ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

マウント55〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-22 | 軍艦

重巡洋艦「セーラム」には、主砲の他に副砲として、8" / 55口径5インチ砲を搭載していました。

その準備をするためのコンパートメントから見ていきましょう。
レディサービスルームというこの区画は、砲の真下に位置します。 

稼働中はハッチを中から締めることになっていたようです。
合戦時にドア・ハッチを締める印である丸エックスがついています。

 

かろうじて読めた説明によると、この区画は

Secandary Battery Mount #5 (AKA Mount 55)

第5副砲、通称マウント55

だそうです。
通称がマウント55なのは55口径.。
5番目というのは前から数えて5基目ということでしょう。 

8" / 55キャリバーガン 

現地の説明には本艦が搭載していたのはMk32であると書かれていますが、
それは重巡洋艦に特化した仕様となっていたようです。 

このコンパートメントは、パウダーケースと発射体が一時貯蔵されますが、
それが尽きたとき、弾薬はデッキ下部の取扱室から運ばれます。

 

もう一度この部分をご覧ください。

写真は解説図の「アッパー・ハンドリングルーム」の部分です。
一つのマウントに対し27名が稼働に必要でした。

ここでプロジェクタイルーホイストに装填した弾が、この上にある
「ガンハウス」に上昇していきます。 

これは上の図解でパウダーホイストの右側にあるプロジェクタイルホイスト。
発射体がちょこっと顔を出していて可愛いですね。 

缶ケース入りの装薬がゴロゴロと積み重なっています。

全てこのマウントで使用されたもの。
C、Dは装薬、 E、Fは発射体。

細かい説明は写真に失敗したのでできません!(いばるな)

ここにストアされていたこれらの弾薬や装薬は何種類かありました。

この区画は火薬などを扱うので特別の安全装置が施されています。
いざという時に部屋中にスプリンクラーが作動するのもここならでは。
このハンドルは直接的に手で回して作動するスプリンクラー。

印刷室にはボランティアの人が詰めていて何やらお仕事中だったので写真は撮りませんでした。
平日の昼間なので、艦内はほとんど人がいませんでしたが、廊下ですれ違った
一人のボランティアのおじいちゃんは、わたしがカメラを持っているのを見て

「なんかに載せるのかね。熱心だね」

とニコニコして声をかけてきました。 

ギャレーの隅にはゴミを処理する部屋がありました。
おそらくこのトレイに乗っけて粉砕するのだと思いますが、そのあと
どうなるのかは全く想像がつきません。 

テーラーショップがありました。 

制服を作ったり修繕したりする部署です。

 

下士官のジャケットにサービスユニフォーム、セーラー服もあります。
キャンバスの布がたくさん積み重ねてありますね。 

ズボンのアイロンはセットして挟んでしまうだけ。
ワイシャツもこんな挟み込み方式で綺麗にアイロンできてしまうんですね。
これはこれですごい技術が必要だったのでは・・・。 

売店は今は展示だけです。

貼り紙には、オリジナルキャップやTシャツなど、ストアショップが別のところにあるので、
そちらでどうぞ、と書いてあるのですが、どこを探してもそれらしい店はありませんでした。 

バイタリスの空き瓶、コーヒーミルクの紙パックなど、
ほとんどゴミ置きと化しているショーケース。 

売店の窓に貼ってあった大雪の日の「セーラム」の写真。
マサチューセッツは雪が降りますが、さすがにクインシーは
海沿いなのでここまで降ることは珍しいのでしょう。 

 

この洗面所はおそらく現在は使われていないでしょう。
手を拭くためのペーパーがないので。 

何のためにあるのかわからなかった部屋。
現在は物置のようになっています。

「セーラム」の現在のオフィスです。

昔からここにあったらしい写真と、同じ女優さんの新しい写真が並んでいました。

ここにもあった。「ウィッシング・ウェル」。
ここのように艦の底深くまで見通せるのは、おそらくここがバーベットの
脇にあるからだと思いますが、それを利用してコインを投下し、

「一番深いところに落ちたら願いが叶う」

などというノリで遊んでもらおうという趣向。 

小さな筒に狙って、実際に入れルノに成功した人も何人かいる模様です。

さてさて、「セーラム」にもありましたよ。艦内監獄が。

「ブリッグス」という艦内監獄、犯罪はもちろんのこと、規律違反、
例えばフネに乗り遅れたりした乗組員はここでお過ごしいただくことになっていました。

ブリッグスはここでは2つだけ。
「マサチューセッツ」では3つありましたが、まあ二つで十分というところでしょう。 

欧米人にとって床で寝るというのは、辛いだけでなくかなりの屈辱みたいです。
日本人は畳に布団で寝るのに慣れていますが、彼らは家の中も
靴で生活するので、その高さで寝るということは基本「無理」なんでしょうね。

というわけで、監獄の中ではこんな風に床で寝なくてはならず、
肉体的にも精神的にも辛さもひとしお、といったところでしょう。

ここにあった「ブリッグの規則」によると・・・

a. 収監者は常に身体検査を受けなくてはならない。
 検査は収監前、衛生士官、監獄士官?看守に寄って行われる

b.ブリッグスペースはいつも清潔にしておくこと

c.専用の衣服を身につける。
収監中は貴重品などを預かるが、釈放時に返却する。
もし無くなったりした時には捜査依頼にサインすること

d.規定の髪型にカットすること(坊主かな)
収監中は清潔を保つこと。口髭は禁止。靴を磨くこと

e.重労働収監者は仕事にアサインすること。
「パンと水」収監者は見張りのいるところでしか活動できない

(パンと水の収監者ということは、それしかご飯がもらえないとか?)

f.司令官かブリッグオフィサーが、イベントにおける行動を指揮する。

g. 収監者は一日に30分から1時間、運動か訓練に参加することができる。
もし状況が許せば。

いいように捉えると、訓練に1時間参加するだけで、あとは部屋で寝ていればいいと・・
(清潔にしながらね)

それなら収監の方が俺は向いてるぜ、という人も稀にはいるかもしれませんが、
まあこんなところで監視されながら、一日全く自由な時間なしに過ごすわけですから、
やっぱりあまりありがたくないものだと思われます。 

軍艦で悪いことはしないに越したことはありません。

ところで「セーラム」の写真の中に、アメリカで進行中の「ザ・ラストシップ」の
シーンが紛れていたのでついでに載せておきます。

ちなみにこれはすでに1年前現在のアメリカでのテレビです。

真田がね・・・悪いんだよ。

「奴らを皆殺しにしろ」

とかいって。

愛する人が死んでしまうとかいうそれなりの同情に値することもあったみたいですけど、
これ今どうなったのかしら。(フォローしてません)

続く。 

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リスの喧嘩とワイルドターキー〜スタンフォード・ディッシュトレイル

2017-07-21 | アメリカ

当ブログと長年お付き合いいただいている方であれば、スタンフォードにある
ディッシュトレイルのリスについてご存知かもしれません。

というくらい、ここ何年か、わたしはシリコンバレーに来るたびに、
ここを訪れ、リスの写真を撮りまくってきたものです。
今年は西海岸での滞在もいつもほど長くないのですが、一度だけ、
朝7時という今まで来たことがなかった時間にカメラ持参で行ってきました。

そう、もちろんリスの写真を撮るためです。

トレイル(TRAIL)というのはもともと「引きずる」という意味があるそうですが、
アメリカでは州立公園や山間部、海岸沿い、小川沿いに、
市民が散歩したりバイクで走ることのできる小道のことをさします。

シリコンバレーはイメージよりずっと自然に恵まれていて、例えばグーグルでも
キャンパスと呼ばれる会社の敷地にヤギを飼うことのできるスペースがあったり、
すぐ近くが州立公園だったりしますし、フェイスブックも周りにトレイルがある
丘の中にポツンと建っていたりします。

スタンフォードディッシュトレイルは、高低差の大きな丘の一帯に
一周すると歩いて1時間少しの距離のトレイルを設けて解放しています。

最初にここにきた時には、いきなり足元にリスがいたのでびっくりしました。
もちろん大喜びで写真を撮りまくっていたのですが、地元民にとっては
リスなど珍しくもなんともない、雀とか野良猫みたいなものなので、
さぞかし物好きに見えていた(る?)ことでしょう。

ここにいるリスは、日本で見るシマリスとは大きさも模様も全然違う、
カリフォルニアジリス(地面に生息するリス)という種類です。

このリスでだいたい体長15センチといったところでしょうか。
シマではなく白い斑点があるのが日本人には大変珍しく見えます。

エントランスを入っていくと、まず心臓破りの坂?を登っていくのですが、
そのあと道は二手に分かれます。
右は降り、そして左はさらにきつい登り。

わたしは心臓破りの後の選択として、どうしても右に行ってしまうのですが、
ものすごいスピードで左を駆け上る人もいます。

この二人の男女は右側選択組でしたが、とにかく飛ばしていました。
カップルでマラソンにでも出るつもりかもしれません。

今回初めて早朝に来てみたのですが、期待していたよりリスがいませんでした。
しかも、カメラを向けると一瞬固まったのち、脱兎の勢いで逃げてしまうので、
望遠レンズの出番です。

花の種らしい綿毛を食べていたリス。
綿菓子みたいな感覚かもしれません。

道沿いの木に何か違和感を覚えてよく見ると、スズメバチの巣でした。

いつもは息子をサマーキャンプに送り届けてから、つまり9時ごろから歩いていましたが、
この時間はその頃と全く違い、空気がひんやりして寒いくらいです。
それが太陽が昇ると同時に猛烈な暑さとなり、昼間はとても外を歩けるような状態ではありません。

湿度が低いシリコンバレーでは、朝と夜の温度差が激しく、夜は寒くてコートが要るくらいになります。

朝早くならリスもたくさん出て来ているだろうと思ったのに、そうでもありません。
やっぱり夜行性で暗い時に活発なんでしょうか。

夜行性といえば、ここにはマウンテンライオンやコヨーテもいます。
わたしはお目にかかったことがありませんが、トレイル内に二つも
この看板があるということは、遭遇する人も結構いるのでしょう。

ただ、わたしは今回、道端にそのいずれかののものだろうと思われる
糞をいくつか発見しました。
そのいずれもがリスの毛がふんだんに混じっていたことから、
彼らの主食はどうやらリスらしいことを知ったのでした。

 

歩き出してしばらくいくと、リスの巣穴がたくさんあるゾーンに来ます。
ここでリスを見ることを期待していたのですが、今年はついに
二度目となるリスの喧嘩を撮ることができました。

いきなりX字型にがっぷり組んでおります。

残念だったのは喧嘩の場所までかなり距離があって、ピントが合わなかったこと。
レンズを調整する時間もないまま喧嘩が継続してしまいました。

彼らは巣穴の近くで餌を食べていた中くらいのリス同士ですが、
今まで遭遇した喧嘩に共通するのは、喧嘩するのは同じ大きさのリス同士です。

決して大きなリスが子リスと戦っているという構図にはならないようです。

そして、必ずどちらかが圧倒的に強く、強い方がそうでない方を押さえつけます。

しかし、弱い方もやられっぱなしではありません。
背中に乗って反撃を試みますが・・・

「ていっ!」「やられたっ!」

ということで、この表情です。
わたしはこの写真を見て鳥獣戯画を思い出しました。

倒れたリスが体制を立て直す前に飛びかかろうとするリス。

飛びかかられた方は逃げ出しました。
しかし、なんで喧嘩なんてするんだろうなあ・・・。

ここで終わらず、強い方が追いかけて行ってだめ押しの乱闘があったのですが、
その時彼らはわたしのカメラに気がつきました。

「・・・・・・」「・・・・・・」

外敵がこちらを狙っているのに、俺たちはなぜ今まで喧嘩なんかしていたんだ。

・・・・とか?

まあ、人間でもミサイルが隣国から飛んで来ているのに、マスコミと結託して
自分の国の政権を転覆させることしか考えていない人たちもいますので、
リスのことを愚かだと決して笑えません。

どうしてリスが少ないのかといいますと、このとき空には
トンビなどリスの天敵が獲物を探して旋回中だったからです。

朝早い時間は鳥のご飯タイムというわけです。

こちらの鳥さんは、地面におりて、盛んに足を踏みならしていました。
何をしているのだろうと思ったのですが、もしかしたら足で音をさせて、
出て来た虫を食べようとしていたのではないかと思われます。

 

もしそうだったら賢い鳥だなあ。

半分くらい歩いたところで、トレイルの名前になっている「ディッシュ」が出て来ます。
大型のアンテナがここには二つあるのでディッシュトレイル、というわけです。

スタンフォードディッシュという名前ですが、大学とは関係ないと思われます。

その時、遠くにワイルドターキーの一団を見つけ、
わたしの胸が高鳴りました。

朝早いとこういう大型の鳥類も見ることができるようです。

ところでさきほどの写真をみていただければわかりますが、

「ワイルドターキーに遭遇したら」

という注意書きがあり、

●近づかないこと
●大型のワイルドターキーは大きな音を出せば逃げる

(ちなみにこの看板の’deterred'のスペルが'detered'となってます)
●向きを変えて反対の方に逃げること

とあります。

ということは、結構どう猛な鳥とされているみたいですね。

わたしが前回別の公園で遭遇した一団も、今回も、こちらが何もしなければ
襲う様子もなく、むしろゆっくりとではありますが逃げていく様子です。

唯一、このターキーだけがこちらをガン見して、何か怪しい動きをすれば
その時はこの俺が黙っちゃいないぜ的な空気を濃厚に醸し出しておりました。

わたしが写真を撮っていると、歩いていた他の人たちも立ち止まり、
何人かはスマホで写真を撮っていました。

今時は下手に小さなデジカメならスマホの方が画像が良かったりします。

慌てず騒がず。
ゆっくりとターキーの一団は、悠々と見える様子で歩いていきます。

ところで、日本でワイルドターキーと調べると自動的に「七面鳥」となるのですが、
七面鳥とワイルドターキーは全くシェイプが違いますよね。

四羽のターキーの後ろ姿。

そういえば、今年の夏のアメリカではやたらビートルズが取り上げられてまして、
なぜか写真集なんかがたくさん発売されているみたいです。

トレイルには高低差があるので、もっとも高いところまで登ってくると、
スタンフォード大学のフーバータワーが
こんな風に下の方に見えます。

ニコン1(いつのまにか代替わりして今のはV3)の望遠レンズを今回駆使しましたが、
思いっきり寄せて撮ったリスの瞳に自分が写っているので感動しました。

空にはまだ鳥が旋回していたので、いつもは柵の上にたくさんいるリスも、
今日はこの子たった一匹だけでした。

こういう時にいつもどおりに見つかりやすい場所にいるリスって、
危険を認識していないのか、
それとも自殺願望でもあるのか・・・・。

つい最近、「イルカは自殺する」(水の底に潜ったまま呼吸をせずに自発的に死ぬらしい)
という話を聞いて心からショックを受けたばかりなので、ついこんなことを考えました。

ちなみにイルカの場合、自殺の原因はストレスや絶望感などで、飼育されている場合、
飼育員など自分が親しかった人間に事前に別れを告げてから死ぬそうです。

なんて悲しい話なのー! 

というわけで、今年のスタンフォードのリスについてのご報告を終わります。

 

 

 

 

 

 

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彼女と映画〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-20 | 軍艦

「セーラム」は終戦直前に建造が始まり、その企画は第二次世界大戦、
特に対日本戦を想定して造られた最後の重巡だったことはお話ししました。

なので、戦後の戦闘指揮所、CICは当初は置かれておらず、その代わり
艦橋に戦闘指揮所である所の「タクティカルプロット」「フラッグプロット」
が置かれていたということをこれまで説明してきました。 


が、戦後は戦闘形態と戦闘艦の思想の変化に伴い、CIC(戦闘指揮所)がおかれました。
メインデッキの地図のどこを探しても CICがないので途方に暮れてしまいましたが、
写真だけがあるところを見ると、機材は現在では一切持ち出されてしまったのでしょう。

アナログコンピュータ、航跡装置、レーダーレピータ、航空、海上レーダー、
プロッティングボードなど、CICに必要な機器がわかりやすく写真でまとめられています。 

この「セーラム」全体が軍装備を展示するアーカイブであること、
全ての武器は非活性化されていることが書かれています。

艦内は飲食禁止(食堂以外は)であり、展示に触らないこと、とあり、
ちゃんと警報システムが作動していることが警告されています。

「オフィサーズ・カントリー」と彼らが称していた通り、この一帯はまさにオフィサーのナワバリ。
その一角に「フォト・ラブ」 があります。

艦の写真班が撮った写真を現像したり、あるいは手持ちのフィルムをここに出せば
現像してもらえたのかもしれません。 

カメラ博物館にありそうなカメラ類がぞんざいに飾ってありました。
一番右は8ミリ映写機でしょうかね。 

インスタントカメラって、ポラロイドカメラのことですか?
ポラロイドというのも会社の名前で、「ホッチキス」というように
会社名が名詞になってしまった例のようですが。

コダック社がポラロイドの一強独占を崩しインスタントカメラに参入したのは
1976年のことらしいので、 その頃にはもうとっくに引退していた
「セーラム」では現役時代使われたことのなかったカメラが飾ってあることになります。 

ホワイトボードなどというものがない時代には、紙の上にプラスチック板を貼り、
マジックインキで掲示板の書き込みをしていたようです。

「1958年10月22日」という設定で、映画の上映予定と、オペレーターが
それぞれの上映場所に対して書かれています。

セカンドデッキで映画が上映されるのは全部で8箇所もあり、
シックベイでも行われることもあったようです。

映画の題名は「カウボーイ」とか「カフェ・エンパイア」とか、
本当にそんな映画あったの?と思うようなものが適当に書かれています。 

 
 
なんのためのものかよくわからない掲示板には
 
「HAVE A NICE NAVY DAY!」
 
と可愛い絵とともに書かれています。


アメリカ合衆国では、海軍に理解のある大統領であったルーズベルトの誕生日、
10月27日となっていたのですが、1949年に国防総省の指示により、
合衆国海軍は海軍記念日そのものを取りやめ、5月の第3土曜日を軍隊記念日として
(Armed Forces Day)を祝うようになったそうです。

ここに書かれている「ネイビーデイ」はやはり10月27日のことでしょう。
民間団体などは、その後も引き続きこの日に海軍記念日の祝賀行事を行っているそうです。

 

我が日本は、日本海大戦に勝利した5月27日を海軍記念日としていましたが、
戦後にはなくなりました。
海上自衛隊における掃海隊の殉職者慰霊式は、非公式ではありますが5月27日を期して
毎年5月の最終金曜日が式執行日、翌日土曜が遺族を招いての追悼式と決められています。

何年に一度か、27日が金曜になる日が巡ってくるわけですが、
最近では2011年、2016年がそうで、この次が2022年となります。

隣のオフィスにはかつて映画上映に使われていた器具が置いてありました。

Navy motion picture exchange special services 

というのを調べてみると、1919年に結成された海軍内の組織で、
艦隊に娯楽のための映画を提供することを行なっています。
映画が海の上では何よりの楽しみであったことからきているのですが、
おそらくこれは、インターネットで誰でも映画が見られるようになった現在では
違った形になっているのではないかと思われます。

オープンリールの映画フィルムのパッケージには

「LAST OF THE DOGMEN」

という1995年の映画のタイトルが書かれています。
最後の犬男たち・・・・って?

LAST OF THE DOGMEN TRAILER

テーマがアメリカの少数民族なので日本公開もされていないようですが
なかなか面白そう。 

別の映画上映を行なっているところにはカセットビデオ用の「オンキョー」、
DVD用のソニー(右)が。 

この掲示板にはその日の映画上映予定が書かれています。
夏休みのせいか「ディスピカブルミー2」を(邦題知りません)やるようで、
ミニオンのケビンが・・・(可愛い)

”The Finest Hours” は邦題「ザ・ブリザード」。
相変わらず邦題のセンスがいまいちですが、ここに

「我がセーラムが出演します」

と書いているので見てみました。

映画『ザ・ブリザード』特別映像

いやー、みなさん、これなかなかいい映画でしたですよ。

沿岸警備隊の4人の男が、タンカーが二隻、別の場所で真っ二つに裂けてしまうような
ブリザードの中、上司に命令されてボートで救出に行くの。

もう絶対ハードモード、まず無理ゲーという波の逆巻く海、
チューブの中を波乗りみたいにボートを滑らせて、しかも波を被り
羅針盤を海に落っことした後も引き返さず、
半分に折れた「ペンドルトン号」の残り半分の生存者を助けに行くのです。
しかも、ボートの上に残りの生存者を30人くらいてんこ盛りにして、
帰りも羅針盤なしで母港にたどり着こうとするわけ。

この話、ニューロンドンの沿岸警備隊アカデミーで資料を見たような覚えがあるなあ。

で、半分に折れた「ペンドルトン」の内部の撮影に、「セーラム」の機関室とか
艦内が使われているというわけです。 

 


それから、ボードの右上に

「NEW RAPID FIRE NAVAL GUNS」

とあり8インチ砲と3インチ砲が火を噴く映像を映画で見ましょう、
というのがあります。 
昼間は森閑として人気がない艦内ですが、夜は色々と賑わい、
地域の人々の憩いの場所となっている模様。



「セーラム」は冒頭にもお話しした通り、「最後の重巡洋艦」。
細部は当時としても古色蒼然としたオールドスタイルであった訳ですが、

それがために、こんな映画に出演したことがあります。

 BATTLE OF RIVER PLATE PART 5 

 

「リバープレートの戦い」というのは「ラ・プラタ沖海戦」のこと。

第二次世界大戦中の1939年12月13日にラプラタ川河口の沖で起きたもので、
開戦以来大西洋、インド洋で通商破壊を行っていたドイツのドイッチュラント級装甲艦
「アドミラル・グラーフ・シュペー」がイギリスの巡洋艦3隻と交戦し、戦闘後、
損傷を受けたアドミラル・グラーフ・シュペーは中立国ウルグアイに入港し、自沈。
そのさらに2日後、ラングスドルフ艦長はドイツ帝国海軍旗(ナチス旗ではなかった)
を体に巻いて自決したと言われています。

日本人の我々にはあまり知られていない海戦ではありますが、
とりあえず映画は「戦艦シュペー号の最後」とかいう題で、
日本でも見ることができるようです。

前置きが長くなりましたが、この映画で
ドイツの重巡洋艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」を演じているのが、
なんとこの重巡「セーラム」なんですねー。

映画が制作されたのが1956年ですから、「セーラム」は現役バリバリです。
しかしながら、このころ実際アメリカでは冷戦構造の真っ只中で、
アメリカはソ連の大陸弾道ミサイルの開発に怯え、原子力潜水艦の開発を進め・・・、
つまりこのころの戦闘には大鑑巨砲の彼女はほぼ存在意義さえ失われていたのです。


戦闘艦としてあまりにオールドスタイルであった「セーラム」にとって、
ドイツの重巡に扮してその動く姿をフィルムにとどめることは、
退役前彼女の最後の花道であったのかとも思われますが、戦後は戦後で
「ザ・ブリザード」のような映画にも使われており、
その存在は戦争映画関連にとっては大変貴重なものとなっていると言えます。


続く。 


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アンカー・ウィンドラス・ルーム〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-18 | 軍艦

 

戦艦より階数が少なくコンパクトな重巡は、一つのフロアに
実にいろんなものがあり、特にセカンドデッキと言われる
甲板の下の階は、士官にとっては衣食住医療娯楽全てがそこで賄える場所です。

それだけでなく、セカンドデッキには錨を巻き上げるためのウィンドラス画ある
アンカー・ウィンドラス・ルームというものもあります。

錨は艦首にあるので、この区画はどんな船でも同じ場所にあるのですが、
セカンドデッキにあるのが普通かどうかはわかりません。

戦艦「マサチューセッツ」のように懇切丁寧な説明がついていない「セーラム」ですが、
なぜかこの区画だけは非常に細かく解説がなされています。

まず

USS「セーラム」は二つの錨が装備されている
いずれも22,500パウンド(10トン)の重さで、
「バウワー・ストックレス」タイプである 

そしてこの部屋についての説明が。

この区画にあるのは2基の「アンカーウィンドラス」に関する機械で、
鎖を上げ下げするためのものである

 

それぞれのアンカーウィンドラスは水圧ポンプ(C)で動かされ、
それがウィンドラスの上にマウントされているモーター(H)を動かす

それぞれのアンカーウィンドラスは「ワイルドキャット」(シャフト、F)を動かし、 
主錨の巻かれた「スプロケット」(歯車)、あるいは
ロープを繰り出すための大きなキャプスタン(G)を動かす

電気モーターが直接強力にキャプスタンを動かす代わりに
水圧モーターがそれを行う
二つのワイルドキャットはそれぞれ一つの錨を360フィートの海底から
1分間に36フィート同時に引き上げることができる

それぞれのキャプスタンは40,500パウンドの重量を
10インチのマニラロープで1分間に134フィート引き上げられる

8ウェイトランスファーバルブDはウィンドラスを動かすためのポンプに
一つづつ繋がっているが、これは余剰性があるので
例えばポンプが一つ壊れても、もう一つのポンプで二つのウィンドラスを
(同時にできるかどうか知りませんが)動かすことができる 

ウィンドラスは通常「シップ・カーペンター」によって操作が行われる

ということです。
Cはかろうじて左上に見えますが、Hが写っていないのは残念。

アルファベットが写っているだけ説明すると

J フリクション・ブレーキ ウィンドラスのスピード調整を行う

K フリクション・ブレーキ・ハンドル ハンドルそのものはメインデッキにある

I  メイン・リダクション・ギア

電話より直接的に連絡を取るもののように見えます。
(右下のプレートにはいくつかの部署の"A-312-T"などという番号あり) 

「オフィサーズカントリー」というのはもちろん正式名称ではなく、
地図によるとこの部屋はウォーラントオフィサーの部屋です。
その隣がCPO(チーフ・ペティ・オフィサー) 下士官トップの部屋。

自衛隊だとそれぞれ「准尉」「海曹長」となります。

扉が閉じられており説明もありませんでしたが、地図によると
ウォーラント・オフィサー・メスということでした。

おそらくこの中に大きなテーブルがあり、彼らが従兵にサーブしてもらって
食事をする場所なのだと思われます。 

ウォーラント・オフィサーの部屋。
各部屋に二人が同居することになっていたようです。

大きな換気パイプが部屋のベッドの上を横切っていて、よく見ると
穴が空いて空気が出てくる仕組みになっています。
パイプには「ベント・サプライ」と書いてあるのが見えます。 

ちなみに、前回にも言いましたように、米海軍で初めて空調設備がついたのは
この「セーラム」の妹艦である「ニューポートニューズ」からです。
当然「セーラム」には空調はなかったことになりますが、つまりこれが
クーラーの代わりだったということでよろしいでしょうか。

ウィンドラス・ルームを中心に、艦首部分のセカンドデッキには
右舷に士官、左舷にウォラント・オフィサーの居室が集まっています。

この区画に、かつてセーラムのチーフウォラントオフィサーだった
ジョン・シャイファーの思い出のために、という銘板がありました。

我々の僚友でありセーラムのレストアに多大な寄与をし
そして惜しみなく助言を与えてくれた


下に続く細いラッタルがありましたが下は真っ暗。

士官の個室です。

エンジニアオフィサーも個室がもらえたんですね。
デスクの上には魔女が箒に乗って飛んでいるシルエットが書かれた

「ウィッチズ・ブリュー」(魔女のコーヒータイム、みたいな?)

という艦内のお知らせパンフが置いてあります。

 

「チャプレン」、つまり従軍牧師の個室。

従軍牧師は軍属、あるいは士官の階級を持っていることもありますが、
戦時国際法では衛生兵と同じように国際保護資格を有します。
軍人ではあっても非戦闘員、さらに赤十字によって保護される対象です。
 

従軍牧師の役割というのは

礼拝や教育、記念行事などの宗教に関連する式典の執行
戦場や医療の現場で臨終の人員を見取る

宗教教育や統率訓練、部隊や将兵に対する精神面からの支援など

多岐に渡ります。
息子の学校には専門のチャプレンが勤務していますが、
例えば学校で大きな事故があったとき(生徒の不慮の死や自殺など)
には生徒の精神的なケアを行うために待機し、学校側からも
問題があったらチャプレンに相談に行くように、と指示があります。

従軍神父は「特殊で高度な技能の持ち主」(wiki)として扱われるため、
例えば潜水艦ですら艦長と同じ個室待遇を与えられます。

しかし、特権階級にはノブレスオブリージュが伴うもので、従軍牧師たちも
いざという時には自分の命を犠牲にして兵の命を救うことがありました。

以前このブログでもご紹介しましたが、陸軍輸送艦に乗り組んでいた4人の司祭が、
Uボートに攻撃されて沈みゆく艦の上で乗組員の救助活動を行い、
最後は自分の救命胴衣を渡して艦と運命を共にしたということもあります。

四人の司祭


余談ですが、MKに「フォー・チャプレンズ」って知ってる?と聞くと、

「知らん。アカペラグループ?」

ちげーよ。


自分で産んでおいてなんですが、こいつは絶対にわたしの子だと確信しました。

従軍神父は赤十字に登録し、同じ扱いを受けることとなっていました。
このブラッドリー神父は、硫黄島の戦いそしてベトナム戦争にも参加しています。

検索すればいくつも動画が上がるくらい有名な神父だそうですが、
「セーラム」に勤務していたこともあったのでしょう。 

 

「チャプレン〜神聖なるサービス」

というメモには、従軍司祭についての任務の詳細が書かれています。
大きな船には必ず一人は神父が乗り込むことになっており、
彼らは多くの場合コマンディングオフィサー( 佐官クラスで艦長と同位)
の階級を与えられていました。

いかに従軍神父がキリスト教国家のアメリカで尊敬されていたかがわかります。
文章の最後にはこのような言葉が・・

「神無くして生きることは、すなわち困難な道を歩むことに他ならない」 



続く

 

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ボストン美術館〜ウッチ・ゲットー生存者の写真

2017-07-17 | 軍艦

今年もまたボストン滞在中に美術館に行くことができました。

ボストンではどうしてもここで食べておきたい!と思うレストランの一つが
この美術館の中にあるので、食事をしに行くついでに?美術鑑賞しようという感じ。
実にイージーな美術館の利用法ですが、アメリカ人にとってこれが普通です。

世界に冠たるコレクションを誇る美術館なのにやたらと敷居が低く、
明らかに日本におけるそれとは違って訪れる人の層が広いのがボストン美術館。

独立記念日前の週末というこの日、ボストンでは大雨が降りました。
どこかに行こうかという話になったとき、わたしたちは

「雨がひどいし、こんなときには美術館でしょう!」

といかにもいいこと思いついた!みたいなノリで来て見たら、
嗚呼考えることは皆同じ、美術館前で車を預かってもらうバレーは
もうとっくに許容量を超えて預かりを締め切っている状態でした。

仕方がないので、自力で外の駐車場に停めにいくことにしました。
駐車場のゲートの上にもさりげにアートが・・・。

目的はレストランなので、通り道の絵を鑑賞しながら進んでいきます。

これはだれが描いたかは不明ながら、ナポレオン・ボナパルト肖像。

おそらくここで最も人気のあるアメリカ絵画の一つであろうと思われる
サージェントの

「エドワード・ダーレイ・ボイトの娘たち」

たくさんの人が前に佇んでいました。
今知ったのですが、エドワード某はサージェントの義理の息子だそうです。
つまり、この娘たちはサージェントの孫ということになります。

「わしの孫たち」

というより絵画のタイトルとしてはドラマチックな気がしますね。

全裸にヘルメットと首からスカーフだけという兵士の大理石像。

おそらくモネのサーカスをテーマにした絵を眺める人。

空中ブランコ乗りのドヤ顔とピエロの表情に注目。

レストランの近くの天井を浮遊している人たち。

ところで、こういう具合に人が詰めかけている状態なので、当然ながら
レストランは予約だけでいっぱいになっており、入り口では
一列に並んだ人たちに向かって一人ずつマネージャーが

「今ご案内は受け付けておりません」

と説明をしておりました。

カウンターでパックのランチを買って、テーブルで食べることにしました。
果物のヨーグルト添えとロールチキンサンド。

この廊下の壁にもアート。
これはどちらも影ではなく、壁にペイントされた絵です。

手前の影はペイント、向こう側は本物。

ポツンと隅っこにかかっていた絵。
こう見ると普通ですが・・・・、

アップで見ると実に質感が気持ち悪い。

右側は食べ物を買うための列ですが、途中にアメリカ人が群がっているケースがあるので
何だろうと思ったら、ボストンレッドソックスのデビッド・オルティスコーナーでした。

ドミニカ共和国の貧しい生まれから大リーガーに登りつめた人です。

アワードにもらったダイヤの指輪が4つ飾ってありました。
熱心に写真を撮っている人がいっぱいいて、ボストンではヒーローなのだと思われます。



今回は特別展というのか、今まで見たことがないコーナーがありました。

強制収用所に入っていたある一人のユダヤ人が撮りためた写真。
それを全て箱に入れて土中に埋めてあったのを掘り起こしたというコレクションです。

その人の名はヘンリク・ロス。
ドイツ国内のウッチというところににあったリッツマンシュタット・ゲットー
(ウッチ・ゲットーともいう)にいた人で、そこでの写真が多数残されることになりました。

左、ユダヤ人がつける「ダビデの星」。
右はユダヤ人専用の郵便に使われたゲットーの切手。

ロスの写真の中から。おそらく息子と共に撮った写真。

ゲットーでポートレートを撮っているところだと思われます。
何をしているのか説明を読まなかったのですが、団体写真ではなさそうです。
おそらく一人一人のポートレートを撮るのにこうやって並んでもらって、
カメラが一人ずつ焦点を合わせたのかもしれません。

写真屋さんの手間省きというわけです。

ボロボロになった写真には、ユダヤ人たちが移動している様子が写っていました。

ドイツ当局より2万人の「労働不能」なゲットー住民をヘウムノ絶滅収容所へ
「移住」させよ、という移送命令があり、まずジプシーが、続いてユダヤ人が移送され、
1942年5月末までにかけて、ウッチ・ゲットー内の5万5,000人のユダヤ人は
ヘウムノ絶滅収容所へと移送され、そこでガス殺された、とウィキにはあります。

ゲットーの中の人たちの写真。
ダビデの星をつけている人もいます。
どうしてロスがみんなの写真を持っていたかはわかりませんでした。

ゲットー内でのユダヤ人たちが仕事をしている様子です。
一番右は皮革を加工しているようですね。

土中に隠されていたロスの写真のうち、プリントされていたもの。

会場のモニターではそれらの写真が解説されていました。

これもゲットーの中での出来事でしょうか。
道端で子供が倒れておそらく死んでいるのに、誰も近づきません。

いずれの写真もゲットー内の「モルグ」(屍体収容所)で撮られたものだそうです。
下の二枚は「ボディ・パーツ」と説明がありますが、なぜモルグに体の一部分が
しかもこれだけたくさんの足や手が積み重ねられているのかまでは説明がありませんでした。

いずれも歴史的な資料としては大変貴重なものだとは思うのですが、
これをボストン「美術館」で展示していたことについては少し違和感を感じました。

さて、ゲットー生存者の写真コーナーを出ると、仏教美術のセクションです。

それにしてもこの仏様は少し態度が悪くないか?
やっぱり中国の仏像は日本のとは佇まいが違う気がしますね。

こちらも中国仏像らしいです。

前にも書きましたが、ボストン美術館と日本は大変縁が深く、コレクションも膨大です。
ということで、日本に対して随所で敬意を払う展示が目につくのですが、これなどもそう。
美術館の中にまるで日本の寺院の本殿のような一角を再現して、
見学者はその中に設えられたベンチで仏像と対面しながら過ごすことができます。

「日本の寺にいるつもりで見学してください」

と現地の説明にはありますが、線香の匂いなどが全くないのでわたしたち日本人には
とてもそのつもりにはなれません。

阿修羅像の額には仏眼という「第3の目」があります。
手塚治虫の「三つ目がとおる」を読んだ方はご存知ですね。

この6本の手のうち2本は何も持っていないのですが、時代とともに
破損するか失われてしまったのでしょうか。

手の形を見ると、どちらも長剣のような長いものを持っていた気がするのですが。

前回にはなかった、大正時代の日本の版画を紹介するコーナーがありました。
左のグラスを前にした美人画は小早川清の作品で「ほろ酔い」。

王道の伊東深水の版画もありました。
左は「眉墨」で、右は小早川清の作品です。

こちらも伊東深水で「雪の日」という題がついているようですが、後ろに雪の積もった
クリスマスツリーがあるのが目を引きます。
アメリカ人はこの絵を見てどのような感想を持つのかちょっと興味あります。

これらも当時の版画家の作品ですが、ほとんどが雑誌の挿絵に使われたような、
今でいうとイラストレーターの仕事なので、当時は「芸術作品」という扱いではありません。

当時の文芸雑誌「文芸倶楽部」に掲載された絵だそうです。

小説のストーリーに合わせて描かれたものでしょうね。
手ぬぐいで頰被りしている女性が、男性のことを考えているの図。

なぜかこの後も日本に関する展示が続きました。
こちら、明治時代に典礼などで用いられた礼装のセット。

ジャケットの胸部分と袖にあしらわれた金糸の刺繍の精緻さ、
ズボンの金線の織りの見事さは、これぞ芸術作品という感じです。

今回のボストンミュージアムの特別展は、サンドロ・ボッティチェリでした。
イタリアに行った時ウフィツィ美術館で見たものが引っ越ししてきているようです。

小さい時に画集で見て大変怖かった覚えのあるこの絵に再会しました。

ケンタウルスの髪の毛をぐいっと容赦無く掴んでいるのはミネルバだそうです。
ケンタの「やーめーろーよー」みたいな歪んだ顔に、ミネルバの非情さが、
ある傾向の方々にはとても魅力的に見える(かもしれない)作品。

しかしなんだって髪の毛掴まれてるの?

「どの口が生意気言ってるの、このケダモノが!」

「ああっお許しくださいませ女神様〜」(ゾクゾク)

みたいな?

ウフィツィでは「ビーナスの誕生」の実物を見ることができましたが、ここでは
その習作のようなビーナスの単身立像が展示されていました。

教会に置かれていたらしい磔刑の十字架実物。

「見て見て、なんか矢印の落書きされてる」

「これ落書きじゃなくて後ろから釘を刺されてるんじゃあ・・・」

状況から見てパリスの審判らしい大作もありました。

パリスのもとにヘラ、アテナ、アプロディーテーがやってきて、
誰が一番美しいか判定させようとし、彼はこの世で一番美しい女を妻にくれると言った
アプロディーテーを、最も美しいとした

って話なんですが、

賄賂をやってまでこの羊飼いに自分を美しいと言わせることで、
女神たちにとって一体どういうメリットがあるのだろうか、

とかねがね思っているのはわたしだけではありますまい。

単に3人の女の見栄の張り合い?

しかも、賄賂の甲斐あってパリスが美しいと言ったアプロディーテー、

「パリスに、船を作ってスパルタに赴き、ヘレネーをさらって妻にするようにと命じた」

って、これ何?

「世界一美しい女を妻にさせてくれるって言ったから
あんたを一番美しいと言ってやったのに、なに?
俺が全部自分でするのかよ!

って普通の男なら言い返すと思うんですが。

さて、たとえ食事をしに行くだけのつもりでも、あまりに広いので、
自動的に美術鑑賞もできてしまうというボストン美術館。

今回の訪問にも満足して帰路につきました。

ホテルに向かう通称マスパイク、I-90は、驚くべきことに今回
前線で料金所が廃止されており、通行が無料になっていました。

 

厳密にいうと、全ての車にETCに当たる器械の取り付けが義務付けられ、
ゲートではなくところどころにある道路の上のカウンターのようなもので
車の通行がカウントされ、その料金は「州が払う」ということになったようです。

どういう経緯かは知りませんが、大変な変革です。

それはともかく、マスパイク沿いの壁面に、なかなかの芸術作品が・・・。

このミニヨン+ホーマー・シンプソンみたいなのを含め、気軽にアートに浸った1日でした。
(ただしゲットーの写真除く)

 

 

 
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”KILROY IS HERE (キルロイはここにいる)”〜重巡「セーラム」

2017-07-16 | 軍艦

さて、マサチューセッツはクインシーにある重巡「セーラム」見学。
メインデッキの一階下にあるセカンドデッキには、医療施設の他に
乗組員の胃袋を満たす食堂施設も全て集中してあります。 

ここは士官用のキッチン、「オフィサーズ・ギャレー」です。

階級ヒエラルキーが大きな意味を持つ軍艦の中では、士官とその他の扱いは
例えばキッチンも別、というようにきっちりと分けられています。

これは「コンスティチューション」など帆船の時代からのしきたりで、
一つ間違って船員の造反が起こったら船全体の危機にも繋がるため、
指揮系統と命令伝達をピラミッドのように統制し、あえて身分差をはっきりさせて
平等感を無くしてきたことから始まっています。

海上自衛隊にもこれはきっちりと受け継がれており、さして広くない自衛艦でも
幹部用と曹士用の調理室は別になっているのが普通です。

アメリカでは大きな軍艦はさらに「ウォーラント・オフィサー」という
ベテランの専門家である准士官の待遇を特別にしています。
日本だと「准尉」がこれに当たりますが、人数が少ないせいか、
アメリカ海軍が「スペシャリスト」という位置付けなのに対し、自衛隊は
「士官の補佐」という職種わけとなっているせいか、アメリカほどの
「特別待遇」はされていないように見受けられます。 

スープなどの鍋でしょうか。
下士官兵は並べられたフードウォーマーから自分で好きなものをとりますが、
士官の場合は全てテーブルセッティングのうえ、陶食器でのサービスとなります。 

同じギャレーを反対側から見たところ。
この区画は、「セーラム」が展示されるようになってからしばらくして、
地元のボーイスカウトがボランティアで整備、清掃を行って、
展示室としてみられるようにしたということです。 

なんと専用の肉切りテーブルが!

アメリカの空母では毎日牛三頭が消費されると聞いたことがあります。
まあ基本肉食人種が3000人から多くて5000人乗っていれば、
それくらい楽勝で食べてしまうんでしょうけど。

たかだか300人の乗員しかいない「セーラム」でも、肉切りテーブルが必要なくらい
毎日肉が消費されてたってことなんでしょう。 

こちらはメインギャレー。
兵員用のキッチンで手前のトレイに列を作り食べ物を取っていきます。
「セーラム」はボーイスカウトはじめ、誕生日パーティの貸し出し、
あるいは「ゴーストシップ企画」(笑)などでオーバーナイトをしているので、
この多人数用のキッチンは未だに稼働しているらしく、
電子レンジやコーヒーメーカーなど、最近揃えたらしい機器が見えます。 

大型冷蔵庫に右側はベーグルトースター。
アメリカでは普通にある回転式のパン焼き器です。 

グラス、ポーセレンのカップなど、割れるものを固定するラック。

大型のミキサー(グラインダー)はもうお役目が済んだようです。

そしてここは士官用食堂。
「セーラム」は士官の数が多いので、個室ではなく大きな食堂があります。
薄型のテレビもありますし、今も使われている模様。 

こちらも士官用食堂です。
この雑駁な感じが、士官用とは思えないのですが、大型艦なので
士官だけでも結構な人数がいたということなのだろうと思います。 

こちらがクルーズ・メス、乗員用の食堂。
こちらと比べれば壁の装飾やテーブル、椅子に違いがあるのがわかりますね。

乗員用食堂はだいたいどこでもそうですが、バーベット、つまり
砲塔の丸い壁の周りに置かれています。

今でも集会に使われるので、簡易椅子が積み重ねて置いてありました。 

キッチンの一部。ゴミは黒いゴミ入れへ。

ここにも大きな釜があります。
ラックの形状を見るとここはベーカリーでしょう。

自衛艦ではさすがにパンを艦内で焼くことはないと思いますが、
アメリカではパンが主食なので、ここがなくては始まりません。

自衛艦ではどんな小さな艦艇、潜水艦でも掃海艇でも、
ご飯をたく大きな炊飯器だけは必ず搭載していますが、これは
パン食の人種にはなかなかびっくりされるのではないかと思います。

手前のトレイに食後の食器を置いて、奥で洗います。
左側は食器洗い&乾燥機である模様。 

排水溝に繋がっている穴のうえにじょうご状のものをセットして
食べ残しや飲み残しを廃棄したのだと思われます。 

メニューが貼ってあります。
「ジェネラル・メス」 とあるのですが、「ジェネラル」は「一般の」という意味?
まあ、海軍にはアドミラルはいてもジェネラル(将軍)はいませんから、
そういう意味だと解釈します。

本日のスープ
グリルドビーフ・ステーキ
グレービー
グリーンビーンズ
スライスド・オニオン
シェフズサラダ
フルーツジェロ
パン、バター、飲み物

ある日のメニューはこのようにありますが、これはメニューというより
材料ではないのか?という気もします。
まあ、一品ずつ分けて書くとたくさんあるように見えますからね。

小皿にちょっとした一品を取り分けて皿数を増やし、
食卓を賑やかに見せるのと同じようなものですか。 

その下にはどういうわけか、サラダのメニューだけが番号とともにあります。
おそらくレシピがこの番号で管理されているのでしょう。 

ウォルドーフ・サラダ (ウォルドーフ・アストリアホテルが発祥と言われ、
リンゴやナッツ、セロリ、マヨネーズのドレッシングを用いて作られるサラダ)
とかはわかるのですが、「レタスサラダ」とか「オニオンリング」も

一応レシピがあるみたいです。

左から朝昼晩のメニュー。

朝 冷たいフルーツジュース
  朝食メニューから選択
  ジェネラルメス・ペストリー
  トースト コーヒーかお茶

昼 イギリス風仔牛のカツレツ
  リヨネーズポテト
  グリーンビーンズ炒め
  エッグカスタードソース添え

夜 トマトクリームスープ
  アソーテッドテーブルレリッシュ
  ポークチョップバーベキュー
  FFコーン炒め
  ほうれん草蒸したの
  アップルソースとココナッツクリームパイ

うーん、これは美味しそう。 

それからアメリカらしいなあと思ったのが、

「右舷側はピーナツバターのライン」

「左舷側はアレルギーのライン」

という貼り紙が子供のお泊まりの朝食用にでかでかと貼ってあること。
アメリカの子供はお弁当にピーナツバターパンをよく持たされたりして、
ピーナツバターの食に占める割合が大きいのですが、それだけに
アレルギーに対しては驚くくらい神経を払います。
逆にいうと、子供のピーナツバターアレルギー、多いんですね。

息子が行っていた幼稚園は共同経営の形をとっていて、お遊びの間に
危険がないか見張る当番が週に一回回ってきたり、自治会も親が運営していたし、
スナックタイムも、その日の当番の母親(月一回くらい回ってくる)が
自費で全員のおやつを用意することになっていました。

わたしは張り切って、いつもいろんなものを用意して行ったため、
先生に「彼女はスナックママの”プロ”よ」と絶賛されたくらいでしたが(自慢)
このとき「スナックに持って行ってはいけないリスト」の筆頭が
ピーナッツバターであったことは印象深い思い出です。 

キッチン廊下の壁には9つのポストがありました。

「セーラム」に乗務していたシェフは全部で9人。
これはそれぞれ在庫をチェックし調理に必要な食材をメモして
ここに入れ、調達をする部署がこれを元に食材を調達したということです。
 

「ゲダンク」というのは海軍特有の隠語で、ソーダファウンテンのことです。
その語源については戦艦「マサチューセッツ」で詳しく説明しましたが、
簡単にいうと

1、 ベンディングマシーンの操作音が「GEE-DANK」と聞こえるから
2、当時のマンガ「ハロルド・ティーン」の主人公ハロルドが、
  食べていた「ゲダンク・サンデー」から
3、中国語。 ”Place of Idleness" (怠惰の場所?)

ということです。

ここにもゲダンクの語源についてのいくつかの説明があったのですが、
わたしが以前調べた上記の説と少し違っていたのは

「ハロルド・ティーンの行きつけのお店はシュガーボウルと言ったが、
なぜかハロルドはここをゲダンクと呼んでいた。理由はわからない」

とあったこと、それから新説として

4、 ドイツ語で「TUNK」はグレービーやコーヒーを垂らしたりする意味があり、
DUNKINGというのはパンなどを液体にひたすという意味があるが、
そこまで行かずとも「少し柔らかくする」という言葉で
DUNKほどではない、 TUNKくらい、と言ったのが語源とする説
GE-とついているのはドイツ語であることを強調する意味でつけられ、
GE-TUNK →GEDUNK と変わっていったのではないかと言われる

まあ・・・いずれにせよ答えの出る話ではないので、アメリカ人も
色々と推測して楽しんでいるのかなといった感じを受けます。

このポスターには 

「映画が始まる前にゲダンクに用意してある飲み物とスナックをどうぞ」

と書かれています。

 

さて、映画は士官、CPO、兵員の各食堂などで行われるわけですが、
その前にリフレッシュメントをゲットするゲダンクの冒頭写真を見て
何か気づきませんか?

画面左の方です。

 "KILROY WAS HERE" IS HERE !

 

続く。

 

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ボストン雑感〜淡々と写真を貼るシリーズ

2017-07-15 | アメリカ

 

というわけでいつのまにかボストンでの滞在期間も終わり、今は西海岸におります。
息抜きに(ここのところ翻訳が必要なエントリ制作が続いて疲れました)
ボストンで撮った写真を淡々とあげていきます。

今年のジュライフォース、独立記念日は火曜日だったため、その前の金曜日から世間は
日本でいう大型連休の様相を呈していました。

わたしがボストンに来るといつも朝歩く州立公園に行ってみると、
ゲートが開く前になんと車の列ができています。
朝一番で公園に乗り込み、バーベキューや水遊びで一日過ごそうとする人たちです。

ところでこれが今回ボストンで借りていた車。
なぜか何回もトラブルで車を取り替えに行く羽目になった年もありましたが、
今年は日本車、しかも日産のローグという上物を手に入れたため、
何事も起らず無事に返すことができました。

しかし、車を選ぶとき、二台ローグがあったので、なんとなく
ニューヨークナンバーを借りたのがこの公園で裏目に出ました。

ゲートでは車一台につきいくら、で料金を徴収するのですが、
マサチューセッツ州ナンバーであれば8ドル、それでも安くありませんが、
州外車はなんと15ドルも徴収されることがわかったのです。

「あー、もう一つのローグ、マサチューセッツナンバーだったのに」

さすがにこれは考えになかった。

一年ぶりに歩くおなじみの公園。
いくつかボストンで公園を探して歩いてみましたが、ここが一番しっくりします。
車を駐めて一周歩いてきたら50分くらい、という距離もちょうどいい。

今回は珍しく滞在中に雨がよく降りました。
夏場は夜の間に降って、朝には止むということが多く、結局一度も傘をささずに
ボストンを去ることが多いのですが、今年は昼間ずっと降っている日もあり、
まるで日本の梅雨のような感じでした。

ありがたいのは雨の前後でも日本ほど蒸し暑くないことです。

雨が降った後だったので、風はひんやり冷たく、ウォーキングには最高でした。

平日は誰もいないキャンプエリアにたくさんの人が見えます。
朝早くからハンモックを張ったり、チャコールでバーベキューの用意をしたり。

「しかしこんな早くから来て一日どうやって過ごすんだろうね」

この日公園に朝からいたのは、全部と言っていいくらい皆ヒスパニック系でした。
朝っぱらから大音量でスペイン語の音楽をガンガンやっている人もいましたが、
周りが全員同じ民族なので、おそらく喧嘩にはならなかったでしょう。

なぜこうなのかというと、それはこの日がジュライフォース前の週末だったからです。

大型連休の間、中産階級以上のアメリカ人はどこか遠く、と言っても国内の、
例えばフロリダとかハワイなどのリゾート地、この辺ならケープコッドに行ったりしますが、
労働階級であるヒスパニック系はおそらく7月4日には飲食店かホテルか・・・、
とにかく人が遊んでいるときに働かなくてはいけないわけです。

アメリカの民族ビジネスは、アラブ系=ガソリンスタンド、インド系=土地、不動産、宝石
韓国系=クリーニング店とマッサージパーラー()、中国系=郵便局、免許センター、
そして南米系はハウスキーピング、ウェイトレス、そしてガーデナーというのが相場です。

彼らは前の週末かあるいはジュライフォースが終わってから代休をとり、
8ドル出せば1日過ごせる公園で休暇を楽しんだりするのでしょう。


それにしても、写真に写っている家族、朝からなにやら一生懸命食べていますが、
オバアチャンから子供まで満遍なく太っています。

メキシコって実はさりげに世界一デブが多い国だったりするんですよね。

こちら、ごく日常的なルーチンワークのように散歩をしている人(と犬)。

この州立公園は、池とせき止めたダムの下の低地とで成り立っています。
水辺があったり鬱蒼とした山林があったり、狭い範囲に変化のある景色がみられるのも
わたしがここを好きな原因です。

足元を注意して歩いていると、時々ツチガエルに遭遇します。
アップにしましたが、このカエルくんの大きさは小指の爪よりも小さいです。

おなじみのガチョウの群れ。

鳥さんお食事中。毛虫を捕まえましたね。
ものすごく食べるのに苦労していましたが、もしかして毛虫の毛のせい?

食べたらなんかやばいことが起こりそうな気満々のきのこ的なもの。

わたしたちが写真を撮ったりしながらぷらぷら歩いて行くのに対し、
運動する気満々のMKは親を置いてズンズン先を歩いております。

これは珍しい。
ここで初めてツバメを見つけました。
どこで生まれたのか、飛び始めてまだまもない子ツバメのようで、
少し飛んでは先に降り、こちらが近づいて行くと慌ててまた飛ぶといった具合。

羽を広げると、背中の部分が綺麗なブルーであるのに初めて気づきました。
ツバメって真っ黒じゃないんですね。

怖いのか、こちらを盛んに気にしながらぷるぷるしています。

まだ初心者マークのツバメくんたち、外敵に襲われないうちに飛べるようになるんだよ。

さて、ボストンでいつも買い物をするブティックが前回も言いましたように皆閉店したので、
今年はプレミアムアウトレットに足を向けてみることにしました。

ボストンとプロビデンスの間に、WRENTHAMと書いてレンサム(日本語ではレンタム)
という町がありますが、そこに大きなアウトレットモールがあるのです。

去年に続き、日常着にお役立ちのブランドをここでまとめ買いしました。

住んでいた地域でもっともハイグレードなモールには、一流ブランドも入っています。
今年一番ウケたヴィトンのディスプレイ。

「これはきもい」

そう言いながらみていると、いきなり閉じていた目が

Ф Ф カッ!

と開いてびっくりしました。

このモールにはニーマンマーカスというアメリカではもっとも
高級志向と言われているデパートもあります。

ニーマンマーカスの中には結構ちゃんとしたものを食べさせるレストランがあって、
今年も行ってみました。

ちなみにこのパーティションの向こうにはディオールとかセリーヌとか、
とにかくハイエンドなお洋服売り場となっております。

1日に一着売れるのかというくらい、いつ見ても人がいません。
まさか三越みたいに外商お得意様が家を回るシステムでもないだろうし・・。

ホールフーズでも、ズッキーニをヌードル状にカットしたものを「ズードル」と称し
パスタの代用として売っていますが、ここではズードルパスタが食べられます。

今回ホールフーズで一度だけ、パックの寿司を買ってみました。
マグロとアボカドをドーナツ状にしたご飯の上に乗っけて、
余ったところにふりかけをかけたその名も

「ドーナツ・スシ」

でございます。

味は・・・ご飯にマグロとアボカドをのせた味がしました。

MKのサマーキャンプが行われていた学校の近くにある、
滞在中は何度か通ったアイスクリーム屋さんに、今回一度だけ行ってみました。

懐かしい通学路でつい写真を撮ってしまうわたし。
この画面の右側にある教会の墓地には、南北戦争の犠牲者のお墓があります。

というわけでまたやって来た「ウルマンズ・アイスクリーム」。
今年は横に「ケトルズコーン」というテントが出ていましたが、これが何かわからず。

お店の屋根の上にある風向計が、風見鶏ならぬ『風見コーン』なのに初めて気づきました。

フローズンヨーグルトのブラックベリーというのを頼んでみました。

これが一番小さな「キディサイズ」。
日本で買う六個パックのハーゲンダッツ三個ぶんくらいでしょうか。
この上が「ワンスクープ」で、ほとんどのアメリカ人は「ツースクープ」を食べます。

車の中から食べながらアイスを買うアメリカ人を観察していると、
痩せた人はキディサイズかワンスクープ、太った人は子供でも
ツースクープにかぶりついていることがわかりました。

サイロのある道具入れ。
向こうには顔を出して写真を撮るパネルもあります。

アイスクリームを食べながら牛を近くで見ることもできます。でっていう。

さて、モールに戻ります。
西海岸ではもう珍しくも無くなったテスラのショールーム。
去年どこかの駐車場で颯爽とやってきたテスラがガルウィングのドアを開けたら、
周りの人が「おおお〜」みたいな感じで目を丸くしていたものですが、
こちらでもモールにショールームもできて、じわじわ数は増えて来ているようです。

ちなみに息子は「大きくなったら俺テスラに乗る」そうです。

同じモールにこういうお店もあります。

ニューベリーコミックスというこのお店は、基本コミック、漫画を売っているのですが、
本は売り物のごく一部で、あとはキャラクターグッズがほとんどです。

最近の主流は、ポケモン以外では日本のリラックマ、ぐでたまなど。
くまモンなどのご当地キャラ以外は全てアメリカでも有名です。

ハンドスピナーと言って指に乗せてクルクル回す(だけの)もの。
これに「ニンジャ」という名前をつけて売っていました。
これこそ「で?」っていうオモチャですが、日本でも今は売っているそうですね。

このコミックショップでつい買ってしまった、猫キャラクター「プシーン」
シッポ&猫耳つきパーカー。

日本っぽいキャラクターですが、作者はアイリッシュ系の白人女性です。
小さいときに日本にいたことがあるとか。

モデルは息子。
じ、自分で着るために買ったんじゃありませんからね?

 

 

 

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シック・アイランド〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-13 | 軍艦

重巡「セーラム」の見学者が行ける一番高いところである03レベル、
つまりナビゲーションブリッジを見学したので、
メインデッキから一階下にあたるセカンドデッキまで降りることにしました。

降りて来る途中にあった「トランスフォーマー」。
日本語でトランスフォーマーというとタカラトミーのあれで、
マーベルと組んで今やアメリカ人大好きシリーズのあれを思い浮かべますが、
つまりは変圧器のことです。

「トランスフォーマー」というネーミングはアメリカ人的に当初
「変圧器・・・・だと?」って感じだったのではないかと思われますが、
言葉そのものの意味、「元の形になる」というのがシャレっぽくて受け入れられたのかな、
とわたしはアメリカでトランスフォーマーの上映初日、満員の映画館で思いました。

ちゃんとドアに本艦搭載の3連装主砲が描かれております。
海自でいうと砲雷科士官室、というところでしょうか。

火災の時に必要な装備の倉庫。
海水を組み上げるためのポンプ、防火服、マスクやボンベなど。

 

現在は何も置かれておらず、ウォータークーラーと
なぜかコピー機があったりする広い部屋。

セカンドデッキは主に士官の居住区になっており、
兵員らのバンクがある部屋はこれより下の階です。

士官の中でも上級の乗組員の居室であろうと思われます。

ダイヤル式のもしもし電話が鎮座していました。
コードが螺旋ですらないという・・・・。

ここで階下に続く階段が出てきました。
が、中途半端に階を変えるとどこにいるのかわからなくなるので、
とりあえず無視して進みます。 

白いヘルメットに赤十字のマーク。
タイルの床。
これはなんとなくシック・ベイ(医療区画)の予感?

やはりそうでした。
いざという時には大量の乗員を運び込めるくらい広い部屋に、
天井には無影灯があります、

向こう側のハンガーには衛生班が身につけるグリーンの術衣が無造作に。
手前にあるのは酸素発生器(簡易)のようです。

 

・・・・どう見ても婦人科用診察台なのだが。

反対側のドアから見た同じ部屋内部。
廊下を挟んで中央にあり、どこからでも入れるようになっています。

デスクの上にあるのは遠心分離機あるいは消毒器。

シャウカステンに乗っているのは肘正面からのレントゲン写真のようです。
 

こちらは普通の診察室のようです。
地図には「サージェリー&リカバリー」室とありました。

印象としては、戦艦「マサチューセッツ」よりスペースに余裕があるということ。
廊下もそれほど狭いというわけではありません。

 

「左舷F.M.カットアウト」

などと記された配管とバルブ。

歯医者です。

予約は朝の集会の後で電話でとってください
ただし緊急時はその都度
 

緊急時ってのはつまり虫歯が痛くて死にそう〜!みたいな時のこと?

展示がなかなか凝っていて、いかにも治療中のような小道具が置かれています。
トレイの上に何か色々と乗っていますが・・・・

わざわざコットンに血を染み込ませて治療中を表現しております。

さらにその中にさりげなく入れ歯があるという素敵な演出。
そもそも入れ歯の必要な人なんて乗組員にいたんですかね。

区画には仕切りで区切られて二つの診療台がありました。
同時に二人まで診察を受けることができるということになりますが、
さすがに歯科医は一人しかいなかったんだろうな。

タイプライターがあるので、 処方箋を調剤のために作った部屋かもしれません。

細かい引き出しと瓶がたくさん並ぶ、ここは調剤室。

なぜか電気が消えた暗〜い部屋がありました。
アクリル板でベッドのコーナーには立ち入りできないようになっています。

安静が必要な患者のための病室です。

ここはなんの病室?と思ったら、普通に床屋でした。
三つの椅子が向かい合うようにセッティングされていて、軍隊の床屋では
出来上がるまで自分がどんなカットをされているかもわからないものなのか?
と思いました。

まあ黙って座れば、自動的にクルーカットにされていた時代ですしね。

遠くてよくわかりませんが、ここでカット中の床屋さんの写真があります。

軍艦の中では鏡はこのように壁から浮かせてがっつりと固定させます。
カットが済んだ人は、自分で鏡を見て初めてどんな髪になったのかわかるというわけ。

 

「セーラム」の乗組員は士官と兵員合わせて1738名。
戦艦「マサチューセッツ」と「セーラム」」の艦体の大きさの違いは長さ10m、
幅約10mしか違いませんが、排水量を比べると「セーラム」1700トンに比べて
「マサチューセッツ」35,000トンと、二倍以上違うのです。 

それだけに「マサチューセッツ」の方がかなり区画が複雑で広く、
各部署が入り組んでいるのに比べ、「セーラム」の方はほとんどの施設が
メインデッキの一つ下の「セカンドデッキ」に集まっているという印象です。


それと、残念だったことは、「セーラム」は機関室を毎日公開していないことでした。

機関室は一応、必ず係員が同行するツァーに参加すれば見学することはできますが、
そもそもこの「セーラム」自体週末三日しかオープンしておらず、この日は料金を査収する
入り口のブースにすら人がきていない(ので払わずに入ってきた)
という状態で、 誰がいつ一体機関室ツァーを行なっているかというのも謎のまま。

一体どうなっているのかとHPを見てみれば、

ボランティア活動

ボランティアの仕事がうまくいったので信号旗の「ブラボー」「ズールー」
を掲揚したりして盛り上がっているようです(T_T)

が、はっきり言ってツァーのことなど全く触れられておりません。

どうも、「セーラム」の修復は、こういう有志の協力なしには進まず、
艦内ツァーもボランティアがいるかどうかにかかってくるという状態らしく、
それも「セーラム」に思い入れのある元乗組員が中心とあっては、
進む作業もなかなか進まず、ツァーどころではないのではと思われます。

第一ボランティアというのは仕事で忙しい人はできないわけだし、
どうしてもリタイア後のご老人ということになってしまうわけで・・。

4年後には元乗員のボランティアも数が減ってくるのは必定ですが、
その時「セーラム」をここに繫留しておくための契約が切れます。


この歴史的重巡洋艦を後世に残せるかどうかの試練は、その時やってきます。

 

続く。 

 


 

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”アメリカ人はなぜコーヒーを好むのか”〜ボストン・ティーパーティ博物館

2017-07-12 | アメリカ

ボストンティーパーティ博物館についてのお話、最終回です。

わたしたちのパーティが乗り込み、三つの茶箱をボストン湾に投げ入れた
エレノア号という船は、実際にティーパーティに参加し、茶箱を投げ入れた
実際の船を資料に基づいて再現したレプリカです。

ただしゼロから造り上げたのではなく、1936年に造られた船(左下)を
改造して現在の形にし、ここに展示してあるのだそうです。

「歴史の浅い国」といわれるアメリカの、その誕生に関わる出来事ですから、
それだけに史実を語り継ごうとする意志は他国より強くなるのかもしれません。

船を降りれば終わりかと思ったらとんでもない。
さすがに28ドルもの見学料を取るだけあって、この後、
まず桟橋で先ほどのルーシーさんの説明がまたひとしきり行われます。

桟橋には当時の商船が積んでいた貨物一式が再現されていました。

レモンがやたら目立ちますが、例えば1772年には、35万個の注文に対し、
200万個以上のレモンがボストンに荷揚げされたという話があります。

イギリスは植民地に対し、自分とこでできた余剰品を売りつけてたんですね。

茶法では、関税なしでアメリカに茶を売ることを認める法律だったため、
アメリカの業者が扱うより安い茶が国内に入ってきて、そのため
国内の業者がやっていけなくなったというわけです。

ティーパーティ当日、60人から90人といわれる名もない男たちは、
顔を消し炭で塗ってインディアンのふりをし、迅速に、そして静かに
斧で各船のハッチを壊して船内に入り込み、340ものお茶の箱を海に投下しました。

重さにすると46トン、被害総額は現在の価格で140万ドル(一億五千万円)。
まあこれだけ放り込めば、海水も紅茶の色になったかもしれませんね。

この様子を、1000人もの見物人は、ただ黙って、静かに眺めていたそうで、
事件の現場となったグリフィン湾には、ただ斧が木を打ち破る音だけが響いていました。

全てを終えた後、「愛国者」たちは肩に斧を担ぎ、街を行進しました。
自宅からそれを見ていたイギリス軍のモンタギュー提督は、彼らの列が通り過ぎる時、

「おお、諸君は結構なことをしてくれた!
そのインディアンの衣装でさぞ面白かったことだろう。
しかし、覚えておくがよい。
諸君はいずれバイオリン弾きに金を払うことになるぞ

"pay the fiddler"というイディオムは、自分でしたことは自分に返ってくる、
とか、天に唾を吐く、という意味で使われます。

それを聞いていたジョン・アダムスは

「我々にとって全てのうち最高の瞬間だった

つまり効いてる効いてる、と日記に書いているそうです。

冒頭写真の船首飾り、フィギュアヘッドは船の名前と同じ「エレノア」です。
そのエレノアが誰だったかについてはおそらくみなさんもあまり興味がないと思いますが、
船を表す代名詞が女性形であるわけは、昔船の名前に船主なり偉い人の
関係者の女性の名が使われたからであったことがわかります。

博物館の後ろ側にはボストンのフィナンシャルディストリクトを控えます。

何か面白い絵があったのでアップにしてみました。
イギリス側のプロパガンダで、タイトルは

「ボストニアンが”税男”にやったこと

ロイヤリストだった税関員ジョン・マルコム(アメリカ人)がパトリオットである
靴屋を殴ったとかで、愛国者たちが彼を「リバティツリー」の前に引き摺り出し、
服を脱がせてタールを塗り、鳥の羽をまぶして(靴屋との諍いに理由があるらしい)
税関の手数料を放棄するように迫りました。

彼が拒否すると、リバティツリーに吊るすぞと脅しをかけ、
さらには耳を落とすといわれて泣く泣くいうことを聞いたとか。

この絵では沸騰したお茶をマルコムの口に無理やり注ぎ入れていますが、
これはイギリス側の制作だったからで、イギリス側から見ると文字通り

「アメリカに煮え湯を飲まされた」

みたいな表現のつもりだったのでしょう。

この事件は英米双方で報道されましたが、たがいが相手を
非難しまくったであろうことは想像にかたくありません。

ちなみにマルコムはその後イギリスに移民したということです。
まあそうなるでしょうな。

1774年、ノースカロライナ州イーデントンの女性41人が茶会事件に呼応して
お茶をボイコットする声明を出しました。

これを「イーデントン・ティーパーティ」と言ったとかいわなかったとか。

ちなみに、2009年、アメリカの保守派が「ティーパーティ運動」と称する
ポピュリスト運動を打ち出しましたが、なぜティーかというと、

Taxed Enough Already(もう税金はたくさんだ)

だからだそうです。誰うま。

船を降りた後、皆はしばらくそのへんをウロウロして見学などを行います。

トーマス・ハッチンソン(上)とサミュエル・アダムス。

ハッチンソンは直轄植民地で著名なロイヤリストの政治家でした。

イギリス政府が植民地に押し付けた税法には反対していたのですが、
ジョンやサミュエル・アダムズからはイギリスの税を推進する者として
敵認定され、さらにはイギリスからも独立運動のきっかけを作ったとされ・・。

マサチューセッツに対する愛をイギリスに対する無批判の忠誠に捧げたことで
板ばさみとなり、結果どちらからも憎まれてしまった悲劇のロイヤリスト。

晩年は不運にもイギリスに追放されてしまったそうです。

当時の貨物は人力で滑車を使って積み込んだわけですが、
ここには改良前と改良後、二つの滑車が再現されています。

左の滑車では持ち上がらない茶箱が、右のでは軽々と。
なんかこういうの物理の授業でやりましたよねー。

中国茶でも高価なスーチョンなどの茶は小さな箱に入れられましたが、
安い茶は大きな箱で運送したため、それらは平均150キロくらいの重さになりました。

滑車でも使わないととても船の上には上げられません。

グリフィンズワーフはティーパーティの現場となった港。

建物の反対側になんと別の船がありビックリしました。
こちらのパーティから少し遅れて今は茶箱を放り込んでいるようです。

埠頭にあった行き先札には

「レキシントン」「ケンブリッジ」「セーラム」「コンコルド」

など、ボストンではおなじみの地域が書かれています。

向こう側の船の扇動人は若い男性。
手にしたカップで合間に何か飲みながら仕事をしております。

スターバックスのマグを使ったりせず、昔のビアジョッキのようなマグに
間違いなくコーヒーを入れて飲んでいると見られます。

建物の外側にはわかっているティーパーティの参加者の名前が刻まれています。
「ティーパーティ参加者」=「パトリオット」(愛国者)という認識なんですね。

 

この後はさらに建物の中に入り、映画などを見せてもらえます。

「コンコルドブリッジ 1775年の19人」

と題した絵は、撮影禁止の展示場を出たところに飾ってありました。
ご存知のように、独立戦争の先駆けとなった、イギリス軍とアメリカの民兵の間の戦いです。

オールドノースブリッジの戦い。

結論から言うと、この戦いはアメリカ側の勝利であったのですが、
ここでは数的にも戦術的にも劣っていたイギリス軍は不利になり逃げたと言うことです。

館内で見せられた映画、これはアメリカ人ではないわたしも胸に来るものがありました。
このころの戦争ですから、白兵戦ですが、戦いに身を投じる覚悟で
レキシントンに立つアメリカ人たちの悲壮感がドラマチックに表現されていたからです。

前にも一度お話ししたことがありますが、アーリントンに住んでいた時、
隣町のレキシントンで、独立記念日には地元の人たちによる

「レキシントンの戦い・再現ショー」

が行われているのを見ました。
こんな衣装をどうやって調達してどこに収納しているのかとわたしは目を見張ったものです(笑)

この絵には左に太鼓奏者がいますが、基本当時の戦闘は音楽付きで行われました。
そして、その戦いを100人ほどの見物人が見守っていたといいますから悠長なものです。

戦いの前に、指導者は民兵たちに向かって「ハザー!」と呼びかけ、
彼らの士気を煽りました。

と言うわけですっかりティーパーティ事件とその後の独立戦争につながる
動きに詳しくなった(つもりになれる)見学が終了。

出たところは即カウンターでお茶とお菓子が食べられるようになっていました。

おみやげ屋さんでは、茶箱を再現した木箱に詰められた紅茶を売っています。

茶会事件の後、沿岸に流れ着いた茶箱を拾ってそれを保持していた人がいて、
現物を室内展示では見ることができましたが、こんな綺麗な色だったとは。

ここには帆走フリゲート「コンスティチューション」の修理の時に出る廃材で作った
万年筆などの記念品を購入することもできます。

わたしも去年ボールペンを買って帰りましたが、この599.99ドルって高くない?

ティーパーティ博物館なので、お茶のセットも売られています。

さすがに本物のティーセットはいらん、と言うアメリカ人向けに、ミニチュアセット。
小さい時のわたしなら、目を輝かせてねだっていたと思われます。

ところで皆さん、最後にこの「エレノア」船長室の写真をもう一度見てください。
船長の横には手紙を書きながら飲んでいる紅茶があります。
イギリス人が紅茶付きなのはもう伝説のようになっている鉄板の事実です。

ところがアメリカ人は紅茶というものをまず飲みません。

アメリカ人はいかなる場合もコーヒーファースト。
逆に紅茶愛好家には肩身がせまいくらい、スーパーマーケットでも紅茶売り場は小さく、
バルク(量り売り)の紅茶をレジに持って行ったら、

「これ何?」

と聞かれるくらいのお土地柄。
最近でこそグローバリズム(笑)とかの影響で、西海岸では紅茶の店も出現してますが、
マニア向けといった感じで、スターバックスほど人が入るということはまずありません。


アメリカに住んで以来、あらゆるシーンでそのことを実感していたのですが、
今回改めてティーパーティ事件のことを考えてみたとき、
あたかも神の啓示のように(大袈裟だな)その理由がストンと腑に落ちたのです。

アメリカ人の紅茶に対する拒否感(そこまで行かずとも冷淡さ、興味のなさ)
の原因は、
遡れば植民地支配していたイギリスへの怒りが

「(イギリスの)紅茶なんか飲んだるかーい!今すぐ持って帰りやがれい!」

という愛国→独立運動とシンクロしたことにあるのではないか。

 

そういう仮説のもとに改めてティーパーティについて記された英語のwikiを読むと、

「ジョン・アダムスと他の多くのアメリカ人は、茶会事件以降
紅茶を飲む行為そのものが、非愛国者のそれだと考えました。
革命の最中からそれ以降、アメリカでは紅茶を飲む人が減少し、
その結果としてコーヒーが好ましいホットドリンクとされました

とあります。

わたしは、この茶会事件が、アメリカ人をアメリカ人たらしめているコーヒー志向を
形成した、という史実にこの人生で初めて気づき、猛烈に感動したのでした(嘘)

 

 

 

 

 

 

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エレノア号のキッチン〜ボストン ティーパーティ博物館

2017-07-11 | 軍艦

 

いつも博物館や展示には行って帰って来て、ここで書くために調べ、
「はえー」となることが多いのですが、今回は、この博物館が、
2002年に火災を起こし、一旦閉鎖していたということを知りました。

当時アメリカ、特にボストンは同時多発テロショックのさなかにあり、
そんな時にどういう理由にせよアメリカ独立の象徴的な出来事であった
ティーパーティ博物館が焼けてしまったというのは何か不思議な気がしますが、
ともかくもそのため10年くらいは博物館は休館していたのだそうです。

道理で毎年ボストンに行っているのに気がつかなかったはずです。

さて、この博物館は「ロールプレイ」が売り物になっていて、入場者に配役が課され、
サミュエル・アダムスの演説の時などにアドリブで、
イギリスの課税は許せない!お茶など飲まなくていいから送り返せ!
と朗々と演説をする、いわゆる「自由の息子」役の人が出現することもあるそうです。

わたしの参加した組は、キャストのお姉さんが前もって女の子にカードを渡し、
それを読むように仕込んでいました。

船に乗り込むと、そこだけ1773年な雰囲気にしているおじさんが。

ちなみに、この人たちを「キャスト」と呼び、常にHPで募集しています。
某ディズニー関係のランドでの「キャスト」という呼び方には違和感があったのですが、
ここのスタッフをそう呼ぶのは当然です。
キャスティングされてるわけですからね。

募集ページによると、演劇の経験は必要ないということではありますが、
みなさんの熱演ぶりを見ていると、劇団員のアルバイトではないかという気がしました。

「全員乗艦できるように、皆さんもっとこちらに詰めてくださーい」

「さて・・・」

というわけで、どうやら「自由の息子」の一人であるらしい彼の演説が始まります。

「自由貿易で入ってくるイギリスの輸入品が我々の生活を苦しめる!
このお茶を送り返せないのなら、今ここで茶を海に捨ててやろう!」

「ハザー!」

「自由か、さもなくば死を!」

「ハザー!」

えー・・・あの・・・・えーと?

茶箱を放り込む役目は、大抵子供たちなのですが、
大人の人垣の向こうでいつのまにかイベントは終わっていました。

しょぼい。

これではボストン湾はティーポットにはならないと思う。

ちなみに、この後案内された室内の展示には、流れ着いて保護された
本物の茶箱を、ガラスのチューブの中で全方位が見られるように、
くるくると回転させているというものがありました。

実際の茶箱は本当にこの大きさで、ほぼ四角。
表には花をあしらった模様が描かれたものでした。
あの大きさなら、放り込むのになんの苦労もいらなかったと思います。

茶箱を放り込んでしまうとイベントは終わってしまうので、皆は船内を見学します。

ルーシーさんが持っているのは海軍精神注入棒・・ではなく、
「ビレイピン」といってロープを八の字に巻き留めるものです。

穴から抜いて皆に見せてくれています。

この後は、甲板の下に皆が降りて中を見学。
樽と東インド会社のマークが入った茶箱が隅に積んであります。

船首の尖った部分に、ハの字状にベッドが4人分作り付けられています。
下の段では船員がお休み中。

左の階段から降りて、船内を一周すると右の階段から上がる一方通行。
しかし、こんな船でイギリスから苦労して大西洋を渡ってきたのに、
積み荷を捨てられてしまったイギリス人の気持ちも少しは考えてみよう。

「立ち止まらないで、自撮りや集団での写真撮影はご遠慮ください」

と言われて皆が一列になって進んでいくと、船尾部分に船長室がありました。
アメリカ人たちがこの「エレノア」号に忍び込み、茶箱を捨てているというのに、
イギリス人の船長は悠長に手紙を書いています。

「えー、アメリカ人が茶箱を海に捨ててしまいました、と・・・」

船尾部分は明るくスペースにも少し余裕があります。
船の上の階級差が大きく船長の権限が絶対だったのは、大航海時代からのしきたりです。

船長は水も比較的潤沢に使えたのでしょうか。
水差しと洗面用のボウルがあります。

小さい船室なのですぐに上に上がってきてしまいました。
しかし、しばらくの間下船せずに船上で過ごすことになります。

船首側にはアーチに鐘が。
帆船では時を知るために鐘は大事なツールでした。

30分毎に鳴らされる鐘の数によって時間を知るシステムですが、
1回打つ1点鐘から8回打つ8点鐘まであり、4時間で1サイクル。

例えば、正午が8点鐘になっているので、午後零時半は1点鐘に戻り、
以後30分毎に1打ずつ加えて行き、 午後4時はもう一度8点鐘になります。

ただし、午後6時の4点鐘、午後6時半の5点鐘の時には1点鐘を打つのが慣習です。
事故が起こりやすい「魔の刻」だから変化をつける、という説があります。

マストを見上げてみました。

現物通りに再現しているものとみられますが、そもそも博物館がオープンしたのは
1973年ということなので、この船そのものには歴史的価値はありません。

火事で失われたのは100年前からの建物で(東部では珍しいものではありませんが)
その原因というのは、コングレス(議会の意)ストリート沿いの橋の上の
工事現場で鋼梁を切断していた火花が飛んだからだったとか。


ボストンのローカルニュースに載った写真ですが、これによると
火災の起こったのは真昼間。

向かいで釣りをしていた人が

「あっという間に広がった。内部は地獄のようだった」

とか証言しているようですが、人的被害はなかったのでしょうか。

甲板には鶏を飼っておくケージがありました。
昔は冷蔵庫がないので、生きた鶏を乗せて海上で捌くしかありません。

 

冷蔵庫がなかった時代、帝国海軍の軍艦に牛を積んでいる絵が残されていますが、
鶏はともかく、牛を屠殺するのは技術も要るので誰もやりたがらなかったとか。

操舵は甲板で行ったんですね。
舵輪が回す軸に巻きつけたロープが舵に繋がっているということのようです。

鶏小屋の横にはなんとキッチンがありました。
時化の日には料理できなくなるんじゃないですかねこれ。

と言いたいところですが、ここは「マンガー」(Manger)といい、
船首部の水除け仕切りだそうでです。

イギリスからアメリカまで、何日でやってくることができたのかはわかりませんが、
野菜や果物などの生鮮食料品は一週間で底をついたはずです。

彼らの主食は「コンスティチューション」の時にもお話ししたように、
基本、塩漬けの肉と硬いビスケット(ネイビービスケット)でした。

ティーパーティ事件のあった1700年代後期は、食料事情が改善されて
砂糖や干しぶどう、チョコレートなどやコーヒー、紅茶など、
嗜好品が登場したものの、軍艦では士官しかありつくことができませんでした。

余談ですが、グルメの国でありイギリスと仲の悪かったフランス海軍では、
16世紀ごろでも、船上にしつらえたレンガの竈で温かい食事とパンが用意され、
腐りかけた肉や堅パンとは無縁であったといわれています。

さらに遠洋航海の場合、サラダ用の野菜をプランターで作っており、
将校の食事に関しては、イングランドよりはるかに条件は良かったとか。

この「エレノア」号は軍の船ではありませんが、商船なので幹部は

1日当たり

ビスケット 1-1/4ポンドまたは柔らかいパン1-1/2ポンド
酒 1/8パイント
砂糖 2オンス
チョコレート 1オンス
紅茶 1/4オンス

1週当たリ

オートミール 3オンス
からし 1/2オンス
こしょう 1/4オンス
酢 1/4パイント

1日当たり(それが入手出来るかぎり)

生肉 1ポンド
野菜 1/2ポンド

こんな感じの食事をしていたはずです。

壁には火を起こすためのフイゴがかかっていました。
木製の船で火を焚くというのはなんだか他人事ながら不安な気がします。

参加者は甲板でそれぞれ記念撮影に興じていました。
ルーシーさんと一緒に写真を撮りたがる人は多く、大人気です。

ちなみに彼女の瞳は淡いブルーだったのですが、そのため
同じ色であるこのドレスが大変よく似合っていました。

サイズもぴったりだし、もしかしたら彼女のために作ったのかもしれません。

同時期、フランスの貴族たちは巨大なパニエや奇抜なヘアスタイルを競い、
不満を持った民衆に革命を起こされてしまうわけですが(笑)
アメリカではそもそも貴族階級というのが存在せず、皆が
フランスの「市民」のような洋服を着ていたと思われます。

男性も、要職にある人間はバッハのようなカツラをつけていた頃で、
これは
アメリカでも同じでした。


この男性は観光客の質問を受け付けていたのか、
ずっと周りに人が集まっていましたが、彼がこの時、
ずっとティーパーティー事件の時の「自由の息子」
として話をしていたのか、素に戻っていたのか、
それはわたしには最後までわかりませんでした。

多分、近くで話を聞いていたとしてもわからなかったと思われます(笑)

 

続く。

 

 

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「今宵ボストン港をティーポットに」〜ティーパーティ博物館

2017-07-10 | アメリカ

今回の滞在は極端に短いだけでなく、毎日用事が入っていて、
いつものように、なんとなく行きたくなったところにふらりと行ってみる、
というようなことができないので、いつものところに滞在して
長年慣れ親しんだお店に立ち寄ったり、懐かしい道を通ってみたり、
そんなことをするだけで終わってしまいそうです。

それはいいのですが、毎年必ず一回はチェックしていた店が、
のぞいてみたら軒並み店じまいをしていたのはなかなかショックでした。

つまりこれは、アメリカでもオンラインが流通の形を変えてしまって、
皆わざわざ実店舗に行って買い物
をしなくなってきたからだろうと思います。

買い物のついでにちょっとした世間話をするのを楽しみにしていた、
ウェルズリーのイタリア人のおじさんがやっていた小さなブティックも、
おじさんが引退してしまった(もしかしたら亡くなったかも)のか去年閉店、
東部中心に展開していた別のお気に入りの店も、この6月でやめてしまったとか。
ホームページにはネットを媒介とした流通形態が主流となってやっていけなくなった、
と閉店の理由が書かれていました。

一つの時代(つまりアナログの?)が終わった、という感があります。

 

さて、ある日の午前中、わたし一人で行動する時間ができたので、
思い切って?ボストンティーパーティ博物館に行ってみました。

住んでいた時からもうなんだかんだ13年以上はボストンに縁がありますが、
USS「コンスティチューション」もそうだったように、案外住んでいると
わざわざこんなお上りさんガイドブックに載っているようなところには行きません。

しかしまあ、今回佐久間さんにもお勧めいただいたことですし、
4時間で言って帰ってこれる見学としてはちょうど良かったのです。

ナビの充電が全く無くなっていて(携帯電話式なのに放置していた)
目的地を入れないまま適当に高速を降り、勘だけで車を走らせたら、
どんぴしゃりで博物館前に到着しました。

いわゆるサウスボストンという地域でウォーターフロントです。

二階建てのトロリーバスが走っています。

続いて来たのは真っ黒な「棺桶風」、「ゴースト&墓石ツァー」。

ボストンは全米でも有数の「出る街」なんだそうで、
その「出る」場所をツァーで回ってしまおうという企画。
歴史が長く古いものがたくさん残っている街ならではのイメージですね。

本当のお墓に行ってそこで怖い話を聞き、「出る」と折り紙つきのホテルを訪ね、
夜8時半にホテルで解散というものだそうですが、さすがに朝っぱらにはやらないらしく、
このバスには誰も乗っていませんでした。

気のせいか、運転手の姿もありません((((;゚Д゚))))

HP HOODというのはボストンの乳業会社です。
川沿いにミルク瓶の形のミルクスタンドがあります。

川沿いはデッキを張り出した市民の憩いの場所になっています。

ここはボストン・チルドレンズミュージアム。
子供が楽しく科学で遊べる体験型のミュージアムで、
住んでいた時に息子を連れて何度か遊びに来たものです。

川沿いに繋留してある帆船と国旗をかたどった垂れ幕が見えてきました。
後ろには近代的な高層ビルが林立するフィナンシャルディストリクト。

跳ね橋らしい橋を渡っていくと、な・なんともののけ姫のコダマさんが!
この裏側にももう一体描かれていましたが、これはプロの犯行・・・?

ミュージアムの前にはボストンの歴史的遺跡が紹介されていました。
「バンカーヒル」は軍艦の名前にもなっているのでご存知でしょうか。

これらの遺跡は「フリーダム・トレイル」という道路に描かれている
赤いレンガの線の入った歩道を歩いていくと、ボストンコモンからバンカーヒル記念塔まで
16ヶ所全てを巡ることができるようになっています。

この次ボストンに来る時には歩いてみようかな。

ティーパーティのバックグラウンドを知るために、独立に繋がった出来事が
パネルに展示してあったりします。

1763年宣言とはフレンチ・インディアン戦争/七年戦争の終結に伴い、
領地を獲得したイギリスが1763年10月7日、国王ジョージ3世の名で発したもので、
宣言の目的は、

●イギリスの領土を組織化

●アパラチア山脈の西側での入植や土地の購入を禁止

●イギリス王室が先住民族から購入した土地を独占的に取引する権利

それでアメリカの入植人はイギリスに対し怒りを募らせていったわけです。

博物館には独立戦争時代のコスチュームをつけた女性がウェイトレスをしている
おしゃれなティールームがあるのですが、夜のパーティも行われているようです。

「HUZZAH!」

という感嘆詞は「ハザー!」と発音するのですが、当時の流行りの掛け声で、
「いえー!」とか「ヒッピヒップフレー!」みたいな感じでしょうか。

シェイクスピアの戯曲にも出て来るということなので、古い言い方には違いありません。

この時にはわかりませんでしたが、この後のツァーで、わたしは散々
周りのアメリカ人と一緒に「ハザー!」を言わされることになります。

アメリカでこういう人を見たらそれはジョンかサミュエルか、
何れにしてもアダムスという名前である可能性が高いです。

そういえばボストン(ハーバード)出身の音楽家ジョン・アダムスという人がいますが、
彼らの子孫なのかもしれません。
911のためのレクイエムや、原爆投下後の悩めるオッペンハイマーが主人公、
「ドクター・アトミック」というオペラも書いています。


というわけで、これはサミュエル・アダムス

アメリカではビールの名前にもなっており、「独立の父」であり、
ボストン・ティーパーティの先導者でもあります。

おお、サミュエルの向こうを「昔の人」が歩いていく・・。

うわ〜・・・それらしい・・・。

アメリカ人がこういう格好をしていると、当たり前のようですが、
あまりに皆ナチュラルに似合うので、感心してしまいます。

ああ、本当に昔はこんな人たちがいたんだな、っていうか。

Tシャツに半パン、タンクトップにむき出しの腕や脚の現代の格好より、
この時代の姿のアメリカ人の方がはるかに美しく見える(特に女性)
と思うのはわたしだけでしょうか。

・・・あ、もしかしたら日本人も着物を着た人を見た
外国人に、同じようなことを思われているのかな。

「洋服なんかより着物の方が(特に女性)美しいのに」

って。

アメリカ独立宣言案を提出している有名なシーン。
この絵で脚を組んで座っている人の右側がアダムスだそうです。

アメリカの建築構造物はマジで独立戦争時代のものが
残っていたりするので、この街灯もそうかもしれません。

その時、頭上から女性の叫ぶ声がしました。
あっという間に終わり、見えるところに出ると引き上げるところでしたが、
どうやら我々観客は当時の「ティーパーティ参加者」として扱われるようです。

今から会議を行うので中に入れ、というようなことを言っていたような気がします。

チケットを見せてゲートを通ると、教会の椅子が左右に並べられた部屋に全員が通されました。
見学者は何人か単位のグループに分けられているようです。

入場するときに、鳥の羽を配られました。
独立のシンボルなのかなんなのかわかりませんが、これを
基本的には帽子につけてツァーに参加するように言われます。

ちなみにこの羽、返さずに持って帰ることができました。

先ほどバルコニーで叫んでいた女性が皆に何か配っています。

カードを渡しながら何か説明している模様。

今日は1773年12月16日

この何週間か、恐慌がボストンを吹き荒れた。
今日こそ幾千もの市民が集結し声をあげて暴掠と専制に抵抗する日だ。
目覚めた市民としてあなたはこの会議がもたらす深い結末に気付くだろう。
あなたはあなたの自由を守るために何かをなすつもりがあるか?

で、わたしは「ナサニエル・ブラッドリー」という大工となりました。

偶然ですが、ボストンに住んでいた頃、わたしはよくパスワードに
『NATHANIEL』を使っていました。

どうやら参加者には全員に、ティーパーティに参加し、船から紅茶を放り込んだ、
実際にわかっている「パトリオット」の名前が書かれたカードが渡されるらしいです。

つまり、一つのグループの最大人数は、ティーパーティ参加者の数ってことですね。

まず、ルーシーなんとかと名乗るこの女性が、自分の身の上と
彼女らが置かれた苦しい現状を皆に訴えます。

「子供ば5人いてもうすぐ6人目が生まれるのに、生活が苦しくて・・」

「それもこれもイギリスからの輸入品が関税なしで入ってくるからだ!
イギリスからの輸入品はボイコットするべきだ!」

「ハザー!」

これ以外にも「Hssss」みたいなのとか「ブー」とか、前もって
「仕込み」をされているので、皆張り切って叫び声をあげます。

そこになんとサミュエル・アダムスご本人が登場。
いかにも本物の若いときという感じの人を採用しております。

当時、東インド会社が関税なしででアメリカに茶を輸出することを認める、
「茶法」というのがありましたが、アダムスはそれに反対しており、
イギリスからやって着た紅茶を関税を払わず送り返そうという決議がなされました。

決議は満場一致で「送り返す」に決定。

「ハザー!」

そこに知らせを持って駆け込んでくる先ほどの女性。

「なに?イギリス海軍が紅茶の貨物船の警戒に着いただと?」

集会ではいつしか

「今夜ボストン港をティーポットに!」

という声が昂まってきました。(という設定)

そして、我々は、ボストン港をティーポットにするために、船に乗り込むことになりました。
ただし、このあと船に乗り込んでみたら、肝心のアダムスはいませんでした。

アダムス、煽動するだけして、次のパーティに演説しに行ってしまったようです(笑)

 

 

続く。

 



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ナビゲーションブリッジからの眺め〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-08 | 軍艦

フラッグデッキからさらに上に登ると、そこは04レベル。
いわゆるナビゲーションブリッジと言われる艦の「頭脳」に上がってきました。

この部分は、全体が二重の舟形をしていて、艦首に向いた方が船の舳先型です。
ここはその二重の内側部分。
入り口でもらった案内図によると、ここが「パイロットハウス」とあります。 

パイロットハウス、というと艦載機のパイロットの待機室みたいですが、
英語ではこれが操舵室を意味します。

内部は少しずつ少しずつ手を入れていっているらしく、
ペンキが塗りたてのところと、全く放置されているところが混在しています。

この「セーラム」とネームシップの「デモイン」が設計されたのは
第二次世界大戦末期で、設計思想は一にも二にも当初は

「日本の重巡洋艦に打ち勝つこと」

主眼に行われ、特に特攻隊の攻撃を想定していたので、
操舵室の窓が必要最小限にくり抜いてあるあたりにそれが窺えます。
 

メンテナンスはおそらくボランティアのような人たちが行なっているので、
広い艦内のあちらこちらを毎日少しずつ手入れしていったとしても、
一巡してくる頃にはまた手入れが必要になっているような感じ。

海に浮いている鉄の塊である船は、放っておくとこうなってしまうのです。 

ここも何か作業中ではあるらしく、ブルーシートが置かれていましたが、
くしゃくしゃで「ただ置いてあるだけ」という感じ。

舵輪の機械には伝声管が備え付けてあります。

足元にある緑色のものは、ヒーターだと思いますが、例えば護衛艦などでも
同じようなところに同じ感じでヒーターがあります。

DC ステイタスで「ボイラー」「エンジン」とありますが、
この「DC」は・・・・「Direct Cut」とか? 

 

ラジオナビゲーション機器です。

ヘッドセットがコードがもつれたまま放置されています。

速度計。

 

 

パイロットハウスの艦尾よりには、

TACTICAL PLOT(直訳すると戦術室?)

なる部屋があります。
今で言うところのCIC(戦闘指揮所)と考えていいでしょうか。

前にも「マサチューセッツ」の項で描いたことがあるのですが、
CICという概念がが戦闘艦に生まれたのは第二次世界大戦中のことです。

レーダーというものが生まれてきたからこその概念で、戦後は
一層自動化が進んだため、情報を集積する場所が艦橋でなくてもよくなり、
今では CICは通常甲板よりも下階にあるのが普通です。 

「セーラム」は第二次世界大戦の「最後の重巡洋艦」です。

このころは、この下の階にあったフラッグプロットにおいて、
発光信号や手旗信号、原始的な無線機程度で他の艦と通信を行い、
この画面の右端に見えている透明のアクリル板に、 白フェルトペンを使って、
レーダー手が通達する敵艦や敵編隊の位置、進行方向、数といった情報などを
手で書き込むことで情報を集約していました。

戦闘指揮所に詰める乗組員たちが使用したヘルメットが無造作に置かれています。
立てかけられているすのこ状のものは脚台かどこかのふたか・・・。 

航跡自画器だと思います。
ガラスの下に紙があるので何かと思ったら、チェックしたという署名入りのメモでした。 

海図にボードなど、ここで使われてたものがそのまま放置されています。

「サウンディング・インジケーター」は通信システムだと思うのですが、わかりません。 

1958年の3月3日という日付入りで、通信で使う情報が書かれています。
「HELO COMMON」を使う、というのあコールサインでしょうか。 

 

04レベルだけを地図にするとこうなります。
今タクティカルプロットとキャプテンシーキャビンの部分を見たのですが、
その一つ外側の「ナビゲーションブリッジ」の部分を見てみましょう。 

このころは情報の収集と分析などに紙が使われていました。
なので、こういうところにも紙を収納するラックがあったりします。

今では取り払われていてありませんが、昔は艦長用の椅子もあったでしょう。 

ジャイロレピータ、羅針儀があります。
航海長が航海指揮に使用するものですが、艦橋の前壁、
艦の中央になるところに主羅針儀があるのが普通です。

よく見ると機器に黄色い注意書きがあります。

Polychlorlnated Biphenyls、PCBsを含むので廃棄する時には関係各省に連絡の上、

とありますが、これは日本語だとポリ塩化ビフェニルのことです。

熱に対して安定し電気絶縁性が高く、耐薬品性に優れているため、
変圧器やコンデンサといった電気機器の絶縁油、可塑剤、塗料、
ノンカーボン紙の溶剤など、非常に幅広い分野に用いられたのですが、
人体に対して毒性を持ち、付着すると発癌性となることがわかっています。

わが国では「カネミ油症事件」後には製造・輸入が禁じられました。


USS「セーラム」の速度に関するスペックが書かれています。

例えば、13ノットから17ノットまでが「スターボード」で
回転数(RPM、レボリューションズ・パー・ミニット)は
115から122、と行ったようなことが表になっています。

ちなみに「フル」は18−22ノット、RPMは157−203、だそうです。 

 

見学用に作られたらしい、外を見るための台があったので、わたしも登ってみました。

ふおおおおお〜! これは絶景じゃー。

5インチ砲の向こうに主砲が二段重なっているのが見え、艦首までが一望できます。

デッキ外側に出てきました。
ガラス窓の部分は、特に航空攻撃があった時に銃撃を受けないように
深くて分厚い庇に防護されているのがわかります。

前にも言いましたが、「セーラム」が完成したのは戦後であり、
このような対空戦闘も全く過去のものになった時に就役していたのです。

 

 

続く。




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12基目の3インチ対空砲〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-07 | 軍艦

マサチューセッツ州クインシーのフォアリバーで公開されている
展示艦、重巡「セーラム」についてお話ししています。

艦尾側にある入り口から甲板に上がり、見学をしながら艦首まできて、
そのまま一階上の主砲塔内部を見学し終わりました。

艦橋を守るため、3連装の主砲が2基、その周りを5インチ砲が3基、
対空砲として設置されています。

 そしてこれも対空砲として

Mk 33 3インチ砲

が、同じレベルにありました。(冒頭写真)
防空システムとして、艦首に1基装備している3インチ砲ですが、
5インチ砲の近くにもあり、設計が始まった当初、アメリカ海軍が
どれだけ防空、つまり日本の特攻機を恐れていたのかって気がします。

もちろんこの後、対空戦闘に対する考えどころか、海戦思想さえ変わり、
これらの考え方はすぐに時代からは取り残されていくわけですが。

「セーラム」の砲塔とその下のバーベットがよくわかる図。
3インチの対空砲は、艦橋の舷側に2基ずつあり、その一つがこれです。
第2砲塔のレベルから艦橋内に入って行きました。

レタリングの凝った字体で書かれた

Chief Of Staff

の看板。
スタッフのチーフ、などと直訳するとあまり偉そうに思えませんが、
例えば日本では海幕長のことは

Chief of Staff, Maritime Self Defense Force

ですから、アメリカでもきっと偉い人専用室なんだと思います。
例えば陸軍では「参謀総長」、空軍でも「参謀総長」をこう称し、
海軍の場合はなぜか参謀総長とは言わず、

海軍作戦部長(Chief of Naval Operations)

というようですが、何れにしてもそのクラスの人の部屋だということです。

艦内案内図にはここのことを「士官室」とだけ記されています。

廊下は黄色い誘導線の入ったグレー、壁は薄い緑色にペイントされています。

レイディオルーム5。無線室、別名シャックですが、戸は閉ざされていました。
コールサインらしきものが書かれているので、もしかしたら
未だにアマチュア無線などで生きているのかもしれません。 

ここまでがメインデッキを”0”とした場合の”01”レベルです。

 

階段があったので昇ってきました。
軍艦を見学する場合、自分でどう動いたか記憶しておかないと、
たちまちあとでどこの写真であったかがわからなくなります。

というわけで、ここからが(02を飛ばして)”03”レベルです。

オペレーションズ・オフィサーの部屋。

オペレーションズ・スペシャリスト、 OSというのは日本語でいうと
電測員で、任務は

航海・作戦行動に必要となる情報の収集、作図、整理、評価をし
各部署に配布することを目的とする(wiki)

ことで、現代の護衛艦では CICが勤務場所となります。

日本では電測長は1等海曹あるいは海曹長が勤めますが、
アメリカ海軍では士官がこれを行うようです。

ところでこれを検索していると検索予測で

operations officer navy salary

というのが出てきました。
いくらお給料がもらえるのか、みんな検索しているということね。
で、ちょっとわたしも調べてみたのですが、ボーナスなど手当を入れると

平均108,685ドル(約1184万円)

$66,872-$136,876(728 万円〜1491万円)

ですって。
自衛隊の相場というものをわたしは全く知らないんですが、
例えば公開されているお給料の目安として、陸海空将で

陸・海・空将俸給月額 706.000円〜1,175,000円

ってことなので、ボーナスを加算したこの数字と比べても随分高給取りだという印象です。
っていうか自衛隊、一国の軍の大将や中将の給料がこれって、安すぎない?

と思ったら、米海軍の提督の月収平均は、$ 15,583、約170 万円
トップの差はあまりないけど米海軍は平均値が高いという印象です。
 

1,175,000

デッキに出られるのでのぞいてみると、3インチ砲のマウントでした。
前にも言いましたが、この2門にはそれぞれ射撃手が一人ずつ、
装填が一人ずつ、弾薬運搬が一人ずつ、マウント全体でリーダーが一人。
合計7人で操作を行いました。

回り込んで同じ砲を前方から撮ってみました。

「デモイン」級のスペックによると、3インチ砲は全部で24門あるとのこと。
ということはマウントは12基あるということになります。 

どこにあるか、グーグルマップの写真に番号を振ってみました。
今見ているのは2番のマウントで、冒頭写真は3番ということになります。

艦橋周りに8基、艦首に1基、艦尾に2基。
あの、どこを探しても12基目が見つからないんですが・・・。

まさかテントの下ってことでもないだろうし・・・。 

マウントの横には、建造当時からあるらしい注意書きがありました。

ここがロッカー兼”clipping room”とあります。
クリップというのは日本語で「挿弾子」といい、
銃火器に複数個の弾薬を装填する際に用いる器具のことで
ボフォース40ミリ機関砲でも使われています。

ここを開けると、おそらく階下からクリップを補充できたのでしょう。

注意書きの中には、

「もし火薬をカートリッジからこぼしたら、”静かに”と命令する。
火薬がばらけて装填できない場合には不燃性のコンテナーに入れるか、
直ちに水に浸すこと」

などとあります。
稼働中は近くに水を汲んだバケツかなんかがおいてあるものなんですかね。

フラッグプロットに出てきました。
信号器のラックは完全に艦体に固定されています。

 

護衛艦の時鐘は大抵信号旗の近くにあるというイメージですが、
「セーラム」の時鐘も信号旗ラックの上部にありました。

この鐘には「U.S.N」(アメリカ海軍のこと)としか書かれていません。 

艦首側を向いた艦橋の一室に出てきました。
機材が一切取り払われ、ただのスペースです。

ここを「フラッグブリッジ」と言います。

そこから右舷側をのぞいてみました。
探照灯はGE製です。 

発光信号をだす、ここを「シグナルブリッジ」といいます。

そのデッキの後方は、扉のついた一室に繋がっていました。
ここを入っていきます。 

タクティカルプロット。

CICが戦後甲板下に設置されるようになる前はここが指揮所でした。

マニューバリングボード、日本語では「運動盤」と言います。
全く同じものが現在も海上自衛隊では使われており、
占位運動訓練の時に三角定規やらディバイダー、コンパスで計算を行います。

艦がある運動をするために必要な針路や速力、
相対風を艦首から受ける角度に必要な艦の針路・速力、
などといったことが算出できるそうで、航海科士官の必須知識です。

左側、透明アクリルの運動盤になにやら計算が書かれていますが、
攻撃の対象?らしきところに

「Tally Ho」

とあります。 
イギリス海軍の潜水艦に「タリホー」というのがいましたが(笑)
たぶんそれではなく、本来の意味、狐狩りの時にハンターが使う掛け声のことでしょう。
この計算なら結果は「タリホー!」状態だよ、と。(多分・・・違うかも) 

右側には艦隊の艦船とその艦番号が記されています。

VAQA ネプチューン DD679 (マクネア)

VAQB ギガ・ロー DD 879(リアリー)

VAQC エンANドラン DD866(コーン)

などとあり、コールサインであろうかと思われます。
かっこの中が実際の艦名ですが、「ネプチューン」とかはニックネームでしょうか。 

「パパさん」というのがある・・・・。

「ベイビーサン」という終戦後の日本の「パンパン」を描いた漫画を思い出しました。


サラトガ、セーラム、リアリー、コーン・・・・。

ただ艦名だけならわたしにもいくつか知っているものが・・。


AN/SPA-8Aという型番のレーダー。

以前戦艦「マサチューセッツ」について書いたとき、

艦隊の指揮を執る艦船を「フラッグシップ」といいます。
「admiral」とそのスタッフが坐乗しているということになり、
この一団を” THE FLAG" とアメリカ海軍では呼びます

と説明したことがあるのですが、「偉い人ルーム」が近くにあること、
そして「セーラム」はなんども旗艦となっていることを考えると、ここは
いわゆる「フラッグス」が勤務する

「フラッグ・シーキャビン」

いう指揮所の一つであると考えられます。 

フラッグプロットは、アドミラルがが指揮をとるのに必要な、レーダー、
無線、甲板の状況などすべての情報が集まるようになっています。

ちなみに、旗艦として司令官が乗ってくるときでも、艦の指揮を執るのは
その艦長であり、これだけは不可侵の権威となっています。


当然ながらその逆はあり得ないわけですが、かつてあのハルゼー提督が
マケイン艦長の艦に座乗し、台風コースに一度ならず二度までも突っ込んでしまったとき、
怒りのハルゼーはマケインに

「責任を取ってこの台風から抜け出せ!」

なんていって事態の回避を要求したということがありました。
艦隊司令が艦長に艦隊指揮を丸投げしたということ事態、
よく考えると結構トンデモないことだったんじゃないかと思うんですが、
結果この時も台風被害で艦隊は多大な損害を受けたのですから、
この時ハルゼーが降格にならなかったのが不思議なくらいです。
 

 

 

部屋の隅には執務用のデスクが。

さて、この上の階に操舵艦橋がありますので、行ってみることにします。

 

 

続く。


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デモイン三姉妹の運命〜重巡「セーラム」8インチ砲塔

2017-07-05 | 軍艦

デモイン」級重巡の2番艦である USS「セーラム」についてお話ししています。
「デモイン」級の最初の2隻は戦時中に企画が始まっていましたが、
建造中に終戦を迎え、2隻は海戦の思想の変化の波に色々と設計変更を加えられました。

3番艦の「ニューポートニューズ」 CA-148は起工が1945年11月と
完全に戦後体制の中で生まれた最後の重巡洋艦です。

「セーラム」はアメリカ海軍で初めて主砲の自動装填装置が加えられた艦ですが、
「ニューポートニューズ」は

アメリカ海軍で最初に空調装置が搭載された艦

ということになっています。
これは直接戦闘とは関係ありませんが、大きな一歩だったんではないでしょうか。
逆にいうと、それまでの艦って、空調設備なかったんですね。
まだしも外に出れば風に当たることのできる部署はともかく、
エンジンの音轟々と鳴り響きボイラーがが発する熱のこもった艦底にも
空調設備がなかった、というのはもう考えただけでぞっとしますね。

1949年に就役したあとは、1962年のキューバ危機でキューバ北東に待機し、
ソ連のミサイルがキューバから撤去されたのを確認する仕事をしています。 

なぜ「ニューポート・ニューズ」について書いているかというと、
「セーラム」艦上でこのような銘板を発見したからです。

1972年10月1日、ベトナム戦争中に海岸地域の掃討作戦を行ったのですが、
彼女が非武装地帯で活動中、8インチ砲の2番砲塔で連続爆発が起こりました。

補助フューズに欠陥があり、発射時に砲弾が爆発したのです。

wikiには(日本語のページにはこのことは言及されていない)
この爆発で19名が死亡し、10名が負傷した、とありますが、
ここに書かれている犠牲者の数は20名。
3基砲がある砲塔内には30人いたのではないか、と考えると
wikiの数字は間違いであると考えるのが良さそうです。 

重傷者がその後亡くなり、その一人を勘定に入れず記録が残ったのでしょうか。
 

この爆発では艦底近くのバレル本体が前方に吹き飛ばされるほどの被害を受けたので、
破損したマウントを、すでに予備艦になっていた「デモイン」(CA-134)
またはこの「セーラム」のいずれかのそれと交換することも考慮されたのですが、
それには費用がかかりすぎるということで、結局損傷は修復されないまま、
「ニューポート・ニューズ」はターレットを閉鎖して帰国することになりました。

ということは、最後まで第二砲塔なしで稼働していたってことなんでしょうか。

さて、艦尾側の甲板から前に向かって全部見てきたので、
ここで階段を一段だけ上がってみることにしました。

なんと!
主砲砲塔の中に入ることができるように、木のデッキがあります。
もちろんわたしにとっても中に入るのは初めての経験。

ちなみに、今から入るのはこの上の砲塔の方ですので念のため。
8インチというのは20.3cmのことです。

 

デッキは両側に段があり、見学者がスムーズに流れるようになっています。

それでは中に入ってみます。
これが砲塔の中だなんてこの写真から信じられますか?
テーブルがあり椅子があり、居住スペースとしても十分。

何よりこの明るさは一体・・・・?

外から見るとこんなことになっているとは全く想像できません。
パネルや計器のあるこちら側と、実際に砲弾が装填される装置は
透明のアクリルで仕切られていて、こちらから操作するようになっています。

自動装填装置を取り入れたというのはこういうことなんですね。
もちろん、砲塔の中にもエアコンが効いていて、
夏場に皆が裸で作業をしなければならないということはなくなりました。

 

砲が一度稼働し始めたら、この部屋?全体が目標に向かって回転し、
まるでディズニーランドのアトラクションのようになります。 

アクリル板はもしかしたら一般公開に当たって上から人が落ちないように
設置されたものかもしれません。
一応下に落っこちないようにもともと柵があるみたいですけどね。


さて、これが装填装置と砲の後ろ側です。
発射体を乗せるトレイが雨どいのように発射口に繋がっています。
トレイの右側にあるのが装填のための機械でしょうか。

部分を拡大してみました。
左にあるのが「パウダー(火薬)トレイ」

自動装填装置になって初めて、軍艦で火薬を「袋」ではなくケースに入れ
それを扱うということになりました。

これが右側に倒れ、中身だけが装填されると(どうなるのかわからず)
右側の銅色のトレイに火薬のケースだけがカラで残されるというわけです。

口の上の丸いのが(おそらく) Breech Block。 
日本語では「銃底」あるいは「ボルト」と称している部分で、
発射薬が燃焼する間、チャンバー(薬室)の後部をブロックする
銃器類の機構部品で一般のことです。

ところで、この写真をよく見ると、ブリーチブロックの左に
弾薬を押して突っ込むための棒が見えますね。

主砲は完全自動ってことになってたと思ったけど・・・。

電源パネルも文字通り「パネル」で薄い板状です。

「プロジェクタイル・ホイスト・コントロール」
「パウダー・ホイスト・コントロール」 

「プロジェクタイル・クレイドル・コントロール」
「パウダー・クレイドル・コントロール」

 など、ここで装填の全ての電源を扱っていたことがわかります。

1から25まで番号の打たれたダイヤルが並ぶパネル。

一つ一つのダイヤルは1番砲かあるいは2番砲のトレイなどを細々と操作するもの。
今のように一つのパネルで全てをやってしまえるシステムがなかったってことですね。 

二つ穴の空いたボードは何かの蓋のような気がしますがわかりません。
左の木材は、砲身が詰まった時に使います(たぶん・・・違うかも) 

艦の状況がわかるコンピュータ。

アナログコンピュータはフォード製でした。


弾薬を装填しているところ。
「セーラム」は自動装填方式が取り入れる前で手動で行なっています。

射撃が終わった後の薬莢はネットに溜まっていきます。
全てが終わってから甲板にガラガラガラッと落として後始末していました。

とにかくものすごい音がしたでしょうね。 

こちら使用後、甲板に薬莢が転がりまくる甲板の光景。
偶然直立してしまった薬莢あり(右上) 

安全のための装置がここに集まっている模様。
異常が起きた時のアラームベル、電話、異常を知らせるランプ、
そして天井近くの赤いレバーはスプリンクラー。

ところで今ふと気づいたのですが、「ニューポート・ニューズ」で爆発し
吹っ飛んだ8インチ砲の「第2砲塔」って、まさにここのことだったんじゃあ・・・。

まず、稼働中の「ニューポート・ニューズ」の2番砲。
まさに今見ているのと同じ場所の砲です。

これはベトナム戦争での一コマで、悲劇の起きる直前です。
白黒写真ですが、撮影の時光が写り込んで炎(みたいなもの)が甲板に見えています。 

事故が起こった後の砲塔。
これでは中にいた人ひとたまりもなかったでしょう。
むしろ何人か怪我で済んだという方を奇跡というべきかもしれません。

現在階段とデッキがつけられて中に入ることができるようになっていますが、
乗組員たちはこれにも確認できるハシゴをよじ登って砲塔に上がったようです。 

 

砲塔下部の「バレル」部分。
この記事にも死亡者が19名とあるので、wikiはこれを見たのだと思われます。

「爆発によってバレルそのものは前方に吹き飛んだ」

ということだったのですが、それがこの写真で確認できます。
向こう側に転がっているのは装填する前の発射体であろうと思われます。 

文中には

「爆発によってフットボール二つ分の厚みのある鉄が吹き飛んだ」

とありますね。 

別の装填装置。
これが当然ですが三つ並んでいるわけです。

外に出て見ると、同じ階の艦橋寄りに、対空砲である

Mk.12 38口径127mm砲

がありました。

木材部分の劣化に比べて塗装がやり直してあるせいか、妙に綺麗に見えます。

航空写真で甲板を見ると、主砲二つの後ろに1基、両側に2基。
砲の位置関係はこうなっております。
今の軍艦はこの三つの役目をCIWS1基がやってしまいます。

俯瞰で見ると左舷側に配置されている5インチ砲がこちら。

この中身は確か「マサチューセッツ」で見たことがあります。
1934年から使用が始まり、駆逐艦級の主砲、大型艦の対空砲として
スタンダードになっているので、いわばどこでも見ることができます。 

 

就役してすぐにその名前の由来であるマサチューセッツセーラムに
「表敬訪問」をした「セーラム」は、訓練と調整を済ませた後、
最初の任務として地中海艦隊の旗艦を勤めました。

この時に前任だった「ニューポート・ニューズ」と交代し、
後任を1番艦の「デモイン」に譲っています。

また、その後の地中海クルーズでも前任は「ニューポート・ニューズ」でした。

同型艦であるため、この三姉妹はこうやって同じ配置を交代しあうことが
よくあったということなのですが、末っ子の「ニューポート・ニューズ」が
戦争に参戦し、事故とはいえ「戦死者」まで出しているのに比べ、
「デモイン」と「セーラム」は演習と支援だけで、ほぼ一度も
戦闘を経験しないまま、平和な一生を終えています。

姉二人は日本の重巡洋艦を打倒することを目的に設計されたのに、
日本との戦争が終わってから生まれた末娘は、
姉たちが全く予期しなかった敵と戦って損害を受けたのです。

これを皮肉と見るか、「常に戦争をしてきた国」に生まれた軍艦として
姉たちが単に幸運だったということなのか・・・。

 

続く。

 

 

 

 

 


 

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「キルロイはここにいた」〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-04 | 軍艦

重巡洋艦「セーラム」の後甲板には、一つ目を引く構造物があります。

艦載航空機を釣り上げるクレーンです。
これがまた大きくて・・・戦艦「マサチューセッツ」のデリックより大きいかも。

 

第二次世界大戦当時の海戦思想における重巡には、
敵水雷部隊への雷撃や艦隊の防護、長距離哨戒や襲撃、特に
高速空母任務部隊の護衛、敵地上部隊への砲撃、水陸両用作戦の火力支援など、
思いつく限りの様々な任務が割り当てられていました。

日本海軍がワシントン軍縮条約の後に充実させた重巡洋艦群に、
(妙高とかね)アメリカ海軍は結構痛い目に合わされたということもあって、

「打倒!帝国海軍の巡洋艦!」

を目標に、特に重砲を積んだ結果が、この「デモイン」級ということになります。 

米軍の重巡が日本軍に沈められた少なくない原因が、搭載している飛行機のための
航空燃料に引火したことだったというのを受けて、「デモイン」級はそれを避けるため、
航空機の格納庫そのものをわざわざ後部に持ってきたということです。

それだけに日本との戦闘が終戦によって建造中に終わってしまったのは、
特ににっくき日本の重巡に向かって大重量の(152キロ)砲弾を
三連装主砲でぶち込んだる!といきごんでいた設計者は、
特に拍子抜けしたというかある意味がっかりしたのではなかったでしょうか。 

当初航空機を搭載するつもりだったのでカタパルトも2つつく予定でしたが、
「セーラム」完成の頃にはシコルスキーの艦上ヘリが水上機の代わりに登場したため、
カタパルトの代わりにこのようなプレートが設置されることになりました。

おそらく米海軍初のヘリ搭載軍艦ということになるかと思うのですが、
それにしても謎の装備です。
このステージのようなプレートの上にヘリが降着する・・はず。
それにしては目印もないし、外側下がりになってるし、
当時のヘリ(HO3S) は果たして問題なく着艦できたんでしょうか。

プレートには台ごと平行移動させるための装置が確認できますが、
もしかしたらこれ、ここをスライドさせることしかできず、
格納庫に入れる時には

直接クレーンでヘリを下に降ろした 

とかだったんじゃあ・・・・

ちなみに、このプレート下の一帯は塞がれていて見学はできなくなっていました。
どなたかこの仕組みご存知の方おられますか。 

「セーラム」は重巡洋艦としてもかなり艦体が大きく仕上がっていて、
全長218m、満載排水量約21,000トン。

「青葉」型重巡が185.17m、基準排水量は9000トン、
「妙高」型でも203.76m、基準排水量 14,743トン、

ということを考えると、同じ大きさの主砲を積んでいても桁違いです。
それもこれも、新型のこの三連装砲を搭載したことと、防御力を上げるため
重量を増した設計を行ったからだと思われます。

例えば主砲塔の装甲は最大で203.2mm。バーベットは160mmというもので、
これも明らかに日本の重巡からの攻撃に耐えるための仕様でした。
これも比較しておくと、重巡「高雄型」の主砲塔の装甲は25mm
文字通り桁違いの防御を施していたことになり、万が一ガチで海戦を行なったら
日本側が防御しきれず撃ち負けていたのはほぼ確実かと思われます。 


この写真にも見えますが、甲板には昔ハッチだった部分に出入り口が設けられています。

どれどれ、ということで一応覗き込んでみます。
こんなですが、一応階下に行くこともできます。

ただし、わたしはとりあえず甲板の見学が終わるまで下には降りない、
と堅く決意していたので、写真だけ撮って艦首側に移動を始めました。

マストに登って行くためにはここを上がって行きます。

 

まずは左舷から、上部構造物の間を進んでいきます。
雨の後だと思うのですが、水はけが悪く、甲板のあちらこちらに
このような水たまりができてしまっています。

左舷側に吊られた短艇。
手前の機械はロープの巻き取り機、ウィンチかなんかでしょうか。

 

これ大丈夫か?って感じの荒れ放題。
何もしなければ海に浮いている鉄の塊である船はこうなってしまうんですね。

さすがに廃墟好きを自認するわたしもこの惨状には胸が痛みます。
これは4年後スクラップコースかなあ・・・。

 

全てがサビでえらいことに・・・・。

右舷側に立って上を見上げたところ。
ドアの黄色い『Z』は 

戦闘中または保安上必要とする場合、閉鎖する

というマークです。

右舷に立って後方をみたところ。

舷側にそって38口径長5インチ対空砲があります。
これは連装両用砲で型番はMk.13
全部で6基装備していました。

艦首部分には

50口径3インチ連装両用砲Mk.33

を搭載しています。
これはアメリカ軍が恐れた「カミカゼ」攻撃に特化して開発したものです。

発射速度、追随性能に大変優れていたとされ、「セーラム」に搭載された
2連装の他に単装のものも開発されています。

対空砲としてはボフォース40ミリやエリコン20ミリ機関砲が
第二次世界大戦中は有名ですが、三重の対空火砲網をさらに
潜り抜けて突入してくる特攻機に、まず兵士たちの心が受けたダメージは
計り知れないものがあったといわれています。

そこで、アメリカ海軍ではまず発射速度が早く、半自動砲である
当機種が開発されたのです。

この運用には全部で11名の砲員を必要とします。
全体を統括する砲台長が1名、操縦手が各1名で2名。
装填と給弾には砲一つにつき2名ずつが当たりました。

この写真で後方に出ているスロットが回転式弾倉で、
給弾手は弾薬庫や揚弾つつから弾薬をだし、ここに装填しました。

対空砲の射手になったつもりで照準をのぞいてみました(笑)
銃口が艦首のガズデン旗を狙っているようですが、これはたまたまです。

最近特にNHKとか旧民主党界隈では

「日本の旗ならどんな扱いをしても別に構わない」

という独自のプロトコルがあるみたいですけど(嫌味)
当ブログは国際プロトコルに則って、他国自国問わず旗には敬意を払っておりますので、
決してわざとこうなるように写したというわけではありません。(言い訳っぽい?)

艦首部分と艦首木の周りには足を踏み入れられないようになっていました。
やはり錨鎖などが危険だからでしょうか。 

 

さて、前回ドイツの潜航艇「ゼーフント」について調べていて知ったことが一つ。
この重巡「セーラム」とこの周辺一帯は、

アメリカ海軍造船博物館

という「セーラム」艦内の展示を含めた施設であり、
その施設の設備として、昔はこのミニゴルフ場が目玉になっていたらしいことです。

週末しか公開していない今ではゴルフ場も使われておらずこんなことになっていますが、
昔はちゃんと18ホールあり、


「キルロイのミニゴルフ」

という名前までついているのだそうです。
「キルロイ」とは、ジェームス・キルロイというここフォーリバーの造船業者。
彼に敬意を評してこの名前がつけられたのだそうですが、
キルロイといえば
英語圏では皆が想像するのが

「KILROY WAS HERE」(キルロイ参上)

という落書きです。

日本人の我々にはアメリカの、第二次世界大戦中のミームなど知るよしもありませんが、
あちらこちらで当時はこの落書きが見られたものだそうです。

発祥は、アメリカ海軍の軍人たち。(他にも起源説はいくつかありますが一応)

彼らは戦地でも行く先々でこの絵やあるいは字を落書しました。
ドイツでは捕虜の装備の中から頻繁にこれが見つかったため、

「キルロイは連合国のスパイである(しかも超腕利き)」

という報告がヒトラーにまで上がっていたというから笑ってしまいます。


で、そのキルロイ氏なのですが、彼はここフォーリバーの造船所の検査官で、
検査したリベットに「検査済み」の印をチョークでつけるのが仕事でした。
(もちろん仕事はそれだけではないと思いますが、一応) 

当時、造船所の工員には据付けたリベットの数に比例して賃金が支払われたため、
印を消して二度カウントさせるという画策が横行し、キルロイ検査官は対抗上
消しにくい黄色のクレヨンを用いてこの文言を船体のあちこちに記しました。

「KILROY WAS HERE」

この頃、船は細かな箇所までは塗装されず軍に納品されていたため、
通常は封鎖された区域などに整備のため立ち入った海軍軍人たちは、
殴り書きされた謎の署名「KIlroy 」を頻繁に見つけることになりました。

いつしか軍の中で「キルロイ・ワズ・ヒア」は語り継がれて伝説となり、
彼らは進駐地や作戦などで到達した場所にこのフレーズを残していったのでした。
そしてそれを見た軍人もまた別のところに・・・。 

え?なぜそんな落書きを残すのかって?

現在街で落書きしている人にでもその理由を聞いてみればいいんじゃないでしょうか(笑)

 

つまり、ここクインシーのフォーリバーは、当時のアメリカ人なら
誰でも知っていた「KILROY WAS HERE」の発祥の地なのです!

ってまあ、我々にはそれがどうしたとしか言いようがありませんが。


続く。


 

 
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