため、通常4人乗りと言われているSDVですが
これは二人乗りであったようです。

 

ついでにいうと、このネイビーシールミュージアム、フロリダの
フォート・ピアースにあって、シールズの歴史資料の展示だけでなく、
シールズ的イベント(走ったり泳いだりボートを漕いだり)を
市民の皆さんと一緒にやりましょうという企画が盛りだくさんなだけでなく、
ミュージアムには訓練された「シール犬」が常駐していて、子供達の
お相手をしてくれるというようなことが書かれています。

レイブン・ネイビーシールミュージアム多目的犬 

中程にある障害物を訓練士と一緒に超える様子がそれはいじらしいので、
犬好きな方は必見です。 

海自には二曹とかの階級を持っている犬がいますが、
(それより下の階級の隊員は非常に微妙な気分になるらしい)
彼も軍犬として曹以上の階級持ちだったりするんでしょうか。

って全然SDVと関係ないですが、わたしも「ネイビーシールズミュージアム」、
つい犬みたさで行きたくなってしまいました。

 

 

 

 

 

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”将来の将官”〜防衛団体全国総会雑感

2017-05-21 | 軍艦

 

息子の学校で週末ジュニア・プロムが行われました。

最初は行かないと言っていた息子も、友達が出席をするからとその気になり、
決まった後は早くからスーツとシャツ、ネクタイを選ぶのを手伝わされました。

年齢的にいつ何があってもいいようにと毎年夏にアメリカに行くたびに
ノードストロームでジュニア用のダークスーツを一式買い続けていたのが
ここに来て初めて役に立ったという感じです。

当日は学校から早く帰ってきて、シャツとスーツにアイロンをかけ、

「髪の毛セットするの手伝って

と言われてドライヤーとヘアクリームを駆使して髪を仕上げてやり、
彼の友人三人を車で拾って会場まで連れて行くという大役を果たしました。

近所の待ち合わせ場所に待機している彼らは、皆スーツにタイ、
短髪の子はハードジェルでツンツンに固めて、気合入りまくりです。

車のなかでは、息子が選んだ「ララランド」の曲を一人がふざけて歌い、
警察のバリケードで渋滞していると、

「誰かVIPがプロム来るんじゃね?」

「プーチンの娘とか」

「いや、イバンカだろ」

などと言っては大笑い。

箸が転んでもおかしい年頃は女の子の専売特許ではありません。

会場になっている結婚式場に到着すると、ちらほらいるドレスで着飾った
同級生の女の子をみながら、彼らは気もそぞろで車を降りて行きました。

男の子でこれなんだから、もし息子でなく娘だったら、
ドレス選びからヘアやメイク、ネイルに到るまで、
さぞかし大変だったんだろうなあ・・。

すっかり大人っぽく見える同級生たちと車を降りて行く息子の姿に、
彼もすっかりお年頃になったんだなあと感慨深かった夕べでした。

さて、本題です。

 

わたしはいくつかの防衛団体に名前を連ねており、
名刺はおかげで肩書きだけは賑やかなのですが、この日、
そのうち一つの団体の年一度の総会があったので参加しました。

昼1時から二次会まで入れると夜9時までという長丁場で、
前半は会計監査など、思わずあくびが出てしまう苦行()でしたが、
まあなんとか最後まで気力を持ちこたえることができてよかったです。

この団体の理念は

「国防思想の普及」

「英霊の顕彰及び殉職自衛隊員の慰霊」

「歴史及び伝統文化の継承助長」

その延長上に、

「自主憲法の制定成立」

があります。

殉職隊員の慰霊ということが会の理念に謳われているだけあって、
この日名目を変えて三つの会合が持たれたのですが、その度に、
先の大戦での戦死者とともに殉職隊員への黙祷が行われました。

特にこの日は、緊急搬送の必要な病人を収容するために飛び立った陸自のLR-2が
北海道の山中に墜落して4人の隊員が殉職されたばかりで、
そのことに言及されてからの黙祷となりました。

会員の最年長者で大東亜戦争ではニューギニアの戦いから帰還された方です。
毎年のように「遺言だと思って」とお話しされますが、まだまだお元気なのがすごい。

政府による特に自分の戦友が多く眠る南方での遺骨収集事業について
それを法制化して進めることを強く要望して来られました。

メモも見ないで戦死者数とまだ現地で眠っている英霊の柱の数をスラスラと挙げ、
宇土議員がこれを法制化するため尽力したことへの謝意を示されました。

「102歳です」

とおっしゃった時には、場内が驚きと賞賛の声でざわめきました。

  

さて、総会の後には、政治家、自衛隊幹部を迎えての懇親会が行われました。

江田島、呉での自衛隊関係の式典では必ず顔を出される寺田稔先生。
防衛省の官僚時代「大和ミュージアム」の創立に大変尽力されたということを聞き、
それ以来会合でお会いするたびにすり寄っているわたしです(笑)

ところでみなさん、寺田先生の後ろにおられるこの方、ご存知ですよね?!

先日民進党を離党した話題の長島昭久先生です〜!

新年の賀詞交換会にも参加されており、その時

「民進党議員はこの団体の会合には呼ばれても滅多に来ない」

「保守を任じて憲法改正を進める長島議員だからこそ参加できた」

と書いたのですが、あれから今日までの間に離党という決断をされた同議員。
これまでは「借りてきた猫状態」だった保守系防衛団体の会合で、何を語るのか。


「晴れて堂々とこの会に出席することができるようになりました!」

会場はこの言葉にどっと湧きました。
長島氏の離党についてはあれこれと世間の意見は喧しく、

「ならなぜ今まで民進なんかにいた」

「民主党にいた時点で全く評価できない」

などという向きもあるようですが、やはり数式のように答えの出ることではなく、
しがらみやら流れやら、考慮すべき点があまりにも多すぎて、
これでも民進の醜態を散々見せつけられて限界が来なければ、
さらに氏の決断は先送りされていただろうとわたしは思っているくらいです。

ともあれ、しがらみを吹っ切って自分が「あるべき位置」から
政治家として物を言うことのできるようになった氏の表情は殊の外明るく、
それを迎える周りの政治家や会員諸氏にも、暖かい歓迎の意が感じられました。

自民党の財務副大臣、木原稔衆議院議員。

森友関係の質疑では随分と大変だったようでお疲れ様です。

小田原潔衆議院議員。
長島議員が

「同じ東京都21区でぶつかる先生とは、党は違えど志を同じくする政治家として

などと言っていました。
つまり、選挙があれば直接対決する二人な訳ですが、そこは大人の政治家同士、
和気藹々と交流しておられました。

佐藤正久議員。

遺骨収集事業については佐藤議員も活動しておられます。
フォリピンでの遺骨収集事業も行うことができるようになったので、
すぐにではないが近年中に実現すると言うことを述べられました。

何期か後の海上自衛隊遠洋練習航海の寄港先がフィリピンとなり、
護衛艦がご遺骨を祖国に連れて帰るのもそう先のことではないかもしれません。

つい先日お会いしたばかり、宇都隆史議員。

乾杯の発声は我らが統幕長、河野克俊海将。

どこで言われているのかは存じませんが、「ドラえもん」というあだ名もあるとか。
ドラえもん的かどうかはわかりませんが、統幕長という大任を背負っているにもかかわらず、
威圧感も尊大ぶる風はもちろん、政治家のような巧んだ様子もなく、とにかく
全人格的な明るさが後光に指しているかに見えるような方だといつも思います。


河野統幕長は先の陸自連絡機墜落の報についても述べられ、

「皆様にはご心配をおかけいたしました」

と挨拶されました。
自衛隊のトップの立場としては当然のご挨拶だったのだと思いますが、
何よりも彼らの冥福を悼む立場のコメントをあえて控えられたことに、
わたしは今の自衛隊の世間に対する立ち位置を見るようで、却って心が痛みました。

本会合には陸幕長の岡部俊哉陸将、空幕長の杉山良行空将も見えました。

陸海には馴染みがありますが、空将をお見かけするのは初めてです。
杉山空将は戦闘機パイロット出身で 、F-4EJに乗っておられたとか。

「ファントム無頼」の真っ只中世代と言うわけですね。

左の陸自出身の会員の方とお話ししていたら河野統幕長が来られたので、
しばしお話をさせていただきました。

わたしとしては、いつかお聞きしてみたかった話題をこの機会に切り出してみました。

「『あおざくら』のインタビュー、読ませていただきました」

今話題の防大生青春漫画?「あおざくら」の第3巻には、特別企画として
河野統幕長のロングインタビューが、

”23万人の自衛官のトップに立つ男、
防衛大で培ったリーダーシップについて語る!”

と言うタイトルで掲載されているのです。

「あおざくらって何ですか」

元陸自の会員さんは全くご存知でない様子。

「防衛大学校の生徒が主人公なんですよ・・・。
あれは・・もう2年になったんだったかな」

「いえ、まだ1年生ですね。校友会活動が決まったところまでです」

「その第3巻に」

「河野さんが登場されてるんですか」

(だったら面白いですが)

「いえ、巻末にインタビュー記事が載ったんですよ」

二人でなぜか説明をすることに。
ご存知ない方のために説明しておくと、河野氏は

旧海軍の機関士官で戦後海上自衛官だった父親の期待により海自に入った

●不器用なたちで苦労したし指導も厳しくされた。
自分は人並みになるために人の2倍、3倍努力しなければならないと思った

●人生どうにもならないこともあるが、逆に人の助けによって
どう転ぶかわからないのだから皆も諦めてはいけない

ということを防大時代の「劣等生」だった立場から述べておられます。

「あのインタビューを読んで、俺もできるかも、と元気付けられた
学生や隊員って、
多かったんじゃないかと思います」

と申し上げると、意外なくらいまっすぐ(というかぶっちゃけ嬉しそうに)

「そう思われますか」

と返事が帰ってきて、わたしは少し驚きました。

階級という名の序列が退官までつきまとう自衛官人生というのは、
特に上昇志向のある者にとっては、ある意味一生過酷なレースともいえます。
それだけに、クラスヘッドとして賞状をもらうようなスタートを切った者にしか
その望みはない、と思うと早々に挫折感を味わう者もいるでしょう。

しかし、あのインタビューで、何しろ「23万人のトップ」が
伝説の天才や秀才ではなく、むしろ不器用な人間だったということを知って、
俺も努力したらもしかしたら、と思った者が少しでもいたなら、
統幕長にとっても本望というものに違いありません。

さて、会合は続いていましたが、所属団体支部の二次会があったため、
和食レストランに移動しました。

そこで地元地本を経験し、現在はこちらの勤務になっていたり、
退官後こちらで就職していたり、という防衛省&自衛隊関係者と合流。

現在幹部学校勤務の海自の二佐は、お料理が出るたびにiPhoneで撮り、
即座にインスタグラムに挙げておられます。

「今アップしてるんですか」

「はい、この瞬間世界中でもう見られてます」

「自衛官だってことは公表してないんですか」

「自衛隊に関わるものは全く上げませんから」

見れば、全てがお花とグルメの写真でした。


もう一人の方は、元陸自で戦車隊だったという方。
現場の自衛官として10式戦車を作るのに携わってもおられます。

「ヒトマル式乗せてあげますよ、って言われていたのに、
忙しいからと言って延び延びにしていたら退官してしまって」

と残念そうな会長。
うーん、その頃わたしがいたら、何が何でも強力に決行していたのに。

この日のお昼を食べずに総会に出て、お腹が空いた状態で
懇親会に出たため、ついいつになく真剣に料理を食べてしまい、
せっかくの天ぷら(一人一皿)が食べられませんでした。

車で来ていたわたし以外は日本酒をガンガンやっていたので、終わる頃には
会長はじめ、戦車長も、防衛省も、文筆業も全員がろれつが回らない状態。

飲まない人間が嫌われるのは、こういう時に一人醒めて、酔っている他人を
ああ酔ってるなーという目で見てしまうからなんだろうな、と思いつつ(笑)
そんな辛党の人たちを尻目にお店の人に、

「なんかデザートありますか」

「料理人手作りのわらび餅がありますが」

「(文筆業に)食べます?・・じゃ女性二人にわらび餅」

すると前の戦車長が

「なんで女性限定なんですかッ!」

とか言い出したため、結局全員がうす甘いわらび餅でシメをしました。
辛党ってお酒の時甘いもの食べないんだと思ってたよ。

 

この陸自の方が、実はわたしも存じ上げているある海将の防大同期でした。

「あいつは偉いですよ。昔から有名人でした。
学生時代なんて、遊ぶことと女の子のことしか考えてないのが普通なのに、
学生のくせに一人自費で『ライフ』の英語版を取り寄せて読んどるんです」

「当時からタダモノではなかった・・・?」

「早くから自分は自衛隊の上に立った時どうするか考えてるような人物でした」

「お仕事を拝見していても、常に立ち止まらず変革を厭わない方という気はしますね」

河野統幕長の「あおざくら」のインタビューをみて安心した人は、
「劣等生」と「統幕長」の間に何があったか、つまり河野氏がどれくらい努力したか、
ということも少し、というか真面目に考えてみるのもいいかもしれません。

統幕長の経歴などをみると、確かに自衛隊のトップになるのには運が必要だと思いますが、
そもそもある程度のステージに上がっていないと運に選ばれることも決してないわけで。

つまりステージに上がるには そこに上げるための「才能」「努力」
「あるいはそのどちらも」が必要となるということです。

シンデレラストーリーは自衛隊には決して起こり得ないということのようです。



 
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SS X-1( 特殊潜航艇)と”海洋調査”〜グロトン サブマリンミュージアム

2017-05-20 | 軍艦

グロトンにある海軍潜水艦基地付属ミュージアムには
海軍の施設ならではの珍しい潜水艦が展示されています。

前回お話ししたNR-1もその一つですが、ミュージアム前の広場には

SS X-1

という潜航艇が展示されています。

NR-1は解体されてそのセイルとマニュピュレートアームズ、
スクリューだけが記念に残されたのですが、X-1は全部が保存されました。

特殊潜航艇、と聞くと、わたしたち日本人は真珠湾の時に突撃した
5隻の二人乗り潜航艇や、シドニー軍港に侵入したものを想像しますが、
これらの潜航艇も、英語では

midget submarine

となっています。
日本では「ミゼット」と発音して三輪自動車の名前ですが、
「ミジェット」が正確な発音に近い表記かと思われます。

で、「midget」でもし画像検索をされれば、この意味が「dwarf」、
つまり小人症の人たちであることがお分かりいただけるでしょう。

ただし、これを車や船に当てはめると、「ミゼット」のような
小型の、ミニチュアの、という意味になります。

飛行機ではスポーツ用の「ミジェット・マスタング」、
ミニゴルフのことを「ミジェット・ゴルフ」、ディズニーランドにある
ミニカーのラウンドを「ミジェット・オートピア」という具合に。
(これ、この間廃止になってしまったんですよね。
アナハイムのディズニーでは古き良きアメリカ!みたいでとても良いので、
日本で失くなってもこちらに乗ればいいかと思います) 


そこでこの「ちび潜水艦」の全体像を見ていただきたいのですが、
戦時中のものとは大きく違っており、1955年当時には近未来的なもので、
そう、現在の潜水艦に近い形をしていますね。 

1955年というと、アメリカ海軍の潜水艦はちょうど原子力潜水艦
「ノーチラス」を就役させ、初めてその原子炉が臨界に達し、
全力での運転を可能とした時期です。

この時期、なぜ彼らは小型潜水艇を必要としたのでしょうか。

目的は、軍港を突っ切って繋留された艦艇や施設などに
攻撃を加えんとする敵に対抗するためでした。

ただし、この潜水艇が入り込んできた敵を攻撃するのではなく、
港湾に侵入する敵潜水艇になりきる、つまりアグレッサーというか
一人アドヴァーサリー部隊となって軍港に潜入し、
防御の穴がないかとか狙われやすいポイントとか、
そういうデータを洗い出すためのテスト艇だったのです。

おそらく冷戦を睨んでの港湾防御のためだったと思われますが、
その武力(つまり仮想攻撃)の一つには

「水中作業員が吸着爆弾を装着して爆破する」

というものもあったそうです。
日本のそれとは全く違いますが、ある意味こちらの方が
「特殊潜航艇」的な任務を背負わされていたようにも見えますね。

 

 

X-1はポーツマス海軍工廠で最初に建造されたディーゼルバッテリーの船です。

その艦体に、水中発射のためのロックアウト機能と、
海中の爆破チームを再び回収する機能が備わっていました。

動力は過酸化水素を推進剤とするディーゼルで、
クローズドサイクルによるエンジン。

これは触媒によって過酸化水素が分解されタービンを駆動する"前"に
ケロシンと燃焼室内で燃焼する、という仕組みのものでした。

しかし、1957年5月、このシステムは、過酸化水素の倉庫が
爆発するという事故が起きて廃止になってしまいます。 

後ろから見たX-1は、まるでヒレの長い金魚のよう。
プロペラの後ろに舵がついているのがユニークです。

その後、航空機メーカーのフェアチャイルドがエンジンを
ディーゼル・エレクトリックに換装しました。

 

過酸化水素というのは、以前日本海軍の「秋水」について
取り上げた時にも話したことがありますが、
非大気依存推進システムのエンジンの酸素源として
ドイツが「ヴァルター機関」にも使用していました。

すでに一方では原子力潜水艦を完成させていたアメリカが、
なぜこの時期にわざわざ過酸化水素を用いたシステムを
導入したかというと、これはわたしの想像に過ぎませんが、
対戦中U-ボートに苦しめられたアメリカ軍が、戦後、
ドイツからヴァルター機関の情報を戦果として持ち帰り、
小型潜水艇に試験的に取り入れたのではないでしょうか。

そして結果として失敗したのでは・・・・?

メッサーシュミットのコメートも、秋水も、過酸化水素による
事故(人間が触れると 、脂肪酸、生体膜、DNA等を酸化損傷する)
が大きな問題でしたし、あの有名な2000年のロシア海軍における

「潜水艦クルスク沈没事故」

では、魚雷の推進剤である過酸化水素が、不完全な溶接箇所から漏れ、
爆発したのが原因で魚雷の弾頭が誘爆したのが原因でした。

 

エンジンを電気式に換装されてから後のX-1は、海軍の
海洋学調査艇としてとても「ユースフルな」(現地の説明による)
生涯を送ったということです。

そこでちょっと思い出すのが、このX-1の子孫にあたる

海洋調査ドローンを中国がお持ち帰りしてしまった事件。

アメリカも別にドローンだからほったらかしにしていたのではなく、
フィリピンのルソン島のスービック湾からおよそ50海里の場所で、
海中の塩分濃度、温度、透明度などを計測した後、
回収しようと思ったら、一足先に中国海軍に見つけられてしまったと。

 

このドローンの窃盗事件については、以前ならわたしも

「塩分濃度、温度、透明度の計測」

なら単なる水質調査なんだから、そのデータには軍事的価値はなく、
むしろドローンそのものを中国は欲しかったんだろうなと
思ったかもしれませんが、ちっちっち、違ったんだなこれが。

呉で潜水艦を見学した後、教えていただいたのですが、
この水質計測は、実は潜水艦にとって大事な軍事資料なのです。

この教えていただいたお話が面白かったので、そのまま掲載しますね。


水中では音は屈折します。

スネルの法則によって、空気中と水という、密度の異なる媒質を音や光が通過する時には、
境界層で屈折率が違って来ます。

水中は一見、等質のように思えますが、実はそうではなく、ある深さ
(英語でLayer Depth。日本語は直訳で層深)で密度が変わって来ます。
そのため、LD下では、音は海底に向かって屈折するので、
海面にいる護衛艦がソーナーを発振しても、潜水艦がLD下に潜れば探知しにくくなります。

ただ、海面からの音が届きにくくなるということは、潜水艦からすると、
海面にいる水上艦の音も届きにくくなるので、隠れると同時に、
自分もブラインドになってしまいます。

そのため潜航中の潜水艦は、実はあまり深くは潜らず、ほとんどLD付近にいます。
深々度で魚雷を発射しようと思っても、海面にいる敵艦は見つかりません。

LDは海水温度、塩分濃度や底質で決まりますが、最も影響が大きいのは海水温度です。
そのため、潜水艦を捜索する際にはまず水温測定から始まります。

今回盗まれたドローンが何をしていたかというと、
太平洋をひたすら走って、水温測定をやっていたのです。
海上自衛隊の海洋観測艦の主任務も「ひたすら水温を測定すること」です。


こうしてデータを蓄積して

「どこどこの海域でいついつはLDはどれくらい」

というデータを積み上げ、その結果は潜水艦や護衛艦、哨戒機に共有されます。
LDが分かれば、ソーナーの探知距離も予測出来ます。

米軍のすごいところは、これを全世界で行っていることです。

 

中国が第一列島線を超えてこれをやりだすと、自衛隊の潜水艦も危ないので、
おそらくそれだけはアメリカが阻止するだろう、ということでした。

 

おそらく、このX-1も、世界中の海で海水の調査を行なっていたのでしょう。

ところで、冒頭写真にはっきりと写っている、艦体に書かれた
上から「7 5 3」の数字、現地で見た時、
これは艦番号だと思っていたのですが、なんでしょうか。

もしかしたら喫水位置の目盛りかな?

 

SS X-1は1957年に一度引退して不活性化されたのですが、
3年後にアナポリスに引き取られ、チェサピーク湾で
第6潜水艦隊に加えられて調査潜行を行っていました。

この時彼女は軍港でのアグレッサーから、海水調査という
潜水艦部隊のための「本来の軍事行動」を行う調査艇になったというわけです。 

1973年に任務を終え、その後歴史的な展示艦になることが
取り決められ、ずっとアナポリスの艦艇研究開発センターにいましたが、
2001年に「潜水艦のふるさと」であるグロトンにやってきて、
サブマリンミュージアムの前庭でその余生を送っています。

 

 

 

 

 

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原子力深海潜航艇「NR-1」の物語〜グロトン潜水艦博物館

2017-05-18 | 軍艦

映画「勝利への潜行」で、アメリカ海軍が日本に対して行った
通商破壊作戦「オペレーション・バーニー」についてお話しし、
その後はバラオ型潜水艦「ライオンフィッシュ」を取り上げたので、
もう一度、ニューロンドンの潜水艦基地にあった展示を扱うことにします。

その前に、久しぶりなのでニューロンドンの基地について少し。

ここがアメリカ海軍潜水艦基地のゲート。
原潜「ノーチラス」展示とサブマリンミュージアムはこの隣にあります。

このゲートをミュージアムと間違えて突入してしまい、
海軍の軍人さんにパスポートとドライバーズライセンスを見せて、
ブラックリストに名前が載っていないか照合されるという、
ちょっと誇らしい経験をしたことは一度お話ししましたね。

断っておきますが、わざとじゃありません。

ついでにフェンス越しに内部を撮ってみました。
広大な敷地なので、どこでも車は駐車し放題です。
フェンスのレンガ柱だけは昔(1800年代)からあるのかも。

アメリカは物持ちが良くてこういうのを絶対に壊さないので
可能性は大いにあります。

 

ここはコネチカット州のグロトンというところです。
ニューロンドンにはテムズ川が流れ、イギリス人が入植してきたとき、
故郷に似ているとしてこういう地名をつけたようですが、
潜水艦基地はそのテムズ川に1868年、海軍が敷地を得たことから始まります。

最初は海軍に石炭を供給するための補給所でしたが、1916年になって
正式に潜水艦基地が創設され、今日に至ります。

世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」がここで就役し、
現在も記念艦として展示されているのを始め、併設された
海軍潜水医学研究所では、潜水に従事する海軍兵士の健康維持と
作戦遂行能力の向上を目的とした研究がなされています。

あの「マンセン・ラング」や脱出スーツも、ここで開発されました。

サブマリンミュージアム全景。
右手がテムズ川に面しており、そこには
原子力潜水艦「ノーチラス」が繋留してあります。 

 

前にも見せましたが、新旧の潜水艦の変遷がある意味一目でわかるオブジェ。

外側の円が「オハイオ」級潜水艦、内側が「ホランド」級の艦体です。
「ホランド」は SS-1、すなわち海軍最初の潜水艦で、1900年に就役しました。

さてところで、ミュージアムの前のスペースには、広さをいいことに
潜水艦のセイルや艦体そのものがいくつか展示してありまして、
その中で一番目立っていたのが蛍光オレンジのセイルでした。

「NR-1」

軍事用というより探査用だと一目でわかる色使いです。

探査艇というのは当たっていましたが、想定外だったのは
この潜水艦も海軍によって運用されていたこと。
なんと、あのハイマン・リッコーヴァー提督発案の原子力探査艇でした。

リッコーヴァー提督については、その最も輝かしい業績として
原子力潜水艦「ノーチラス」の開発に携わったことなどを
当ブログでもその人間的なエピソードも交えて扱ったことがあります。

リッコーヴァーが原子力に関わってから、「ノーチラス」ができるまで5年、
このNR−1計画はさらにその11年後に立ち上げられました。

リッコーヴァーが押しも押されもせぬ「原子力海軍の父」であることを
ジョンソンに見込まれての開発要請という形です。

 

 

なぜアメリカは原子力を動力とする探査潜水艦を必要としたのでしょうか。

原子力潜水艦の長所は、無浮上で海中にとどまれることです。
つまり、調査を長期間にわたって継続できることにつき、
支援母船が必要ないという簡便性でもあります。

潜水式の探査船は通常自力ではなく支援母船に現場まで運ばれ、
クレーンで着水して、作業が終われば揚収することになっていて、
さらに一回の潜行時間はせいぜい数時間。
そのほとんどは深海まで潜行し、そして帰ってくるための時間ですから、
作業時間そのものはせいぜい3時間といったところです。

 

その点原子力による探査潜水艦は一旦潜れば何日でも、いや、
おそらくNRー1の任務のいくつかはそうであったと思われますが、
軍事行動のためには何ヶ月も海底に潜んでいることができるのです。

しかしこの写真を見る限り、NR-1も母船に曳航されて現場まで行き、
母船からクルーがゴムボートで乗り移って乗艦しているようです。

まあ、スペック上何ヶ月可能であったとしても、
バラオ級の半分もない潜水艦に士官3名、下士官兵8名、
そして研究者2名の13人もが乗ることになるわけですから、
生理的にまず無理ということじゃなかったでしょうか。

NR-1の艦内の環境はギリギリの状態で、酸素発生装置もなく、
(酸素発生キャンドルというもので酸素を作っていた)
キッチン、風呂などもないので食べ物は冷凍の電子レンジフード、
週に1回バケツ1杯の水で体を洗うことが許されるだけです。 

潜水艦に慣れた海軍軍人でも

「NR-1に乗ったものは全員病気になった」

というくらいだったので、民間人である学者には酷いストレスであったでしょう。

この学者というのは海洋学者や地質学者のことですが、
1977年にNR-1に海嶺の観測のため乗り込んでいた海洋学者の
ブルース・ヘーゼンは、乗艦中心臓発作を起こして死去しているくらいです。

死亡したときに博士はまだ53歳だったと言いますから、
潜行のストレスが彼の体調に影響していないとは言い切れません。 

 

ちなみに、NR-1の通常稼働可能日数は210日、
クルーが13人乗ったとしたら沈む沈まないに関わらず16日。
限界は25日となっていました。


 

これがNR-1の母船であった船。

基本NR-1はこの母船に曳航されて延々と現地まで行きましたが、
やはり現場で移乗することが難しい時には、人を乗せていたようです。

中に人が乗っている時には、引っ張られているだけの潜水艦
(しかも海上を)は波に揺られ、抵抗を受ける一方。

70年代の半ばに潜水艦長を務めた海軍軍人でさえ、

"It was only a matter of whether you were
throwing up or not throwing up." 

(それは吐いているか吐いていないかだけの状態だった)

と言っていたそうですから、その過酷さは想像を絶します。

ヘーゼン博士はもちろん、こんなものに乗ってヘーゼンとしていられる人は
百戦錬磨の海軍軍人にもいなかったようです。

スクリュー。
船のスクリューにしては小さく、やはりこれでは
長距離の自力航行は難しかったであろうと思われます。

肝心の説明文がボケて見えませんorz
居住区がとんでもなく狭いのだけはわかった。

ただ、どこにも書いてないけどトイレくらいはあったんだろうなあ。
まさか「まるゆ」じゃないんだから・・。

それから、この図からはわかりませんが、NR-1、艦底になんと

海底走行用の車輪

がついています(笑)
このおかげで、彼女は 

『米海軍初の、耐圧船殻に搭載された車輪を用いて海底の走行を果たした潜水艦』

となることができました。👏

現地で見た時には何か分からなかったのですが、
これはどうやらマニピュレーターのようです。

マニピュレーターアームの使い方例。

深海で人間が外に出るわけにいかないので、海底に落ちているものを
拾うなどという任務の場合には、これを使って取ります。

その操作はリアルUFOキャッチャー。

小さな部品はバスケットですくって採取した、と説明にあります。

拾ったブツは船の上部の物入れに入れた、ということですが、
説明にもあるように、問題はF-14(トムキャット)が墜落した後、
それに搭載されていたフェニックスミサイルを回収するなどという仕事です。

だってこれ信管生きてるよね?だから回収するんだもんね?

拾うのももちろん、それをアームで船に積んで浮上している時も
皆さんくしゃみもできないくらい緊張を強いられたのでは・・・。

現場では同じ写真の使い回しをしていますが、その時のミッションがこれ。
あー、フェニックスミサイル、まだ新品だったんですね。
当時の価格で1本 477,131USドル(だいたい今の5千万円)ですから、
そりゃ多少無理してでも拾わないとね。

NR-1の歴史的なミッションとしてもっとも有名なものが、
1986年にスペースシャトルチャレンジャーが爆発したとき、
海底の探査チームに加わったことでしょう。

NR-1は現場の写真を撮り、詳細な破片の散らばり具合をマップにし、
事故の原因となったOリングを含む部品の回収に成功し、原因解明に大きな貢献をしました。

1999年に大西洋上で墜落したエジプト航空990便が
海底に散らばっている様子を探査しました。

事故原因はボーイング社とエジプト航空側の主張で未だに食い違っていて、
アメリカ側は副操縦士が意図的に墜落させた(つまり自殺)
というもの、エジプト側は機体の故障だとしているそうです。

NR-1はこの調査でブラックボックスを回収することに成功しています。
 

「ナショナルマリーンサンクチュアリ」というのはアメリカの
「国立海洋保護区」のことです。

NR-1が調査したのはメキシコ湾にある

「フラワーガーデンバンク」

という保護区で、サンゴ礁、海底火山などのある300フィートの海底です。
スキャニングによって太古の人間がかつてこのレベルで生活しており、
その後地形変化によって今は海底になっていることも突き止められたということです。 

 

「リア・アドミラル(中将)ドゥワイン・グリフィスの思い出のために」


とあります。
この名前で検索してみると、

NR-1の物語

というサイトが見つかりました。
乗員のページにグリフィス中将の写真(田母神さんに少し似てるw)があります。

ページをめくっていくと、搭載されていたコンピュータや、
艦内での生活ぶりなど、興味深い写真が見られます。

退屈しのぎにマニピュレーターを操作して、落ちているドラム缶を立てて
遊んだり(リアルUFOキャッチャー)したなんて書いてありますね。

そして19章には、トムキャットのミサイルを回収した時のことが
詳細に書かれています。
甲板のミサイルと一緒に撮った写真は、髭面の男が乗員でしょう。

 

時代が NR-1を必要としなくなってからもずいぶん長い間、
彼女はその艦体をそのままニューロンドンで持ち堪えていましたが、
ついにこのグロトンの潜水艦基地でインアクティベイト(不活性化)され、
その後ピュージェットサウンドの海軍工廠でスクラップにされました。

今ここにあるセイルとスクリュー、そしてあらゆるものをその手につかんだ
マニュピュレーターアームを残して。


彼女の体の何百トンもの鉄は溶かされ、新しい形、新しい製品に生まれ変わりました。
HPの最後は、かつての乗員のこんな言葉で終わっています。

NR-1は永遠にわたしたちと共にいます。
 星々から生まれるメタルが宇宙全体でリサイクルされるように。」
 

 

 

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平成29年度遠洋練習艦隊〜壮行会

2017-05-17 | 自衛隊

 

練習艦隊関連行事、日曜日の艦上レセプションに続き、
水交会で行われた壮行会に行ってまいりました。

今年の航路は恒例のパールハーバーを皮切りに北米、南米からアンカレッジ、
なんとウラジオストックに寄港し最後に韓国というもの。

パールハーバーの後、西海岸のアメリカ最大の海軍基地である
サンディエゴへの寄港という基本形の後は毎年違うコースです。

いつもわたしがアメリカにいる時期に北米に寄港していることが多いので、
一度くらい現地で艦隊を見てみたいものだと思うのですが、
東にいる時には西、西にいる時には東にいるという調子で、
やっぱり今年もそんな楽しい偶然は起こりそうにありません。

遠洋航海は半年とさっくり言ってしまいますが、じつは163日、
半年というより5ヶ月半です。

ともかく、この期間息つく間もなく行事と訓練の毎日で、実習幹部は
心身ともに海自幹部として基礎を鍛え上げられるというわけです。

いつもと違うのは、艦隊といっても旗艦と随伴艦「はるさめ」の二艦構成であること。
いつももう一隻紹介するスペースには、SHー6Kの写真で穴埋めしています。

出席者と自衛隊幹部の紹介の後、水交会の会長がご挨拶。
ちなみにこちら側にいるのは参議院議員の宇都隆史氏です。

いつも思うのですが、水交会の宴会会場は実習幹部たちの壮行会には少し狭い。

 

杯の発声の後、歓談が始まりました。
水交会理事の元海幕長にご挨拶したところ、

「ぜひ実習幹部を激励してやってください」

と本会の開催意義に基づき、直球でアドバイスいただきました。

あちらこちらに背広姿の紳士と周りを取り囲む実習幹部たちのグループが。
本日来場の中には元海幕長、元海将がいて、
孫のような年齢の後輩たちに海自の先輩としてお話を聞かせています。

ここだけの話ですが、ざっくばらんな席で、ある幹部が

「水交会って苦手なんですよね(本当は違う言い方ですが忖度しました)」

というのを聞いたことがあります。
その心は、昔海軍、今自衛隊OBが母体の水交会は、現役の幹部にとって
何かと「うるさい」からなんだろうと勝手に推察しました。

自分たちの属した組織で、それを愛すればこそ、老婆心というか苦言を呈することも
OBの立場からはあって然るべきですが、何かと現役には煙たいと映るようです。

そんな幹部もいずれ退官したら「うるさい水交会員」になるんでしょうけれども。

元空自の幹部であった宇都隆史議員も、実習幹部をたくさん周りに集めていました。
こういう場では、議員というより「元自の兄貴」みたいになるようで、
政治家として大変その辺のバランス感覚のある人だといつもお会いして思います。

ヒゲの隊長、元陸自隊員の佐藤正久議員も出席しており、この日は
自衛隊出身の両議員が共に顔を揃えた、近年珍しい壮行会となりました。


ところでわたしとしては、そろそろ元海自の議員に出てきて欲しいところです。

この日は、時間を確かめずに家を出たので、着いたらもう会が始まっていて、
カメラの設定を何も変えずに撮ったため、全編ボケ気味なのをお詫びします。

決してそのつもりはありませんが、実習幹部も本人特定しにくくなっております。

 

例年のことですが、乾杯の後、テーブルの周りに群がる幹部たち。
若い彼らの食欲は凄まじく、毎年何分でテーブルがからになるのか、
その食べっぷりを見るのも楽しみの一つとなっています。

水交会のお料理はキッチン直結のなので、結構いけます。

ここで夕食を済ませることになっている実習幹部たちはマジ食べモードですが、
基本パーティは食べるところではない、とわきまえている大人たちは、
テーブルの周りを若い人たちに譲ってグラスを手に社交がメイン。

毎年思いますが、実習幹部たちと一口で言っても、積極的に先輩諸氏と交わり、
社交を求める者と、全く自分からはそういうことをせず、一生懸命食べて、
会話は自分の周りの幹部同士だけで済ませるという者にはっきり分かれます。

そもそもわたし自身がどちらかというと人見知りするたちで、
個々の資質や性格もあるので、どちらがどうとは言いませんが、
今までみてきた海上自衛隊に限らず、内外から評価されている自衛官は、
例外なく、人とのコミニュケーション力が卓越していると感じるのも事実。

つまり、こういうパーティで外部の人と一言も喋らずに終わる者より、
特に言葉を大事な媒介として任務が進むことの多い海上自衛隊では、
積極的に交流を求めるような幹部の方が大成するのかもしれないってことです。

あくまで感想ですが。


次々と人に囲まれておられた練習艦隊司令官、眞鍋海将補。

後ろに控えてじっと海将補を見つめているのはきっと練習艦隊副官でしょう。

すし桶はもうカラです。
前にここで行われた宴会が海軍兵学校の同窓会だったわけですが、
その時との食べ物の減り方の違いに今更目をみはる思いです。

というか、どんな宴会でもこんなに跡形もなく食べ尽くされたテーブルを
わたしは練習艦隊壮行会以外でみたことがありません。

艦上レセプションでは、たくさん豪華な料理が手をつけられず残っていましたが、
あの後、彼ら実習幹部を投入したなら、さぞ綺麗に片付いたことでしょう。
(実際にそうしたのかな?)

というわけで、あっという間に締めの時間になりました。
練習艦隊の実習幹部代表が挨拶をしたので、彼がクラスヘッドなのかなと思ったら、
すぐ近くに卒業式で賞状を受け取っていた見覚えのあるクラスヘッドがいました。

あの卒業式で海幕長が

「わたしがここ江田島を卒業したのは今から35年前であった」

と挨拶をした時、この若々しい集団の中から、35年後、同じように挨拶する
一人が出現する遠い未来を暫時夢想したことをを思い出します。

このクラスヘッドも、もしかしたら『その可能性のある一人』なのでしょう。

ご本人が恥ずかしがるかもしれないので、極力小さな写真で。
この日お話しさせていただいた唯一の女子実習幹部です。

一般大での専攻が理工系だったことから、航空整備志望であるという可愛いお嬢さんで、
話を伺ったところ、彼女の父上は現役の陸上自衛官なのだそうです。

「なんで陸自じゃないの?って言われませんでした?」

「はあ、父には海自に決まってから言ったんですけど『海自なの?』って」

航空整備なら空自や陸自でもできるのですが、彼女はあえて海自を選んだわけです。
挨拶が始まってしまったので理由は聞かないままでしたが、

「出航をお見送りさせていただきますね。頑張ってね」

と言って別れました。


海自OBの方々は、実習幹部と話してもご自分の体験を絡めて
アドバイスや彼らにとって有益な提言などができるのでしょうが、
我々などは、ご本人の志望を伺ったり、知っている自衛官の話などして、
せいぜい頑張ってね、と激励するくらいしかできません。

「万歳おじさん」(ご自分でそう言った)水交会理事長のご挨拶。

「にっ・ぽん・こく練習艦隊、という名称がわたしは大好きです」

「バンザイ・バンザイ・バンザイ!」

退場は練習艦隊司令官が先頭に立ち、その後を実習幹部が順次付いて行きます。
まずは実習幹部の間を通り抜ける海将補。

行進曲「軍艦」に合わせて皆が拍手で調子を取ります。

会場で話をした人の前にくると、少し立ち止まって挨拶をしていく幹部も。

金色の体力徽章はさすがに見ませんでしたが、銀色保持の幹部も何人か見かけました。
そのうち一人に尋ねてみると、やはり水泳部出身で「水泳で取った」ということです。

彼は「体力徽章が取れるようになって初めての徽章なので、まだ1年目です」
と言っていた気がします。
1年ごとにテストが行われ、記録が届かなければバッジを返還しないといけません。

やっぱりこれをつけていられるのは若い時だけみたいで、
防衛記念章の台が大きくなっても体力徽章をつけている自衛官は見たことがありません。

「体力が取り柄」の若い自衛官の左胸からバッジが失われ、それはいつしか
10年目の赤いきつね、そして25年目の緑のたぬきへと変わっていくわけです。

190人の実習幹部がいるので、一回の「軍艦」では済まず、
2回目リピートし中間部に来て初めて全員が退出しました。


彼らはこの後マイクロバスに乗り込み、横須賀まで帰還するそうです。
いつも水交会の壮行会は半袖の白い制服で訪れる幹部たちですが、
ほんの2日前の艦上レセプションでは皆黒い冬服でした。

聞けば、あのレセプションの次の日から衣替えだったそうです。

 

この日現地でまたもお会いした鉄火お嬢さんからいただいた、オリジナルラベル
(彼女の撮った花火の写真)のお酒。

福井酒造という愛知県東三河の蔵元が製造したそうです。
ここは「四海王」という、海自関係の方が聞いたら喜びそうなお酒が主力製品で、
「四海」は四方の海を意味しているのだとか。

飲めないわたしにとってのお酒の最大の有効活用というのは料理に使うことなんですが、

「じゃー、せっかくなので料理に使わせていただきます」

「ちょ・・・それはもったいなさすぎます」

「そういうものですか。じゃお風呂に入れるなんてのは問題外?」

「・・ハハッ・・・」(目が笑ってない)

 

それでは、いざ!という時まで大事に飾っておくことにします。

 

続く。

 

 

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平成29年度遠洋練習航海〜「かしま」艦上レセプション

2017-05-16 | 自衛隊

 

 

先日呉で「いせ」の佐世保への転籍を見送った時、隣に「かしま」ら
練習艦隊の船が隣の岸壁に入港していました。

江田島で大講堂での卒業式を終え、新幹部が乗り込んでいった「かしま」、
全く別の場所で予想もせずに出会うと、友達に街で
思いがけず遭遇したような懐かしい
気持ちになったものです。

江田島を出航してから国内を、それこそ

「北は吹雪の北海道から南は真夏の沖縄まで」

くまなく航海してきた練習艦隊は、いよいよ5月に入って約半年の遠洋練習航海に向け、
晴海と横須賀で記念行事を行ってきましたが、
今回わたしはその一つ、「かしま」艦上でのレセプションに参加してまいりました。

雨の合間の爽やかな五月の週末。
「かしま」「はるさめ」が繋留されている横須賀地方総監部に到着です。

海将所在を意味する三つ桜の海将旗が上がっていました。

岸壁には来場者の車が誘導されて列を作っています。
今回は数日前に参加が決まったのですが、車で行けるとは思っていなかったので、
メルキュールホテルに車を停めてタクシーで来ました。

艦上レセプションのとき、「かしま」後甲板は紅白の幕と天井のテントで
全天候型パーティ会場になります。
練習艦隊旗艦として、頻繁にパーティが行われるので、これが「標準仕様」。

こちらのラッタルは二つあるうちの一つで、招待客は前方の、
舷門に続くVIP仕様のラッタル(階段が木製)から乗艦します。

わたしは受付前で雷蔵さん(仮名)とばったり出会い、一緒に入場しました。
本日は自衛隊イベントの師匠であるNさんも参加とのこと。

広くはない甲板に多くの来客が詰め掛けたため、立錐の余地もありません。

料理は、さすが「外交艦」でもある練習艦隊旗艦の貫禄で、舟盛りどーん!
刺身が乗り切れなくて一人分ずつお皿に分けてあったりします。

舟盛りの船には「練習艦隊」ののぼり?が立っていてウケを狙ってます。
「新鮮なお刺身=実習幹部」というのは考えすぎ?

この豪華さをみよ。
甘エビ、ウニはもちろん、なんとサザエのお造りまであります。

ちまき、草餅、最中、ぎゅうひに干し柿、三色団子。
もしかしたら旧海軍の練習艦隊のレセプション料理に倣ったのでは?
と思われるほどの古風というか純和風なスィーツの一角。

海外でのレセプションでも、日本文化の紹介として供されるのでしょうか。

 

お寿司はやっぱり人気です。(おそらく海外でも)

艦上レセプションでBGMを演奏していた音楽隊の皆さん。
いつも不思議だったのですが、この日は実際にお話を伺って、
練習艦隊に乗組む音楽隊員は全国の音楽隊からの有志で結成されており、
自分で希望を出すのだということが判明しました。

半年留守にするので一つの音楽隊から人は出せないんですね。

儀礼の時、行進の時と本来の演奏以外にも、レセプションの際に
軽快なジャズを聴かせるのも音楽隊の大事な任務です。

会場入り口では、練習艦隊司令官眞鍋海将補夫妻が来場者をお迎えくださいました。
眞鍋将補とは別件でご挨拶しておりますし、江田島での練習艦隊出航の時、
発光信号で詠まれた和歌を解読してくださった雷蔵さん(仮名)とは

「(体型が同じなので)制服を貸し借りしあった仲」

というわけで間接的ながらわたしとも偶然というか、不思議なご縁があります。

写真は、眞鍋将補、雷蔵さん(仮名)が若かりし日に彼らを鍛えた
元「鬼の海曹長」とのツーショット。

一角が騒然?となっているのでふと見たら、小泉進次郎議員が!
気のせいか、群がっているのはほとんどが女子でした。

横須賀は小泉議員の選挙区なので、晴海ではなくこちらに招待したようです。

宴たけなわで、知り合いとも逸れるとしばらく会えない有様。

ちなみに蝶ネクタイでお盆を持っているウェイターは自衛官です。
蝶ネクに白いジャケットも官品でしょうか。

屋台のビーフカレーをいただいてみました。
ご飯の量も注文を聞いてもらえます。

2年前に食べたのとは少し違いましたが、美味でした。
給養のメンバーも毎年のように変わるのかもしれません。

さて、ここは後甲板なので、当然ながら後部に自衛艦旗が掲揚されています。
日の出の時間に揚げ、日中碇泊時に降納するわけですが、本日の降下時間は0630でした。

実習幹部とお話ししていると、Nさんに「自衛艦旗が降ろされますよ」と教えられ、
”旗降ろし小隊”の後を付いていきました。

自衛官が多いせいか、アナウンスがあっても客の目立った移動はありません。
むしろ、2年前の政治家や偉い人の多い晴海でのレセプション時の方が、
降下を見ようと竿の周りに押しかける人が多かったと記憶します。

当直の海曹、海士が旗竿の下で構えたまま静止。

後ろで実習幹部がよそのお客さんに説明をしていたので、
便乗して色々と聞いてしまいました。

左舷側に立っているのは先任伍長で、この反対側、右舷側にも先任伍長がいました。

ご存知のように先任伍長とは海曹長のトップで、自衛艦の舷門には、
艦長、副長、そして先任伍長の3人の写真があります。
各艦に一人ですが、例えば護衛艦隊や地方隊にも先任伍長がいます。

先任伍長というのは海軍から伝わる名称で、陸空にはありません。

ところで、先日「亡国のイージス」の真田みたいな先任伍長は自衛隊におらん!
と中でも言われていた、という話をしましたが、いやいや。
最近では自衛隊にもこちらの方みたいな先任伍長が出現しているんですね。

掲揚の時間となり、当直士官のさらに後ろに控えていた喇叭係が
喇叭譜「君が代」を吹鳴します。

「降下のときには喇叭で『君が代』が演奏されますが、
本当の『君が代』とは似ても似つかないので驚かれると思います」

後ろの実習幹部が来客に説明していました。
実習幹部も参加するんですか、と聞くと、交代に役を務めるそうです。

「といっても掛け声かけるくらいですけど」

 

この日はあまりたくさんの実習幹部とお話できたわけではありません。
飲み物を持って来ましょうと声をかけてくれた実習幹部、そして、
遠洋航海にも参加するタイ王国の留学生、父上が招待客で家族参加の幹部。

タイの留学生は、日常会話には支障がないようでしたが、少し難しい言い回しをすると
「?」みたいな顔になっていました。


タイからの留学生は王族など高貴な血につながる者が多いそうですが、
この生まれゆえ自衛隊での一候補生としての扱いに(おそらくプライドが)
耐えられず、途中で帰ってしまう人もいるそうです。

雷蔵さん(仮名)の学年の留学生もそんな一人だったとのこと。

英国王室はノブリスオブリージュの精神から、皇室の男子は入隊することが決まっていて、
多少は危険な任務(ウィリアム王子のヘリパイとか)もさせてしまいます。
ただ、いかに一軍人扱いといっても英国軍は王子に掃除はさせないだろうしなあ・・。

今回のタイ留学生は、そういう扱いもおそらく試練として乗り切り、さらには
半年間の遠洋航海にも同行することを志願したということになります。

幹部も当直士官で、腕章をつけています。
まっすぐ伸びた肘と手首、やっぱり本職の敬礼は美しいものですね。

幹部の後ろ姿をスマホに動画で撮る人もあり。

焼き鳥を焼いている人たちも、自衛官であることを思い出させるこの瞬間。

焼き鳥は後で一皿いただいてみました。美味しかったです。

降下し終わった自衛艦旗は、曹士二人で両側から畳み、一連の儀式終了。
この後は一列になって艦の中央を引き上げていきました。


ところで乗艦後は、クロークとなっている艦内を右舷から左舷に抜けていきます。
そのクロークの出口で、見覚えのある方と再会しました。

昨年の秋、米軍横田基地の見学をし、ここでもお話しさせていただきましたが、
その見学をアレンジしてくださった上、米軍の装備についてそれはそれは詳しく
解説をしてくださった防衛事務官のWさんです。

当ブログ主的にはこの方のお話をかなり参考にさせていただいた上、
またそうそうできないディープな見学によって勉強もさせていただきました。

あれから今日までの間に、Wさんは防衛局の横須賀担当の一番偉い人、
みたいな立場で、ここ横須賀勤務になっておられたのです。

Wさんに紹介していただいた関東広域の防衛局長と、補佐官の一佐。
関東地方の防衛の一端を担う四人の図です。(一人おまけ)

「制服組と背広組がー、などと断絶があるようなことをよくマスコミが言いますが、
実際にはそんなことはなく、こうやって調整しながら仕事をしています」(防衛局長談)

2年前に制服組と背広組が対等の立場で防衛相の補佐を行う、
とした改正防衛省設置法が可決成立したわけですが、
これに対して民主党(当時)ら野党は、今のテロ等準備罪と同じく、

「シビリアンコントロールが弱体化して軍国化がフンダララ!」

などと反発し反対していましたね(遠い目)

この改正によって彼らがいうような軍国化が進んだんでしょうか。
(そもそも軍国化=悪というのが論理的に説明されていたためしもありませんが)
この改正の主眼というのは災害時の派遣に現場の意思決定で部隊を動かすことができる、
というものだったわけです。

テロ等準備罪も、これで物言えぬ社会になる!などといっておりますが、

「テロを計画しても計画段階では犯罪者ではない」

という屁理屈にはもう呆れかえってこちらこそ物が言えませんわ。


おっと、話がそれました。
雷蔵さん(仮名)やNさんに知人を紹介したりされたりしているうちに、
それこそあっという間にお開きの時間となり、皆は艦隊司令夫妻の前に
また列を作り、一人ずつ挨拶して退艦しました。

この日は在日米軍関係の招待者も多かったということで、海将補は席上、
一言喋るたびにそれを英語に訳す、一人通訳状態で挨拶をされました。
練習艦隊というのは昔から「軍服を着た外交官」とされていたというくらいで、
その司令官にはいつもよほどの方が選ばれるのだろうなと思っていましたが、
雷蔵さん(仮名)によると、眞鍋将補はその「よっぽど」の方だそうです。

震災の時に家にも帰らず事態に当たった自衛官は多かったそうですが、
眞鍋将補もその一人でしたし、わたしはというと、いただいた手紙の
水茎滴るような筆遣いから、そのひととなりの片鱗を察しておりました。


わたしの前で雷蔵さん(仮名)に司令は手を出して握手を求めます。

「おお、さすが同期の桜?には司令の対応が違う!」

と見ていると、二人の握手の間から練習艦隊のメダルがこぼれ落ちました。
他の人にわからないように握手にメダルを隠して渡す、という海軍の慣習を
雷蔵さん(仮名)の思わぬミスによって目の当たりにしたのでした。

「ダメじゃないですかー、落としちゃ」

「いやー、まさかあんなことするとは思ってなくて・・」

参考までにメダルを見せてもらいますと、練習艦隊の文字が刻まれたメダルは
桜の形に切り込まれたものでした。

舷門に向かう途中には「かしま」乗員のお見送りが立っています。
可愛らしい女性隊員の敬礼。

わたしがこの後舷門からラッタルに差し掛かると、途端に
サイドパイプがホーヒーホーと鳴り響きました。

わたしの前、そしてわたしの後ろにホーヒーホー吹鳴該当者がいたことに
階段を下りながら気づきました。

おかげで、生まれて初めてサイドパイプ付きの退艦を体験したばかりか、
ラッタル下には堵列ができていて、シャキーン!と敬礼する海士の間を
偉い人気分を満喫しながら退場することになったのです。

偉い人はその後、黒塗りの車で去っていきます。

設定を変えずに撮ろうとするのでうまくいかない〜と呟いたら、
Nさんがわたしのカメラの設定をちょいちょいと変えて撮ってくれました。

同じカメラなのに撮る人が変わればこの通りですわ。

 

続く。

 

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てつのくじらのプロペラ〜呉・海上自衛隊資料館

2017-05-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

「てつのくじら館」という名称は、海上自衛隊の資料博物館である呉資料館の愛称としては
親しみを感じさせインパクトがあって、何より潜水艦を表す言葉としては
ぴったりの名作であると、わたしはこの命名をした人を褒め称えたいと思います。

これ、誰なんでしょうね。
海上自衛隊の部内募集だったりしたらなんか嬉しいな。

ところで最初にここにきた時、わたしは単純に

「秘密の塊と言われている潜水艦の艦体を晒すなんて、いいんだろうか」

と何も知らないながらに不思議に思ったものですが、ご安心ください。
展示にあたっては防諜のためにいくつかの配慮がなされています。

 

今回わたしが潜水艦「せきりゅう」の引き渡し・就役の式典参加にあたり
新たに潜水艦について勉強したこともあったのですが、印象的であったのは

「潜水艦のスクリューからは性能についてのあらゆることがわかる」

ということでした。


プロペラはその形状から推進のための性能が類推でき、さらにその翼数から
水をかき混ぜている時に出す音がほぼわかるといわれています。

潜水艦そのものの性能とその被探知性を握る重要な箇所であるがゆえに、
開発に際しては、各国が技術的にしのぎを削りあっているのがプロペラなのです。

だからこそその形状は最高機密となるわけで、例えば造船所にあるときには
建造中も修理中も、プロペラの部分だけカバーで覆って隠すといわれます。

つまり「てつのくじら」として展示されている「あきしお」のプロペラは
実は実際のものではなく、展示用のダミーだということなのです。

全体写真を撮った時に惜しいところで端っこが欠けてしまいましたが、
プロペラ部分を改めてみてみますと・・・・

「ゆうしお」型には最初からかどうか知りませんが、ハイスキュード・プロペラという
三日月型のように曲がっているタイプのプロペラであったという話です。

これはプロペラがブーメランのように反り返っているのでキャビテーション(空洞現象、
気泡が生まれそれがつぶれる時に音が出る)の発生を抑える効果がありました。

このプロペラに関しては東芝ココム事件という東側への技術漏洩疑惑事件も生まれました。

「あきしお」は「ゆうしお」型潜水艦の7番艦。
「ゆうしお」型は10番艦まで2006年までに全部退役しています。 

艦長室の上には魚雷搭載口があると書いています。
写真を撮るのを忘れたのでどうなっているかわかりませんが、甲板側はこうなっています。

いやー、案外原始的というか、普通のやり方で搭載するんですね。
この後は魚雷を立てて、下に立った状態で降ろして行き・・・・

あれ?どうやって狭い艦内でこの長い魚雷を横に倒すの?

そしてこれが艦長室。

ええまあ、潜水艦の中だからこんなものだろうとは思いますが。
「そうりゅう型」の館長室は確かベッドが片付けられるようになっていました。
大きさも違うので(全長でそうりゅう型が8m長い)そのぶん余裕があるようです。

潜水艦の中で絶対の権限を持ち、唯一個室が与えられる艦長ですが、
だからと言って休憩時間に部屋でゆっくりすることはないようです。

航行中のほとんどの時間を指揮所で過ごし、いつ寝ているんだろうと
訝られるような艦長もいるとかなんとか。 

床にこのような切り込みがあったのですが、まさかここから魚雷を下に?
魚雷発射室はこの下になります。 

SNK排出弁・・・・何を排出するのだろう。

嵌脱軸・・・・はめたり抜いたりする軸。

潜水艦において排出するものというと、トイレのタンクの中身などもそうですが、
SNKが例えば「サニタリータンク」の略だとすれば((((;゚Д゚)))))))

そこで、これが正解かどうか確かめもしないでその話をしておきます。

 

潜水艦のトイレの中身は、海に捨てます。(きっぱり)

海上航走している時には行わず、必ず深度のあるところで
水圧以上の圧力をかけて排出します。
その際、中身を全部出してしまうと空気も一緒に出てしまうので、
海上に気泡を出してしまい、艦の所在を知られてしまうので、
中身は寸止めで少し残ることになります。

排出後はタンク内の圧力を下げるわけですが、その前に
悪臭が艦内に流れ込むのは避けられず、潜水艦乗りは
この悪臭に耐えるのが宿命となっているといわれています。

もっともこの情報が今現在のものかどうかまでは確かではありません。
最新型の潜水艦ではこれが改善されていることを祈るばかりです。

チャートテーブルには基礎知識が書かれた案内資料が少し置かれていました。
少し見てみましょう。 

「あきしお」の展示はこれでいうと士官室と発令所の部分だけということになります。
エンジンルームの手前から入り、士官室から発令所に抜けて前方から外に出る仕組み。 

アメリカの潜水艦なら階段をつけて食堂と発射管室も見せてしまうところですが・・・。 

取っ手のついた大きなバルブと各々圧力計らしきものがついた機器の数々。

発令所の部分の床はくり抜かれ、アクリルガラスで下が覗けるようになっています。
ここが魚雷発射室。 

上の階から覗き込んだ魚雷発射室の床。
信管を不活性化した魚雷がいくつか展示されているのが見えます。 

アクリルの床にカメラを押し付けて撮った写真。
こちらのラックは全て空っぽのようです。
 

「あきしお」はHU-603 533mm魚雷発射管 が6門備え付けられており、
89式長魚雷およびハープーン対艦ミサイルが発射可能となっています。

これは艦内に展示されていた装填中の魚雷。

同じく魚雷発射室。

今いるところは司令室です。
まるでゴーカートのような操舵席。
舵の右側には「横舵」「縦舵」の電源スイッチがあります。
これでスイッチをぽちっとして電源を入れていたなんて・・・。

もう一つ緑の操舵席があります。

艦内各所の情報はここに集まってきて統括されます。
潜行準備のとき、第一居住区、発令所、発射管室、食堂、機械室など
潜行準備オーケーのところにランプがついていくという仕組み。 

お節介ながら、これは台に上がらない方が良かったのでは・・・・。 

バラストコントロール、すなわち潜行の際必要な情報が集約されています。
メインタンクのベント弁は1から9番まであります。

あとは全部で4つあるハッチの状況もここでわかります。 

もしかしたらこれでベントを開けたり閉めたりするんでしょうか。

潜望鏡からは外を見ることができます。
この区画にはいつも説明の方が立っていて聞いたらなんでも答えてくれます。
昔海自で実際に潜水艦に乗っていたという人たちかもしれません。 

もちろん解説のためにいるのですが、旧型であっても一応武器装備なので、
警備をするという役割も負っておられるようです。 

レーダー室。
現在のものから見ると、色とりどりのアナログボタンがキッチュな感じでもあります。
「潜望鏡」なんていうスイッチもあったりするんですが・・・。 

それに比べるとこの天気図を受信する機械は比較的年代が新しいような。
少なくともパネルボタン式になっています。
運用の途中で新しい機器を導入するということもあったのでしょう。 

というわけで、さっきとは反対から外に出てきました。
展示館と潜水艦の間には非常階段が挟まるように設置されています。 

深海での救助の際これをきて外に出るミシュラン人形。
ポーズが「おー!」って気合を入れている感じですね。

わたしとしては「触手厳禁」という注意書きに大いにウケました。
意味はよくわかりますが。 

ここには結構充実の売店とレストランがあります。
平日などは空いているので、呉の海を見ながらのんびりカレーなど食べるのもよし。

ここで食べられる「あきしおカレー」は海自カレーラリー以前からのもので、
本当ならこういうところではどこかの潜水艦カレーがラリー用に出されそうですが、
「あきしお」に配慮したのか、ラリー参加カレーはメニューにありません。

載せるのを忘れたので最後になりますが、潜水艦での食事例写真を上げておきます。
カレーに半熟卵が乗っていて、ミルクが添えられ、サラダも。

昼食なんておかずが何品もあっていいですよね。


というわけで久しぶりのてつのくじら、前とは少しだけですが見える範囲が広がっていました。
何度行ってもこちらのレベルに応じて見えてくるものが違っていて、
それがまた装備や博物艦に足を向ける理由でもあります。 

 

 

 

 

 

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サブマリナーの食住〜呉海自資料館「あきしお」

2017-05-13 | 自衛隊

6年ぶりに見学する潜水艦「あきしお」です。
当時とはこちらのレベルもカメラ含めて上がっているので、
前回とは違った見方ができるのではないかと内心かなり期待しつつ行ってみました。

しかし、この展示は改めてすごいなあと思います。
今やこの潜水艦が呉のランドマークとなっていますからね。

「あきしお」のスペックが博物館入口のレンガに掲げられています。
これは艦内に入らずとも外から見ることができます。

写真上な進水式の様子、そして写真下はここに設置するために
クレーンで吊るされている「あきしお」の姿。

前の道路を車に乗せて横切るだけのために、歩道の段を取り払い、
工事は深夜から明け方にかけて行われた、と見たことがあります。

「あきしお」の艦体を見ると思うのですが、「ゆうしお」型は
初期の「おやしお」「あさしお」クラスの船っぽい形から
丸々とした可愛らしい形に進化していて、そのことからも
「てつのくじら」の愛称がぴったりくる感じです。

ちなみに2代目「おやしお」から現在の「そうりゅう」型は
葉巻型と呼ばれる全体的に直線の多いシェイプとなっています。 

「潜水艦乗組員は船酔いする」

という話を当の乗員から聞いたことがありますが、これは
水上航行の時には潜水艦は艦体が丸く、揺れを軽減するビルジキールがないので、
ローリングして酔う人続出、となるのだそうです。

しかしなぜかそんな中でも艦長だけは決して酔わないとか。
万が一船酔いしてしまったら、即全乗組員の信頼を失ってしまうことは確実ですが、
本人がそれくらいの緊張感を持っていたら酔いは抑えることができるんですね。
 

 

潜水艦についての展示の最後、無人ヘリ『DASH』がある場所には
案内の方(この人たちも元自衛官かしら)が立っていて、
「あきしお」に入る通路を案内しています。

ここはご覧のように建物の3階に当たる場所ですが、
この高さに入口が設けられているのです。

この時、わたしは前回には気にも留めなかったこと、

潜水艦の側面に通常入り口はない

つまり、われわれは展示のために艦腹をくりぬいて作った入り口から
艦内に入っていっているということに改めて気づいてしまったのでした。
いや、これまじで最初はなんとも思わなかったんですよ。
ここに普通こんな出入り口があると思う?と聞かれたとしたら
もしかしたら

「そういえばおかしいね。後から作ったのね」

と気づいたかもしれませんが。

自分で言うのもなんですが、こんなところにもわたしが
レベルアップ(海事的に)したということが表れています。

艦内に入ってすぐ、潜水艦がなぜ沈むかのパネルがありました。
海水を艦体に入れたり出したりしてその重力で潜水浮上すると言う仕組みは、
実は南北戦争時代の機械式潜水艇、「ブッシュネルの亀」を発明した
デビット・ブッシュネルの着想そのままなのです。

かつてはなかったところに入り口を作ったため、「あきしお」見学者は
艦内に入ったら否が応でも最初にトイレを見学することになります。

このことも昔は全く気づかなかったのですが、 今回は

「普通どんな博物艦も入っていきなりトイレはないよなあ」

と言う感想を持ちました。
その後アメリカでいろんな軍艦を見てきて経験値が上がったからでしょう。
そんな自分を少しだけ褒めてやりたい。

それはともかく、「あきしお」を展示艦にするに当たって、設計チームは
建物の高さと階段の場所、潜水艦の台の高さ、全てを計算しつくした結果、
入り口はここにするしかない、と言う結論に達したのだと思われます。

その意味では、この唐突な士官用トイレは「あきしお」展示に向けて努力した
設計者たちの工夫と(多分)血と涙と汗の象徴ということもできるのです。

・・・できますよね?

トイレの横には士官用シャワー室。
士官用と曹士用の設備のランクを変えるのは軍隊では当然のことですが、
士官でこれなら曹士のはどんなのだろうと心配になります。

脱衣所もないんですが、みんなどこで服を脱ぎどこに置いておくのでしょうか。
シャワーの頻度は「艦によって違う」ということで、中には
毎日使える艦も存在するそうです。
(これはきっと艦長が毎日浴びたいからそうしているのでしょう)

狭いのに皆そんなので臭くないのか?と心配になりますが、
嗅覚は麻痺しやすいので大丈夫、だそうです。
全然大丈夫じゃないですが、不快でなければいいのでしょう。

それに、わたくし昨年「そうりゅう」型潜水艦の内部にお邪魔しましたが、
艦内は全く変な匂いとかしなかったですよ。

母港停泊中で乗員もここで寝泊まりしているわけではないですが、
艦内のどこにいっても不快な空気は全くなかったです。

ちなみにトイレですが、今の潜水艦のそれはウォシュレット付きだそうです。
それどころか、日本にウォッシュレットが出回り始めたとき、
真っ先にこれを導入したのは潜水艦だったと言われています。
それまでの潜水艦乗員にとって、職業病の一つでもある痔疾が
この偉大な発明によって多少は減ったという説もあるくらいです。

ついでに、潜水艦のその他の職業病とは虫歯と水虫だとか。
特に虫歯は昼と夜の概念がなくなってしまう潜水艦勤務では
歯磨きをするタイミングを逸してしまうことから罹ってしまいます。

それから、密閉された空間の典型である潜水艦内では、
誰か一人がインフルエンザに罹るとたちまち蔓延します。

学級閉鎖ならぬ潜水艦閉鎖するわけにもいかないのですが、
こういうのどうやって対処しているんでしょうね。
 

ちなみにこの階層は潜水艦内部の最上階となります。

艦内放送用になぜかボーズのスピーカーが!
潜水艦の内部でボーズを使用するほど音質を追求する必要があったのか?

そもそも、現役の潜水艦はただでさえ不必要な音を立てるのは厳禁。
スピーカーで音楽を鳴らすなどということは決してしません。 

何をするためか分からなかったハンドル。
ハッチとか開いたりするのかな?

んなこたーない。
ハッチはハッチそのものにハンドルがついています。
「そうりゅう」型の出入りも、基本こんなハッチからでした。

このハッチを開けたら即水中、というものではなく、この外側に
外殻があり、外につながる別のハッチがもう一つあります。

ですから降りる時には自分の足をかける梯子段が見えません。
足探りで足をかける段を確かめてから一瞬体をくの字型にして
ここをくぐらねばならないので、小さな子供と老人は無理でしょう。

昔、ケネディ大統領がポラリスミサイル搭載の潜水艦に
視察のため乗り込むことになった時には、脊椎の悪い大統領のため
わざわざ潜水艦のハッチの大きさの一人用のエレベーターが特注されました。
 

究極の省エネスペースである潜水艦の中は、少しの無駄もなく収納場所があります。
数字が各引き出しに書かれているところを見ると書類ケースでしょうか。

 

そう思ったのはここが「庶務室」だから。
潜水艦内で行う「庶務」ってなんなのかしら。

先ほど展示室で見たのとほとんど同じ配置のベッド。
潜水艦は士官であってもほぼ曹士と同じ環境で艦内生活をせねばならず、
ある意味階級社会の軍隊で上下差が最も小さい「公平な職場」であるということは、
当ブログでも「どんがめ下克上」というエントリでお話ししたことがあります。

そうそう、この冷蔵庫も前回来た時に写真を撮りましたが、
狭くて暗い艦内でピントを合わせることができなかったのでした。
今回は潜水艦内部を撮るためにあるような広角レンズを投入しての撮影です。

ここは士官用の階なので冷蔵庫も士官専用。
黄色いシールは「艦長許可第83号」、赤には

「私物を入れる時には名前の記入を忘れずに!」

とあります。
名前がないと食べてもいいというルールのようです。

ここが士官用の食堂であり休憩室となります。
テーブルの上には先ほど館内に展示されていた

「スタンキーフード」

という名前の脱出服が展示されています。
その向こうには「 EAB」 、応急呼吸装置も。

士官室というのは、アメリカの潜水艦(ノーチラス)でも説明されていましたが、
非常事態にはこのテーブルを手術代として緊急手術が行われることを想定しています。

なお、このソファの背もたれはグイッと持ち上げてそれ自体がベッドになり、
座部のベッドと二段ベッドとして使用することができます。

護衛艦「あきづき」もそうですが、潜水艦にも通常は医官は乗りません。
そういうことがあるのかどうかはわかりませんが、長期の航海の時には
医療海曹ではなく医師免許のある医官が乗り込むことになっています。

 

どこの海軍でも潜水艦の食事が一番美味しい、とよく言います。
それだけ潜水艦乗りは過酷な環境にあるので、少しでもストレスをためずに
勤務していただきましょう、という海軍の心遣いからのことです。

比較的ご飯の美味しいと言われる海上自衛隊の中でも、差別化はあって、
なんと潜水艦の食費は他の艦艇に比べ、多くの予算が計上されるのだそうです。
ビーフステーキなども月に何度となく食卓に上り、カレーと一口に言っても
潜水艦では、わたしたちがこの間「あきづき」でいただいたような、
サラダデザートはもちろん、それに卵料理、魚などの副菜が全員に付きます。

牛すじカレーにエビフライが付いたあの時の料理にはびっくりさせられましたが、
あれが潜水艦の普通の基準だということなんですね。

しかも、地方隊全体に入荷される生鮮食料のうち、少しでも新鮮なものが
潜水艦に優先され、品質も高いものが供されるのだとか。
これは、ビタミン不足になりやすい職場であることが考慮されているというわけです。

士官寝室もこの階にあります。
確かに狭いですが、やはりこれでも曹士のよりは少しは大きいようです。
映画「U-ボート」で、ベッドは何人か共通して使用するため、
「みんなでベッドを温め合う」と水兵が自嘲していましたが、
これを「ホットバンク」とアメリカでは称しています。


三交代制で勤務を行う海自の潜水艦では今ではホットバンクはありません。

 

ところで、世界のマンモス潜水艦で、映画「レッドオクトーバーを追え」
にも登場したロシアの原潜「タイフーン」級にはなんと艦内に
プールやサウナがあるという噂があります。

写真とかがないので話だけなのですが、どうやらソ連は潜水艦院の
メンタルヘルスを大変重視した結果、

アスレチックジム、サロン、サンルーム、ミニ植物園

等を積極的に設置していたようです。
それどころかペットルームまであり、小鳥などの飼育も行われていたとか、
士官室には部屋それぞれにシャワー室があったという話もあります。

潜水艦のどこで太陽に当たる部屋があったのかが謎ですが、とにかく
広いスペースがあるのでこんなこともできたということです。 

日本の潜水艦ではとてもここまではできませんが、メンタルヘルスのために
海自がもしこだわっていることがあるとすれば、 それはやっぱり
炊きたてのご飯を乗員に食べさせるために、どんな狭いキッチンにも
大きな炊飯器を備えていることでしょうか。

 

 続く。 

 

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KNOW YOUR BOAT!(己の艦を知れ)〜海上自衛隊呉資料館

2017-05-12 | 自衛隊


KNOW YOUR BOAT(己の艦を知れ)


前回、戦後初の海上自衛隊の潜水艦「くろしお」に乗り組んだら森永一佐ら
戦後最初のサブマリナーたちが、アメリカのコネチカット、グロトンにある

潜水艦学校で学んだことをお話ししましたが、このモットーももしかしたら
自衛隊初のサブマリナーたちが留学時に得た精神であったかもしれません。

 

というわけで、己の艦を知るための詳細模型もあります。
操舵席。 

「己の艦を知れ」と改めて自分に言い聞かせるのは、潜水艦というものが
艦のあらゆる構造、機能を完璧に理解していないといけないからです。

もちろん水上艦もそれに越したことはありませんが、海中で三次元の動きをするなど、
水上艦にはできない動きをする潜水艦は、各機能や構造が密接に関係しあって
初めてそれらが可能になることの連続なのです。

それだけに艦全体の構造と機能を理解した乗員が人艦一体となって
初めて高い能力を発揮することができる兵器ということができます。

発令所の下の発射管室。
その下には電池室があります。 

これが実際の発射管室。
発射管からは魚雷だけでなく、機雷、ミサイルを発射することができます。
魚雷を発射するためには水圧や空気圧で押し出すのが一般的ですが、
中には自力で出て行く健気な魚雷もあります。 

魚雷搭載口から魚雷を搭載しているところ。
搭載する時には甲板に組み立てられた搭載用の架台と
艦内の油圧駆動の搭載装置を斜めにつなぎ、その上を
滑らせながら艦内に入れます。 

乗員の潜水艦内でのベッドはこのようなものですよというコーナー。
前回来た時にはまともに写真が取れなかったのですが、
今回のわたしには広角レンズという強い味方があるのだった。

ロッカーまで実際と同じように再現されています。 

実際に寝てみる人のために注意事項が書かれていますが、
なんども頭や体をぶつけている隊員さんが(´;ω;`)

潜り込んでから体を回転させるのがポイント。

それはそうと、「ベット」って何ですかベットって。
そういえば教育隊のポスターにも「ベット」ってあったけど、
もしかして自衛隊の特別な用語だったりする? 

 

自衛隊潜水艦乗りの故郷「潜訓」、潜水学校の紹介です。

「海面を二次航行するだけの水上艦と比べ、
三次元の海中を航行する
潜水艦の操作が難しいのは当然である」

といきなり水上艦の人が聞いたらムッとしそうな口調で説明が始まります。
それはともかく、潜訓というのは、資格を取ったらもう御用済み、
という自動車教習所のようなものではなく、何度もなんどもその門をくぐり、
その都度
日進月歩の新しい技術や運用思想を学ぶサブマリナーの原点なのです。

潜訓は現在ここ呉にあります。
呉は自衛隊サブマリナーのふるさとというわけです。
そういえば「呉氏〜GONNA 呉氏〜」という呉市のテーマソングにもありましたよね。

♪潜水艦は今日も潜るよ〜♪

パネルの前で記念写真を撮っているのかと思ったら違いました。
水上水上航行訓練用のナビゲータートレーナーによる訓練中。 

わーなんか楽しそう。
しかし、これは楽しいなんて言っていられない真剣な訓練です。
潜水艦に水が入って来た時の防水訓練。

冬は辛いと思われ。 

潜訓の施設がグロトンの潜水艦学校をモデルにして作られたのは
何の根拠もありませんがほぼ間違いないことだと思われます。

例えば海底に鎮座した潜水艦から脱出することになったら?

そんな時のために、彼らはプールで脱出訓練を行っています。 

潜水艦から脱出するための用具各種。

写真左のオレンジのフードは水深が浅いところで
使用するための「スタンキーフード」という脱出服。 

しかし実際、海底の脱出において最も恐ろしいのは水圧が引き起こす
潜水病(減圧症)です。

急に浮上すると血管中気泡ができてそれが血管を閉塞させ、
最悪命の危険もあります。

昔の潜水夫は、深海から少しずつ、ポイントごとに30分はじっとして過ごし、
時間をかけて海面に浮上してきたものでした。


おそらくこちらのスーツは比較的水深の深いところ用で、
耐圧スーツにもなっているのだと思われます。 

潜望鏡も実際のものが展示してありました。
潜望鏡は本物ですが、見えるのはカメラ映像のようです。

グロトンの博物館では本当に外を見ることができましたが、
ガラスが劣化してほとんど画像が判明しませんでした。 

これはグロトンでも見た、世界の海軍潜水艦隊のバッジシリーズ。
傾向としては実際に潜水艦をあしらったタイプと、潜水艦を意味する
ドルフィンをあしらったものに分かれます。

自衛隊の「魚が向かい合って桜が中央に」というような
凝ったデザインはどちらかというと少数派となります。

こういうシンプルなデザインの軍もありますが、一般的に
海軍の歴史が浅いところにこういうものが多い気がします。

グロトンで見たリビア海軍の潜水艦隊のマークもこれと全く同じものでした。

さて、ここからは潜水艦模型コーナー。
「おやしお」SS-511
「くろしお」に次ぐ二番目の自衛隊が保有した潜水艦であり、 
同時にこれが戦後初の国産潜水艦となります。

終戦後、GHQに軍艦を作ることを封じられていた時代がようやく終わり、
かつての潜水艦製造関係者はまさしくヒャッハー状態で(たぶん)
呂号潜水艦31、並びに伊号201をたたき台にして
国産第一号となる潜水艦「おやしお」を造ったと言われます。

「おやしお」は川崎重工神戸工場で1957年12月25日に起工し、
1959年5月25日進水、1960年6月30日に竣工した後、呉地方隊に編入されました。

模型ではわかりませんが、上甲板はチークで色は灰色というかつての伝統が残されました。

こちら、「あさしお」。
こうして見ると全くマッコウクジラみたいですね。
「あさしお」型潜水艦の第一号艦で、1968年就役しました。

国産第一号「おやしお」に続き、自衛隊には「はやしお」「なつしお」
という小型の艦が建造され配備されましたが、小型ゆえ
荒天でのシュノーケル航送等に問題があって日本近海では使いにくく、
大型の潜水艦が求められました。

そこで建造されたのが1600トンの「おおしお」で、
これとほぼ同型艦として建造されたのが「あさしお」型でした。 

「あさしお」「はるしお」「みちしお」「あらしお」

の4隻の同型艦は、いずれも「日本のグロトン」(潜水艦建造部門)
(わたしが勝手にそういってるだけだけど)神戸川崎、神戸三菱で生まれています。 


こちらはPTC(Personnel Transfer Capsule)、人員輸送カプセル
潜水艦救難艇を見学した方は見たことがあるでしょう。

PTCの使い方例。
潜水艦の近くに沈めて黄色いカプセル部分に収納し、
カプセルごと引き揚げるのだと思われます。

潜水艦の事故の時に人員を救出するための深海救難艇、 DSRV。

Deep Submergence Rescue Vehicle

の略語で、ハッチを開けて脱出できるような浅いところでなく、
水圧の高い深海でことが起こった時に出動する救難艇です。 

DSRVは船体下部の開口部(センター・ウェル)から直接海中に投入されます。
海中で遭難艦を捜索し、発見すると艇体下部のスカートと遭難艦の専用ハッチを接合し、
スカート内部を減圧・排水した後に深海救難艇と遭難艦のハッチを開いて通路を形成し、
遭難艦の人員を深海救難艇に移乗させます。

一度に全員を収容できない場合は、深海救難艇が支援艦と遭難艦の間を往復します。


「ギアリング」級の「ジョセフ・P・ケネディ」など、FRAM改装された
駆逐艦に搭載されていた無人対潜ヘリDASH

ここでも随分話題が盛り上がったものです。

潜水艦作戦の変遷として

第1期 水上部隊のソーナーをかいくぐり魚雷発射点につけることを競った

第2期 キューバ危機の影響で潜水艦対潜水艦の思想が生まれ、静謐性を向上させた

第3期 目標が多様化したので、とりあえず一生懸命あちこちを哨戒している

というようなことが(ちょっといいかげん?)書かれています。


 

さて、それでは「あきしお」の内部の見学に移りたいと思います。

続く。

 

 

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自衛隊潜水艦の魚雷発射が「ファイアー!」である理由〜海上自衛隊呉資料館見学

2017-05-10 | 自衛隊

前回海上自衛隊呉資料館、愛称「てつのくじら」見学をしたのは
2011年ですから、もう7年前のことになります。

ブログを始めてまだ1年くらいの頃で、右も左もわからなかったのですが、
その後いろんな体験を積み重ねて少しは知識もついた今回、
改めて訪れてみたところ、前と随分見えてくるものが違いました。

カメラ一つ取っても当時のものとはレベルがかなり違っているので、
潜水艦「せきりゅう」の引き渡し&就役を見届けた今、
改めてこの潜水艦展示の部分にこだわってご紹介したいと思います。

最初に江田島見学のため呉にやって来たのは火曜日のことでした。
というわけで、当資料館も呉海事博物館こと大和ミュージアムも休館していて
涙を飲んだことを思い出します。

 

海上自衛隊呉資料館は、大きく三つの展示に分けることができます。

「掃海隊」「潜水艦」そして実際の潜水艦「あきしお」

つまりテーマとしては掃海と潜水艦の二つということになるのですが、
前回は最初の掃海の部分で時間を使ってしまい、潜水艦の展示はそこそこに
「あきしお」の見学に突入してしまったのでした。

中央に大きな「くろしお」の模型があります。
アメリカから譲渡されたガトー級潜水艦とはいえ、海自のサブマリナーの
出発点だったのですから、特別な意味を持つのでしょう。 

 

中央には大きな潜水艦「くろしお」の模型があります。

自衛隊の潜水艦運用の歴史が、海軍時代からは一旦途切れ、この「くろしお」から
始まったらしいことがわかったのも今回の見学の大きな収穫だったと思います。 


その理由は後述します。



「くろしお」は戦後の海上自衛隊がアメリカから初めて貸与された潜水艦で、
元々は「ミンゴ」SS-261 というガトー級の米潜でした。 

呉に停泊する「くろしお」の横にいる艦番号401番は初代「ちはや」です。


潜水艦第一号を手に入れると同時に、海自は潜水艦救難艦の建造を始めました。
「ちはや」が就役した時にはまだ国産艦第一号の「おやしお」は建造中で、海自は

潜水艦1、潜水艦救難艦1

のマンツーマン?体制だった頃があったのです。
これは「ちはや」就役後の1961年頃に撮られたものでしょう。

1955年、「ミンゴ」改め「くろしお」がアメリカから引き渡されました。


「ミンゴ」は1942年に就役し、戦時中はセレベスや南シナ海で日本の艦船を
少なくとも数隻魚雷で沈没させている潜水艦でした。

しかし1954年に海上自衛隊は警備隊として発足してから以降、
シーレーンの哨戒の必要性に備えるために、何度も米潜水艦を借りていたので、
実のところこれが「初めての”かつての敵艦”」というわけではありません。

借りてばかりでは訓練がうまくいかないので、一つ譲ってはくれまいか、
と頼んだのは自衛隊側で、その際スノーケル装備艦を希望したのだそうですが、
アメリカは、古い潜水艦を押し付けたかったので(多分)

「訓練用なら別にスノーケルなんていらなくね?」

と言い放ち、結局「ミンゴ」が貸与されることになったということです。

 

写真に写っているのは、初代乗組員たち。
「くろしお」に乗組む前に、森永正彦一佐以下幹部10名、海曹士72名は、
アメリカのコネチカット州ニューロンドンのグロトンにある潜水艦学校に
(わたしが昨年夏見学して来たところです)留学し、操艦や非常時の脱出法などを
学んで潜水艦勤務適格資格を取りました。

その後一行はカリフォルニアのサンディエゴで「くろしお」を受け取り、
さらにそこで1ヶ月半の操艦訓練を受けてから横須賀に回航して来たそうです。

この写真はサンディエゴでの貸与式典で自衛艦旗が「くろしお」に揚がった瞬間。

ちなみに「くろしお」初代艦長森永正彦氏は、海軍兵学校59期卒。
同期に相生高秀新郷英城吉田俊雄中村虎彦友永丈市大佐がいます。

森永一佐はその後海将まで昇任し、大湊、呉地方総監、幹部学校校長を歴任しました。

ところで「くろしお」のもう一つの余談ですが、ここでもご紹介した映画

『潜水艦イ-57降伏せず』

覚えていらっしゃいます?
池部良が最高に渋い潜水艦長を演じたあの映画ですが、あれ、実は
「くろしお」の中で撮られたらしいんですよ。
それから
 『太平洋の翼』

にも使われた(多分佐藤充演じる矢野大尉が脱出するシーン)そうです。

つまりどちらも海軍を描きながらガトー級を使って撮影されたということになります。

さて、日本側が欲しいというもアメリカからはもらえなかったスノーケルとは。

「ミンゴ」は対戦中に建造された潜水艦なので、バッテリーの充電には
浮上しないといけませんでした。
潜水艦にとって浮上は最も身を危険にさらすことになります。

というわけで、それをできるだけ少なくするための仕組みが考えられました。
スノーケル装置を最初に考えたのは案の定ドイツ海軍です。
空気を必要とするのはすなわち最低限充電のためだけなので、
海中に沈んだままスノーケルだけを海面にちょこっと出して、
こっそり吸気と排気を行い、充電が済んだらスノーケルを引っ込めて
また沈んでしまえばいいという大変画期的なものでした。

しかし、スノーケルそのものがレーダーで発見されること、
海面に出たスノーケルが航跡を描くことから、航空機に発見されることもあり、
これを採用したからといってドイツの戦艦に被害がなくなるわけではなかったようです。

アメリカが日本にこれを貸与した1955年というと、原子力潜水艦「ノーチラス」が
就役してもう1年経った頃で、アメリカとしてはそちらに舵を切っていたため、
スノーケル式の潜水艦など開発もしていなかったのでしょう。

つまり以上のことを考えると日本側の要請とは、

「(今後原潜に替えていくのだろうから)いらなくなったスノーケル式のものを貸してくれ」

という意味だったのかもしれませんが、米海軍もそこまで気前良くはなかったのです。
日本軍とガチで戦った軍人がまだ米海軍内にもゴロゴロしてたでしょうしね。


ところで皆さん、魚雷を撃つ時、水上艦が「テーっ!」なのに対し、
潜水艦は「ファイアー!」なのはご存知でしょうか。

わたしはこのことを実は当ブログコメント欄で初めて知ったのですが、
それを教えてくれた方によると、海軍時代からの伝統、
「撃てい」(射ていかな)から、今でも「テー」を使っている水上艦の人たちは
「その掛け声ででないと力が入らない」という感覚になっているため、
潜水艦だけが「ファイアー!」で発射するのを

「あれは違うだろ」

と内心思っているらしいのです。


「ミンゴ」改め「くろしお」の乗組が決まった82名のサブマリナーは
グロトンの潜水艦学校に半年留学し、さらにはサンディエゴで
「くろしお」を引き渡されてからも、アメリカ海軍で操艦訓練を受けています。


この話をこの博物館の展示によって知ったとき、海自の潜水艦の掛け声が

「ファイアー!」

であるわけが氷解しました。
 

つまり、海自が戦後に持った初めての潜水艦、「くろしお」の森永一佐以下乗員たちは
グロトンでサブマリナー教育を受けた際、用語を全て英語で叩き込まれたわけです。

もちろんその後、日本語に変えるべきところは変わっていったのでしょうが、
「ファイアー!」だけは連綿と伝承され、こんにちに至っているというわけです。


潜水艦博物館を見学するためにグロトンに車で向かっていたとき、
わたしは高速道路の脇に

「グロトンー潜水艦のふるさと(ホームタウン)」

と大きな看板が出ているのを目撃しました。

ここにある潜水艦専門建造会社のゼネラル・ダイナミクス・エレクトリックボート社からは
この「ミンゴ」始め数々の潜水艦が世に送り出されていますし、
アメリカ海軍のサブマリナーは必ずここで初級教育を始め、
自衛隊の「潜訓」のように、何度も訓練のために帰っていく場所、つまり
サブマリナーの故郷でもあるわけです。

それでいうと、海上自衛隊の潜水艦隊のルーツは、実は
「アメリカのグロトンにある」という言い方もできるのかもしれません。


異論は認めます(笑)



 

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孤独のグルメ(帝国海軍艦長の場合)〜呉鎮守府庁舎の食卓

2017-05-09 | 海軍

入船山博物館、呉鎮守府長官庁舎を見学して出て来たわけですが、
今一度、官舎の洋風建築にあった食卓テーブルに注目してみます。

テーブルや椅子などの家具類は、なんども言いますが進駐していたオーストラリア陸軍が、
引き揚げるときに一切持っていってしまったので、これらの調度類は
小泉和子生活研究所が残された資料などをもとに復元を行いました。

そしてこの日の献立は、海軍料理研究家の高森直史氏が監修し再現されました。

時は昭和5(1930)年9月1日。
軍艦「出雲」の艦上における午餐会のメニューです。

装甲巡洋艦「出雲」はご存知「いずも」がその名を受け継いでいますが、
日露戦争ではウラジオ艦隊を濃霧の中みすみす逃したとして、

『濃霧濃霧とは無能なり』

などと世間から嘲られたあの上村将軍が座乗して蔚山沖海戦に勝利し、
そのときに沈没した敵艦「リューリック」を救助したことでも有名になりました。

この午餐会は日露戦争に勝利した余韻も冷めやらぬころ、
「出雲」艦上で行われたもので、この時の「出雲」艦長は、
蔚山沖で敵を一隻逃したと聞いて伝言板を叩き割る上村将軍を
顔色を変えて見ていた(多分)伊地知季珍(いじち・すえたか)でした。

艦長の伊地知大佐はもちろん、もしかしたらこの午餐会には
上村彦之丞提督ももしかしたら参加していたかもしれません。

うちにある元海軍主計中佐、瀬間喬氏の編纂した

「日本海軍食生活史話」

には、全く同じ日の献立について記載されていました。
高森氏はおそらくこの書を参考にされたのでしょう。

前菜:ソモン(サーモン)とコンソメスープのテリーヌ

スープ::アスペラガース・スープ

魚:蒸したマス

肉:シチュード・チッキン(チキン) 付け合わせ 香草

肉:ローストビーフ クレソン、ホースラディッシュ添え

冷菓子:レモンアイスクリーム

雑果菓:タピオカプリン 黒豆添え

 

こちらフランス語のメニュー。
並べてありますが内容は全く別です。

コンソメスープ

マヨネーズで和えたロブスター

牛肉のエピグラム

アップルパイ デザート コーヒー

エピグラムって・・・風刺詩とかのことなんですがどんな料理?

海軍兵学校に合格した青年たち、特に地方出身の者は周りに

「白いテーブルクロースでお給仕されてフランス料理を食べるんか」

と羨ましがられたのだそうですが、その昔、海軍士官というものは

「軍服を着た外交官」

と言われ、世界各国との交際が必要とされていたため、日頃から
こういう正餐などの席に慣れてマナーを会得している必要がありました。

ほとんどの者が洋食などに無縁だった当時の日本で、海軍士官は
それだけで特権階級でありエリートでもあったのです。

練習艦隊各艦に配乗になると、最初の外国港湾に到着するまでに
候補生達は五、六名ずつ順番に艦長室に呼ばれ、フルコースの料理を
艦長と共にして、テーブルマナーの教育を受けることになっていました。

まだ最初の頃にその順番に当たった候補生は、船酔いで苦しみ、
せっかくの料理をほとんど食べられずに終わることもあったとか。

というか、艦長はこのテーブルマナートレーニングのために、航海中
しょっちゅう(200名のクラスなら40回は)候補生と一緒に
オードブルから始まるフルコースを食べなければならなかったことになります。

 

さて、当時の食事マナーについて書かれた教科書によると、

「客は着席したらまづナプキンをとつて膝の上におき
徐かにデザートナイフを執つてパン皿の縁に取り分け、パンを割るか
或いは小さく恰度軽く口に喰られる位の一片にむしり、
それにバターを塗って食べ、静かに料理の給仕されるのを待つてゐる」

「静かに待ってゐる」

というのがなんかじわじわきます。

なお、下士官もそれらの知識には士官以上に通じていなければなりません。
なぜなら彼らは練習艦隊で艦隊司令部等において外国高官、軍人を
艦内で饗応する場合、従兵を指導してサービスしなければならなかったからで、
そのために彼らもまた食卓の作法を教わり、実習を行なっていました。

これらの教則本から、「やってはいけないこと」を書き出してみます。

● 婦人は自分の席が決まったら遠慮なく着席せねばならぬ
 でないと男子方が迷惑する

レディスファーストも当時の日本にはない概念でした。
女性を先に行かせる、先に座らせる、上着を着せる、こういうマナーは
現代の日本を見る限り、全く伝わらなかったといっていいでしょう。

連れの女性に気を遣うことはあっても、エレベーターで乗り合わせた女性を
先に行かせるような男性は滅多にいません。

ちなみに若き日の山本五十六を見た幼き日の犬養道子氏は

「レディスファーストの身についたスマートな軍人」

と彼を評しています。
特に駐在武官で海外生活をした軍人は皆そうでした。

● 酒を注ごうとした時に客が欲しないと表示した場合は必ず強いてはならぬ。 
 酒に限らずすべて物を強いてはならぬ

昔に限ったことではありませんね。
でも、宴会などでお酒を持ってこられると、飲めないにも関わらず
それを断ることがわたしにはどうしてもできません。

● 塩入れ胡椒入れは少なくとも必ず客二人に対し1組の割合で、 
 食卓につけられているはずであるから、無暗に給仕人を呼び立てたり、
 隣席の客に依頼して取らないようにしなければならぬ
 何を執るにも他人の皿の上を越して手を伸ばしてはならぬ

また、給仕をする側については

● 給仕人は身体及び着衣を清潔にし、動作は懇切機敏を旨とし
会食者をして不快の念を抱かしめるようなことがあってはならぬ。
しかして給仕人は通例冬季においても夏衣をを着用するのである。

給仕人が冬服を着ない理由がこれだったとは・・。

 

さて、映画「日本海大海戦 海行かば」でも描かれていたように、
連合艦隊司令部の艦上における正餐などは司令官附として乗り込んでいる軍楽隊が
食堂(長官公室、司令官公室)の上部あたりの後甲板で演奏を行います。

その際、長官(司令官)が最初のオードブル用のフォーク、ナイフとか
スプーンとかに手をつけた瞬間、将官室従兵が室内からちょっと出て、
後甲板の将官ハッチの入り口から下を見ている軍楽隊員に合図をすると、
間髪を入れず指揮者がタクトを振り音楽が始まる仕掛けになっていました。

映画では下を見ている軍楽隊員が宅麻伸、軍楽隊長が伊東四朗でしたね。

 

また、明治の頃の鎮守府司令官、艦隊司令官の食事中には、中が赤、
外縁が白の「食事旗」という三角旗が前檣の頂上に揚げられていたとか。
なんのために食事中を旗で知らせる必要があったのかという気もしますが、
皆もそう思ったらしく、この慣習はいつのまにか廃止されました。

艦隊の司令長官や司令官(将官)幕僚達と一緒に、公室で食事をします。
鎮守府長官も基本はそうでしょう。

副長以下大尉は士官室。
中尉少尉は士官次室(ガンルーム)。
そして准士官は准士官室で食事をします。

ところが、軍艦、そして特務艦の艦長は、なぜか艦長公室でたった一人、
従兵に一挙一動を見守られながら食事をすることになっていました。

これは辛い。

これはイギリス海軍が発祥で、アメリカ海軍もそうだったということですが、

「軍艦指揮官たるもの孤独に慣れろ」

という戒め?のために定められた慣習であったと言われています。

つまらないからといって従兵と気安く話をするなんてとんでもない。
井之頭五郎じゃあるまいし、ただ黙って孤独にご飯を食べるなんて、
いくらグルメなものをいただいても・・・・いや、たとえ五郎さんだって
箸の上げ下ろしまでガン見されながらじゃ食事を楽しむどころじゃないと思うの。

その点練習艦隊の艦長なら毎日毎日候補生と食事ということになりますが、
毎回のフルコースは、それはそれで壮年の男性には
なかなか辛いものがあるのではないかとお察しします。


アメリカ海軍は現在簡略化でガンルームとワードルームの区別がなくなり、
艦長室、士官室、准士官室という分け方をしています。
イギリス海軍もガンルームがなくなっただけでなく、准士官という階級
そのものが廃止されたので、こちらは艦長室と士官室だけになりました。

しかし、米英海軍ともに、艦長が一人艦長室で食事をするしきたりは
未だに残っています。(昭和60年現在の時点。今はわかりません)

いかに艦長職が他からその権限を侵されることのない孤高の任務である、
と見なされているかということの証明でもあるのですが、
戦後リベラルで、あまりに民主的になりすぎた我らが自衛隊についていうと、
たとえ将来、憲法の改正によって自衛隊が「海軍」となる日が来たとしても、
艦長が一人で食事をすることには決してならないとわたしは思います。

さて、見学が終わり、ちょうどお昼ご飯の時間です。
せっかくなので「呉地方総監の”愚直たれ”」メニューをぜひまた体験するべく、
わたしたちはここからテクテクと歩いて
「利根」に向かいました。

鉄火お嬢さんが誰か呉の人にランチも営業している、と聞いてきたということで、
なんの疑いもなく行ってみたら、閉まっていました orz←鉄火orz←わたし

「利根がダメとなると・・・・」

「ここからなら森沢ホテルが近いですよ」

レストランに行ってみると、メニューに「愚直タレ」など影も形もありません。
お店の人に聞いてみると、「そのメニューはまだ始まっていない」との返事。

観桜会で発表された情報によると、タコの天ぷらに愚直タレをかける、
というものだったのですが、やっぱり昼からタコ天は出さないか。

「夜のメニューだったらあるのかしら」

「そもそもお店の人が知らないみたいですね」


「クレイトンベイホテルの愚直タレうどんなら確実に食べられますよ」

「うーん・・・ここから遠いですし」

「他にどこが提供店だったかって呉監のHPに載ってるのかしら」

「ご自分のブログをみたら早いんじゃないですか」

「そうなんですけどここWi-Fi入んなくて」


なんとか「愚直タレ丼」をやっているロック風街という店に電話してみたら

「愚直タレトンテキ丼は3時からです」

とのこと。

丼物を3時から出すってどういうお店よ。

もうすっかりやる気がなくなったわたしたち、
最後の望みをかけて呉阪急ホテルに移動したのですが、
そもそも呉阪急は愚直タレ指定店じゃなかったのよね。

結局わたしは二度目となる「うみぎりカレー」を食べましたとさ。
やっぱり愚直タレはちゃんと「認定証」を呉地方総監自ら授与し、
それをお店に飾っているところでないと食べられない、ということがわかりました。

 

というところで、長々と語って来た「いせ」佐世保移籍に伴う出航行事と
その前夜の懇親会、呉軍港の艦船ツァーと入船山見学という盛りだくさん企画、
最後の「愚直タレ」以外は全てうまくいき、充実した呉でのひと時を過ごしました。

さて、次に呉に来るときには、どんな体験が待っているのでしょうか。(予告煽り)

 

呉「いせ」移籍に伴う壮行行事シリーズ:終わり

 

 

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呉地方長官庁舎〜金唐紙と障子紙

2017-05-08 | 軍艦

 

呉の入船山記念館についてお話ししています。

検索していたら、昭和45年に放映された呉の映像が見つかりました。

【カラー映像】昭和45年の呉 KURE 1970

刑事ものですね。
ちなみに登場していた「音戸ロッジ」は取り壊され、7年前になりますが、
「汐音(しおん)」という温浴レストランがオープンしたそうです。
千福の煙突は今でもあります。

映像には呉地方総監部からなぜか敬礼しながら団体で出てくる自衛官、
地方総監部内では観閲行進、「海行かば」の演奏とともに映し出される
「日向」「信濃」の慰霊碑、当時はまだ綺麗だった「大和」の碑など、
(どうもこのおじさんは大和に乗っていたという設定らしい)
現在のテレビドラマではありえないシーンが満載。

おじさんが「戦後呉は変わった」と呟くのですが、今の日本は
このころから見ても大きく変わっていることに気がつかされる映像です。

さて、地方長官庁舎の内部見学の続きです。
昔洋風部分が公務に使われていたころ、こちらは土足可だったと思われますが、
問題は生活の場だった
和室から応接部分に行く時、どこで靴を履いたのかということです。

もしかしたら一旦外に出て入り口から入ったのでしょうか。

ちなみに、ここが占領軍(オーストラリア陸軍)に接収された時、
彼らは和室部分も土足で歩き回っておりました。

廊下の壁は金唐紙(きんからかみ)が貼られています。
金唐紙は版木である大きな棒に彫刻を施し、それを紙にエンボスするもので、
素材は和紙に金箔などを貼り付けたものです。

博覧会に出品され、世界から賞賛されたという美しい工芸品でしたが、
あまりにも手間がかかるせいか、昭和の中期には技術が途絶えていました。 

しかし、この技術を復活させ後世に残そうという人たちの力で、
ここ入船山の長官庁舎内をはじめ、国内に金唐紙の制作が復活し、製作者は
文部科学省から選定保存技術(文化財の修理復元等のために必要な伝統的技術)
の保持者に認定されました。

ちなみに「金唐紙」は復刻した技術者の命名による造語です。

「蝶に導かれて」見つかった版木で作った金唐紙。左上に蝶のモチーフが見えます。

前回の見学の時にも怒りまくった覚えがあるのですが(笑)
進駐軍は引き上げに際して、占領の記念も兼ねてか、ここにあった
ロンドン製の高価な家具を一切合切略奪して帰ってしまいました。

これはなぜか一つだけ残った籐椅子。

良心が咎めたのか、それとも単に積み込めなかっただけなのか。

真鍮のような素材で作られた「大和」の立派な模型がありました。
大変な労作です。

玄関ロビーを入ってすぐ右にあるのがこの応接所。
とりあえず来客に最初にお待ちいだだく部屋です。

この隣には公開されていませんが、書生部屋がありました。

「ウィリアム・モリスの様式に大変似ている」と説明には書いています。

モリスはビクトリア王朝でそのデザインされた製品が大量生産されるようになり、
それまで職人だった労働者が「プロレタリアート」となってしまったことを憂い、
初老に差し掛かってマルクス主義者になってしまった「ザ・自家撞着」の人です。


進駐軍接収時、この部屋の金唐紙は真っ白に塗りつぶされました。
占領したのが物の価値もわからないオーストラリアの田舎陸軍ではなく、
イギリス海軍であったなら、まだモリス風を尊重してもらえたのでしょうか。

鏡に映る画像がかなり歪んでいるので年代物だと思いますが、
復刻版の鏡が歪んでいる可能性もあります。

GODINというのはフランスのジャン・バティスト・ゴダンが作った会社の製品です。
このゴダンという人、日本ではあまり有名ではないようですが、実は
鋳鉄を使ったストーブの発明者だったりするんですね。こりゃすごい。

この人も実業家でありながら社会主義者として、ファミリステールという名の
労働者のためのコミニュティタウンの建設に情熱を傾けた人です。

今の基準でいうと「自家撞着」ですが、このころは実業家が社会主義者、
というのは自然発生的に共存しうる概念だったのかもしれません。

実業家であるからこそ、労働者のための理想郷を追求したところ、
それは新しく生まれた社会主義社会に違いないという結論に達したのでしょう。

ここではある夕食の席に供されたメニューが再現されています。
海軍の正餐については、項をあらためてお話ししたいと思います。

部屋の隅に見えていた組み木の床(再現部分)。

ここまでで洋館部分の見学は終わりになります。

長官の居住区になっていた和室部分を見ながら歩いて行くことになります。
この居住部分の畳部屋は、畳廊下を除くと9間あり、その中には
母屋から飛び出した形で接している使用人家と離座敷を含みます。

ここは主である鎮守府長官の居室であったと思われます。

ところどころにこんな監視カメラがありました。

「建物に設置できないからこうやって三脚で立ててあるんでしょうね」

「それにしても全体的に大きすぎないですか」

「小さかったら盗難されるかもしれないからじゃないですか」

監視カメラに写ってはまずいことをして、持って帰る輩がいることを
想定してのこの無粋なカメラ設置だと思われます。

でも、これその気になればカメラを反対側に向けることはできるわね(´・ω・`)

改装したときにこの居間の鴨居の裏側から見つかった大工のサイン。
京都の業者が明治38年に竣工したことを表す証拠ですが、
現存保持のポリシーに乗っ取り、サインはまた元どおりに埋められました。

昔はどこにもあった日本家屋そのもの。
夜間には遮光と防犯のため、一番外側にかつてあったであろう雨戸を
戸袋から引き出して全部閉めました。

廊下は隙間から下が見えていました。
洋館部分はゴダンのストーブで暖をとったのでしょうが、和室は基本
火鉢しかないので、廊下やトイレは冬寒かっただろうなあ。

ボランティアのおばちゃんたちがみんなで障子の張り替え作業をしていました。

「ご苦労様です」

声をかけると、

「(写真の)邪魔になってごめんなさいねー」

いえいえ、そのお仕事中の写真を撮りたいんです。

「やっぱり時々は張り替えないとだめですか」

「子供さんが来たりするとね。破いてしまうんですよ」

国の重要文化財の中で子供を放し飼いにするんじゃない、親。
しかしおばちゃんがいうには

「今はお宅に障子がある方が珍しくなってしまったので、
子供さんもそれでわざわざ触ってしまうみたいです」

金唐紙は破損したら再現するのは至難の技ですが、障子であれば、
おばちゃんたちにお手数をかけるとはいえ、復活させることができます。

この廊下に寝間着の浴衣などを着て佇む歴代呉鎮守府長官の姿を思い浮かべましょう。
鈴木貫太郎、山梨勝之進、野村吉三郎、嶋田繁太郎、南雲忠一・・。

離座敷、と言っても別に離れている訳ではなく、母屋から飛び出すように、
つまりここだけ付け足したような作りです。

使用人室の離れとは真反対側にあり、こちらには床の間もあるところを見ると、
来客が止まる時に使われた部屋ではないかと思われます。

離れの障子にも破れ跡がありますが、はて、ここには誰も入れないはず。
浄化槽の蓋の周りにある飾りは瓦を埋め込んで作っているようですが、
なかなかおしゃれですね。

復元された便所は使用禁止。
入り口でロープが張られ中に入ることもできませんでした。

数年前に来た時には、改装されていない昔のままの風呂場も
公開されていたと記憶しますが、今回は見ることはできませんでした。

さて、というところで入船山の長官庁舎の見学は終わりです。
入って来たところから外に出て、呉の街を歩くことにしました。

美術館通りの方位盤は操舵のデザインです。

この通りには海自の呉音楽隊の練習室が面しています。
さすがに窓から覗き込むことができないように鎖がありますが、
音楽隊が練習していると、その音が通りにいると聴こえてくるので、
観光客が脚を止めて聴き入っていることもあるそうです。

新しい音楽練習室が完成していたので移転したのかと思ったのですが、
この時点ではまだここで練習が行われていたようです。

この赤い建物は下士官集会所だったところで、呉市への返還が決まったことから
音楽隊の移転も決まり、新しい庁舎を建ててそこに移るのも間近だと思いますが、
美術館通りから音がなくなってしまうのは寂しい限りです。

全裸に帽子だけ被ってサックスを吹く男。
音楽練習室のそばにあるシュールな彫像です。

後ろから見るとさらにシュール。(脇の贅肉が)

呉ではマンホールの蓋ですらこの通り。
竣工時の大和の雄大な姿を正面から。
さりげに背景のショベルが左右対称だったりします。

「くれし」「おすい」

ひらがな表記にすると護衛艦の名前みたいにソフトな印象になりますね。
ソフトにしたからなんなのか、と言われると困りますが。

ちなみに日本のマンホールの蓋は世界でも有名で、

manhole lid Japan

で検索すると、ご覧の画像が出て来ます。
マンホールの蓋ですらアートにしてしまう国、ジャパン。

そんな国に生まれて本当によかったとわたしはあらためて思うのでした。

 

さて、そろそろお昼ご飯の時間です。

「ここはやっぱり一つ・・・・」

「愚直たれメニューでしょう!」

わたしたちはこのあと愚直に愚直たれを求めて、呉の街を歩き出しました。

 

続く。

 

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葉山の休日

2017-05-07 | お出かけ

大型連休も終わりですが、皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。
わたしは知人にお誘いいただき、葉山でヨットに乗ってきました。

有名人、著名人の別荘を海岸線に多数もち、御用邸があり、
日本で初めてヨットレースが行われたということもあって、
別荘とマリンスポーツの街、という、なにやらセレブなイメージのある葉山。

今回お誘いいただいたヨットオーナーは葉山マリーナのクラブ会員です。

駐車場にはとりあえず全ての信号旗がディスプレイされ、
看板にはクルージング(石原裕次郎灯台クルージングとか)や
クルージングの時間チャーターのお知らせがあります。

逗子駅から一本のバス通り沿いに、帆檣が林立する光景が見えたら、
そこが葉山マリーナ。

レストランやショップには観光客も入れますが、ヨット置き場には
クラブの会員と一緒でないと立ち入ることはできません。

サンフランシスコのヨットハーバーは、海上にオーナーがヨットを繋留してあり、
東部ボストンのハーバーの周りは、自宅からヨットに乗れるうちが多数あります。
関西では西宮に昔からヨットハーバーがありますが、ここも海上に繋留式。

しかし葉山、逗子は施設に対して隻数が多いらしく、ヨットは全てこのように
陸上で管理しています。

「どうやって海に入れるんだろうね」

「あのデリックから出航するんだと思うけど」

見ていると、ヨットの乗った台ごと専用の重機?で移動させています。

海に下ろすためのベルトを船体にかけてそのまま下ろす。
結構大変な作業のようですが、あっという間にヨットは海に。

船上には岸壁から渡された20センチくらいの幅のラッタルで渡ります。

「♪ドミソド〜ドミソド〜ドミソドッミソッソソ〜〜(移動ド)」

出航にあたっては先日水雷士を任命された不肖わたくしが、
口で出航ラッパを吹鳴させていただきました。

マリーナを出ると、連休であることもあって結構な数のヨットがいました。
こちら、慶應大学のヨット。

防衛大学校ヨット部のヨットもこの辺でクルーズするそうです。

ミズスマシみたいなヨット。これどうなってんの。
一旦乗ったらずっとこの姿勢のまま帰ってこないといけないわけだ。

ところどころ水鳥の群が漂っていましたが、この鳥が
飛び立つ時には、このように水かきで海面を助走していることが判明。

本日のコースは江ノ島の裏まで行って帰ってくるというもの。
江ノ島を海上から眺めるのも初めての体験です。

この日のクルージングにはオーナーを入れて六人が参加。
一人ずつ舵をとって江ノ島を目指します。

「目標はあの海保の船ヨーソロで」

警備のため錨泊している海保の大型船を目指します。
いつもならこのクラスの船を見ることはないそうですが、
この日は御用邸に宮様がおられたということで、海上警備を厳となしていたのです。

海保の船は海上警察ですので、例えばヨットの上で飲酒していると、
哨戒艇などで指導してきます。

「お酒か水かなんてどうやって見分けるんだろう」

「ものすごい倍率の望遠鏡で見てるんじゃない?」

今まで見えなかった江ノ島の先端が見えてきてびっくり。
連休ということで、びっしりと人がいます。

回廊があるので稚児ケ淵という島の西端だと思われます。

海保の船が近づいてきました。
海保の船ヨーソロで目標にしたものの、

「怒らせない程度に」(笑)

距離を取りつつ後ろを帆走していきます。

このPL31巡視船「いず」は3500トン、就役は1997年。

「でも、ダメ。白い船では全くときめかない。グレイじゃないと」

同乗の

「その瞬間(海上自衛隊に)恋をしてしまったんですよねー」

と初対面の挨拶でもためらいもなく言ってしまう”ネイ恋な女性”が呟きます。
ネイ恋本家である?わたしですが、元々のとっかかりが旧海軍だったこともあり、
実は海保の白い船にも結構ときめきます。

海保の制服も冬服に限りこれも結構ときめきますが、こういう場では黙っています。

しかし、白い船は汚れが目立ちやすいのに、メンテがあまりされてないような。
海保は海自ほどせっせと塗装の塗り直とかしないんでしょうか。

アップにすると塗装がが結構ボロボロなのが目立ちます。

「作業艇の吊るし方が海自とは全く違いますよねー」

「救難のために秒速でおろせるような体制にしてるんじゃないですか」

海自出身のオーナーのヨットなので、乗客も海自視点です。
海自と海保の船の決定的な違いは色々ありますが、一番大きな違いは搭載武器。

これは国防が目的と、救難警戒が目的である違いでもありますが、
海保の船は魚雷や水雷ではなく、ガトリング砲(M61バルカン)くらいしか積んでいません。

それから、独力での出入港のために船にバウスラスターも付いているのも違います。

甲板に海猿くんらしき人影発見。

「なぜ上半身裸・・・・」

「昼休みなんじゃないですか」

いずれにしても海自の艦船ではまず見られない姿です。

海保の船のお尻を見てからヨットをUターンさせ、ハーバーに戻りました。
このころから動揺が激しくなり、左舷に傾いて真ん中に座っていたわたしは
完全に左に滑り落ちる形に。

前方のヨットの傾き具合でお分りいただけるかと思います。
オーナーは右舷舷側に腰掛けて「生けるバラスト」となりました。

「もう少し傾くともう一人座ってもらわないといけないのですが、
お客さんに潮を被らせるわけにはいかないので・・・。
(錘になるのが)一人で間に合ってよかったです」

ちなみにこの後我々のヨットはこの前方のヨットに追いつき、追い越しました。
後から

「私としてはあのヨットを抜かせたのが嬉しかったです」

とメールが来ていました。
昔、この方からヨットを持つことになった、という最初のお知らせをいただいた時、
葉山マリーナにヨットを持つなんてゴージャスでリッチ、と思ったのですが、
この日実際に乗って、わたしが思い込んでいた、船上でパーティをするようなのではなく、
この方のヨットは完全に体育会系だったことがこれで判明しました。

誰も乗らない真冬にも週末は必ず海に出る、
というのを聞いてさらにその確信を深めた次第です。

マリンスポーツのメッカ三浦半島には、いろんなレジャーが存在します。
水上バイクが集団でかっ飛ばしています。

もちろん釣りを楽しむ船も。
突堤にもこの日は釣り客がぎっしりと並んで釣竿を下ろしていました。

この日のランチはこの時後から駆けつけたオーナーの知人女性を加え、
クラブハウスのイタリアンレストラン(ブルーのピアノ付き)でいただきました。
この女性もまた海上自衛隊のファンで、まだ「ネイ恋歴1年」にも関わらず
精力的に艦艇見学などに足を向けておられる方です。

当ブログにも目を通してくださっていると聞いて、つい動揺しました(笑)


さて、というわけで体育会系ヨット体験の1日が終わり、
半分寝ながら葉山から渋滞の道を運転して帰ってきたわたしは、
荷物を降ろして潮だらけの顔を洗うなり、夜8時まで寝てしまいました。

起きてさて写真でも整理するか、とバッグを開けると

カメラがありません。

なんとイタリアンレストランに置いて来てしまったと分り、
お店に確かめて、次の日ドライブがてらTOと取りに行きました。

せっかくまたわざわざ葉山に行くのだから、と大好きなホテル、
音羽の森のダイニングを予約しました。

葉山御用邸をすぐ近くに控え、やんごとなき方々にお料理を供することもある
ここのダイニングは味にも定評があります。

プリフィックスランチでメインにアワビのステーキを選びました。

沖合にはここにも海保の巡視船「たかとり」が錨泊しています。
写真を撮っているとホテルのマネージャーが近づいて来て、

 

「御用邸の警備のためにあそこにいます」

 

と教えてくれました。
葉山御用邸は海上からの接近にも目を光らせていて、
ヨットでも近づくとすぐさま監視が警告してくるそうです。

 


海保の監視船は消防設備として放水銃、粉末放射銃、自衛用として噴霧ノズルを装備しています。
尖閣海域に侵入した台湾の漁船に放水する映像が有名ですね。

こういうのを見ると、船がグレイだろうが白だろうが、
日本を守ってくれる海の防人たちに感謝せずにはいられません。


警備艇の向こうに通過している船は、宮崎県のカツオ漁船宮崎県のカツオ船、
第八十一由丸(よしまる)です。

第八十一由丸はカツオの生き餌となるイワシを捕獲するために
神奈川県の佐島(自衛隊武山駐屯地の近く)に出没するそうですが、
ぐぐっていたら、4年前には気仙沼で横転事故を起こしていました。

上架中にかつお船が横転

造船作業中に傾いて行き横転したようですが、今は元気にお仕事しているようで
よかったよかった。

帰りはせっかくなので、三浦半島の先までドライブしました。
折しもこどもの日、海岸沿いの駐車場にたくさんの鯉のぼりが。

 

こうしてたまに海で遊ぶと、確かに非日常的な体験は十分楽しいのですが、
反面、海に関わる仕事の肉体的な苦労を実感せずにはいられません。

実際に波に揺られ、潮の飛沫をあび、直射日光に炙られ・・・・。
自分の意思ではどうしようもない状況に肉体を翻弄されるのはそれだけで
十分に重労働であることを思い知ります。

岸壁から見たり停泊している船を見学したり、たまに体験航海で乗艦するだけでは
所詮上っ面しかわからないものなんだなと思うとともに、
改めて海自、海保の現場の皆さんへの感謝の気持ちが増した、わたしの連休でした。

 

 
 

 

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呉海軍工廠の街と鎮守府長官庁舎

2017-05-06 | 海軍

 

艦船めぐりで呉の自衛艦を堪能したわたしたちは、そのあと
当初の予定通り入船山にタクシーで向かいました。

鎮守府庁舎のある坂の上で降ろしてもらうと、ボランティアの男性が二人、
そこで観光客をキャッチしているらしく?近づいてきて

「45秒だけお時間いただけますか」

うーん、声のかけ方もいわゆるキャッチセールス、いや何でもない。

その解説によると、国立病院前から鎮守府庁舎のある入船山記念館の横の坂道は、
戦艦大和と同じ長さ(269m)あり、この道は「美術館通り」として
「日本の道百選」の一つに選ばれているという話でした。

このモニュメントの左上の「道」というのが「日本の道百選」の印。

ボランティアは、今観光するなら音戸の瀬戸のツツジが見頃、とか、
音戸の渡し船が120mという「日本一短い航路」であることを教えてくれました。

時刻表はなく、そこに行って乗り込むだけ。
対岸から乗るにはただ「呼んで来てもらう」そうです。

ここが入船山記念館入り口。
昔ここに来た時にも写真をあげましたが、何しろ前回から今日までに
カメラもレンズも変わりましたからね。

鎮守府庁舎時代にはここを黒塗りの車が出入りしたと思われる門。
車が通るには狭いですが、昔の車なら通れたのでしょう。

大正三年秋の彼岸、という彫り込みがある門柱には、
できたひびを補強するために金属プレートが貼ってあります。

清心院、玉泉院の菩提の為に、という寄贈。
この意味が前回もわからなかったのですが、どちらもが徳川家の正室であることから、
昔この地にあった亀山神社と関係あるのかと予想します。

神社があったところを帝国海軍が接収し(江田島の海軍兵学校もそうでしたね)、
そこに水交社など建てたのを手始めに、明治25年には鎮守府庁舎が建つことになり、
清心院と玉泉院の菩提を大正年間に弔わなければならない事情が後から生じた、
ということになるわけですが、インターネットではそれ以上のことはわかりません。

入ってすぐ左に、呉市宮原通りから移設した「東郷家の離れ」があります。

東郷平八郎が参謀長だった頃住んでいた家の「離れ」。
宮原の母屋が火事で焼けてしまい、この離れも移築されたものの
放置されて荒廃していたのを地元ロータリークラブの尽力で保存が決まりました。

たった1年7ヶ月、鎮守府の参謀だった頃の東郷平八郎が住んだだけですが、
海軍の街呉にとって東郷さんは「神様」だったわけですからね。

ともかく昔の建物がいろんな意味で残りにくいこの日本においては、
よくやってくれたとロータリークラブの英断には感謝したい気持ちです。

現地にあった看板によると、この離れには東郷元帥の呉勤務時代、
昔は「下女」といったところのメイドである水野たみさんが住んでいました。

現代の日本では下女も女中も禁止用語になってしまっているので、
水野さんのことは「お仕えした」としか説明されていません。

明治頃には接客や雇用者の世話を直接する「上女中」に対し、炊事、掃除、
水回りの仕事をする「下女中」という使い分けはなくなっていましたが、
「坊ちゃん」の「清」のように、女中のことを「下女」という言い方は残っており、

住み込みで家事をする女性=下女

という認識であったことからいうと、たみさんは下女ということになります。

門から続く石畳は、これも移設してきたもので、昭和42年まで
呉市内を通っていた路面電車の敷石です。

右側の大時計は、かつて海軍工廠造機部の屋上に設置されていたもの。
国産初の“電動親子式衝動時計”で、(内部に”親時計”がある)歯車に
ネーバル黄銅(naval、海軍黄銅とも)という耐海水性に優れた材質を用いています。

写真を撮った時がちょうど11時だったので自分の時計を見て初めて
時計が動いていることに気がついたのですが、さすが海軍工廠が作っただけあって、

艦艇兵器用の機械構造を採用した画期的な時計は、
堅牢で現在も定時には地元の小学生が作曲したメロディが流れる仕掛けです。

当時としては画期的な時計であり、呉工廠のシンボルでもありました。

この奥の爆薬庫はギャラリーになっていますが、そこにあった呉海軍工廠通勤時の様子。
いかにも活気にあふれた朝の一コマです。

終戦時には42万人を数えていた全国7位の都市、呉の人口は、
母体となる海軍の消滅により10万人強となり、 その後の進駐軍占領もあって
戦後、色々な意味で呉は苦難の道を歩むことになりました。

長官庁舎の警衛が立っていた番兵塔。

昼夜を問わず立ち続けていた石畳にはくっきりと足の跡が。
前日の雨が窪みに水たまりを作っています。

後ろの塔の床には全く劣化がないので、おそらく警衛が
塔の中に入るということは全くなかったのではないかと思われます。

 

ギャラリーとなっている爆薬庫の絵から、右上、呉軍港の満艦飾。
連合艦隊が入港した時など、このような光景が見られたそうです。

前に来た時も驚いた陶器製の手榴弾。
鉄不足を補うための苦肉の策でした。

外側、内側にも釉薬がかけられ、凝った作りだったようです。
口からはマッチ組成の点火プラグ?が突き出ていてゴムキャップがかけられており、
使用時にはそれを外して添加して投げると数秒後に爆発するという仕組み。

問題はその点火方法なんですが、それもマッチで火をつけるのかなあ。

何れにしても切羽詰まって作られた悠長な武器という気がします。

昭和56(1981)年、呉工廠の砲火工場の跡地の土中から発見された

四十五口型10年式十二糎高角砲

の砲身。
艦砲として妙高型の重巡洋艦「妙高」「那智」「羽黒」「足柄」などに
搭載されていたのと同じ型です。


余談ですが、自衛隊の所有するイージス艦は妙高型から「みょうこう」「あしがら」、
金剛型戦艦から「こんごう」「きりしま」、高雄型重巡から
「ちょうかい」「あたご」を綺麗に?二隻ずつ受け継いでいます。

少なくともこの10年以内に自衛隊はイージス艦を二隻導入する、という話が
少し前に軍事評論家から出ていましたが、そうなった時には艦名は
今まで採用されなかった他の型になることでしょう。

つまり、控えめにいうと、「長門」型の「ながと」と「扶桑」型の「ふそう」。
あるいはもしかしたらもしかして、「大和」型の二隻・・・?

「やまと」型イージス艦「やまと」と「むさし」

→海自の志望者殺到?

・・・・・。

前回入船山に見学に来た時には、数年後の自分が高角砲一つで、ここまで
妄想を展開させる立派なヲタに成長しているとは想像もしていませんでした。

高角砲が展示してある横で入館料250円を支払い、進んでいくと、
石畳の向こうに車寄せのロータリーを儲けた道の奥、
旧鎮守府長官庁舎が姿を現します。

呉のシンボルともなっている現呉地方総監部庁舎、旧呉鎮守府庁舎を設計した
櫻井小太郎の設計によるもので、正面に洋風の公館、奥に和風の居住区を持つ構造です。

国の重要文化財となっており、呉市ではこれを焼失などから守るため、
頻繁に火災を想定した訓練を行なっているということです。

呉鎮守府庁舎の住人となったのは第7代長官となった有馬新一中将から
第33代の金沢正夫中将までの31人です。

金沢中将は5月に呉鎮守府長官に着任し、わずか2ヶ月後にあの呉大空襲で
軍港呉市が壊滅的被害を受けるのを目の当たりにし、さらには
日本の敗戦を受け入れた最後の呉鎮守府長官になりました。

錨と桜のモチーフを取り入れた優美なすりガラス。

内側から見るとステンドグラスは淡いパステルカラーの光を通します。
明治38年に芸予地震で倒壊した長官庁舎を建て直して以来、エントランスのガラスは
一度も破損することなく、今日までこうして変わらぬままです。

見学は洋館をこのように見ながら歩いていき、後ろに接続している和風建築の、
かつてお勝手口であった使用人の出入り口から入ることになります。

途中に屋根付きのこのようなものがありますが、
当時防空壕であったところを埋めたのか、それとも防火用水だったのか・・。

見学者はここで靴を脱ぎ、順路に従って見学していきます。
建物の保存のためには靴を脱がせたいが、正面の洋風建築の方から入ると、
靴脱ぎも下駄箱の設置場所もないし、出入りがあればガラス等に破損の恐れがでる。

ということで、こちらを入り口にすることになったのでしょう。

お勝手だったので、流しとかまどの跡がそのまま残っています。
かまどの跡の上には靴脱ぎと下駄箱を乗せてしまいました。

入ってすぐのところに、1mもない奥行きのスペースとその引き戸がありました。

「こんなところに何を入れたんだろう」

ナチュラルに奥に顔を突っ込んだところ、

「『あきづき』の海曹室で、自衛艦旗の箱をいきなり開けたのを思い出しました」

と鉄火お嬢さん。
そこに何かがあれば、興味から首を突っ込まずにいられない。

この性癖が災いをもたらしたという経験は今のところ幸いにしてありませんが、

好奇心は猫をも殺す。"Curiosity killed the cat" 。

ということわざもあることですし、そろそろ自戒するに越したことはないかもしれません。

 

続く。

 

 


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