平成の災害スペシャルで、鬼怒川の氾濫を見たが、
改めて、恐いと思った。
ヘーベルハウスにいた人、
その家にひっかかった家にいた人、
電柱のおじさん。
あそこにいるのが分かっているのに、
なかなか助けられない。
途中で手を振るのを止めた、おじさんの気持ちも語っていたけど、
「死んでたまるか!」と、未来を描けた人って、
生き残ってる事が多い。
でも、その反面、人間て無力だと思う。
この間も、駅のホームで、
若いサラリーマンが倒れていて、
ひっくり返して、「救急車!」と叫んだのは、
たくましい男性1人だった。
吐血していた彼の顔は、血まみれだったが、
服は、汚れていなかった。
電車が遅れるのを気にして、
降りるまで、我慢していたのだろうか。
近くにいた数人で、
彼の心臓が動いている事は、確認した。
しかし、後から来た駅員は、他の駅員に、
「AED、持って来て。」と指示してはいたが、
彼の心臓に、触れる事はなかった。
それでは意味がない。
それを見て、私は思った。
もし、人が多いところで心肺停止したら、死ぬなと。
しかし、恨んではならない。
本当は誰だって、救急車ぐらい、スマホで呼べるのだ。
私だって、時間があったから見ていただけだ。
誰も、他人に、本気で関わったりしない。
生きるも、死ぬも、その人の普段の行いと運だ。
運が良ければ、命に間に合うだろう。
10才の少女は、「助けて。」と言ったのに、
助けてもらえなかった。
恐ろしや。
子供は、親を選べない。
私は、何て幸せなんだろう。
今、生きている。
私の辛さなんて、クソみたいなもんだな。
父親が恐くて、対応できなかったんだろう。
だから、具体的な案がある。
恐い相手には、恐そうな担当者を用意しろ。
低い声で、ゆっくりしゃべり、
相手のペースに惑わされない人間を、
臨時で連れて来い。
まずは、見た目なのだ。
交渉で、負けてはならないのだ。
無力でも、やれるところまではやろう。
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