真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Ray:行政は市民評議会の事務局に!弥勒時代への移行過程です!

2024-05-15 16:41:14 | 新しい時代の統治・金融システム・BPPF(個人年金基金)

国家や地方財政の崩壊を演じるDSに対し、国家も地方財政の負債も事実上はチャラになっています。

新しい金融システムが国際的に合意されるまでは、旧体制のまゝで進行しなければなりません。

鍵となるのが国際的(特に中国)な高齢化及び年金問題に対する国際的な常識の補完です。

嘱隷社会から個の尊厳に大転換している最終段階に人々の生命が脅かされている中、健康と教育がまず大事な課題です。

公務員は給与を払う親方日の丸意識を脱しなければならず、コロナ対策で確認されたように、低意識の立場に追い込まれ内部混乱しています。

健康(食・医療・福祉)問題や教育問題は、DSが最も力を入れている分野で、国や行政を頼りに改革することは期待できず、市民サイドで解決しなければなりません。

古代から培われてきた共和制は、偽旗ではなくコモン・ローという市民憲法や議会制民主主義という思想で実現化を目指してきた人類ですが、その機能を担ってきたのが「市民による評議会」です。

健康問題も大企業による食品薬害、医療薬害・・・、そして教育では奴隷社会を維持するためのシステムによって社会・家庭の隅々まで汚染されています。

これらの大問題を浄化するには、「市民による評議会」の立ち上げが急務です。

勿論、実際の社会システムで実践されている「裁判員制度」など現実問題に対処する形で、変容可能なあらゆるシステムが実績を踏まえて位置に付ける段階にあります。

社会が今相互に交流できているのは、こうした先人の知恵の素地が機能しているからで、DSなどが消滅したときに直ちに立ち上がることができるわけです。

人々の心の覚醒と相まって、日本の地域復興が世界モデルとして陽炎のように萌え上がってきます。

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【Ray:リーマンショックの時、すでに世界トップ36の銀行は終焉!】銀行は消える!SMBCグループCEOが語る「強烈な危機感」

2024-05-15 16:21:23 | 新しい時代の統治・金融システム・BPPF(個人年金基金)

当時、日本の銀行は世界トップクラスでした。

日本の旧体制は、三井・三菱・住友などのオーナーをスイスに呼んで、銀行の体質を諮りました。

有頂点の経営陣は改革派の憂いを無視したようです。

勢いとお金にまみれた世界、今でいうDSに通じていたのでしょう。

この後ロスチャイルドやロックフェラーが衰退し、昭和天皇に役目を終えた挨拶に日本にきました。

この動画のように、力を合わせて新しい神の世界に入ってい行くような度量を持っていれば銀行もこんな中身のないみじめな姿にならなったでしょう。

実際にシンガポールのDBSなどは30年も前から、人道支援やパーソナル金融に力を入れていました。

現在の潮流、トランプ改革は改革派の流れです。

彼等はラスベガスには機関車の給水塔しかなかった時代をもう忘れているかもしれません。

当時、ラスベガスもマカオも裏で人類一つの世界を築こうとしていていた日本本来の陰での計画でした。

その裏経済の仕組みが、世界の経済を発展させてきたのは、人類もそれに見合う種族がいるためで、経済の発展が触媒となり人生の経験を促して来ました。

銀行は消える!SMBCグループCEOが語る「強烈な危機感」


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2025年社会の浄化が始まります。相互評価社会へ備えなさい

2024-05-15 16:18:30 | 新しい時代の統治・金融システム・BPPF(個人年金基金)

2025年社会の浄化が始まります。相互評価社会へ備えなさい


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天道推奨~(三)天道問答録 3

2024-05-15 16:14:59 | 天道推奨

問:既に別の信頼できる宗教に入っていても、尚、天道を求める必要がありますか。

答:必要があります。宗教と天道は元より相克の関係ではなく、寧(むし)ろ密接に連携された間柄になっているのです。

と云うのは天道は宗教以前の存在であり、万有、万里を貫く本元であり、発祥源であります。

宗教の歴史は浅く二三千年でありますが、天道は無限の生命をもっております。

宗教の教律は天道の理を汲んで聖人が組織的に確立しただけで、天道ありてこその宗教であります。

宗教の開祖はすべて道を得て、道の代弁者となっただけで

述べられた冥利は聖人個人の所有物ではなく、聖人自身が大道の証者(しょうしゃ)だったのであります。

宗教は天道に至る段階で心身修練、人格涵養(じんかくかんよう)を完(まっと)うしてその奥へ進んでゆくのが順序であります。

宗教の救い得る限界は罪の軽減ができても消滅することはできず、精神の安定を得られても過去歴世の因業を根徐(こんじょ)することはゆるされません。

天道の心法を得れば容易にその繋縛(けいばく)を解くことができます。

しかし、天道の真伝を得る資格者は誠意と熱意を備えている人か、亦は敬虔(けいけん)なる信仰の持ち主に限られていますから、何らかの宗教に入って大いに培っておれば寧(むし)ろ、価値づけられて結構であります。

道統の祖師の方々も多くは徳の高い、修業の深い、聖者、高僧の御出身であるのを見ても窺(うかが)い知ることができます。

所が近世の宗教が専門的職業とした人になりますと事情が大部変って、組織とか形式とか、派別とか財力とかの横の繋がりばかりを重んじて上との連絡を軽んじてしまいがちです。

末端的な色彩にばかり拘(こだわ)って、真正の道理探究者としての在り方を忘れ果ててしまいました。

勢力拡張の為、信者に相互間の監視制を取ったり、神仏の名の下に於いて、勝手に罰則を決めて他教に行かせまいとします。

これらは皆、昔の聖者に反したやり方であります。

局限された狭い地球上に住み、複雑な心理要素や風俗習慣をもちながら、一教の理論を以てすべてに適用することは絶対不可能なことであります。

無窮無尽(むきゅうむじん)の妙理を一方から進むよりも多方面から入った方が遥かに完璧を期待できましょう。

一宗派だけに偏執(へんしゅう)すると量見(りょうけん)が狭くなって角張った人間になってしまいます。

お互いに誹謗(ひぼう)したり、排斥(はいせき)したりするよりも、大局的見地に立ってお互いの相違点を調整し、尊重しながら共通する所を一緒に和合して世人を正しくする方が至当(しとう)だと思われます。

相手の大事な所まで破壊しようとするから、皆必死になって悪を隠し、譲らずに攻撃し合っているのです。

後来(こうらい)の弟子達が型造っただけであっても釈迦も孔子も老子もキリストも元は多方面の求道者だった筈です。

宗教の教え方まで統一するから反目が生じますが、道を中心にしていれば、速やかに収まるものであります。

天道の範囲は際限ありません。

何処へでも亘(わた)って奥深く、無尽蔵に真理を高めて下さるので、天道によってこそ永遠の生命を確立することできるのであります。

宗教はわれわれに修道の指針を与えて下さいますが、天道はズバリ、道の本体を与えて下さいます。

一歩一歩の登山を一気にロープウエイで運び上げられるのにたとえられ程であります。

従って宗教の果たすべき役目は天道に至る過程と申せます。

究極に到達する目的地が天道である訳であります。

だが修道の途中で慢心したり、派別に対する固執性が強くなったりしますと、急に進歩が停まり、成長が中止して人間が小さくなり、考えが狭くなってしまいます。

譬(たと)えば、頂上まで登山した人は十方の絶景を一望千里の如く眺められますが、七、八合目当たりで引き返した人は一方だけの景色しか見られないのと同じであります。

天道に至ってこそ凡(あら)ゆる事物の理に徹し、超然とした心持になれます。

天道の法を得、各宗教の在り方を明らかに悟って、本末一如、体用を兼ねて修業すれば、短期間に多大なる収穫を得られ、尚、一層の輝きが増すものであります。

実(げ)に天道こそ凡(あら)ゆる宗教を活かし、正しくする大原動力であり、母胎(ぼたい)でもあるわけです。

続く


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性理題釋~三十七、求道後の敬神

2024-05-15 16:13:14 | 性理題釋

三十七、求道後の敬神

敬とは誠であります。

すべての人は我を益するものに対して、敬(つつし)んで之に礼せぬものはいません。

上天が大道を降ろ給い、一理を闡(せんめい)せられ、真機を顕(あら)わして一理が万有の始めであり、真宰(しんさい)が万有を造化せられた唯一の尊神であることを人々に知らしめました。

真宰を称して無生と申しますが、無生とは霊性の母であり、又肉身の始祖であります。

人々が世の中に生まれて来て、皆本性を迷失し、来路を忘却して、生々死々して輪廻の苦しみを受けるのであります。

無生老〇(むせいろうぼ)様は常にしかも切実に懸念せられて大道を降し、そして衆生を救い、人をして明路に随わしめて本性即ち本来の真面目(しんめんもく)に帰らしめるのであります。

我々に関係の深い身心性命の大道をどうして傲慢自若(ごうまんじじゃく)として顧(かえり)みえない事が出来ましょうか。

故に神を敬う事は、正に我々に道を降ろし渡して下さった御恩に答えて、誠心を表示するのであるから、どうして之を迷信と言えましょうか。

続く


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