ばくのメモ帳

『ばくのお宿』管理人の西みつのり、略して西みつのメモ帳です。ホームページに書き切れない雑多な情報を綴ります。

石毛宏典選手のテレホンカード

2014年11月28日 | 銚子出身プロ野球選手
9月9日のブログで、石毛宏典選手のカードを整理してサイト「銚子出身プロ野球選手のカード」に載せる予定と書いたのですが、すっかり遅くなってしまいました。

石毛宏典選手は昭和31年(1956年)9月22日、千葉県旭市の生まれ。銚子市立銚子高等学校を卒業後駒澤大学に進学、東都リーグで活躍しました。プリンスホテルに就職、昭和55年(1980年)にドラフト1位で西武ライオンズに入団しました。昭和56年(1981年)に新人賞、61年(1986年)には最優秀選手に選ばれています。

一軍での通算成績は1796試合に出場し、打率2割8分3厘、本塁打236本、打点847でした。なお、オールスターにも14回出場しています。

最初に石毛宏典選手のテレホンカードです。以前、篠塚利夫選手のテレホンカードをまとめたので、今回は石毛宏典選手のテレホンカードを紹介します。

石毛選手も、球団が関係したオフィシャルなテレホンカードが多く発行されています。その多くはM.V.P.などの記念カードです。

   フリーデザイン <品名50<フリー110-7544>>

昭和61年(1986年)、パ・リーグMVP(最優秀選手)の記念カードです。

   フリーデザイン <品名50<フリー110-15768>>

昭和62年(1987年)、日本シリーズ優秀選手の記念カードです。この年の日本シリーズMVPは工藤公康投手で、対戦相手の巨人から選ばれた敢闘賞は篠塚利夫選手でした。

   フリーデザイン <品名50<フリー110-38156>>

昭和63年(1988年)、日本シリーズMVP(最高殊勲選手)の記念カードです。この年の対戦相手は中日で、宇野勝選手が敢闘賞に選出されています。

   フリーデザイン <品名50<フリー110-59325>>

   フリーデザイン <品名50<フリー110-72374>>

   フリーデザイン <品名50<フリー110-146961>>

   フリーデザイン <品名50<フリー221-476>>

アシックスベースボールアドバイザーリースタッフの販促カードです。

   ホワイトカード <品名50<110-011>>

国鉄千葉鉄道管理局発行のオレンジカード、千葉県出身の「プロ野球名選手シリーズ」の一枚です。発行は昭和61年(1986年)12月でした。

   オレンジカード 国鉄 千葉 008612B1I0025

次回は石毛選手のトレーディングカードその1です。


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萩尾望都『霧笛』講演会&複製原画展

2014年11月24日 | 灯台
11月22日の土曜日、「絶景の宿 犬吠埼ホテル」で萩尾望都先生の講演会が開催されました。主催は「犬吠埼ブラントン会」、犬吠埼灯台140周年記念事業の一つです。



講演のタイトルは「『霧笛』-永遠というものの悲しみ、生きることのはかなさ-」です。



参加申込の往復葉書を出して、当選しました。送っていただいた聴講券です。


1時開場、2時開会だったので、1時過ぎにホテルに到着しました。当日のチケットです。229番と230番。先生の複製原画等が当たる抽選会があります。


会場は既に7割程度埋まっており、かなり後ろの方の席になってしまいました。遠く鹿児島県など、全国から銚子にお出でいただいたようです。

入場の際いただいたチラシです。このチラシも宝物ですね。


先生からのメッセージが添えられています。

「私はSF作家のレイ・ブラッドベリのファンで、とくに灯台の出て来る『霧笛』は大好きな作品です。
1977年には『霧笛』を漫画化させて頂きました。今回、犬吠埼ブラントン会から、『霧笛』について講演をお願いされ、灯台の縁でお引き受けいたしました。レイ・ブラッドベリへの感謝を込めて。」

講演はレイ・ブラッドベリの『霧笛』を朗読する形で進められました。先生の作品に対するお話は質疑応答の形で、たくさんのファンの方の質問にお答えしていただきました。

野田秀樹さんの「半神」の舞台を見た方の質問に答えて、16ページの短編から脚本を書いた時のお話が印象的でした。先生のお話では半分しか脚本を完成することができなかったとのこと。『半神』に『霧笛』を重ね合わせた舞台にしたいというのは、レイ・ブラッドベリのファンである野田秀樹さんであったということです。

10月に東京芸術劇場で公演があったのですね。この舞台も見たいですね。また再演されるだろうとのことです。

残念ながら抽選は当たりませんでしたが、銚子でこのような講演が聴けるとは思ってもみませんでした。

犬吠埼ブラントン会の皆さま、中心になってボランティア活動を進めたという市役所女子会の皆さま、本当にありがとうございました。

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犬吠埼灯台点灯140周年

2014年11月20日 | 灯台

11月15日の土曜日、犬吠埼灯台で点灯140周年記念セレモニーが開催されました。犬吠埼灯台は明治7年(1874年)11月15日に完成、点灯されたとのこと。この日がちょうど点灯140周年にあたります。

式典は午後からなので、11時40分発の銚子電鉄で犬吠へ向かいました。

電車が入ってきました。デハ1002です。デハ1002は来年1月上旬に引退します。この車両に乗れるのもあと少しです。

 


「1994~2015 ありがとう」の記念ヘッドマークです。「1002」の下には銚子電鉄カラー、鉄子カラー、そして現在の丸ノ内線分岐線カラーの顔が・・・。


車内で求めた弧廻手形は、デハ1002と銀座線カラーのデハ1001が並ぶデザインでした。


犬吠駅、今日も青空が広がっています。


細い坂道を降りて犬吠埼灯台に向かいました。水平線がはっきりと見えました。磯の香りが気持ちよいです。

 


灯台もこの日は無料で登れます。多くの方が登っているのが見えます。


トンネルを抜けると再び太平洋が目の前に広がります。波は比較的穏やかでした。

 

 


犬吠埼無線航行陸上局(ディファレンシャルGPS局)。「航行中の船舶に正確な位置を知らせるための無線局」で「衛星からのGPS信号を補正した高精度の位置情報及び気象情報を乗せた電波を発射しています。」とのこと。


犬吠埼灯台。野島埼灯台や観音埼灯台に行って感じたのですが、犬吠埼灯台は前に大きな広場があるので、全体像をとても美しく見ることができるんですね。


新しい「犬吠埼灯台案内図」ができていました。


この日は無料です。しかも新しいパンフレットができていました。この日に併せて作成されたようです。うれしいですね。


記念のティッシュペーパーもいただきました。


最初に右側の展示室へ行きました。


「灯台・灯船」ペーパークラフト展が開催中でした。「日本の紙灯台の父」南秀実氏によるヘンリー・ブラントンが設計した灯台です。

犬吠埼灯台です。


これだけ紙灯台が並ぶと圧巻ですね。


次に霧笛舎へ。この日は近所の高神小学校の犬吠埼灯台絵画展が開催されていました。

 

 

 


犬吠埼灯台の初代レンズです。明治7年(1874年)から昭和26年(1951年)まで使用されていました。最初の点灯はこのレンズだったのですね。


霧笛舎の前から灯台を見上げています。


次に灯台資料展示館へ。ここには沖ノ島灯台で使用されていた一等レンズが圧倒的な存在感を示しています。


展示資料館にも新たな展示がありました。川崎市在住の丸山胤幸氏がマルチコプターで撮影した空撮の映像が流されていました。


こちらは東京湾の東京灯標に使用されていた三等レンズです


沖ノ島灯台のレンズ。回転しています。いつまで見ていても飽きません。


2眼の面を見ると何となくウルトラマンの顔を連想してしまいます。


もうすぐセレモニーが始まるので、外に出ました。


展示資料館の前には犬吠埼灯台を描いた錦絵等が飾ってありました。

 


式典の会場です。


突然バグパイプの音が鳴り響いて、セレモニーの開幕です。


司会は観光協会観光アテンダントの鈴木さん。鈴木さんの後ろの石碑は「還暦犬吠埼燈臺祭記念碑」です。


以前撮った写真です。昭和10年(1935年)6月23日に、銚子観光協会によって建立されました。


隣には「犬吠埼灯台百年祭記念」の碑、「犬吠埼灯台120年祭記念碑」もあります。

 


式典終了後、再びバグパイプの演奏です。


続いて第二部はミニ音楽祭です。バグパイプ演奏等が行われました。

 

 


最後に、この日展示室に置かれていたフリーペーパーです。以前から欲しかったので、入手できてうれしいです。



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高階良子『デビュー50周年記念セレクション』刊行開始

2014年11月16日 | 高階良子
高階良子先生の『デビュー50周年記念セレクション』の刊行が始まりました。選集全23巻を引き継ぐ形です。11月14日(金)刊行の第1巻は「ダークネス・サイコ 1」です。収録は表題作と「夕焼け雲はしっている」の2作です。


ボニータ・コミックスα 平成26年11月25日 初版発行

カバー折り返しのことばです。

「ただの選集から、/デビュー50周年記念セレクションに/変わるということで、/過去の最も古い作品を中心に/もってこようというこの企画・・・・・・/ほとんど絶対永久封印と決めていた/この雑誌デビュー作を/のせるということで/恥ずかしさのあまり、私いま/かなりパニクっています。」

『ダークネス・サイコ』のオリジナル収録はボニータ・コミックス全4巻です。話数は全体で16話となります。今回の記念セレクション収録は5話なので全体では全3巻となるのでしょうか。

ボニータコミックス「ダークネス・サイコ」の第1巻と第2巻です。


『ダークネス・サイコ 1』 ボニータ・コミックス 平成3年3月20日初版発行


『ダークネス・サイコ 2』 ボニータ・コミックス 平成3年11月20日初版発行

セレクションでは話数は入れられていませんが、ボニータ・コミックス第2巻の第5話「十年後」までセレクション1に収録されています。

「夕焼け雲はしっている」は昭和42年(1967年)『別冊少女フレンド』4月号に掲載された、高階良子先生の雑誌デビュー作です。(収録作品のとびらページにあるように、正しくは「夕やけ雲はしっている」です。)

雑誌を入手しない限り読むことは不可能だったので、セレクションに収録され、誰でも読むことができるようになったのは、うれしいことです。秋田書店編集部の英断に感謝します。

この頃、若木書房の貸本は、『ひまわりブック』から個人シリーズ『チャーム漫画劇場』に移った頃で、順調に作品を発表しています。

一方で『別冊少女フレンド』にも「かんぱい!麻理」、「ふたりだけの結婚式」と続けて作品を発表しています。初期の作品は若木書房の「名作漫画総集ブック」や「ティーン・コミックス・デラックス」等に収録されていますので、コミックス未収録ではないのですが、入手が難しい状況に変わりはありません。

ボニータ・コミックスに再録された作品も多くありますので、ぜひ引き続き記念セレクションに収録していただきたいですね。

巻末の「あとがきのかわりの雑談」は3ページで、石垣島のヤモリのお話。

ホームページ、更新しました。

『高階良子の部屋』



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新児童少女漫画界(新界)

2014年11月12日 | まんが
前回のブログで記した、笹生那実さんの「『若草』物語」全3巻です。発行は「ひつじ座」、奥付には「個人誌」となっています。




『漫画の手帖』に連載された回想記に加筆修正を加えた総集編です。『漫画の手帖』は東京へ行った時に中野ブロードウェイのタコシェで探していましたが、入手できない号も多かったので、総集編の出版はうれしいです。


笹生那実(さそうなみ)さんは、1968年(昭和43年)中学生になった時に、新児童少女漫画界(新界)に参加、同年8月発行の第57号から昭和46年9月発行の第72号までの『若草』を所持しているとのこと。

「激動の時代を駆け抜けた漫画少女の実録エッセイ !!」 ご自身の当時の作品と、『若草』掲載のカットがたくさん載せられています。(ご自身の作品に対するツッコミが面白い!)

「『若草』物語」では第72号が最終巻となっていますが、前回表紙絵を載せたように、第73号が最終号となりました。発行予定通り昭和46年12月に刊行されています。編集後記に草ノ先生の10年余りの努力、とありますから、創刊は昭和30年代中頃でしょうか。

最終号の1号前、第72号です。


『若草』第72号 山田美根子特集号 昭和46年9月20日発行 今号の表紙 はざま邦

第72号は山田美根子特集号。「新界」卒業が決まると特集号が編まれたようです。これで晴れて「プロ入り」となりました。


前回のブログでふれた「残暑お見舞い」です。草のひかる先生以外は「卒業」された漫画家さんでしょうか。


最初に載っているのは杉本啓子さんです。

高階良子先生のデビュー作が掲載された『ゆめ』第2号(No.62)には「新界」の会員募集の記事が掲載されています。

「現在若木で活躍中の会員には 大岡まち子、角田まき子、杉本啓子、板垣佳子、飯塚玲子さんたちがいます。」とありますから、高階先生より前に若木デビューをされています。

杉本啓子さんのデビュー作は昭和39年発行の『こだま』10号(No.67)の「小さな小さな物語」だと思います。(表紙のNo.66は誤りです。)



矢代まさこ先生の作品掲載号ですね。

余談になりますが、昭和39年(1964年)の矢代まさこ先生の創作活動はものすごく、「よう子シリーズ」を描き始めていながら、『こだま』には1月号から12月号まで毎月中編を掲載しています。


『こだま』の奥付のページには他の貸本の宣伝が載っています。これによると『泉』10月号(No.77)の大岡まち子(新人)、『泉 別冊』No.20に角田まき子(新人)とありますから、3氏とも同じ頃のデビューだったのでしょうか。

『泉』10月号(No.77)には大岡満知子「イーストサイド」が掲載されています。これがデビュー作でしょうか。

板垣佳子さん、飯塚玲子さんも含めて、昭和39年が若木デビューの年だったように思います。「新界」の結成が30年代中頃だとすると、少し間が空きすぎているように思えます。若木書房との関係が深まるのは30年代後半ではないでしょうか。

新人育成に時間がかかったともとれますが・・・。創刊当時の『若草』を見てみたいですね。

杉本啓子さんは『COM』昭和43年2月号掲載の「ぼくらはまんが予備軍」で「新界」について語っています。



「私は、いまは会員ではないのですけど、私がはいった五年ほど前の”新児童少女まんが界”は、通信教育のような形でした。原稿を送ると、会長の草ノヒカルさんが、直して送りかえしてくれるんです。会員も、実力に応じて三段階に分かれていました。当時は小学生などもいたのですが、いまはだいたい、高校生になったようです。人数が多かったので、考えかたもまちまちの人がおり、その人たちが独立して新しいグループが生まれていくというようでした。」

「 ”新児童少女まんが界”は、売れるまんが家をそだてる目的でやっていた感じです。指導者がまんが界にくわしかったので、描ける人は、出版社へ紹介してくれるわけです。私もそれで若木書房から、単行本をだしました。」

もう少し後の会員には曽祢まさこさんがいます。曽祢まさこさんも『手錠はおどる デビューの頃』で「新界」の想い出や当時「若草」に載ったイラストを掲載しています。



その他の資料としては『まんだらけ』12号(1996年3月3日発行)に、にのみや静「今だからゴメンナサイですむかもしれない」か掲載され、「新界」の想い出が語られています。


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