にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「私のまなびほぐし」

2008-12-13 10:54:00 | 日記
2007/01/25 木

私の学びほぐし
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(1)「レポート提出延期願い」

 私は「学生でいること」と「教師であること」を、少し長く経験してきました。

 「学生」としては、高校卒業以来、専門学校(英文タイプ科)卒業、私立大学(日本文学専攻)卒業、私立大学大学院(演劇学聴講生)、国立大学(日本語学専攻)卒業、国立大学大学院(外国語学研究科)修了。
 小学校入学から数えると26年間も「学ぶ人間」として学校に在籍してきたことになります。

 教師としては、公立中学校国語科教師、日本語学校教師、大学日本語学科、国際教育センター講師。
 大学は、3つの国立大学と3つの私立大学で教えてきましたから、いろんなタイプの学校を知ることができました。

 仕事の経験も、さまざまな職種を経験してきました。
 地方公務員、大学病院内科検査室検査士、英文タイピスト、教育委員会事務員、塾講師、予備校講師、フリーライター、児童劇団の客演俳優、、、、
 一番長くなったのが、今の日本語教師の仕事。1988年から続けてきて、今年は20年目に入ります。

 ひとつの仕事をじっくり長く勤め上げることを誇りとしていた親戚一同からは「あなたは、長続きしないのが欠点」とずいぶん非難されましたが、私は、自分の「何ひとつとしてものにならなかったダメダメな人生」を、それなりに楽しんできたから、よしとしています。
 
 「学びほぐす」ことと、「教え返す」こと、このふたつのことを、大江健三郎は小説を書くなかで体得してきた、と語っていました。
 私も、長い学生生活と、さまざまに体験してきた職業を通じて、そのふたつのことば「学びほぐす」「教えかえす」を、それと知らずに、私なりに行ってきたのではなかったかと感じています。

 大学講師として教えるようになってからも、「teach教える」だけでなく、「unteach教え返す教えほぐす」ことを、少しでもできたのではないかと思うのは、学生との関わり合いのなかでのことだったと思います。

 数年前に受け持った男子学生とのメール往復を紹介しましょう。

 日本人男子学生S君は、文化祭で自作のリメークTシャツを売るとはりきっていましたが、文化祭終了後、欠席がちになってきました。
 「レポート提出延期願い」からはじまって、彼が退学の相談にくるまで、いろいろ話を続けました。

 私にとっての、「教え返し」「学びほぐし」は、このような機会にあったのだろうと思います。

<つづく>
10:12 |



Tシャツ買いますコミュニケーション論応答
2007/01/26 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(2)「Tシャツ買います」

 S君からのメール第一信
『 文化祭忙しすぎてまだレポート終わっていないのです(T_T)大変申し訳ないのですが提出期限を延ばして頂けませんでしょうか?
 ちなみに作った服うれました!!でも ほとんど 儲けはありませんでしたけど… 』
 
 S君メールへの教師から返信
『 ひとりの例外を認めるときりがないので、本当は例外を作りたくはありませんが、賄
賂をくれれば、提出期限延期をみとめましょう。

 リメークシャツ、祝完売!儲けは二の次、自分が自己表現したことを他者が認めてくれたこと、これが一番大事。もちろん儲かればもっといい。Sさんの作った服はほんとにセンスが光っていてすてきでしたよ。

 そこで、賄賂の相談です。売れ残った服がありましたか?あったら、その中から、Tシャツ1枚。全部売れちゃって、売れ残ったのがなければ、この次に制作するTシャツ1枚を私に格安で売ってください。

 割引率は10%から50%を希望します。つまり、Sさんが「このTシャツは2000円で売ろう」と思ったとします。半額セールだから、1000円で私に売らなければなりません。シルクスクリーンのもの、絵柄はおまかせします。
 賄賂の条件を受けるかどうかは、ご自由に。
 賄賂の同義語=袖の下、まいない。

 リメイク服を文化祭で売るのも、売り手と買い手の間に成立するコミュニケーションです。こうやって、メールでコミュニケートできて、うれしいです。
 「安い、割引、無料」ということばが大好きな教師より 』
================

 文化祭で彼が販売した自作リメークシャツ、売れ残りがあるなら、買い取ってやろうと思ったのだ。

 学生Sより第二信
 『その案乗ります!しかし ああ なんということでしょう!袖の下に滑らしたいのですが、いかんせん先生は既婚者( ̄□ ̄;)!!てことは、振り袖を着るわけにはいかない!!留め袖の中にそんなに沢山モノがはいるかどうか…不安が残りますね(初心者用のジョークです)
 今 あるシャツは黒のロングTシャツだけなのです それでよろしければ。これは少し滲みがあって売れないので 無料で提供いたしましょう。タダより高いものはありませんけど(`ε´)

<つづく>
07:00 |

2007/01/27 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(3)「他者と関われば、コミュニケーション成立」

教師から、日本人学生S君(日本語教育研究受講生)への返信
 『 袖触れあうも他生の縁!できるだけ長いたもとを用意しましょう。
 Tシャツ、無料はまずい。冗談がわからない大学関係者がゴマンといるので、「あの教師は学生から袖の下とっている」というウワサが広まるのを防ぐために、たとえ10円でも払わんと。
 定価500円の品、6割引きで200円が商法独占禁止法にも違反せず、よろしいかと。200円稼いでどうするのかって。200円あれば、「ウマイ棒」が20個買えるんです。

 S君の第二信つづき(コミュニケーション論についての質疑応答)
 「コミュニケーションについて→その理論からいえば、発信者が情報を発信した時点でコミュニケーションが成立すると言うことになりませんか?誤受信した場合も成立、無視した場合も無視という行為なわけですから、成立。

 勿論Aという感情がAのままで受信者に伝わることは限りなく不可能に近いですよね。僕たちは感情や状態を記号化するという手段を用いて世界とコミュニケイトするのですから。ということは、本当の意味でのコミュニケーションは不可能?

 例えば感情に焦点を絞った場合、我々は、泣く=悲しい、とか、笑う=楽しい、などといったように感情を分類し、予測することによって、相手の状態を推測します。

 記号化するという分類。便利です。でも、それは分類から漏れた感情は存在しない、記号化できないものは存在しない、つまり理解できないということを意味する。

 だけれども、赤ちゃんの時の僕らには確かに、楽しいと悲しいの中間、ポジティブな状態とネガティブな状態が同時に存在したはずです。

 何をしても泣きやまない赤ん坊をみた母親は、何が気に入らないのか判らない。しかし、記号化という単純化を知らない赤ん坊は泣くことで、必死で何かを伝えようとしている。両者の間には本当にコミュニケーションが成立しているのでしょうか??疑問が残ります。』

 日本人学生S君の質問に答えるメール往復
(S君の質問)
(1)コミュニケーションについて→その理論からいえば、発信者が情報を発信した時点でコミュニケーションが成立すると言うことになりませんか?

(回答)
 発信者の表出が行われた時点では、表現です。荒野をただ一人歩いている旅人が石につまずき、思わず「イテッ」と叫んだ場合、表現は行われたが、表出に留まり、誰にも届いていない。これは自己表現に留まり、伝達ではない。

 しかし、駅の階段でこけて(私はよくやる)「イテェ」と叫んでしまう。私は周りを見渡す。恥ずかし!
 隣をゆきすぎる若者が、チラッと見て、声にはださず、ニャッと笑う。私の叫びが若者の耳に届いたのを私は知る。この場合、伝達に一歩踏み込んでいる。

<つづく>
00:02 |

2007/01/28 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(4)「伝達とは何か」

(教師からの回答つづき)
 ころんでしまった私は、心の中で、「アレッ、今のはSくんじゃないか、冷たいなあ、人が転んでいるのを見て、笑って通り過ぎたよ」と思う。
 そこへ、「こけたオバハンは顔見知りの教師だった」と、気づいたS君が戻ってきて、一応「だいじょうぶですか?」と声をかける。

 S君、心のなかでは「まったくドジなオバハンだなあ」と思っているが、そんなこと口にだすと、優の成績が不可にされかねないから、親切そうに助け起こす。
 この場合、両者の間に「他者との関わり」が成立し、伝達が行われたことになる。
 「イテェ」の独り言は、すでに他者との関わりへ踏み出している。

 (S君質問)
(2)誤受信した場合も(コミュニケーションは)成立、無視した場合も無視という行為なわけですから、成立。

(教師からの回答)
 無視というのは、相手が発信したことを理解していて無視するんですから、伝達は成立しています。
 発信が行われたことに、まったくだれも気づかなかったら、それは荒野の叫びと同じで、発信のみ。伝達できなかったことになる。現代社会の都会では、荒野が広がっている。

(S君質問)
(3)勿論Aという感情がAのままで受信者に伝わることは限りなく不可能に近いですよね。僕たちは感情や状態を記号化するという手段を用いて世界とコミュニケイトするのですから。ということは、本当の意味でのコミュニケーションは不可能?

(回答)
 Aという発信がそっくりそのままの形でBに届くことは不可能。音声表現であれ、文章表現であれ、その他の表現(たとえばリメークTシャツを売る)という表現であれ、表出者が発信した時点で、すでにそれは「色がついた状態」です。表出者の表現をまったく無変換で受け取ることはできない。

(S君質問)
(4)例えば感情に焦点を絞った場合、我々は、泣く=悲しい、とか、笑う=楽しい、などといったように感情を分類し、予測することによって、相手の状態を推測します。
 記号化するという分類。便利です。でも、それは分類から漏れた感情は存在しない、記号化できないものは存在しない、つまり理解できないということを意味する。

(教師からの回答)
 過去の分類にあてはまらないたくさんのことを記号化してきたからこそ、世の中は変化し、言葉も変化してきたのです。「新しい解釈と新記号化」が、まったくなされなかったのなら、我々は今も初期クロマニヨン人と同じ生活であり、同じことばを話しているはず。

<つづく>
============
ことわざ「袖触れ合うも他生の縁」は、「袖すり合うも他生の縁」「袖振り合うも他生の縁」などのバリエーションがあります。
00:00 |


2007/01/29 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(5)「振り袖留め袖、多少の縁」

(S君質問)
(5)だけれども、赤ちゃんの時の僕らには確かに、楽しいと悲しいの中間、ポジティブな状態とネガティブな状態が同時に存在したはずです。何をしても泣きやまない赤ん坊をみた母親は、何が気に入らないのか判らない。

しかし、記号化という単純化を知らない赤ん坊は泣くことで、必死で何かを伝えようとしている。両者の間には本当にコミュニケーションが成立しているのでしょうか??疑問が残ります。

(教師からの回答)
 赤ん坊の表出(ゥンギャアと泣くこと)は、伝達の意思を含んでいます。
 ナチスドイツが行ったとされている実験結果。
 泣き叫ぶ赤ん坊を放っておくと、赤ん坊は短期間で「泣く」という行為を行わなくなります。

そして、実験の結果、泣くことによって伝達の意思を完成できず、放置された赤ん坊は、次第に「人工的に与えられるミルク」を飲まなくなり、ほどなく死んでしまう。こんな恐ろしい人体実験の結果があります。

 母親は「何が原因で泣いているのか分らない」というとき、必死におしめを取り替え、乳を与えようとします。この時点でコミュニケーションは成立。
 母親がまったく誤解していて、本当は赤ん坊は蚊にさされて不愉快だったから泣いていたのに、母親は気づかず、誤解したままだった。

これでもいいのです。泣くことによって、表現が行われ、母親がその泣き声によって、なんらかの反応を見せたことで、赤ちゃんから母親への伝達が成立したのです。

 もし、母親が、ナチスの実験のとおり、まったく赤ん坊を放置したら、どうなるでしょう。現代では児童虐待「ネグレクト」として、大きな問題になっています。泣くわが子とコミュニケーションをとれない母親が増えているのです。

 以上は「コミュニケーション論」のほんの一部です。ぜひ、この先、論議を深めて、私に教えてください。私はこの分野には詳しくないので。

日本人学生S君から第三信
 『 明治時代?では、結婚前の女性は振り袖の袖を振ることで、決まった男性がいないことをアピールしていたそうですね。
 逆に決まった既婚者の女性は留め袖を着ることで、自分は身を振らない、つまり相手がいるよということをアピールしていたそうです。
 わかりました じゃ二百円で あっ タバコ銭ってことでプラス百円だと 美しいす。

 コミュニケーションについて、
もう少し調べてみます。整理できて 綺麗になったらまた質問させて下さい。
課題について
どういう風にプログラムをたてたら良いのかイマイチ判らないのですが… 』

 以上、日本人男子学生S君からのメール。
=====================

 このS君、たいへん面白い感性を持っていたが、結局レポート提出せず、追試をうけたものの途中であきらめ、単位を取得することはできなかった。
 彼は、このまま在学するか、退学・海外留学の道を選ぶか、悩んでいた。
 以下、3年前の日記からコピー。
=====================
<つづく>
00:02 |

2007/01/30 火

遠回り人生の歩き
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(6)「遠回り人生の歩き方」

「2004年七味日記」より。2004/01/16 金 晴れ S君補講
 午後、S君のための補講。
 S君が、「単位はいらないから、日本語教育能力検定の模擬試験だけ受けさせてください。おもしろそうだから」というメールをよこしたので、しかたがない。

 単位がいらないのだったら、わざわざ試験を受けることはないのに。
 本日出講日の国立大学はセンター試験のため休講になったのだけど、無給ボランティアで私立大学特別補講をすることに。

 しかも、きょうは、自分の出講日でないから、教室がない。事務方に頼み込み、空き教室を探してもらった。427教室で試験を行うことにした。4号館の角の小教室。
 少し遅れてきたS君。試験をする前に、メールに書いてあった「少し相談したいこと」というのを話しだす。

 S君は大学へ行きたいという気持ちがなく、高校卒業後、父親がやっている会社で働いていた。
 仕事をするうち、会社の仕事に関連する専門学校で学びたいと思うようになり、願書を出すついでに、入試に慣れるため、日程のほどよい大学に願書をだして、受験してみた。

 S君としては、お試しだけで合格する気もなかったのに、受かった。
 S君が合格すると、家族はせっかく合格したんだから大学へ入ったほうがいいという。そういうものかなと思い、日本文学科に入学したが、やっぱり自分がやりたいこととは、学ぶ内容がかけはなれている。

 このままあと2年続けるよりは、自分が学びたいことをめざして、アメリカの大学に入学したいと思って、そのための資金をかせぐため大学をやめて働くつもりでいる。

 しかし、両親も、結婚しようと思っている彼女の両親も、不安定な要素をもつ留学より、とりあえず卒業はしたほうがいい、という考え。「先生はどう思うか」というS君の人生相談だった。

 どう、思うかときかれても、私はあなたの両親でも、指導教官でもないから、無責任に答えるしかないよ、という前置きをし、自分のこれまでの「遠回り人生」を話した。

 S君は専門学校へ入学するつもりだったのに、大学に通うことになってしまったというが、私は、専門学校、私立大学と国立大学ふたつの大学を卒業、大学院も修了して、回り道を重ねた。

 職歴は、公務員、大学病院の内科検査士、英文タイピスト、中学校国語科教諭、舞台俳優などなど、全部で13種類の職業を経験した。卒業式7回、転職13回がキャッチフレーズ。

 中学校教師をやめたあと、東アフリカのケニアで1年すごし、日本語教師という仕事を知った。

<つづく>
00:02 |

2006/01/31 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(7)「回り道でも無駄はない」

(S君に話した、「私の遠回り人生」つづき)
 日本に戻ってからナイロビで知り合った日本人と結婚し、娘が2歳になったとき、大学日本語学科に入学した。国立大学で初めて、日本人のための日本語学科が開設されたのだ。

 18歳19歳の若者に混じって学ぶことに気後れもあったが、自宅から自転車で通えるってことが魅力だった。既卒なので、英語、体育、教職基礎科目などは免除になったが、授業は毎日たいへんだった。

 3年生の3月に第一回目文部省の日本語教育能力検定試験に合格し、日本語教師の資格を得た。4年生になった4月からアルバイト講師として日本語学校で教え始めた。

 日本語教師をしながら、卒業論文を書き始めた。しかし、二人目の赤ちゃんがわかったため、半年でアルバイトはいったん中止。
 日本語教師は休止したけれど、相変わらず夏休み中も夫の仕事を手伝い、妊娠7ヶ月まで無理して夫の事務所で働いた。

 39歳の高齢出産だから、危険もあることは承知していたが、夫は「あなたは丈夫な人だから」と、出産を気づかってくれることはいっさいなかった。たしかに、娘の出産のときは、何の問題もなく、実家で出産したのだった。
 ところが、前置胎盤で母胎が危険、という診断がくだった。

 妊娠7ヶ月で出血し、緊急入院。1ヶ月の入院の間、絶対安静状態。ベッドから降りることはおろか、寝返りを自分ですることも禁止だった。
 動けないままラジオで聞くニュースは、毎日「陛下の今日の下血は~」という報道をしていた。私の出血も、命の危険を伴うものだった。夫は、「母子ともに死ぬ危険があることを覚悟しておけ」と、医者に言われたのだという。

 11月、母胎がもたなくなって40日早く、仮死状態で息子が生まれた。40日早産の割に体重があったので命はとりとめたものの、黄疸がでたりしたので保育器に入れられ、当分入院することになった。 母子ともに死ぬかも知れない、運がよくてもどちらかは死ぬことになるだろうと言われていたのに、ふたりとも命をとりとめたこと、有り難かった。

 私は一足先に退院し、母乳をしぼって病院へ届けてもらった。息子が退院してくる前に卒業論文を仕上げた。産後の養生などと言っていられなかった。なんとしても卒業して、親子の生活をなりたたせなくちゃならない。
 息子は黄疸などの危機を脱し、退院してお正月を親子4人で迎えることができた。

 卒業したら日本語教師として就職したいという希望はダメになった。公務員や働く女性に理解のある大企業ならともかく、新生児を抱えた女性を雇ってくれるところは、どこにもなかった。
 仕事を続けられないとわかったので、大学院へ進学。大学院の奨学金が親子の生活費となった。夫の仕事を手伝いながら大学院へ通学した。

 どんなに働いても、夫がひとりで自営する零細会社は傾くばかり。倒産寸前となった。
 「奨学金では生活費をまかなうにも足りない。会社の運転資金が必要だから、大学院を休学して、働いてお金を稼いでほしい」と夫に言われ、息子が1歳半になったころから、ふたたび日本語学校で教えることになった。

 日本語教師をしながら、1歳と6歳のふたりの子の子育て、日本語学校が休みのときは夫の仕事の手伝い。
 夫は家事育児はいっさいしない。
 私は、仕事を終えると、娘を預けている区立保育園息子を預けている私立保育園をまわって帰り、炊事洗濯の家事をようようこなす。
 子供ふたりをフロにいれると、自分の身体を洗うヒマもなかった。

<つづく>
10:57 |

2007/02/02 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(8)「めざす道の歩き方」

(S君に話した、「私の遠回り人生」つづき)
 夫の会社が倒産をまぬがれ、大学院への通学を再開した。
 背中に背負った息子をあやしながら、娘のママごとの相手をし、片目で参考文献を追う。ようよう修士論文を書きあげ、大学院を修了した。
 やっとの思いで描き上げた論文、日本語学の年間優秀論文のひとつとして評価されたが、就職先はなかった。

 仕事がなかなか見つからず、やっと見つかった仕事は、単身赴任が条件だった。幼いふたりの子を実家に預けて半年間、中国で教えた。
 またまた親戚一同に「子供を捨てて働きに出る鬼母」と非難されたが、夫の会社の資金が必要だった。稼いだお金は、すべて夫が会社の資金としてつぎ込んでしまった。中国から帰ってきたとき、文部省から口座に振り込まれたはずの給与は一円も残っていなかった。

 中国から帰国後は、日本国内の大学あちこちで教えるようになった。
 夫は相変わらず「父さんは倒産しそう」と言いながら、一人気ままに事務所に寝泊まりし、家庭放棄。
 ふたりの子供はまだまだ一人前にはならない。

 これが、私の歩いてきた道。
 褒められもせず、苦にもされず、報われることは何もない道だったけれど、とぼとぼと歩き続けてきた。

 回り道、遠回りではあったが、やったことすべてが自分にとってよい経験になったと信じている。人生に無駄なんてない。
 どんな体験であれ、やらないよりやったほうがいいから、S君が留学したいと思うのなら、やったらいいじゃない。

 私の人生をいえば、転職13回、という人生、他人から見たら失敗と挫折続きのように思われている。
 経済的な面から見れば、中学校の教師をあのまま続けていれば今頃は勤続30年。まもなく定年を迎えて、年金暮らしも望めただろう。

 安定した安全な寄り道しない人生を望むなら、転職13回は無駄なことになるのかもしれない。非常勤講師というのは、何年続けようと使い捨ての教育現場底辺労働者であり、年金もない。

 けれど、失敗続きの30年ではあっても、私は自分自身でやりたいことを決めてやってきたのだから、悔いはない。
 私が命がけで息子出産したのも、幼い子供たちをあずけての単身赴任を決意し、海外で仕事をしたのも、自分で決めて納得したことだから、今更後悔するつもりはない。
 というようなことを、S君に話した。

 S君が日本の大学を退学して、アメリカに留学したあと、「ああ、あのとき日本の大学をやめずに、卒業しておけばよかった」と、将来思うことがあるかないか、私にはわからない。
 しかし、大学を卒業したかどうかに人生のすべてがかかってくるのだろうか。

 自分がしたい仕事にとって、日本の大学卒業という資格が絶対に必要なものなら卒業する意味はあるけれど、S君の将来の希望が、「ケータイなどのデザインをしたい」というのなら、「日本語日本文学科卒業」が、それほど重要な資格とはおもえない、と、私なりの意見を述べた。

<つづく>
2007/02/03 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(9)「道は遠くても」

 S君が大学をやめて働き、留学資金を貯めてアメリカに行きたい、という希望を持っていることについても、「まずは、いろんな人の意見を聞いてみて。最終的には、自分で納得したらいいんじゃないの」と、アドバイスした。

 「S君はデザインのセンスや言葉に対する感受性が、とてもすぐれている」と、私が感じたことを告げた。そういう方面に進みたいというS君を応援したいが、しかしながら、こればかりは才能の問題になる。私が「いい感受性をもっている」と判断したからといって、デザインの仕事で本当に成功できるなんて保証は全然無い。
 結局は本人の意志の問題、という話をして、おしまいにした。

 センター試験準備のために、授業が休みになったのに、ボランティア補講をして、給料にならない仕事をしてしまったが、ま、これも教師の仕事のうちか。
(2004/1/16ちえのわ日記おわり)
=========================

 3年前に出会った「日本語教師の資格を得ようと学んでいることに疑問をいだき、退学の相談に来た日本人学生」に対する教師からのアドバイスとして、適切なものであったのかどうか、今でも確信はありません。
 もしかしたら、「大学だけは卒業しておいて欲しい」という彼の両親の願いをこわす、不適切なアドバイスになったのかもしれない。

 でも、私自身にとって、このようなunteach、unlearnは必要なことであった。私はS君にアドバイスをしたというより、S君と話しあう中で、教師として育てなおしてもらったのかもしれない、と思っています。

 S君、あなたが自分自身の心で決め、自分自身の足で歩いていることを、今も祈っています。非常勤講師にすぎない私に人生相談してくれて、ありがとう。
 「日本語教育研究」の授業で教える以上に、大事なことを話しあえたし、私自身が「教え返す」「学びほぐす」ことができた時間をもてた、と感謝しています。

<「私の学びほぐし」 おわり>
==================

もんじゃ(文蛇)の足跡
 娘には「大学で教師が苦労自慢なんかするのは、顰蹙だからね。学生には教師の苦労話なんて、一番ウザいんだから」と、注意されているので、めったに「苦労自慢」するチャンスがないんだけれど、もっと年とったら、きっと「私が若いときにゃあ、そりゃあもう、、、」と、どれだけ苦労してきたかを毎日でも語りたくなってしまうんだろう。

 私の世代は、祖父母の世代から「関東大震災のあと、どれほど苦労したか、、、」とか、父母世代からは「戦争中は、物が不足して、食べるものを見つけるのに、ものすごい苦労、、、」「出征中は命がけで、、、」とか、さんざん苦労自慢された。
 うんざりするくらい聞かされたのだから、まあ、その分くらいは、自分の苦労自慢もしなくちゃね。
 私の苦労自慢につきあって読んでくださった方々、ありがとうさんでした。

<おわり>