真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~三十、三教合一

2024-05-05 21:43:35 | 性理題釋

三十、三教合一

三教は本来、一理より生じたもので、門戸を分別し、言論が同じくないと雖も、然しながら、その窮極(きゅうきょく)は、一理に属するのであります。

故に三教は倶(とも)に時代に因って設けられ、天運に応じて興り(おこ)り、天にかわって宣化せぬもはありません。

そして人心を救い、悪を教化して善となし、不良をして良となすのであります。

道家に於いては、虚無(きょむ)を以て本となし、虚霊(きょれい)を保養することを重くして、無極(むきょく)に帰らすのであります。

釈家に於いては、静寂(せいじゃく)に帰らしめる事を重くせられ雑慾を滅除するのであります。

儒家(じゅか)では、明徳を明らかにし私欲を浄め尽くすことを重くして、天理を純全(じゅんぜん)にするのでありますが、天理は又至善(しぜん)でもあります。

この至善は即ち静寂であり、静寂は又無極であり、無極は又真理でありますから、三教の宗派に分かれていると雖も、皆無極の一理から生じたものであります。

仏教では『万法帰一(ばんぽうきいつ)と明心見性(めいしんけんしょう)』を説き、

道教では『抱元守一(ほうげんしゅいつ)と修心煉性(しゅうしんれんせい)』を講じ、

儒教では『執中貫一(しつちゅうかんいつ)と存心養性(ぞんしんようせい)』を説きまして、

三教の法の伝え方が同じくないと雖も、それは皆一を以て本源となし、心性を以てその入門となしております。

これに依って見れば一理から分かれて三教をなしておりますので、ちょうど、人の一身を精・気・神の三花となしているのと同様であります。

現在三教が合一されたのは、収円の姿であって、なお本原に還る事を意味し、倶に迷わざる霊性となり、合わせて一つの真理に帰る事を現わしているのであります。

続く

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エンリルの【サアラさん】エ... | トップ | 天道推奨~斯(か)くて天は... »
最新の画像もっと見る

性理題釋」カテゴリの最新記事