三十、三教合一
三教は本来、一理より生じたもので、門戸を分別し、言論が同じくないと雖も、然しながら、その窮極(きゅうきょく)は、一理に属するのであります。
故に三教は倶(とも)に時代に因って設けられ、天運に応じて興り(おこ)り、天にかわって宣化せぬもはありません。
そして人心を救い、悪を教化して善となし、不良をして良となすのであります。
道家に於いては、虚無(きょむ)を以て本となし、虚霊(きょれい)を保養することを重くして、無極(むきょく)に帰らすのであります。
釈家に於いては、静寂(せいじゃく)に帰らしめる事を重くせられ雑慾を滅除するのであります。
儒家(じゅか)では、明徳を明らかにし私欲を浄め尽くすことを重くして、天理を純全(じゅんぜん)にするのでありますが、天理は又至善(しぜん)でもあります。
この至善は即ち静寂であり、静寂は又無極であり、無極は又真理でありますから、三教の宗派に分かれていると雖も、皆無極の一理から生じたものであります。
仏教では『万法帰一(ばんぽうきいつ)と明心見性(めいしんけんしょう)』を説き、
道教では『抱元守一(ほうげんしゅいつ)と修心煉性(しゅうしんれんせい)』を講じ、
儒教では『執中貫一(しつちゅうかんいつ)と存心養性(ぞんしんようせい)』を説きまして、
三教の法の伝え方が同じくないと雖も、それは皆一を以て本源となし、心性を以てその入門となしております。
これに依って見れば一理から分かれて三教をなしておりますので、ちょうど、人の一身を精・気・神の三花となしているのと同様であります。
現在三教が合一されたのは、収円の姿であって、なお本原に還る事を意味し、倶に迷わざる霊性となり、合わせて一つの真理に帰る事を現わしているのであります。
続く