真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第二章 天人一貫の妙理 (六)気天・象天の変化

2022-09-23 18:37:32 | 天道の淵源

(六)気天・象天の変化

気天や象天は気体や形象を有していますから奇数があり限界があります。

およそ陰陽二気によって循環する物体や気天にはすべて変化があり、変化があれば終始があります。

万物は四季の暦数の巡りとともに気候が変化し、歳月の経つに従って生盛氏、壊滅してしまいます。

孔子様は「物に本末あり、事に終始あり、先後するところを知れば、すなわち道に近し。」といわれました。

大道の奥義に徹するには、まずその由来・根本を知ってからこそ始めて、その末端未来を知り透せるものであります。

大学に「その本乱れて末治まるものはあらず。」とあります。

根本を確立してこそ、すべての創造から万事万端の理に通ずるものであります。

物体や事物には終わりや始まりがありますが、その中の主軸たる所の理は万古に不変です。

生滅が繰り返されているのは、限界や感覚に映ずる物象自体であって、それを貫く真理は無限であり、とこしえに易(か)わざるものであります。

釈尊は「あらゆる象あって執(と)られ、形あって見られるものは皆、虚妄であり生滅の幻想にすぎず、毀滅(きめつ)する一切の有為の法は夢幻泡影の如く、又露電の如し。まさにかくの如く作(な)して観るがよい。」と述べられましたが、これは有為の永遠性を否定し、われわれが短時的存在の物象や瞬間的に変化してしまう問題に執着したり、貪欲することを戒められているのです。

仮相であることを見極めた時に真相を見る眼が開かれ、瞬時に消滅する幻影だとわかった時には連鎖的に久遠に輝ける真諦を求めようとする念が起こるべきです。

聖人は強くそれを望んでいたことを言詞(ことば)の節々に感じ執ることができます。

浮世は常ならず、百年の人生は旅の一刻にひとしいのです。

時間の長短や空間の大小は感覚する人によってそれぞれ異なってきます。

蝉は地上での寿命は三日間か一週間で終わると聞いています。

蝉にとっての長い生涯もわれわれから見ればわずかな間でしかありません。

得意になってわが世の春を謳歌している蝉の鳴き声も、われわれが聞けば哀れの情に誘われるから不思議なものです。

より永遠に覚(めざ)めた人は慧眼(えいげん)・法眼(ほうげん)をもって一切を見通すのですから、百年の人生も三日にしか思われないでしょう。

物象に不変的な価値を感じた人は迷路にはいった証拠です。

色あせやすく、すぐ壊れ去る物質を真常にして永続できる物と錯覚するのは、その人の真眼が盲(めくら)色盲に違いありません。

起源があって終焉(しゅうえん)がある五行の世界の変遷は甚だしく、絶え間ない陰陽の循環を受けて万物は変化、消長や新陳代謝をしています。

気天・象天も同じく、定まった期間を経過したら壊滅して無極に帰(き)さねばなりません。

構成されている原子の密度によって変化が早い遅いだけであって、いかに剛(かた)い物であっても自然の風化作用によって瓦解(がかい)していくのを防ぐことはできません。

会・世・運・年・月あるいは日・時・分・秒と時刻の流れに沿って移り変わって行くのです。

天地の一大元は十二万九千六百年をもって終焉します。

それを半分に割って前六万余年が陽であり、世界が開発してゆく期間です。

つまり、黎明期(れいめいき)から成熟期に進む年代です。後六万余年が陰であり、世界が閉息してゆく期間です。

すなわち絶頂時から衰退して還源する時代です。

今が丁度、午の会が過ぎて未の会に交替する線の上を通っている時代であり、地球の陽数が尽きて陰数の時に入り初めたところです。

「否極泰来(ひごくたいらい)」といわれます。

悲運の極に幸運が運(めぐ)ってくる意味ですが、逆に繫栄も極に至れば衰退します。

物が極に達せば必ず反した状態に反るのです。

一年でいえば秋の気候であり、秋風飄々(あきかぜひょうひょう)として落葉が根に帰る季節であります。

ちょうど一日の陰は午後に始まり、強烈な太陽も灼熱まさに力を失いつつある時にたとえられましょう。

人の陰は壮年に始まります。

今の時代はちょうど人生の半分をたどっている頃に当たります。

結局、名利恩愛、富貴栄華は一場の夢にすぎず、寿命の尽きた時には所有のも野をすべて捨てて、生まれた時と同様、空手のままで去らねばならないでしょう。

陌上(はくじょう)の塵にひとしい人生は、実に浅薄な泡末夢幻の芝居劇であります。

この理を突き詰めてゆけば天は大天であり、人の身体は小天であることがわかります。

大小の差こそありますが、その理は密接に連携して切り離されないし、その動きは寸分も違わないことがわかります。

究極、壊れないものは理天であり霊魂であり、大自然の極まりない妙法であります。

それによって支配される一切の現象で悠久的に存在するものは何一つありません。

凡(およ)そ世間の事物には幻相と仮相と実相があります。

幻相とは夢幻のごとく全く虚妄なる相であり、仮相とは、字の如く、仮りの相であるから、しばらくあって後にはなくなるものであり、実相は真実の相であるから永久に滅びない体であります。

数多くの人々が、幻相、仮相に執着し、偏(かたよ)、寿命尽きて狼狽し不滅の世界に憧れ始めます。

幻相・仮相は、あたかも露あり泡であり、実相界こそ真の世界あり、不滅の世界であり、老〇様(ラウム)の、在(ま)します極楽天であり、われわれの故郷あります。

続く

理天・気天・象天の関係図

 


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天道推奨~(三)天道問答録 3

2022-09-23 18:36:06 | 天道推奨

問:既に別の信頼できる宗教に入っていても、尚、天道を求める必要がありますか。

答:必要があります。宗教と天道は元より相克の関係ではなく、寧(むし)ろ密接に連携された間柄になっているのです。

と云うのは天道は宗教以前の存在であり、万有、万里を貫く本元であり、発祥源であります。

宗教の歴史は浅く二三千年でありますが、天道は無限の生命をもっております。

宗教の教律は天道の理を汲んで聖人が組織的に確立しただけで、天道ありてこその宗教であります。

宗教の開祖はすべて道を得て、道の代弁者となっただけで

述べられた冥利は聖人個人の所有物ではなく、聖人自身が大道の証者(しょうしゃ)だったのであります。

宗教は天道に至る段階で心身修練、人格涵養(じんかくかんよう)を完(まっと)うしてその奥へ進んでゆくのが順序であります。

宗教の救い得る限界は罪の軽減ができても消滅することはできず、精神の安定を得られても過去歴世の因業を根徐(こんじょ)することはゆるされません。

天道の心法を得れば容易にその繋縛(けいばく)を解くことができます。

しかし、天道の真伝を得る資格者は誠意と熱意を備えている人か、亦は敬虔(けいけん)なる信仰の持ち主に限られていますから、何らかの宗教に入って大いに培っておれば寧(むし)ろ、価値づけられて結構であります。

道統の祖師の方々も多くは徳の高い、修業の深い、聖者、高僧の御出身であるのを見ても窺(うかが)い知ることができます。

所が近世の宗教が専門的職業とした人になりますと事情が大部変って、組織とか形式とか、派別とか財力とかの横の繋がりばかりを重んじて上との連絡を軽んじてしまいがちです。

末端的な色彩にばかり拘(こだわ)って、真正の道理探究者としての在り方を忘れ果ててしまいました。

勢力拡張の為、信者に相互間の監視制を取ったり、神仏の名の下に於いて、勝手に罰則を決めて他教に行かせまいとします。

これらは皆、昔の聖者に反したやり方であります。

局限された狭い地球上に住み、複雑な心理要素や風俗習慣をもちながら、一教の理論を以てすべてに適用することは絶対不可能なことであります。

無窮無尽(むきゅうむじん)の妙理を一方から進むよりも多方面から入った方が遥かに完璧を期待できましょう。

一宗派だけに偏執(へんしゅう)すると量見(りょうけん)が狭くなって角張った人間になってしまいます。

お互いに誹謗(ひぼう)したり、排斥(はいせき)したりするよりも、大局的見地に立ってお互いの相違点を調整し、尊重しながら共通する所を一緒に和合して世人を正しくする方が至当(しとう)だと思われます。

相手の大事な所まで破壊しようとするから、皆必死になって悪を隠し、譲らずに攻撃し合っているのです。

後来(こうらい)の弟子達が型造っただけであっても釈迦も孔子も老子もキリストも元は多方面の求道者だった筈です。

宗教の教え方まで統一するから反目が生じますが、道を中心にしていれば、速やかに収まるものであります。

天道の範囲は際限ありません。

何処へでも亘(わた)って奥深く、無尽蔵に真理を高めて下さるので、天道によってこそ永遠の生命を確立することできるのであります。

宗教はわれわれに修道の指針を与えて下さいますが、天道はズバリ、道の本体を与えて下さいます。

一歩一歩の登山を一気にロープウエイで運び上げられるのにたとえられ程であります。

従って宗教の果たすべき役目は天道に至る過程と申せます。

究極に到達する目的地が天道である訳であります。

だが修道の途中で慢心したり、派別に対する固執性が強くなったりしますと、急に進歩が停まり、成長が中止して人間が小さくなり、考えが狭くなってしまいます。

譬(たと)えば、頂上まで登山した人は十方の絶景を一望千里の如く眺められますが、七、八合目当たりで引き返した人は一方だけの景色しか見られないのと同じであります。

天道に至ってこそ凡(あら)ゆる事物の理に徹し、超然とした心持になれます。

天道の法を得、各宗教の在り方を明らかに悟って、本末一如、体用を兼ねて修業すれば、短期間に多大なる収穫を得られ、尚、一層の輝きが増すものであります。

実(げ)に天道こそ凡(あら)ゆる宗教を活かし、正しくする大原動力であり、母胎(ぼたい)でもあるわけです。

続く


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離苦求樂(苦を離れ樂を求める)その三

2022-09-23 09:42:07 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

十悪業の要点だけを申し上げます。

先ず身の業から考えて見ましょう。

殺(せつ)とは、生き物を殺して自分の為にすることです。

これは殺生養身(せっしょうようしん)と申し一番恐ろしい業であり、大きな罪です。

又殺生には直接殺生と間接殺生があります。

ある人は生き物を買ってきて自分で料理を作りました。

これは直接殺生です。

又、別の人はすでに殺したものを買ってきて料理を作りました。

これを間接殺生と申します。

直接殺生も間接殺生も同じ罪です。

盗(とう)とは

孟子曰く

非其有而取之者盗也。(其の有〈もつ〉に非ずして之を取る者は盗なり。)

人の者を盗ることだけが盗ではありません。

自分の物になるべき物でないものを受け取る、これも盗です。

淫(いん)とは、色情因縁のことです。

正式の夫婦以外の関係は皆淫です。

次は、口の業です。

悪口とは、人の悪口を言ったり、人をののしったり、人の是々非々を言うことです。

両舌とは、二枚舌のことです。口の中には舌は一枚しかないのに二枚舌ということは、人のありもしないことを言ったり、甲の是々非々を乙に言ったり、乙の是々非々を甲に言って喧嘩を引き起こしたりすることです。

綺語(きご)とは、事実でないことを、人の気持ちを引くように話して言いふらすことです。

妄語(もうご)とは、噓のことです。

この中でも、一番守らなければならないのは悪口です。

これは絶対修道する人は言ってはなりません。

清口の愿を立てたが、もし悪口を言ったならば、もう既に清口ではなく、汚れた口になってしまうのです。

お釈迦様は五分律経(ごぶりっきょう)の中で、悪口を言うことは身を傷つけることと全く同じだ、と申されました。

昔も今も修道者には切磋琢磨(さっさたくま)があるわけですが、釈尊の弟子達も袈裟を着た修行者でありながら、お互いに悪口を言い合っていたので、お釈迦様は、次の物語をなさいました。

「私が過去に修行していたお寺の横に大きな湖がありました。

その湖の中には、大きな亀がいました。

その大きな亀は大きな鷹(たか)と友達でした。

日照りが續(つづ)いたある年、その湖の水が全部乾いてしまい、亀は生きることが出来なくなってしまいました。

そこで亀は、鷹に

『湖に一滴も水が無くなって、私は今にも死にそうです。なんとか助けてください。』

と頼みました。

鷹は考えたあげく何とか助けようと思いました。

しかし、

『もう一日待ってください。明日、必ず来てあなたを助けましょう。』

と言ってそこを飛び去りました。

その次の日、二羽の鷹が木の枝を口にくわえて飛んできました。

そして、二羽の鷹は亀に

『この枝の丁度真中のところをしっかりくわえてぶら下がりなさい、我々が両橋を加えて飛ぶから‥‥。』

と言いました。

ところで、この亀はよくこの鷹の悪口をいう亀だったのです。

そこで鷹は

『今日こそお前は悪口を言えないぞ、もし、この枝をくわえているのに悪口を言ったら、口が開いて落ちてしまい、そして、死んでしまうだろう。』

と鷹は亀に言いました。

すると亀は、『助けてくれるなら、今日は絶対に口は開きません。』

と二羽の鷹に誓いました。

ある村の上を通りかかった時、村の子供たちが大きな声で

『あれ、今まで見たこともないものが空を渡って行く。』

というので村の人達が全部そこに集まり、手を叩きながらこの様子を見たわけです。

この様子を見た亀は、腹が立ち

『お前たちには何の関係もないのに、何を言っているのか。』

と大きな口を開けて喋ったところ、亀は落ちて死んでしまいました。

お前達も何時も人の是々非々を言い合い、お互いに切磋琢磨しているけれど、私達の一番大事なことは、生死の問題です。

この問題を解決する為に、我々は修道しているのであって、小さいことを引っぱり出して、是々非々を論じ合って何のいい結果があろうか。

以後は絶対に悪口を言って、自分の身を傷つけるようなことをしてはならない。』

と、この話を結ばれました。

続く


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