真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第三章 天性の変化と修法 (一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

2022-09-26 19:33:34 | 天道の淵源

(一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

天性の変化と修法について述べてみたいと思います。

形象なき天性を論理的に説明ができても、実際にこれを深く分析・解剖し、その由来と起源を明らかにすることは、困難な問題でもあります。

しかしこれは、われわれ天道人の最も重大な課題であって、自分をもふくめて、すべての人々の天性を明らかに浄化し、元の姿に回復させる責任があります。

天性とは、われわれの「真如」の姿であり「本来の面目」であります。

つまり、われわれにも一如来が存在している訳で、汚れなき美しい光明体なのです。

それが歴世の輪廻に入り、悪の因果と業縁を繰り返しているうちに、すっかり堕落腐敗して本性が極度に汚染され、光沢を失ってしまいました。

果ては残霊と化したり、破廉恥行為によって天真爛漫な本性が深い傷痕を残してしまいました。

たとえ家の中に電球がついていても、戸口や窓を締め幕を引いては光が遮断されてしまいます。

聖賢に値するほどの霊も、それを内に秘めては人々に及ぼす徳光にはなりません。

また何百燭光の電球も、内の発光線が切れていては本来の用途を喪失(そうしつ)するのと同じく、仙仏の器たる本霊を持っていても神と通ずる線が切れていては元の機能が損なわれます。

腐敗するには腐敗する原因があり、悪化するには必ずその由来があります。

それを究明し、それを根治して真理・神仏との交わりを結ぶのが、天命を帯びて働くわれわれの本務であります。

天道は、われわれの真面目を復活して欠けることのない円通無礙(えんつうむげ:すらすらと物事が運ぶ)の姿に返らせる法授がります。

天性とは、父母未生以来の面目であり、人間の喜怒哀楽の情、いずれにも意未だ流れていない時の中に和なるところの霊をいっているのであります。

修道とは、この玲瓏(れいろう)天真なる天性の清明に到達することを目標とし、悪濁なる俗塵に曇らされた霊気をだんだんと浄化して行くを言います。

われわれの霊の当初は、老〇様(ラウム)によって賦(さず)けられ、純然たる羅漢・菩薩の姿であり、神の御子にふさわしい聖霊でありました。

もともと神ラウムが創り給うた原子霊でありましたが、約六万年間、三界を転生しているうちに絶え間なく過失と清算が繰り返され、その過程をへて現世に賢愚聖凡の別が生じたわけであります。

宿命とは、前世の貸し借りの因縁を背負って今生に受けている境遇のことで、一つの霊が過去に何百回、何千回と形を換えて生まれてきた果であります。

人間降世より約六万年と聖訓にあります。

人生百年ですから、まともに人間に生まれても都合六百回はこの地上に顔見せしている勘定になります。

動物や虫・魚類になりますと、寿命がずっと短くなりますからそれを含めると、何千回地獄と人間界を往復してきたかわかりません。

人間として百年間の人生に数多くの因果関係を結んでいます。

それが何百回の転生の間に、縦横に、前後に、いかに因縁を結んだかはかり知れません。

こうした複雑な因果は、波紋が広がるように幾重にもわれわれを囲み、左右前後に網目のような関連性をもって溺(から)み繞(まつわ)っているありさまであります。

運命や環境は皆そこから織りなす結果であって、心の作用によって聖賢仙仏智成、悪魔・夜叉の霊とも変じてしまいます。

心霊を修め、修行することがいかに貴重な問題であるか、それは天国と地獄にわかれていく重要性を帯びているのです。

「差は毫厘(ごうりん)なれどこれ千里に遠し」という諺にありますが、迷いと悟りの違い、修煉するかしないかの違いによって、今後永遠にその人と、子孫に対して禍か福をもたらすものであります。

麗しい本性に立ち戻って物事を行うなら、万事に欠け余りもなく多方面に和して成さざるものはありません。

物事が不明なのは、天性が明らかでないためであり、妙智慧の輝きがない故です。

人間界に生まれ、この肉体に霊気が流れて、「心」と変化してしまいます。

本より性・心・身は一体であり、この三つが組み合わされ始めて一個人の生命が成り立つのであります。

孟子様は「性は本善なり」と主張して「本性は相近づくものであるが、習性になると相遠ざかるものである。」といわれました。

官能の赴くままの心は後天的なもので、性命、すなわち霊魂は上天、老〇様(ラウム)の与え給うもので皆一様であります。

「天性」とは、「上天の与え給うた霊性」という意味で、人間を主宰し、絶対善的存在であり、純善無垢の透明体であり、一点の悪のまじり気もない姿であります。

ところが当初は遮ることのできない霊明な光彩があっても、天性が一旦肉体に流れ入りますと、喜怒哀楽を含む心と変じてしまいます。

心は身体の発達に従って、欲求の度合いが強くなってまいります。

眼・耳・鼻・舌・身・意が六根で、これが色・声・香・味・触・法という身外の物象に牽引され偏り、染まり、放蕩化してしまいます。

もともとの心は天性の使官であり、天性にかわって身体に発令し、正しい行動を左右するものであります。

つまり天性は本体であり、心はその用であります。

続く


天道推奨~(四)各神仏の天道証明 (2)釈迦古仏の御聖訓

2022-09-26 19:30:08 | 天道推奨

(2)釈迦古仏の御聖訓

夏より秋絵と気候は移り、収穫の時代へと変わる。

人は皆眼前の大災難を知らない。今此の金線に登り速やかに災いより逃出(とうしゅつ)せよ。

私は乃ち 釈迦古仏である。

老〇(ラウム)の命を奉(う)け仏堂に降った。

老〇(ラウム)に参叩(さんこう)し、玉筆(ぎょくひつ)を取りて砂盤(すなばん)に訓告する。 吩々止(はっはとどむ)。

かの昔、私は名利財産を捨て、位を捨てて山中に入り、十六年の間、坐禅断食をした。

十六年の苦行難行は何の為かわかろうか。皆天道を求め、苦しい四大苦、六道輪廻、三界の苦しみを脱(のが)れたいためである。

百年の楽よりも万々年の幸福、霊(たましい)の幸福が有ると悟ったからである。

現在は名誉利慾に心をとらわれているが、一旦両目が閉じた後は何を持って何処(どこ)へ行こうというのか。私は山中にこもり、艱難辛苦(かんなんしんく)と共に、身を捨てて道を求めた。私の心はやがて

上天に達せられ、燃灯仏(ねんとうぶつ)より、一竅(いっきょう)を開かれて願いはかなった。

そうして此の尊い真法を又わが弟子に伝えた。

私は寿命が尽きて仙仏が迎えに来られ、極浄土、理天へと帰った。私の理想通りの不生不死の極地に至ったのである。

その後わが弟子は私の聖業を世に留(のこ)す為に経典を遺した。

私は経典を読み成仏したにあらず。

天道の尊い秘宝を得、而(しか)して成仏したのである。

私を信ずる門下よ。天道の尊さを知れ。

私の得た秘宝、天道の三宝を知れ。

経文に中にも経典の中にも、天道は含まれ書かれている。

経文、経典は念ずるのではなく、意味を悟るものなり。

しかる後、経典の通り、道の為に進められたい。

那(か)の時単伝(たんでん)で伝えられた真法は、今は普伝(ふでん)となった。

昔に比較し、簡単にして、容易に尊い心法を得ることが出来た。

真法は眼前(がんぜん)にある。

有縁(うえん)ある者は皆道に逢い私同様此の尊い宝を得ることが出来る。

縁の薄い者もだんだんと悟り知る時がくるであろう。

今の時代は三期の末世に当たっている。

道が普伝になったのも、時代が変わり混沌とした故である。

戦器武器を作り、花やかなぜいたくな時が来てしまったが為なり。

眼前には大災難が迫ってきている。諸々の衆生は皆此の災難に清算される。

悪孼(あくげつ)を作ったものは、皆罪に応じ、淘汰(とうた)されてしまうのである。

上天に於いて主神(おやがみ)は嘆き悲しみ、道の普伝を許した。

道は公開され、皆此の尊い心法を得て極楽浄土に帰ることが許される。

私は難行苦行して得た三宝は実に貴重なものである。

昔三宝を得る条件として、家を離れ、山へこもり断食瞑想を幾十寒暑過ごしたが実に苦しい修行であった。

今の良き機会に道を求めなさい。

私が得た三宝を得なさい。

此の仏堂は一隻の慈船であり、救いの船である。仏堂を設置したならば無数の衆生を乗せ救わねばならない。

一人を救うことは一つの功徳であり、自己の徳となる。

無人船にせず無数の人を乗せよ。

此の功徳は上天に帰った後に顕れる。

いくら地位が高くても財産があっても、両目(りょうもく)閉じれば空手である。

その時になり功徳によって上天で位が定まる。九品の位は皆自ら選ぶので神のみが選ぶのではない。

自ら徳を積めば上品に行き、徳を積まないで品は上げにくい。

天道の秘宝を得ると胎・卵・湿・化の四生に転ずるのを止め、四生六道の苦しい輪廻を断ち、四大苦を逃れ、三災八難、あらゆる災難を逃出できる。

百年の寿命が尽きた後には、理天に帰り、地獄の縁を切るのである。

理天とは永遠の極楽、常に変化のない聖人仙仏の所である。

生死を超脱した不生不死の所であり、煩悩雑念の無い平和で愉快な所である。

私を信ずる者は天道を信ぜよ。

私を信じて道に逆らうのは、私を信ずるにあらず。此の一竅(いっきょう)である玄関は魂の正門、死後此處(ここ)より霊(たましい)は出て極楽へと帰る。

この一点に集中すれば無雑念で無煩悩、更に口訣(くけつ)を念ずれば大神通力が顕れ、災難より救われる。

合同とは神と人との連絡をするものである。

十指をくみ合わすと神に通じ、汝の許へ神は降る。

災いに出逢った時に、此の三宝を使えよ。

一瞬にして救われるであろう。眼前に三期末劫の災難が迫っている。

即ち、九九八十一の恐怖におそわれた大きな災難である。

七七の間、天と地が暗黒となり、血は河の如く流れ、骨は山の如く積り、見わたす限り人家が無い。地球できて以来の最も大きな災いである。

善と悪は悉く(ことごと)く判別される。此の時降された一本の金線、救いの道は唯天道一つである。

此れ以上の宝は無く、此れに等しい宝もない大神咒(だいじんじゅ)で大明咒(だいみょうじゅ)であるこの真法を得よ。

そして迫りくる恐ろしい災いより逃出せよ。

汝等が今立てた徳は万八青史(まんはちせいし)に良き名が残ろう。

今、徳を立てずして何日になって立てると言うのか。

天道の普伝には止まる時がある。

今修め徳を積めよ。汝等は皆縁份(えんぶん)が有る。道に進めば輝かしい光明がある。

だが今道を退(の)けば光明は失われてしまう。

わが門下は私の言葉を悟り、信じ。道に働けよ。

而して衆生を多く得道させ救ってあげよ。

そうでなくばこの仏堂は役に立たないものになってしまう。

衆生を乗せて初めて仏堂の意義がある。設立するだけでは駄目である。

観光客には進んで道を宣べ、道を得させよ。

上は力を加えるであろう。

当檀を衆生で満たせよ。夜も更けてきた。

遠路の者もあろう。私は筆を放つ。

老〇(ラウム)辞叩し、理天に帰る。更に力を加え、道の為に奔走(ほんそう)せよ。

                   哈々退(はっは~さがる)

続く


離苦求樂(苦を離れ樂を求める)その六 完

2022-09-26 19:21:44 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

怨憎会苦(えんぞうえく)。(怨んだり憎んだりする人と会う苦しみ。)

例えば、同じ職場のある人とは、何をするにも意見が一致しない。

その為にその人を怨んだり憎んだりする。

その人の会いたくないけれど、同じ職場である為に、どうしても顔を合わせなければならない。

その人を見ただけで心が苦しくて仕方がない、というような人に会わなければならない。

これが怨憎会の苦しみです。

愛別離苦(あいべつりく)。(愛し合いながら別離する苦しみ。)

「会うは別れの始めである。」とは、聖人のお言葉でございます。

どんなに愛し合う親子夫婦、兄弟姉妹であったとしても、別れなければならない時が必ず来ます。

これが無常の法則なのです。

求不得苦(きゅうふとくく)。(求めても得られない苦しみ。)

求めても求めても得られ無い苦しみは夜寝ても夢になって現れてくる程です。

五陰熾盛苦(ごいんしきせいく)。(五陰が心の中に起こって燃え盛る苦しみ。)

五陰とは般若心経の中にある色、受、想、行、識(五蘊〈ごうん〉)であります。

我々は、我執があるが故に惑いが起こる、惑によって業が起こり、その報いとして苦しみを受けるのです。

我々はこの意味が解った時、本当の極樂を得る為に苦しみの因を離れていかなければならないのです。

先ず、我執を取り除き、惑いをなくして行く、そして、業を行なわないようにする、そうすれば苦しみの結果を受けなくなります。

これが即ち、苦を離れ樂を得る境地でございます。

私達が、道を修める目的は、苦を離れて、本当の極樂の境地に至る為であります。

集業受苦、修道証滅。(業を集めて苦を受け、道を修め滅を証〈あか〉す。)

一般の方々は、業を集めて苦しみを受けているわけですが、道を修める私達は、道を修めることが因であり、その結果、心の中が非常に清らかな境地になるわけです。

これが修道する人の果であり、滅の境地を証すことであります。

Ray:滅の境地を証す:一切の執着を無くす。解脱する。