真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Rayの呟き~自分を徹底的に改革し本性に還ること

2022-09-20 19:25:51 | Rayの呟き

情報は変化を知る機会です。大きな変化を目の当たりにしているとき、転変地異も人々の動向もみな道場における修道の糧ととらえなければなりません。地球規模を鏡とした錬磨の機会です。

時勢に応じて変化することに対して社会の紀律は「思い通り」でいいでしょうか。

仏教では、四弘誓願:衆生無辺誓願度(すべての衆生を悟らせよう),煩悩(ぼんのう)無量誓願断(すべての煩悩を断とう),法門無尽誓願学(仏法のすべてを学ぼう),仏道無上誓願成(無上の悟りに至ろう)という種の誓いを建てました。

参照:tsurumi3776.sakura.ne.jp/b6-siguseigan.htm

スピリチャルメッセージは、人類が目指す「道徳的世界:弥勒世界」へ準備段階を誘導し、感覚的に未来を鳥瞰してきました。現在、スピリチャル世界でもまだ人類の覚醒状況は十分ではありません。新コロナパンデミックのように、社会が「どんでん返し」して一旦落ち着きを取り戻すと考えている方もいるかもしれませんが、実際は自分の進む道が明確に明らかになる(確信が持つ)まで、まだまだ様々なハプニングが続きます。

なぜなら、人々の意識は閉じ込められていたため、どこが目標地点なのかまだ理解できないからです。「小さな光明」から始まるのは確かですが、理解していると考えるのは最も障害となる意識形態です。もうお気づきのように、あなた自身が創造の原点だか、未詳のままでは、どこにいるのかさえ分かりません。今、現実の自分の都合よい奇跡が起こったから覚醒が進んでいると思うのは尚早です。スピリチャルメッセージで「新しいステージの入り口に着いたばかり」あるいは「最高のものはまだこれから来る」と伝えているのは、聖書などでも伝承されてきた「虹の梯のたもとの黄金の壺」に至る物語を意味しています。

「思い通り」で理想の世界は実現するでしょうか。

道場であるこの世界は、マクロ的に世界の状況を知る見識に基づきます。しかし「天命の性の一点の霊明」を具えていても、物欲や外界の牽引を受けやすい状態にあります。したがって、これからの創造のために規矩が必要であり、それによって邪な偏向や頑空に陥らないようにしなければなりません。

教は仏教の基礎となっていた「四弘誓願」(新しい時代の四弘誓願は時代にあったものが降ろされています)を例に挙げましたが、そのほかにも重要な規矩が用意されています。

改革をするなら、根源創造主が主宰する仏規や宗旨から離れることはできません。覚醒しさらに進化をし続けことは自己を切磋琢磨することであり、このことに正しく認識してほしいと思います。新しい時代を創造するとは、時代の違いや、その場所や人々それぞれに異なった方法で導く必要があり、それであって初めて人々の才能・能力を活かすことを求められるからです。

人々を指導する立場の人は、根源創造主が降ろされた守るべき礼や守るべき規矩を原則通りに守り、決して捻じ曲げてはなりません。今回は人類史上嘗てない結実の時です。各宗教や哲学・思想などを超越し「悟り・超生了死・解脱」によって地上天国を創造する時代、神々と共に人類が夢見てきた至極の時代が到来しているのです。

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【Ray:古代から血族に伝承されてきた「十」の秘密は、過去の物語!】神武三千年の神計り(拙書花咲く都・黄金文明)「神武三千年の神計り」により、花咲く都・黄金文明が日本から花開き、至福千年王国が実現する

2022-09-20 19:23:14 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

ヤハウェは一神教の創造主(例えば仏教では阿弥陀仏)で、それぞれの宗教に創造主がおります。

その創造主を派遣した唯一絶対の根源創造主は、1234年に奈良の興福寺で沙盤の聖なる白砂(しらす)に裁定を下され今日の新しい時代の宣言をされました。

その時点からかそれまでの祭りごとはその役目を終え(人々の関心が薄れ、なおかつ為政者が偽装社会を演出した)歴史の渦に巻き込まれてゆきました。

この動画のように情報時代になり考察がなされてきたのは良い機会を得たと云えます。

現在、ダビデ神殿はブラジルやイスラエルで建設されつつありますが、過去の世界に「十」の秘密は明らかになることは決してありません。

あえて言うならばキリストがユダに伝承(ユダ記)したのち封印されました。

もし、アメリカで研究させている「ユダ記」の真実が公開され、彼らが求道することが出来れば、キリスト教は救われるでしょう。

過去の時代では明らかにされていない神宝が唯一絶対の根源創造主主宰により密かに伝承され世界に広がっています。

もちろん日本にも全国にたくさん仏堂は設置されています。

権力者ダビデの神殿に代わって、自覚がなくても縁によって何世の転生を経て、道すなわち真理を得て因果を超脱した人は、小さな空間(家庭の一部屋)でも天との交流ができる神殿を授かることができるようになりました。

7軒に1軒の割合で神殿を授かることができると預言されています。

新しい時代とは、神なる人に対して、唯一絶対の根源創造主直轄の神殿文明になります。

神武三千年の神計り(拙書花咲く都・黄金文明)「神武三千年の神計り」により、花咲く都・黄金文明が日本から花開き、至福千年王国が実現する


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第二章 天人一貫の妙理 (三)一理の中に無限の真理が蔵され、すべてのものの生命となり変わる

2022-09-20 19:17:46 | 天道の淵源

(三)一理の中に無限の真理が蔵され、すべてのものの生命となり変わる

人間の限られた小智識ではどうしても限界・意識界を超越した窮りなき大自然の質量を計算したり、明らかに解剖したりすることはできません。

もちろん、その本体と妙用は如何なる名句妙文をもってしても描写し尽くされるものではありません。

老〇様(ラウム)のお姿を浅薄(せんぱく)な小智や文章で表して説明するのはあたかも一群の盲人が象の身体の一部分を触っているようなもので、ある一部が解明できてもその全体を知ることは不可能です。

いかに上手に譬(たと)えて説明しても、相を借りて理を悟らせる以外にその実態を表現することはできません。そこは誠をもって近づくだけです。

感ずれば応ずる真霊の世界をまた数学的に足したり、引いたり、割ったり、掛けたりすることもできません。

不増不滅の理に人間の定めた枠で当て嵌め(は)ようとするのが無理なことです。

この真理には厳格な面と慈愛の面が含まれていますが、そのいずれに通ずるにしても敬虔な求道精神によって深く体得することができます。

老子様は「無明は天地の始まり、有名は万物の母なり。」といわれ、形体はいかに大きくとも無から比較すれば微かなものです。

無限大の無の中から有形体が芽をふき生じてくるもであります。

また、「天下の物は有より生じ、有は無より生ず。」ともいわれ、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生ず。万物は陰を負いて陽を抱く。沖気(柔らかく・やさしい気)をもって和するを為す。」といわれました。

空・虚・無・道・天などの名称は、この真理の別称であります。

形象・物体は気の合体であり、光子・電子なども気から流露された分子であります。

気は理によって造化され、陰陽の二気を有しています。

一が二を生ずるとは、言葉を変えていえば無極の理から太極の気を生じたという意味です。

数字上から言っても、万数の始まりは一に起原しています。

〇(零:れい)は一より先との説もありますが、〇(零)を伸ばしてもやはり一です。

一は縮めて「、:点」と化し、そこに妙が生ずるのです。

道動いて太極を生じ、太極動いて陽儀を生じます。

陽は動性をもち、動の極は静であり、静は陰を生じます。

陰中に陽があり、陽中に陰があります。

これを両儀といい、一動一静、たがいに相和し交感し、次第に木火土金水の五行が生じてまいります。

五行の気か順布し、大地が自転公転して春夏秋冬の四時が秩序を乱すことなく行われるのです。

創造の妙は不可思議な力をもって物象に変化を来たし、万物がそれに応じて発生進化してくるのです。

万物は必ず天地・陰陽に挟まれて生育し、絶えず沖虚(奥深くしてむなしい)の原気が二気を調和しています。

一はすなわち道であり、万物万数の起点なのです。

「〇」も「、」も、一を拡大したり、短縮したりしたもので、これがそもそも大道の大奇蹟的な働きなのです。

伏羲氏は一を画いて開天となし、老子様は「一を説いて天地を生育する」といい、孔子様は「吾れの道は一を以て貫く」といい、孟子様は「夫(そ)れの道は一のみ」といわれていますのも、同じく天人一貫の理を解かれているのであります。

一理をもって万理に通じます。

一理の中には無限の真理が蔵されて、すべての物の生命と成り変わります。

一はかくして変化不可思議ですが、また極めて自然であり、それぞれの存在に応じてやがては万物を収息終結させます。

窮りなき慈愛と智能をもって森羅万象・日月星辰・地水火風を含む万端を変わりなく一定の法則に従って養うことができます。

このように衝突せず、混乱もなく整然として天体宇宙が各自の路を運行しているのは、老〇様(ラウム)が形として顕れられた権化であります。

われわれは、老〇様(ラウム)の無生無死であられることを忘れてはなりません。

理の天は唯一であり独一です。

天地宇宙を散漫なく統一する力といってもただ、霊以外に何もありません。

声もなく、臭いもなく、生ずることもない無尽無窮の大霊といえます。

道徳経に「天は一を得て清くなり、地は一を得て凝(かたま)り、人は一を得て聖人となる。」とあります。

天は清く、地は凝り、人が聖人となる、一の理はきっとすばらしい偉大な力をわれわれに与えるに違いありません。

この一理を得た人は迷いの帷(とばり:かたびら、たれまく)から高く悟りの境地に飛躍できる霊妙力を有しています。

ここでいう天は太極であり、天道では「気天」と称しています。

太極を生ずるとありますが、これは理天が気天を生ずる意味です。

理天は不動天であり、気天は宗動天であります。

続く


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天道推奨~(二)天然弓長師(てんねんゆみながし)の使命と任務(その一)

2022-09-20 19:13:25 | 天道推奨

天然弓長師は1913年、御年25歳の時、道を第17代路祖(ろそ)に求め、心法を授記されましてから御逝去まで自来(じらい)34年間、身命を賭(と)され、精魂を傾けられて伝法に尽くされました。御幼少に頃から常人と異なった非凡性を具え、激しい正義感と優しい慈愛性の人柄の上に、常に深い、古い幽玄の妙理を悟られ、同時に博(ひろ)い、新しい学識と感覚を体得なされ、汲めども尽きぬ智慧の源泉をお持ちになっておられました。

 天然弓長師

塾生として勉学が師の幅を無限にし、道門に入られる前には殆ど仏、道、儒、及び諸子百家の経典を研鑽(けんさん)し、完全に修得なされたのですから如何に卓越された秀才であるかを容易に想像することができます。

御聖訓に依りますと、師の前身は1130年頃、中国、浙江台省(せっこうたいしょう)、府天台県(ふてんだいけん)に御出生なされた偉大なる高僧、「済公禅師(さいこうぜんし)」の御転世であると申されています。

過去、中国五千年の宗教歴史を通じて禅師程宗教界や民衆全体に深く広く受け入れられて、親しまれた聖者はなく今に至るまで「活仏」と尊称されているほどであります。

世間の禅師に対する尊敬と信服は大きく御尊名を聞いただけで邪と魔は消え失せていかなる苦厄も救われると信じております。

時恰(あたか)も末法の世と変わりましたので造化の主である無生老〇(らうむ)は「済公、命を領し、弓長と為りて白陽の収圓(しゅうえん)を担うべし。」と天命を降して今の世に御再来されましたから「賢明なる神童」と冠称(かんしょう)されたのは寧(むし)ろ当然であります。

路祖(ろそ)の弟子としての十七年間は師の大完成への貴重な修練期間と申すべく常に燦然(さんぜん)として輝く存在として、特に祖師から重任され、厚く期待を掛けられ、同じ兄弟弟子間での信望も絶大でありました。

紅陽と白陽時代の交代期に代表師として祖師に御協力し、大道盤を固められました。

1925年の梅二月、路祖御逝去の際、祖師から始めて前身と出世の使命を明らかにされ「我が後継者として末後一着(まつごいっちゃく)、万教帰一(ばんきょうきいつ)を完成すべし。」と聞かされた時は極度に驚愕(きょうがく)と衝撃を受けられたらしく、六年間各地伝道に事寄せてその重責を避け続け、辞退し続けられたのを見ても十分察知することができます。

これは1934年の師の記に【当(まさ)に即(ただ)ちに再四懇辞(さいしこんじ)し、以って賢に路(みち)を譲るも、皇〇(ラウム)各壇に降鸞(こうらん)され請う所、を允(ゆる)さじ。】とありますから明らかであります。

然るに1930年【余(よ)、祗(ただ)に其の難の為に勉(つと)むるを得るのみ、天に順(したが)いて事を行い、然して三層を済度す。

責重く任巨(おおい)なり。】と云われて漸く(ようや)く天命を担い、茲(ここ)に始めて天来の神性を発揮なされ、万国伝道の御命を號(ごう)されたのであります。

恰も(あたか)も師を待ち臨(のぞん)でいたかの様に一度、ご出現なさるや、満天下に雲霞(雲霞)の如く、師の御許(みもと)に身命を投げ出して伝道する人材が続々として集まり、十数年間の間にして何百万名の縁者が法を受け、道を得ました。

師は誠意を以て求道(ぐどう)する者はすべて拒まず、戒律よりも正法を以て導き、奇跡よりも真理を以て与(く)みし、大理天界及び三層界を説き来り、説き去り、衆に迷昧(めいまい)なる所をすべて明らかにされたのであります。

師は領命(りょうめい)されると同時に人々の三世(さんせい)を見透し、御自分の霊(たましい)を同時刻に何十個所(なんじっかしょ)もの仏堂に分霊して御垂訓(ごすいくん)されることができました。

師はわれわれの心眼を開き、業縁(ごうえん)を断ち切って下さいます。

決して怪力、乱神(らんしん)や異端、邪説を語らず、真実の法話は聞く人の心霊を揺さぶり、本性を呼び起こし、迷いを破り、執着を離し、不安と恐怖を拭い、太古の姿に立ち戻されるものであります。

一度、師に会われた人は殆ど大きな感動を受け、鮮明且つ強烈な印象を受けて忘れることができません。

師は非常に御寛大で如何なる時で悠容(ゆうよう)迫らざる態度をお持ちでありました。

道の為に富豪だった、御自分の財産を全部、犠牲にされ、使い尽くされました。師の偉大さは砂文字以外、滅多に親筆をお取りにならなかったことであります。

虚飾多き文章や書物によってとても奥義を述べ尽くされないと思召(おぼしめ)されたのか、天下の才を以てしても足下に及ばない大徳者である師は不思議に言葉の神秘性を会得されまして御法話の方が、達文(たつぶん)、経典よりも大きな響きを持つものでありました。

これは「心印相印(しんいんそういん)、口授妙語(こうじゅみようご)」の天道の主旨をそっくりご自分に当て嵌(は)められて実行されたと申せましょう。

亦、師は御自分の才徳を隠すのに極めて徹底的でありました。

師は今、天命を担い、人間界、地獄界、気天界のすべての霊魂を救い尽くす大悲願を立てられておられます。

この大いなる使命の許に馳(は)せ参じて、極力賛助申し上げるのが我々に与えられた天の声だと信じます。

師は如何に世道人心を憂慮なされているかは次の御聖訓の一端によっても明瞭であります。

【私は天命を奉じて第18代祖としての動脈を受け継ぎ、白陽の時運に応じて古聖先賢の大道を続伝し、末後一着、収圓の大業を担当処理することになった。

深く責任の重大さを感ずるものである。

御命を授けられて以来、臥寝(がしん)しても蓆(むしろ)を安んぜず、飲食しても甘味を覚えない。

駑(にぶ)く鈍(のろ)い知慧や才能を竭(つ)して道の闡明(せんめい)に勤めたが、効果、薄きが為、老〇(ラウム)の御心を御痛傷(ごつうしょう)致されるのを恐れ惶(おのの)くものである。

故に31年の風霜寒暑(ふうそうかんしょ)の苦しみを経歴して自分で自分を勉励(べんれい)して、誠心誠意、腐心(ふしん)、尽瘁(じんすい)して善男信女を度(すく)い、同(とも)に光明の覚路(かくろ:天道の彼岸)に登らせた。

幸い上は老〇(ラウム)の鴻慈(こうじ)なる御恩を蒙(こうむ)り、中には諸天神仏の佑(たす)けを受け、下は諸賢の臂助(ひじょ)の力の力に頼って斯(か)く道務の進展を見ることを得たことは、せめてもの慰(なぐさ)めとするものである。

然れども天道の基礎は未だ固定しておらず中途で挫折(ざせつ)したり、桃李紛々(とうりふんぷん)として落伍(らくご)したり、同道異歩(どうどういほ)もあったりして深く心衷(しんちゅう)に悲哀を覚えてならない。

これは天道の不幸であるが、亦、試練選抜の時期でもある為、致方(いたしかた)がない。

忠孝の弟子たちは至誠耿耿(しせいこうこう)として初志を曲げず、私に続いて世を救拯(きゅうじょう)する心を懈怠(なまけ)ることなく、量力(あるだけのちから)を鼎(かなえ)にして相助(あいたすけ)相擁(あいよう)して佈伝(ふでん)して行くことは喜悦(よろこば)しい限りである。

亦、義烈英雄(ぎれつえいゆう)の弟子は外洋に渉(わた)って路を開き、辺彊(へんきょう)の地域にも奔走して真理を伝播(でんぱ)し、以て天道の根幹を樹立し、諸教を導いて本門の正宗に帰宿せしめ、大道の威厳を(いげん)を発揮顕揚(はっきけんよう)せしめようとするのは吾意「我が意」に叶(かな)う所、甚(はなは)だ大である。

蓋(けだし)、これは私の遺志(いし)を追従し、私の使命を遂行し、上天の御慈憫(ごじびん)に報いんと欲する為に力を竭(つく)されているものと信じられる。

どうか今後とも、継続して勇猛果敢(ゆうもうかかん)、天道と共存する強い決心を抱き、種々(さまざま)な障害試練があっても、道心堅固、意志軒昂(いしけんこう)でであってほしい。

萬教帰一(ばんきょうきいつ)の大理想実現の為、三期末劫(さんきまつきょう)の大災難防止の為、奇(くし)き妙計を考案運用して広く善縁者を挽救(すくう)ことこそ私の唯一の願望である。

若し本嘱告(このことづけ)が道務人心に裨益(ひえき)を齎(もた)らせば大いに幸いである。】と(昭和32年夏季大典の御聖訓より)

続く


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