真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

天道推奨~(三)天道問答録 2

2024-05-14 20:37:47 | 天道推奨

問:道を求めることは必要だとしても礼拝的儀式は迷信ではありませんか。

答:礼拝的儀式も性質と場合によって意義が違って来ますが、天道の場合は絶対に迷信ではありません。

礼拝は誠の表現であり、造物主、老〇様(ラウム)への信仰を示す美しい態度であります。

凡そわれわれを向上させ、進歩させて下さる人なら聖人賢者でなくとも、当然、敬意を深くし礼容(れいよう)を正しくすべきであります。

孔子は「誠が内にあれば、形として外に現れる。」と云います。

人生に懐疑(かいぎ)と絶望を感じた人が、道を求め、法を聞き、玄理(げんり)を悟り得て、甘露(かんろ)と法雨を味わいますと大きな感激を受けるものであります。

礼拝はその状態に至った時、連鎖的に起こる動作であって、決して無理、強制できるものではありません。

真心を以て求道した人は屡々(しばしば)内心の感動と興奮を抑えられないものであります。

聖を愛し、道に参じて、高い大霊の慧光(えこう)を一杯に感じますと自然的に身を伏し、膝(ひざ)を屈(くつ)し、頭を下げてその大恩に謝するのは当たり前のことであります。

貪欲心の強い人は名利財物を得たその都度の喜びしか分かりませんが、性霊に満足を得て、高い綺麗(きれい)な信仰をされている人は常に深く法悦(ほうえつ)にひたっているものであります。

妙理に溶け込み、霊の御親の愛を直に感じた時、感謝して已まない一念が一つの外形となって顕れ、表現するものでありますから礼拝は信仰上、缼(か)くべからざることであります。

正しい信仰に至っていない人は欲望を満たす為に、礼拝の様式を真似ることがありますが、所詮(しょせん)、欲と徳の両天秤は長続きせず、反って醜いものであります。

高圧的に拝(おが)ませるから心の伴なわない形式だけのものになってしまいます。

制度を定めても、願心がないと虚飾(虚飾)され不自然であります。

本人も厭(いや)な気分でしょうが、深い信仰を持った人から見ても決して頬笑(ほほえ)ましくありません。

しかし縁ある人は始め理解できなくとも段々と環境に馴(な)れ、雰囲気(ふんいき)に親しんで、習慣となり、本性が喚(よ)び起こされて信仰に入る場合があります。

これは非常によいことです。礼拝は心を安定させ、精神を正常に戻し、気分を厳粛(げんしゅく)に落ち着かせ、人格、気品を高めさせますので、修行者にとってはとても大切な行事であります。

礼拝することによって自己の本性が明らかに見出され、神の御旨(みむね)に接近して行くものであります。

利己的欲望に片寄り過ぎた祈祷(きとう)を戒(いまし)めれば、実に浄(きよ)らかで神々しいものであります。

殊(こと)に天道は天命に依って千古秘蔵の秘宝を伝え、正しい真理の在り方を示し、老〇様(ラウム)こそ万有の造化し給うた、唯一の御尊神であることを、教えてくれています。

同時に万霊の御親であり、肉体の祖神でもあります。

老〇様(ラウム)は此の末世に及んで、迷った子等を救い出す為に天道を降下なされたのであります。

どうして心身、性命の解脱を計る大道を求めることに関して傲慢(ごうまん)な態度や不遜(ふそん)の心構えをしてよいでしょうか。

礼拝は報恩の徴(しるし)であり、済度(さいど)の御厚情に酬(むく)ゆるわれわれの心尽(こころづく)しであります。

誠心の表示が礼拝であるなら、その限りに於いて決して迷信ではありません。

続く

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