2006/04/15 土
新聞記者・松井やより
やよりさんは、肺結核療養のために高校卒業を断念しましたが、回復後、大学入学資格検定試験(大検)に合格して大学進学を果たしました。
国際的な視野を広げたいという意欲に燃えて、英語を専攻しました。
大学後輩からのインタビューに答えて、やよりさんは、英語を専攻した理由を述べています。
「ひとりで生きていけるように、翻訳でも通訳でも、手に職をつける必要があったことと、なぜ原爆を落とすようなことをやったのか、直接アメリカ人と議論したかったから」
大学在学中、1956年にアメリカのミネソタ大学に1年間留学。
女性の留学が珍しかった時代に留学を志した理由のひとつとして、「やっと大学生になって、議論もできると思ったのに、女が自分の意見を述べると、怖い女、生意気な女として見られる。そういう閉鎖的な中にいるのがいやになったから」と、述べています。
奨学金に応募して採用されたので、アメリカでの1年間は留学費用が支給されました。
しかし、1年間の海外生活は、やよりさんには十分な時間ではありませんでした。
ヨーロッパ経由での帰途、お金がなくても、なんとかしてもう少し海外で勉強を続けたいと思いました。帰国してしまえば、二度と海外へでることはできないかもしれない。一般の人にとって、海外生活は夢のまた夢の時代でしたから。
ベビーシッターをしながらパリでフランス語を習得しました。
フランスで得たことは、フランス語だけではなく、人種差別と偏見への強い反発心。
フランスからアジア経由船便で帰国するなか、アジアへの視点をひらかれました。
帰国後のやよりさんは、「二度と戦争の時代にしない」「国際的な視野で平和を考える」ということを願いながら勉学を続けました。
ミネソタで習得した英語と、パリで習得したフランス語、ことばはやよりさんにとって、自分を生かす技術であり身を守る武器でもありました。
大学卒業を前に、就職は大きな問題でした。やよりさんが大学卒業した当時、大卒女性に就職の門戸を開いていたのは、教職くらいしかありません。自分は教員には向かないと考えていたやよりさんに、就職先は限られたものとなりました。
新聞社を受験したのは、女子学生に門戸を開き、男子と同条件で就職試験を受けさせてくれたのは、新聞社だけだったから。
新聞記者になりたいと願ってなったのではなかったけれど、結果としてやよりさんは天職を得ることができました。
朝日新聞に記者として入社後は、たくさんのすぐれた記事、レポートを紙面に掲載し続けました。
社会部記者として、女性問題、福祉、公害、消費者問題などを取材。
几帳面なやよりさんは、無署名の記事も含め全て、自分の書いた記事はスクラップブックに記録しておきました。
<つづく>
08:24
2006/04/16 日
国際ジャーナリスト松井やより
松井やよりさんが就職した当時の新聞社に女性記者はごくわずかで、女性は「毎日のおかず」のような料理記事を担当するなど、活躍できる部署は限られていました。
食事は大切なことだけれど、私はお料理記者には向かない、と、やよりさんは社会的な題材でスクープをねらおうと考えました。
高度成長時代に入り、おりよく、世は東京オリンピックに向かって、国際的な取材が急増していました。やよりさんは得意の語学を生かして、男性記者をしのぐスクープを続けて、しだいに認められるようになりました。
まだセクハラということばもないころ、男性中心の新聞社体制のなかで、女性差別の言動をかわしながら、社会部記者として実績を積み重ねていきました。
1970年代になると、女性問題に関心をふかめ、「男に負けない記事を書く」から「女性の視点で女性にしかかけない記事を書く」と、意識革命、方向転換がありました。
1977年には「アジア女たちの会」を設立し、1981~85年シンガポール・アジア総局員として赴任。広く女性問題やアジアの問題にかかわり、発信し続けました。
内戦で荒れ果てたカンボジアの取材を続けました。
ポルポト派による大虐殺など、悲惨な体験をしてきたカンボジアの人々が「どうか私たちの状況を日本の人に伝えてください」と願うことばを受けて、記事を何本も書き送りました。
しかし、ほとんどがボツ原稿。カンボジアの人々の思いを伝えられないことが、なにより悔しくつらいことでした。
バブル景気で浮かれている日本。「カンボジアがどんなに悲惨な状態であっても、日本の読者はそんなこと読みたがらない。読者が喜ばない記事を増やしても、部数は伸びない」という時代でした。
1994年朝日新聞社定年退職後も、国際ジャーナリストとして八面六臂の活躍を続け、一貫して、女性問題やアジアの戦争と平和問題に関わってきました。
やよりさんは日本の戦時性暴力問題に関わり、戦後も続くアジアでの日本男性による買春などを告発してきました。そのためやよりさんの考え方とは異なる立場の人々から、執拗な攻撃を受けました。
しかし、脅しや揶揄、中傷、どのようなことばの暴力にも屈せず、信念を貫きました。
晩年、やよりさんは、「女性国際戦犯法廷」での論議に精力を注ぎ、2001年末、勝訴となりました。
2002年10月、末期癌と診断されていたことを公表。
12月末に亡くなるまでの2ヶ月間、自伝執筆と「女たちの戦争と平和資料館」の設立のために力をつくしました。
全財産と資料を資料館に寄付する遺言状を作成し、12月27日永眠。享年68歳。
壮絶な生涯であり、後に続きたいと願う女達に、ともし火を示し続けた一生でした。
やよりさんが人生最後の2ヶ月間をどのように過ごしたか、というドキュメンタリーを資料館のビデオモニターで見ました。やよりさん自身が、死までの全てをビデオカメラに記録するよう希望したのです。最後の最後までやよりさんは意志的な活動を続けました。
葬儀のシーンで、95歳96歳になるやよりさんのお父さんとお母さんは、バラの花に包まれてお棺の中に眠るやよりさんに向かって「よく働きましたね」「やより、いっしょうけんめい、がんばったね」と声をかけていました。
<つづく>
09:57
2006/04/17 月
松井やよりが残したもの
やよりさんの最後のことば
「 あきらめないで闘い続ける人同士のつながりというのは本当にすばらしい。これまでいっしょに活動してきた人、一人ひとりがどれだけかけがえのない存在だったかと思います。最初からあきらめて何もしなかったら、そういうすばらしい出会いというものもないじゃないですか。(死去の一週間前に発行の「週刊金曜日」掲載)」
松井やよりの意志を伝えていこうとする女性達が、「女たちの戦争と平和資料館」で、やよりさんの残した資料の整理や展示をするために、働いています。
「好きなことは楽しいこと」と題して、「お気楽な楽しみ」を書き殴ってきた私ですが、やよりさんの命がけの報道と「女たちの戦争と平和資料館」設立の情熱を見てくると、自分のあまりの「しょうもなさ」にシュンとしてしまいます。
もちろん人にはそれぞれの生き方、表現のしかたがあり、やよりさんの68年の人生は、苦難の中にも、好きなことを「全力疾走でやり遂げることの楽しさ」に満ちていたと思います。
私はわたしで行くしかないかな。
さてさて、夏休みまで、仕事全力疾走です。
月曜から金曜まで5日間、週に10コマ(90分×10)、5つの大学(国立大学2校と私立大学3校に出講)。6つのクラスで、9種類の授業を受け持ちます。
日本人学生対象の日本語学概論、日本語音声学、日本語教育学。留学生対象の日本事情(日本の歴史と文化)、日本語上級文章表現(作文)、日本語中級文章表現、日本語中級口頭表現(会話)、日本語初級口頭表現、非漢字圏留学生のための漢字教育
こう並べてみると、自分でもちょっと「無謀な多忙」の1年間になりそうだと、心配になってきます。
授業をする時間は1日に90分授業を2コマですが、授業準備や作文の添削など事後処理を含めると、土日をすべて注ぎ込んでも、時間が足りません。
ま、なんとかなるでしょう。仕事だって「好きなこと、楽しいこと」のうちですから。
幅広い活動を続けた松井やよりさんの遺志を受け継ぐ人々。平和資料館の活動を継続する人、アジアの女たちの連帯活動を続けていく人、さまざまな継承のしかたがあるでしょう。
私にとっては、世界中から集まる留学生に対して誠実に日本語を教えていくこと、日本人学生に日本語の豊かさすばらしさを伝えること、これが私にとっての、松井やよりの後に続く者の生き方です。
国際ジャーナリスト松井やよりを尊敬しつつ、私は自分のできる範囲で、彼女のともした火を見つめていきます。
松井やよりの残したことばを、こころの中にともし続けたいです。
「最初からあきらめて何もしなかったら、すばらしい出会いもないじゃないですか」
<松井やより扁 おわり>
新聞記者・松井やより
やよりさんは、肺結核療養のために高校卒業を断念しましたが、回復後、大学入学資格検定試験(大検)に合格して大学進学を果たしました。
国際的な視野を広げたいという意欲に燃えて、英語を専攻しました。
大学後輩からのインタビューに答えて、やよりさんは、英語を専攻した理由を述べています。
「ひとりで生きていけるように、翻訳でも通訳でも、手に職をつける必要があったことと、なぜ原爆を落とすようなことをやったのか、直接アメリカ人と議論したかったから」
大学在学中、1956年にアメリカのミネソタ大学に1年間留学。
女性の留学が珍しかった時代に留学を志した理由のひとつとして、「やっと大学生になって、議論もできると思ったのに、女が自分の意見を述べると、怖い女、生意気な女として見られる。そういう閉鎖的な中にいるのがいやになったから」と、述べています。
奨学金に応募して採用されたので、アメリカでの1年間は留学費用が支給されました。
しかし、1年間の海外生活は、やよりさんには十分な時間ではありませんでした。
ヨーロッパ経由での帰途、お金がなくても、なんとかしてもう少し海外で勉強を続けたいと思いました。帰国してしまえば、二度と海外へでることはできないかもしれない。一般の人にとって、海外生活は夢のまた夢の時代でしたから。
ベビーシッターをしながらパリでフランス語を習得しました。
フランスで得たことは、フランス語だけではなく、人種差別と偏見への強い反発心。
フランスからアジア経由船便で帰国するなか、アジアへの視点をひらかれました。
帰国後のやよりさんは、「二度と戦争の時代にしない」「国際的な視野で平和を考える」ということを願いながら勉学を続けました。
ミネソタで習得した英語と、パリで習得したフランス語、ことばはやよりさんにとって、自分を生かす技術であり身を守る武器でもありました。
大学卒業を前に、就職は大きな問題でした。やよりさんが大学卒業した当時、大卒女性に就職の門戸を開いていたのは、教職くらいしかありません。自分は教員には向かないと考えていたやよりさんに、就職先は限られたものとなりました。
新聞社を受験したのは、女子学生に門戸を開き、男子と同条件で就職試験を受けさせてくれたのは、新聞社だけだったから。
新聞記者になりたいと願ってなったのではなかったけれど、結果としてやよりさんは天職を得ることができました。
朝日新聞に記者として入社後は、たくさんのすぐれた記事、レポートを紙面に掲載し続けました。
社会部記者として、女性問題、福祉、公害、消費者問題などを取材。
几帳面なやよりさんは、無署名の記事も含め全て、自分の書いた記事はスクラップブックに記録しておきました。
<つづく>
08:24
2006/04/16 日
国際ジャーナリスト松井やより
松井やよりさんが就職した当時の新聞社に女性記者はごくわずかで、女性は「毎日のおかず」のような料理記事を担当するなど、活躍できる部署は限られていました。
食事は大切なことだけれど、私はお料理記者には向かない、と、やよりさんは社会的な題材でスクープをねらおうと考えました。
高度成長時代に入り、おりよく、世は東京オリンピックに向かって、国際的な取材が急増していました。やよりさんは得意の語学を生かして、男性記者をしのぐスクープを続けて、しだいに認められるようになりました。
まだセクハラということばもないころ、男性中心の新聞社体制のなかで、女性差別の言動をかわしながら、社会部記者として実績を積み重ねていきました。
1970年代になると、女性問題に関心をふかめ、「男に負けない記事を書く」から「女性の視点で女性にしかかけない記事を書く」と、意識革命、方向転換がありました。
1977年には「アジア女たちの会」を設立し、1981~85年シンガポール・アジア総局員として赴任。広く女性問題やアジアの問題にかかわり、発信し続けました。
内戦で荒れ果てたカンボジアの取材を続けました。
ポルポト派による大虐殺など、悲惨な体験をしてきたカンボジアの人々が「どうか私たちの状況を日本の人に伝えてください」と願うことばを受けて、記事を何本も書き送りました。
しかし、ほとんどがボツ原稿。カンボジアの人々の思いを伝えられないことが、なにより悔しくつらいことでした。
バブル景気で浮かれている日本。「カンボジアがどんなに悲惨な状態であっても、日本の読者はそんなこと読みたがらない。読者が喜ばない記事を増やしても、部数は伸びない」という時代でした。
1994年朝日新聞社定年退職後も、国際ジャーナリストとして八面六臂の活躍を続け、一貫して、女性問題やアジアの戦争と平和問題に関わってきました。
やよりさんは日本の戦時性暴力問題に関わり、戦後も続くアジアでの日本男性による買春などを告発してきました。そのためやよりさんの考え方とは異なる立場の人々から、執拗な攻撃を受けました。
しかし、脅しや揶揄、中傷、どのようなことばの暴力にも屈せず、信念を貫きました。
晩年、やよりさんは、「女性国際戦犯法廷」での論議に精力を注ぎ、2001年末、勝訴となりました。
2002年10月、末期癌と診断されていたことを公表。
12月末に亡くなるまでの2ヶ月間、自伝執筆と「女たちの戦争と平和資料館」の設立のために力をつくしました。
全財産と資料を資料館に寄付する遺言状を作成し、12月27日永眠。享年68歳。
壮絶な生涯であり、後に続きたいと願う女達に、ともし火を示し続けた一生でした。
やよりさんが人生最後の2ヶ月間をどのように過ごしたか、というドキュメンタリーを資料館のビデオモニターで見ました。やよりさん自身が、死までの全てをビデオカメラに記録するよう希望したのです。最後の最後までやよりさんは意志的な活動を続けました。
葬儀のシーンで、95歳96歳になるやよりさんのお父さんとお母さんは、バラの花に包まれてお棺の中に眠るやよりさんに向かって「よく働きましたね」「やより、いっしょうけんめい、がんばったね」と声をかけていました。
<つづく>
09:57
2006/04/17 月
松井やよりが残したもの
やよりさんの最後のことば
「 あきらめないで闘い続ける人同士のつながりというのは本当にすばらしい。これまでいっしょに活動してきた人、一人ひとりがどれだけかけがえのない存在だったかと思います。最初からあきらめて何もしなかったら、そういうすばらしい出会いというものもないじゃないですか。(死去の一週間前に発行の「週刊金曜日」掲載)」
松井やよりの意志を伝えていこうとする女性達が、「女たちの戦争と平和資料館」で、やよりさんの残した資料の整理や展示をするために、働いています。
「好きなことは楽しいこと」と題して、「お気楽な楽しみ」を書き殴ってきた私ですが、やよりさんの命がけの報道と「女たちの戦争と平和資料館」設立の情熱を見てくると、自分のあまりの「しょうもなさ」にシュンとしてしまいます。
もちろん人にはそれぞれの生き方、表現のしかたがあり、やよりさんの68年の人生は、苦難の中にも、好きなことを「全力疾走でやり遂げることの楽しさ」に満ちていたと思います。
私はわたしで行くしかないかな。
さてさて、夏休みまで、仕事全力疾走です。
月曜から金曜まで5日間、週に10コマ(90分×10)、5つの大学(国立大学2校と私立大学3校に出講)。6つのクラスで、9種類の授業を受け持ちます。
日本人学生対象の日本語学概論、日本語音声学、日本語教育学。留学生対象の日本事情(日本の歴史と文化)、日本語上級文章表現(作文)、日本語中級文章表現、日本語中級口頭表現(会話)、日本語初級口頭表現、非漢字圏留学生のための漢字教育
こう並べてみると、自分でもちょっと「無謀な多忙」の1年間になりそうだと、心配になってきます。
授業をする時間は1日に90分授業を2コマですが、授業準備や作文の添削など事後処理を含めると、土日をすべて注ぎ込んでも、時間が足りません。
ま、なんとかなるでしょう。仕事だって「好きなこと、楽しいこと」のうちですから。
幅広い活動を続けた松井やよりさんの遺志を受け継ぐ人々。平和資料館の活動を継続する人、アジアの女たちの連帯活動を続けていく人、さまざまな継承のしかたがあるでしょう。
私にとっては、世界中から集まる留学生に対して誠実に日本語を教えていくこと、日本人学生に日本語の豊かさすばらしさを伝えること、これが私にとっての、松井やよりの後に続く者の生き方です。
国際ジャーナリスト松井やよりを尊敬しつつ、私は自分のできる範囲で、彼女のともした火を見つめていきます。
松井やよりの残したことばを、こころの中にともし続けたいです。
「最初からあきらめて何もしなかったら、すばらしい出会いもないじゃないですか」
<松井やより扁 おわり>