夢遊病者の娘/MET08-09舞台撮影
作曲:ベッリーニ、演出:メアリー・ジマーマン
指揮:エヴェリーノ・ピド
出演:ナタリー・デセイ、ファン・ディエゴ・フローレス
ミケーレ・ペルトゥージ、ジェニファー・ブラック
ジェーン・バネル
透き通るような青い空、柔らかな凹凸を見せる白い雲、優美な光、優しい森の深い緑、神聖な顔立ちで天に向かってそびえ立つアルプスの峰々、頂に残した幾筋かの雪、その下の透明な紺の岩肌、野にそして家々のベランダに咲き乱れる草花の色とりどり、優しい村の人々、賑やかな色彩の歌、素朴なスイスの衣装。「夢遊病者の娘」の舞台となるべき風景の印象。しかし今回の舞台は場所が違う。
そのようなスイスの村の、のどかさとは全く無縁なNY。寒々とした空気。METの階上にあるオペラの稽古場。そんなガサガサと忙しそうな場所が舞台。「夢遊病者の娘」の稽古の様子から物語が始まる。そしてその物語はこれも「夢遊病者の娘」。劇と劇中劇が同じという、何が何なんだか分からない、まさに夢遊病のような演出だ。
始まりは緞帳に付けられた入り口からMETの中に入って行くジェニファー・ブラックのしかめっ面。何か面白くない事があり、イライラ・カリカリしている。この役はタイム・キーパーなのだろうか?それとも演出家自身のことなのだろうか?常に注目を浴びてきゃぴきゃぴ能天気な雰囲気のプリマドンナが気に入らない。トゲトゲのいばら。ツンツンした気持ち、苛立ち。そのイライラ感がこの劇の1つの色調になっている。主人公2人を乗せたベッドをぐるぐる回して、難しい歌を歌わせたりする演出は劇の中での意地悪なのか、演出家自身のイジワルなのか、どちらなのだか分からない。出演者全員で破り散らす楽譜、放り投げ散らかしまくり、挙句の果てはプロンプターまでをもひきずり出して炸裂する、フラストレーションのカタマリは劇の演出なのか、それとも演出家のイライラそのものなのかは、どちらなのかは分からない。NYの雪の降る窓の外を夢遊病者の振りをして歩くナタリー・デセイ。何だか良く分からない。夢を見ているような感じ。演劇自体が夢遊病なのだ。
でも、最後は正気に戻って、まともなフィナーレとなる。
村の人々が主役と言えるくらいに村人達の合唱が多いのが特徴で、これがこの劇のモチーフらしい。この村の人々をMETの数多くの合唱の出演者に置き換えたところが、この演出の狙いの1つであろう。普段、あまり光の当たることのない合唱の皆さんを前に出し、主役の2人に少々イジワルをする。合唱の人々の嬉しそうなイキイキとした表情が、スイスの森に住む村人達の素朴な印象に良く重なる。
ナタリー・デセイの前半は軽快なコロラトゥーラでスイスの山々にこだまする鳥の歌声であるかのように、空高く駆け回る。後半は一転して、憂いを含んだゆっくりした曲調で、1節1節を噛んで含めるように、言葉や情感を大切にしている。
ファン・ディエゴ・フローレスは若い、馬力のある高音で、スピーカかマイクか、あるいは途中のディジタル処理か、何なんだかは分からないが、その想定外の高域のパワーに音響設備が追従できていないようだった。多分、スピーカが駄目なんだろう。パワーのある高域を出せるスピーカの設計が難しいのだろう。音が歪んでいたようだ。
ミケーレ・ペルトゥージは大きな柄の伯爵、ゆったりとしたバス。ジェニファー・ブラックはイライラしっぱなしのタイムキーパー。対照的なのが、アミーナの母役のジェーン・バネルで落ち着いたゆったりした表情。1幕目がくっきりとした赤のジャケット、2幕目が深みのある紺の衣装。スラップスティックなどたばた劇の中の優しい落ち着き。
2幕目後半のアミーナのアリアの演出は面白い。舞台中央の一部が花道のように細く長くせり出して来て、オーケストラ・ピットの上、指揮者のまん前まで来る。その上でナタリー・デセイが切々と歌う。多分、客席の1階からは体が浮遊しているように見えたのではないかと思った。
たぶんにオフザケのすぎる演出で面白いかった。こういうやりたい放題の八方やぶれというのは見ていてスッキリする。
09.04.11 東劇
作曲:ベッリーニ、演出:メアリー・ジマーマン
指揮:エヴェリーノ・ピド
出演:ナタリー・デセイ、ファン・ディエゴ・フローレス
ミケーレ・ペルトゥージ、ジェニファー・ブラック
ジェーン・バネル
透き通るような青い空、柔らかな凹凸を見せる白い雲、優美な光、優しい森の深い緑、神聖な顔立ちで天に向かってそびえ立つアルプスの峰々、頂に残した幾筋かの雪、その下の透明な紺の岩肌、野にそして家々のベランダに咲き乱れる草花の色とりどり、優しい村の人々、賑やかな色彩の歌、素朴なスイスの衣装。「夢遊病者の娘」の舞台となるべき風景の印象。しかし今回の舞台は場所が違う。
そのようなスイスの村の、のどかさとは全く無縁なNY。寒々とした空気。METの階上にあるオペラの稽古場。そんなガサガサと忙しそうな場所が舞台。「夢遊病者の娘」の稽古の様子から物語が始まる。そしてその物語はこれも「夢遊病者の娘」。劇と劇中劇が同じという、何が何なんだか分からない、まさに夢遊病のような演出だ。
始まりは緞帳に付けられた入り口からMETの中に入って行くジェニファー・ブラックのしかめっ面。何か面白くない事があり、イライラ・カリカリしている。この役はタイム・キーパーなのだろうか?それとも演出家自身のことなのだろうか?常に注目を浴びてきゃぴきゃぴ能天気な雰囲気のプリマドンナが気に入らない。トゲトゲのいばら。ツンツンした気持ち、苛立ち。そのイライラ感がこの劇の1つの色調になっている。主人公2人を乗せたベッドをぐるぐる回して、難しい歌を歌わせたりする演出は劇の中での意地悪なのか、演出家自身のイジワルなのか、どちらなのだか分からない。出演者全員で破り散らす楽譜、放り投げ散らかしまくり、挙句の果てはプロンプターまでをもひきずり出して炸裂する、フラストレーションのカタマリは劇の演出なのか、それとも演出家のイライラそのものなのかは、どちらなのかは分からない。NYの雪の降る窓の外を夢遊病者の振りをして歩くナタリー・デセイ。何だか良く分からない。夢を見ているような感じ。演劇自体が夢遊病なのだ。
でも、最後は正気に戻って、まともなフィナーレとなる。
村の人々が主役と言えるくらいに村人達の合唱が多いのが特徴で、これがこの劇のモチーフらしい。この村の人々をMETの数多くの合唱の出演者に置き換えたところが、この演出の狙いの1つであろう。普段、あまり光の当たることのない合唱の皆さんを前に出し、主役の2人に少々イジワルをする。合唱の人々の嬉しそうなイキイキとした表情が、スイスの森に住む村人達の素朴な印象に良く重なる。
ナタリー・デセイの前半は軽快なコロラトゥーラでスイスの山々にこだまする鳥の歌声であるかのように、空高く駆け回る。後半は一転して、憂いを含んだゆっくりした曲調で、1節1節を噛んで含めるように、言葉や情感を大切にしている。
ファン・ディエゴ・フローレスは若い、馬力のある高音で、スピーカかマイクか、あるいは途中のディジタル処理か、何なんだかは分からないが、その想定外の高域のパワーに音響設備が追従できていないようだった。多分、スピーカが駄目なんだろう。パワーのある高域を出せるスピーカの設計が難しいのだろう。音が歪んでいたようだ。
ミケーレ・ペルトゥージは大きな柄の伯爵、ゆったりとしたバス。ジェニファー・ブラックはイライラしっぱなしのタイムキーパー。対照的なのが、アミーナの母役のジェーン・バネルで落ち着いたゆったりした表情。1幕目がくっきりとした赤のジャケット、2幕目が深みのある紺の衣装。スラップスティックなどたばた劇の中の優しい落ち着き。
2幕目後半のアミーナのアリアの演出は面白い。舞台中央の一部が花道のように細く長くせり出して来て、オーケストラ・ピットの上、指揮者のまん前まで来る。その上でナタリー・デセイが切々と歌う。多分、客席の1階からは体が浮遊しているように見えたのではないかと思った。
たぶんにオフザケのすぎる演出で面白いかった。こういうやりたい放題の八方やぶれというのは見ていてスッキリする。
09.04.11 東劇
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