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日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「私のまなびほぐし」

2008-12-13 10:54:00 | 日記
2007/01/25 木

私の学びほぐし
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(1)「レポート提出延期願い」

 私は「学生でいること」と「教師であること」を、少し長く経験してきました。

 「学生」としては、高校卒業以来、専門学校(英文タイプ科)卒業、私立大学(日本文学専攻)卒業、私立大学大学院(演劇学聴講生)、国立大学(日本語学専攻)卒業、国立大学大学院(外国語学研究科)修了。
 小学校入学から数えると26年間も「学ぶ人間」として学校に在籍してきたことになります。

 教師としては、公立中学校国語科教師、日本語学校教師、大学日本語学科、国際教育センター講師。
 大学は、3つの国立大学と3つの私立大学で教えてきましたから、いろんなタイプの学校を知ることができました。

 仕事の経験も、さまざまな職種を経験してきました。
 地方公務員、大学病院内科検査室検査士、英文タイピスト、教育委員会事務員、塾講師、予備校講師、フリーライター、児童劇団の客演俳優、、、、
 一番長くなったのが、今の日本語教師の仕事。1988年から続けてきて、今年は20年目に入ります。

 ひとつの仕事をじっくり長く勤め上げることを誇りとしていた親戚一同からは「あなたは、長続きしないのが欠点」とずいぶん非難されましたが、私は、自分の「何ひとつとしてものにならなかったダメダメな人生」を、それなりに楽しんできたから、よしとしています。
 
 「学びほぐす」ことと、「教え返す」こと、このふたつのことを、大江健三郎は小説を書くなかで体得してきた、と語っていました。
 私も、長い学生生活と、さまざまに体験してきた職業を通じて、そのふたつのことば「学びほぐす」「教えかえす」を、それと知らずに、私なりに行ってきたのではなかったかと感じています。

 大学講師として教えるようになってからも、「teach教える」だけでなく、「unteach教え返す教えほぐす」ことを、少しでもできたのではないかと思うのは、学生との関わり合いのなかでのことだったと思います。

 数年前に受け持った男子学生とのメール往復を紹介しましょう。

 日本人男子学生S君は、文化祭で自作のリメークTシャツを売るとはりきっていましたが、文化祭終了後、欠席がちになってきました。
 「レポート提出延期願い」からはじまって、彼が退学の相談にくるまで、いろいろ話を続けました。

 私にとっての、「教え返し」「学びほぐし」は、このような機会にあったのだろうと思います。

<つづく>
10:12 |



Tシャツ買いますコミュニケーション論応答
2007/01/26 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(2)「Tシャツ買います」

 S君からのメール第一信
『 文化祭忙しすぎてまだレポート終わっていないのです(T_T)大変申し訳ないのですが提出期限を延ばして頂けませんでしょうか?
 ちなみに作った服うれました!!でも ほとんど 儲けはありませんでしたけど… 』
 
 S君メールへの教師から返信
『 ひとりの例外を認めるときりがないので、本当は例外を作りたくはありませんが、賄
賂をくれれば、提出期限延期をみとめましょう。

 リメークシャツ、祝完売!儲けは二の次、自分が自己表現したことを他者が認めてくれたこと、これが一番大事。もちろん儲かればもっといい。Sさんの作った服はほんとにセンスが光っていてすてきでしたよ。

 そこで、賄賂の相談です。売れ残った服がありましたか?あったら、その中から、Tシャツ1枚。全部売れちゃって、売れ残ったのがなければ、この次に制作するTシャツ1枚を私に格安で売ってください。

 割引率は10%から50%を希望します。つまり、Sさんが「このTシャツは2000円で売ろう」と思ったとします。半額セールだから、1000円で私に売らなければなりません。シルクスクリーンのもの、絵柄はおまかせします。
 賄賂の条件を受けるかどうかは、ご自由に。
 賄賂の同義語=袖の下、まいない。

 リメイク服を文化祭で売るのも、売り手と買い手の間に成立するコミュニケーションです。こうやって、メールでコミュニケートできて、うれしいです。
 「安い、割引、無料」ということばが大好きな教師より 』
================

 文化祭で彼が販売した自作リメークシャツ、売れ残りがあるなら、買い取ってやろうと思ったのだ。

 学生Sより第二信
 『その案乗ります!しかし ああ なんということでしょう!袖の下に滑らしたいのですが、いかんせん先生は既婚者( ̄□ ̄;)!!てことは、振り袖を着るわけにはいかない!!留め袖の中にそんなに沢山モノがはいるかどうか…不安が残りますね(初心者用のジョークです)
 今 あるシャツは黒のロングTシャツだけなのです それでよろしければ。これは少し滲みがあって売れないので 無料で提供いたしましょう。タダより高いものはありませんけど(`ε´)

<つづく>
07:00 |

2007/01/27 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(3)「他者と関われば、コミュニケーション成立」

教師から、日本人学生S君(日本語教育研究受講生)への返信
 『 袖触れあうも他生の縁!できるだけ長いたもとを用意しましょう。
 Tシャツ、無料はまずい。冗談がわからない大学関係者がゴマンといるので、「あの教師は学生から袖の下とっている」というウワサが広まるのを防ぐために、たとえ10円でも払わんと。
 定価500円の品、6割引きで200円が商法独占禁止法にも違反せず、よろしいかと。200円稼いでどうするのかって。200円あれば、「ウマイ棒」が20個買えるんです。

 S君の第二信つづき(コミュニケーション論についての質疑応答)
 「コミュニケーションについて→その理論からいえば、発信者が情報を発信した時点でコミュニケーションが成立すると言うことになりませんか?誤受信した場合も成立、無視した場合も無視という行為なわけですから、成立。

 勿論Aという感情がAのままで受信者に伝わることは限りなく不可能に近いですよね。僕たちは感情や状態を記号化するという手段を用いて世界とコミュニケイトするのですから。ということは、本当の意味でのコミュニケーションは不可能?

 例えば感情に焦点を絞った場合、我々は、泣く=悲しい、とか、笑う=楽しい、などといったように感情を分類し、予測することによって、相手の状態を推測します。

 記号化するという分類。便利です。でも、それは分類から漏れた感情は存在しない、記号化できないものは存在しない、つまり理解できないということを意味する。

 だけれども、赤ちゃんの時の僕らには確かに、楽しいと悲しいの中間、ポジティブな状態とネガティブな状態が同時に存在したはずです。

 何をしても泣きやまない赤ん坊をみた母親は、何が気に入らないのか判らない。しかし、記号化という単純化を知らない赤ん坊は泣くことで、必死で何かを伝えようとしている。両者の間には本当にコミュニケーションが成立しているのでしょうか??疑問が残ります。』

 日本人学生S君の質問に答えるメール往復
(S君の質問)
(1)コミュニケーションについて→その理論からいえば、発信者が情報を発信した時点でコミュニケーションが成立すると言うことになりませんか?

(回答)
 発信者の表出が行われた時点では、表現です。荒野をただ一人歩いている旅人が石につまずき、思わず「イテッ」と叫んだ場合、表現は行われたが、表出に留まり、誰にも届いていない。これは自己表現に留まり、伝達ではない。

 しかし、駅の階段でこけて(私はよくやる)「イテェ」と叫んでしまう。私は周りを見渡す。恥ずかし!
 隣をゆきすぎる若者が、チラッと見て、声にはださず、ニャッと笑う。私の叫びが若者の耳に届いたのを私は知る。この場合、伝達に一歩踏み込んでいる。

<つづく>
00:02 |

2007/01/28 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(4)「伝達とは何か」

(教師からの回答つづき)
 ころんでしまった私は、心の中で、「アレッ、今のはSくんじゃないか、冷たいなあ、人が転んでいるのを見て、笑って通り過ぎたよ」と思う。
 そこへ、「こけたオバハンは顔見知りの教師だった」と、気づいたS君が戻ってきて、一応「だいじょうぶですか?」と声をかける。

 S君、心のなかでは「まったくドジなオバハンだなあ」と思っているが、そんなこと口にだすと、優の成績が不可にされかねないから、親切そうに助け起こす。
 この場合、両者の間に「他者との関わり」が成立し、伝達が行われたことになる。
 「イテェ」の独り言は、すでに他者との関わりへ踏み出している。

 (S君質問)
(2)誤受信した場合も(コミュニケーションは)成立、無視した場合も無視という行為なわけですから、成立。

(教師からの回答)
 無視というのは、相手が発信したことを理解していて無視するんですから、伝達は成立しています。
 発信が行われたことに、まったくだれも気づかなかったら、それは荒野の叫びと同じで、発信のみ。伝達できなかったことになる。現代社会の都会では、荒野が広がっている。

(S君質問)
(3)勿論Aという感情がAのままで受信者に伝わることは限りなく不可能に近いですよね。僕たちは感情や状態を記号化するという手段を用いて世界とコミュニケイトするのですから。ということは、本当の意味でのコミュニケーションは不可能?

(回答)
 Aという発信がそっくりそのままの形でBに届くことは不可能。音声表現であれ、文章表現であれ、その他の表現(たとえばリメークTシャツを売る)という表現であれ、表出者が発信した時点で、すでにそれは「色がついた状態」です。表出者の表現をまったく無変換で受け取ることはできない。

(S君質問)
(4)例えば感情に焦点を絞った場合、我々は、泣く=悲しい、とか、笑う=楽しい、などといったように感情を分類し、予測することによって、相手の状態を推測します。
 記号化するという分類。便利です。でも、それは分類から漏れた感情は存在しない、記号化できないものは存在しない、つまり理解できないということを意味する。

(教師からの回答)
 過去の分類にあてはまらないたくさんのことを記号化してきたからこそ、世の中は変化し、言葉も変化してきたのです。「新しい解釈と新記号化」が、まったくなされなかったのなら、我々は今も初期クロマニヨン人と同じ生活であり、同じことばを話しているはず。

<つづく>
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ことわざ「袖触れ合うも他生の縁」は、「袖すり合うも他生の縁」「袖振り合うも他生の縁」などのバリエーションがあります。
00:00 |


2007/01/29 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(5)「振り袖留め袖、多少の縁」

(S君質問)
(5)だけれども、赤ちゃんの時の僕らには確かに、楽しいと悲しいの中間、ポジティブな状態とネガティブな状態が同時に存在したはずです。何をしても泣きやまない赤ん坊をみた母親は、何が気に入らないのか判らない。

しかし、記号化という単純化を知らない赤ん坊は泣くことで、必死で何かを伝えようとしている。両者の間には本当にコミュニケーションが成立しているのでしょうか??疑問が残ります。

(教師からの回答)
 赤ん坊の表出(ゥンギャアと泣くこと)は、伝達の意思を含んでいます。
 ナチスドイツが行ったとされている実験結果。
 泣き叫ぶ赤ん坊を放っておくと、赤ん坊は短期間で「泣く」という行為を行わなくなります。

そして、実験の結果、泣くことによって伝達の意思を完成できず、放置された赤ん坊は、次第に「人工的に与えられるミルク」を飲まなくなり、ほどなく死んでしまう。こんな恐ろしい人体実験の結果があります。

 母親は「何が原因で泣いているのか分らない」というとき、必死におしめを取り替え、乳を与えようとします。この時点でコミュニケーションは成立。
 母親がまったく誤解していて、本当は赤ん坊は蚊にさされて不愉快だったから泣いていたのに、母親は気づかず、誤解したままだった。

これでもいいのです。泣くことによって、表現が行われ、母親がその泣き声によって、なんらかの反応を見せたことで、赤ちゃんから母親への伝達が成立したのです。

 もし、母親が、ナチスの実験のとおり、まったく赤ん坊を放置したら、どうなるでしょう。現代では児童虐待「ネグレクト」として、大きな問題になっています。泣くわが子とコミュニケーションをとれない母親が増えているのです。

 以上は「コミュニケーション論」のほんの一部です。ぜひ、この先、論議を深めて、私に教えてください。私はこの分野には詳しくないので。

日本人学生S君から第三信
 『 明治時代?では、結婚前の女性は振り袖の袖を振ることで、決まった男性がいないことをアピールしていたそうですね。
 逆に決まった既婚者の女性は留め袖を着ることで、自分は身を振らない、つまり相手がいるよということをアピールしていたそうです。
 わかりました じゃ二百円で あっ タバコ銭ってことでプラス百円だと 美しいす。

 コミュニケーションについて、
もう少し調べてみます。整理できて 綺麗になったらまた質問させて下さい。
課題について
どういう風にプログラムをたてたら良いのかイマイチ判らないのですが… 』

 以上、日本人男子学生S君からのメール。
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 このS君、たいへん面白い感性を持っていたが、結局レポート提出せず、追試をうけたものの途中であきらめ、単位を取得することはできなかった。
 彼は、このまま在学するか、退学・海外留学の道を選ぶか、悩んでいた。
 以下、3年前の日記からコピー。
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<つづく>
00:02 |

2007/01/30 火

遠回り人生の歩き
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(6)「遠回り人生の歩き方」

「2004年七味日記」より。2004/01/16 金 晴れ S君補講
 午後、S君のための補講。
 S君が、「単位はいらないから、日本語教育能力検定の模擬試験だけ受けさせてください。おもしろそうだから」というメールをよこしたので、しかたがない。

 単位がいらないのだったら、わざわざ試験を受けることはないのに。
 本日出講日の国立大学はセンター試験のため休講になったのだけど、無給ボランティアで私立大学特別補講をすることに。

 しかも、きょうは、自分の出講日でないから、教室がない。事務方に頼み込み、空き教室を探してもらった。427教室で試験を行うことにした。4号館の角の小教室。
 少し遅れてきたS君。試験をする前に、メールに書いてあった「少し相談したいこと」というのを話しだす。

 S君は大学へ行きたいという気持ちがなく、高校卒業後、父親がやっている会社で働いていた。
 仕事をするうち、会社の仕事に関連する専門学校で学びたいと思うようになり、願書を出すついでに、入試に慣れるため、日程のほどよい大学に願書をだして、受験してみた。

 S君としては、お試しだけで合格する気もなかったのに、受かった。
 S君が合格すると、家族はせっかく合格したんだから大学へ入ったほうがいいという。そういうものかなと思い、日本文学科に入学したが、やっぱり自分がやりたいこととは、学ぶ内容がかけはなれている。

 このままあと2年続けるよりは、自分が学びたいことをめざして、アメリカの大学に入学したいと思って、そのための資金をかせぐため大学をやめて働くつもりでいる。

 しかし、両親も、結婚しようと思っている彼女の両親も、不安定な要素をもつ留学より、とりあえず卒業はしたほうがいい、という考え。「先生はどう思うか」というS君の人生相談だった。

 どう、思うかときかれても、私はあなたの両親でも、指導教官でもないから、無責任に答えるしかないよ、という前置きをし、自分のこれまでの「遠回り人生」を話した。

 S君は専門学校へ入学するつもりだったのに、大学に通うことになってしまったというが、私は、専門学校、私立大学と国立大学ふたつの大学を卒業、大学院も修了して、回り道を重ねた。

 職歴は、公務員、大学病院の内科検査士、英文タイピスト、中学校国語科教諭、舞台俳優などなど、全部で13種類の職業を経験した。卒業式7回、転職13回がキャッチフレーズ。

 中学校教師をやめたあと、東アフリカのケニアで1年すごし、日本語教師という仕事を知った。

<つづく>
00:02 |

2006/01/31 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(7)「回り道でも無駄はない」

(S君に話した、「私の遠回り人生」つづき)
 日本に戻ってからナイロビで知り合った日本人と結婚し、娘が2歳になったとき、大学日本語学科に入学した。国立大学で初めて、日本人のための日本語学科が開設されたのだ。

 18歳19歳の若者に混じって学ぶことに気後れもあったが、自宅から自転車で通えるってことが魅力だった。既卒なので、英語、体育、教職基礎科目などは免除になったが、授業は毎日たいへんだった。

 3年生の3月に第一回目文部省の日本語教育能力検定試験に合格し、日本語教師の資格を得た。4年生になった4月からアルバイト講師として日本語学校で教え始めた。

 日本語教師をしながら、卒業論文を書き始めた。しかし、二人目の赤ちゃんがわかったため、半年でアルバイトはいったん中止。
 日本語教師は休止したけれど、相変わらず夏休み中も夫の仕事を手伝い、妊娠7ヶ月まで無理して夫の事務所で働いた。

 39歳の高齢出産だから、危険もあることは承知していたが、夫は「あなたは丈夫な人だから」と、出産を気づかってくれることはいっさいなかった。たしかに、娘の出産のときは、何の問題もなく、実家で出産したのだった。
 ところが、前置胎盤で母胎が危険、という診断がくだった。

 妊娠7ヶ月で出血し、緊急入院。1ヶ月の入院の間、絶対安静状態。ベッドから降りることはおろか、寝返りを自分ですることも禁止だった。
 動けないままラジオで聞くニュースは、毎日「陛下の今日の下血は~」という報道をしていた。私の出血も、命の危険を伴うものだった。夫は、「母子ともに死ぬ危険があることを覚悟しておけ」と、医者に言われたのだという。

 11月、母胎がもたなくなって40日早く、仮死状態で息子が生まれた。40日早産の割に体重があったので命はとりとめたものの、黄疸がでたりしたので保育器に入れられ、当分入院することになった。 母子ともに死ぬかも知れない、運がよくてもどちらかは死ぬことになるだろうと言われていたのに、ふたりとも命をとりとめたこと、有り難かった。

 私は一足先に退院し、母乳をしぼって病院へ届けてもらった。息子が退院してくる前に卒業論文を仕上げた。産後の養生などと言っていられなかった。なんとしても卒業して、親子の生活をなりたたせなくちゃならない。
 息子は黄疸などの危機を脱し、退院してお正月を親子4人で迎えることができた。

 卒業したら日本語教師として就職したいという希望はダメになった。公務員や働く女性に理解のある大企業ならともかく、新生児を抱えた女性を雇ってくれるところは、どこにもなかった。
 仕事を続けられないとわかったので、大学院へ進学。大学院の奨学金が親子の生活費となった。夫の仕事を手伝いながら大学院へ通学した。

 どんなに働いても、夫がひとりで自営する零細会社は傾くばかり。倒産寸前となった。
 「奨学金では生活費をまかなうにも足りない。会社の運転資金が必要だから、大学院を休学して、働いてお金を稼いでほしい」と夫に言われ、息子が1歳半になったころから、ふたたび日本語学校で教えることになった。

 日本語教師をしながら、1歳と6歳のふたりの子の子育て、日本語学校が休みのときは夫の仕事の手伝い。
 夫は家事育児はいっさいしない。
 私は、仕事を終えると、娘を預けている区立保育園息子を預けている私立保育園をまわって帰り、炊事洗濯の家事をようようこなす。
 子供ふたりをフロにいれると、自分の身体を洗うヒマもなかった。

<つづく>
10:57 |

2007/02/02 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(8)「めざす道の歩き方」

(S君に話した、「私の遠回り人生」つづき)
 夫の会社が倒産をまぬがれ、大学院への通学を再開した。
 背中に背負った息子をあやしながら、娘のママごとの相手をし、片目で参考文献を追う。ようよう修士論文を書きあげ、大学院を修了した。
 やっとの思いで描き上げた論文、日本語学の年間優秀論文のひとつとして評価されたが、就職先はなかった。

 仕事がなかなか見つからず、やっと見つかった仕事は、単身赴任が条件だった。幼いふたりの子を実家に預けて半年間、中国で教えた。
 またまた親戚一同に「子供を捨てて働きに出る鬼母」と非難されたが、夫の会社の資金が必要だった。稼いだお金は、すべて夫が会社の資金としてつぎ込んでしまった。中国から帰ってきたとき、文部省から口座に振り込まれたはずの給与は一円も残っていなかった。

 中国から帰国後は、日本国内の大学あちこちで教えるようになった。
 夫は相変わらず「父さんは倒産しそう」と言いながら、一人気ままに事務所に寝泊まりし、家庭放棄。
 ふたりの子供はまだまだ一人前にはならない。

 これが、私の歩いてきた道。
 褒められもせず、苦にもされず、報われることは何もない道だったけれど、とぼとぼと歩き続けてきた。

 回り道、遠回りではあったが、やったことすべてが自分にとってよい経験になったと信じている。人生に無駄なんてない。
 どんな体験であれ、やらないよりやったほうがいいから、S君が留学したいと思うのなら、やったらいいじゃない。

 私の人生をいえば、転職13回、という人生、他人から見たら失敗と挫折続きのように思われている。
 経済的な面から見れば、中学校の教師をあのまま続けていれば今頃は勤続30年。まもなく定年を迎えて、年金暮らしも望めただろう。

 安定した安全な寄り道しない人生を望むなら、転職13回は無駄なことになるのかもしれない。非常勤講師というのは、何年続けようと使い捨ての教育現場底辺労働者であり、年金もない。

 けれど、失敗続きの30年ではあっても、私は自分自身でやりたいことを決めてやってきたのだから、悔いはない。
 私が命がけで息子出産したのも、幼い子供たちをあずけての単身赴任を決意し、海外で仕事をしたのも、自分で決めて納得したことだから、今更後悔するつもりはない。
 というようなことを、S君に話した。

 S君が日本の大学を退学して、アメリカに留学したあと、「ああ、あのとき日本の大学をやめずに、卒業しておけばよかった」と、将来思うことがあるかないか、私にはわからない。
 しかし、大学を卒業したかどうかに人生のすべてがかかってくるのだろうか。

 自分がしたい仕事にとって、日本の大学卒業という資格が絶対に必要なものなら卒業する意味はあるけれど、S君の将来の希望が、「ケータイなどのデザインをしたい」というのなら、「日本語日本文学科卒業」が、それほど重要な資格とはおもえない、と、私なりの意見を述べた。

<つづく>
2007/02/03 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>私の学びほぐし(9)「道は遠くても」

 S君が大学をやめて働き、留学資金を貯めてアメリカに行きたい、という希望を持っていることについても、「まずは、いろんな人の意見を聞いてみて。最終的には、自分で納得したらいいんじゃないの」と、アドバイスした。

 「S君はデザインのセンスや言葉に対する感受性が、とてもすぐれている」と、私が感じたことを告げた。そういう方面に進みたいというS君を応援したいが、しかしながら、こればかりは才能の問題になる。私が「いい感受性をもっている」と判断したからといって、デザインの仕事で本当に成功できるなんて保証は全然無い。
 結局は本人の意志の問題、という話をして、おしまいにした。

 センター試験準備のために、授業が休みになったのに、ボランティア補講をして、給料にならない仕事をしてしまったが、ま、これも教師の仕事のうちか。
(2004/1/16ちえのわ日記おわり)
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 3年前に出会った「日本語教師の資格を得ようと学んでいることに疑問をいだき、退学の相談に来た日本人学生」に対する教師からのアドバイスとして、適切なものであったのかどうか、今でも確信はありません。
 もしかしたら、「大学だけは卒業しておいて欲しい」という彼の両親の願いをこわす、不適切なアドバイスになったのかもしれない。

 でも、私自身にとって、このようなunteach、unlearnは必要なことであった。私はS君にアドバイスをしたというより、S君と話しあう中で、教師として育てなおしてもらったのかもしれない、と思っています。

 S君、あなたが自分自身の心で決め、自分自身の足で歩いていることを、今も祈っています。非常勤講師にすぎない私に人生相談してくれて、ありがとう。
 「日本語教育研究」の授業で教える以上に、大事なことを話しあえたし、私自身が「教え返す」「学びほぐす」ことができた時間をもてた、と感謝しています。

<「私の学びほぐし」 おわり>
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もんじゃ(文蛇)の足跡
 娘には「大学で教師が苦労自慢なんかするのは、顰蹙だからね。学生には教師の苦労話なんて、一番ウザいんだから」と、注意されているので、めったに「苦労自慢」するチャンスがないんだけれど、もっと年とったら、きっと「私が若いときにゃあ、そりゃあもう、、、」と、どれだけ苦労してきたかを毎日でも語りたくなってしまうんだろう。

 私の世代は、祖父母の世代から「関東大震災のあと、どれほど苦労したか、、、」とか、父母世代からは「戦争中は、物が不足して、食べるものを見つけるのに、ものすごい苦労、、、」「出征中は命がけで、、、」とか、さんざん苦労自慢された。
 うんざりするくらい聞かされたのだから、まあ、その分くらいは、自分の苦労自慢もしなくちゃね。
 私の苦労自慢につきあって読んでくださった方々、ありがとうさんでした。

<おわり>


ぽかぽか春庭「生きていく女たち2006松井やより」

2008-12-12 21:16:00 | 日記
2006/04/15 土
新聞記者・松井やより

 やよりさんは、肺結核療養のために高校卒業を断念しましたが、回復後、大学入学資格検定試験(大検)に合格して大学進学を果たしました。
 国際的な視野を広げたいという意欲に燃えて、英語を専攻しました。

 大学後輩からのインタビューに答えて、やよりさんは、英語を専攻した理由を述べています。
 「ひとりで生きていけるように、翻訳でも通訳でも、手に職をつける必要があったことと、なぜ原爆を落とすようなことをやったのか、直接アメリカ人と議論したかったから」

 大学在学中、1956年にアメリカのミネソタ大学に1年間留学。
 女性の留学が珍しかった時代に留学を志した理由のひとつとして、「やっと大学生になって、議論もできると思ったのに、女が自分の意見を述べると、怖い女、生意気な女として見られる。そういう閉鎖的な中にいるのがいやになったから」と、述べています。

 奨学金に応募して採用されたので、アメリカでの1年間は留学費用が支給されました。
 しかし、1年間の海外生活は、やよりさんには十分な時間ではありませんでした。

 ヨーロッパ経由での帰途、お金がなくても、なんとかしてもう少し海外で勉強を続けたいと思いました。帰国してしまえば、二度と海外へでることはできないかもしれない。一般の人にとって、海外生活は夢のまた夢の時代でしたから。

 ベビーシッターをしながらパリでフランス語を習得しました。
 フランスで得たことは、フランス語だけではなく、人種差別と偏見への強い反発心。

 フランスからアジア経由船便で帰国するなか、アジアへの視点をひらかれました。
 帰国後のやよりさんは、「二度と戦争の時代にしない」「国際的な視野で平和を考える」ということを願いながら勉学を続けました。

 ミネソタで習得した英語と、パリで習得したフランス語、ことばはやよりさんにとって、自分を生かす技術であり身を守る武器でもありました。

 大学卒業を前に、就職は大きな問題でした。やよりさんが大学卒業した当時、大卒女性に就職の門戸を開いていたのは、教職くらいしかありません。自分は教員には向かないと考えていたやよりさんに、就職先は限られたものとなりました。

 新聞社を受験したのは、女子学生に門戸を開き、男子と同条件で就職試験を受けさせてくれたのは、新聞社だけだったから。
 新聞記者になりたいと願ってなったのではなかったけれど、結果としてやよりさんは天職を得ることができました。

 朝日新聞に記者として入社後は、たくさんのすぐれた記事、レポートを紙面に掲載し続けました。
 社会部記者として、女性問題、福祉、公害、消費者問題などを取材。
 几帳面なやよりさんは、無署名の記事も含め全て、自分の書いた記事はスクラップブックに記録しておきました。

<つづく>
08:24

2006/04/16 日
国際ジャーナリスト松井やより

 松井やよりさんが就職した当時の新聞社に女性記者はごくわずかで、女性は「毎日のおかず」のような料理記事を担当するなど、活躍できる部署は限られていました。
 食事は大切なことだけれど、私はお料理記者には向かない、と、やよりさんは社会的な題材でスクープをねらおうと考えました。

 高度成長時代に入り、おりよく、世は東京オリンピックに向かって、国際的な取材が急増していました。やよりさんは得意の語学を生かして、男性記者をしのぐスクープを続けて、しだいに認められるようになりました。

 まだセクハラということばもないころ、男性中心の新聞社体制のなかで、女性差別の言動をかわしながら、社会部記者として実績を積み重ねていきました。

 1970年代になると、女性問題に関心をふかめ、「男に負けない記事を書く」から「女性の視点で女性にしかかけない記事を書く」と、意識革命、方向転換がありました。

 1977年には「アジア女たちの会」を設立し、1981~85年シンガポール・アジア総局員として赴任。広く女性問題やアジアの問題にかかわり、発信し続けました。

 内戦で荒れ果てたカンボジアの取材を続けました。
 ポルポト派による大虐殺など、悲惨な体験をしてきたカンボジアの人々が「どうか私たちの状況を日本の人に伝えてください」と願うことばを受けて、記事を何本も書き送りました。

 しかし、ほとんどがボツ原稿。カンボジアの人々の思いを伝えられないことが、なにより悔しくつらいことでした。

 バブル景気で浮かれている日本。「カンボジアがどんなに悲惨な状態であっても、日本の読者はそんなこと読みたがらない。読者が喜ばない記事を増やしても、部数は伸びない」という時代でした。

 1994年朝日新聞社定年退職後も、国際ジャーナリストとして八面六臂の活躍を続け、一貫して、女性問題やアジアの戦争と平和問題に関わってきました。

 やよりさんは日本の戦時性暴力問題に関わり、戦後も続くアジアでの日本男性による買春などを告発してきました。そのためやよりさんの考え方とは異なる立場の人々から、執拗な攻撃を受けました。
 しかし、脅しや揶揄、中傷、どのようなことばの暴力にも屈せず、信念を貫きました。

 晩年、やよりさんは、「女性国際戦犯法廷」での論議に精力を注ぎ、2001年末、勝訴となりました。
 2002年10月、末期癌と診断されていたことを公表。
 12月末に亡くなるまでの2ヶ月間、自伝執筆と「女たちの戦争と平和資料館」の設立のために力をつくしました。

 全財産と資料を資料館に寄付する遺言状を作成し、12月27日永眠。享年68歳。
 壮絶な生涯であり、後に続きたいと願う女達に、ともし火を示し続けた一生でした。

 やよりさんが人生最後の2ヶ月間をどのように過ごしたか、というドキュメンタリーを資料館のビデオモニターで見ました。やよりさん自身が、死までの全てをビデオカメラに記録するよう希望したのです。最後の最後までやよりさんは意志的な活動を続けました。

 葬儀のシーンで、95歳96歳になるやよりさんのお父さんとお母さんは、バラの花に包まれてお棺の中に眠るやよりさんに向かって「よく働きましたね」「やより、いっしょうけんめい、がんばったね」と声をかけていました。

<つづく>
09:57

2006/04/17 月
松井やよりが残したもの

 やよりさんの最後のことば
 「 あきらめないで闘い続ける人同士のつながりというのは本当にすばらしい。これまでいっしょに活動してきた人、一人ひとりがどれだけかけがえのない存在だったかと思います。最初からあきらめて何もしなかったら、そういうすばらしい出会いというものもないじゃないですか。(死去の一週間前に発行の「週刊金曜日」掲載)」

 松井やよりの意志を伝えていこうとする女性達が、「女たちの戦争と平和資料館」で、やよりさんの残した資料の整理や展示をするために、働いています。

 「好きなことは楽しいこと」と題して、「お気楽な楽しみ」を書き殴ってきた私ですが、やよりさんの命がけの報道と「女たちの戦争と平和資料館」設立の情熱を見てくると、自分のあまりの「しょうもなさ」にシュンとしてしまいます。

 もちろん人にはそれぞれの生き方、表現のしかたがあり、やよりさんの68年の人生は、苦難の中にも、好きなことを「全力疾走でやり遂げることの楽しさ」に満ちていたと思います。

 私はわたしで行くしかないかな。
 さてさて、夏休みまで、仕事全力疾走です。

 月曜から金曜まで5日間、週に10コマ(90分×10)、5つの大学(国立大学2校と私立大学3校に出講)。6つのクラスで、9種類の授業を受け持ちます。
 日本人学生対象の日本語学概論、日本語音声学、日本語教育学。留学生対象の日本事情(日本の歴史と文化)、日本語上級文章表現(作文)、日本語中級文章表現、日本語中級口頭表現(会話)、日本語初級口頭表現、非漢字圏留学生のための漢字教育

 こう並べてみると、自分でもちょっと「無謀な多忙」の1年間になりそうだと、心配になってきます。
 授業をする時間は1日に90分授業を2コマですが、授業準備や作文の添削など事後処理を含めると、土日をすべて注ぎ込んでも、時間が足りません。
 ま、なんとかなるでしょう。仕事だって「好きなこと、楽しいこと」のうちですから。

 幅広い活動を続けた松井やよりさんの遺志を受け継ぐ人々。平和資料館の活動を継続する人、アジアの女たちの連帯活動を続けていく人、さまざまな継承のしかたがあるでしょう。
 私にとっては、世界中から集まる留学生に対して誠実に日本語を教えていくこと、日本人学生に日本語の豊かさすばらしさを伝えること、これが私にとっての、松井やよりの後に続く者の生き方です。

 国際ジャーナリスト松井やよりを尊敬しつつ、私は自分のできる範囲で、彼女のともした火を見つめていきます。
 松井やよりの残したことばを、こころの中にともし続けたいです。
 「最初からあきらめて何もしなかったら、すばらしい出会いもないじゃないですか」

<松井やより扁 おわり>

ぽかぽか春庭「生きていく女たち2005浜野佐知・大村はま・塚本こなみ」

2008-12-12 01:39:00 | 日記

2005/03/15 08:56
今日の色いろ>まっピンク①「女が映画を作るとき」

 今年新年はじめに読んだ一冊、浜野佐知『女が映画を作るとき』。
 とても面白かった。

 私が浜野佐知の名を知ったのは、『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』という映画の監督として。しかし、1999年に岩波ホールで『尾崎翠を探して』が上映されたとき都合がつかず、ついに見るチャンスがないままになって、映画をみる前に浜野監督の本を読むことになった。

 2003年11月に姑と童謡コンサートに出かけたおり、尾崎翠の出身地鳥取県岩美町の「いわみ合唱団」が東京との交流で出演していた。岩美町関係者が鳥取の観光パンフレットといっしょに『尾崎翠を探して』のチラシを配っていた。

 エキストラなどで浜野監督に協力した町の人々は、監督と共に映画を完成させたことを誇りに思い、上映活動を続けていたのだ。
 映画を通して人の輪がひろがっているのだなあと、浜野の本を読んで思った。

 浜野佐知は、10代から映画を撮りたいと志し、「ピンク映画」の助監督から足場をかためた。撮影現場であらゆるセクハラいやがらせにも耐え、同性である女優からもイジメにあうなどしてきたが、1970年に『17才好き好き族』で監督デビュー。独り立ちしてから300本のピンク映画を監督してきた。

 『女が映画を作るとき』は、300本のピンク映画を撮った時代を経て、『尾崎翠を探して』『百合祭』の制作に関わるエピソード、岩波ホール支配人高野悦子さんへのインタビューなどから構成されている。

 「セクハラ」という言葉さえまだ通用していなかった時代に、男社会の映画界で奮闘し、芯の通った生き方をしている女性の姿にほれぼれした。

 「女は家庭にもどれ」「社会に大切なのは子を生む女」「子を産み終えた女は社会に不要のもてあましもの」などの言説がゾンビのごとく蘇り、徘徊しはじめている。「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」と公言する首長もいた。
 「ジェンダーフリーという言い方を教育の場でするのはふさわしくない」という主張も強くなって、フェミニズムへのバックラッシュが続いている。
こんな後ろ向きの状況のなかで読む、浜野の行動、言説ひとつひとつ小気味よく響く。

 男性中心の制作現場の中で仕事がおもうにまかせないことも多かったという。自分自身で映画製作会社を設立し、女性が観賞しても決して否定的な気持ちにはならない官能の世界を描き続けてきた。第一章の『ピンク映画まっしぐら』は、「きちんと女の性を描こう」と決意した監督が真っ直ぐに駆けてきた映画の道を、快いスピードでパンフォーカスする。

 『第七官界彷徨 尾崎翠をさがして』と『百合祭』は、浜野が映画を志して以来30年間の思いを結集して作り上げた作品。海外でも高い評価を得た。

 両作品とも、多くの人々の資金面制作面への協力によってできあがった。金にあかせて作った映画の対極にある。ワンシーンワンシ-ンに、監督以下関わった人すべての思いが刻み込まれている。(予告編でしか作品を見ていない私が言うのも何だけど)

 一般映画の監督として評価が高まってからも、浜野は300本のピンク映画にも誇りと愛着をもち、彼女が撮ったピンク映画なら、見てみたいと思わせる。

 「ピンク映画」とは、男性観客の目を意識して作られることがほとんどなのだろうと思う。私は日活ロマンポルノが話題になったときも、「人がやってんの見てるヒマがあったら、恋人探す時間作って実践!」と思いつつ、結局恋人も見つからないというショーモない人生をすごしてきてしまったので、残念ながら浜野以外の男性監督の映画もみていないから、比較をすることもできない。

 けれど、浜野のピンク映画は、女性を決して「男性に隷属するだけの性」として描かず、「女性もまた性の一方の主体である」という視点を貫いているという評価がされているという論を見て、うん、いつかはその300本のピンク映画の中の傑作選上映会などあったら、見にいきたいなあとおもう。

 「ピンク映画」の中で、浜野の作品は「まっピンク!」を貫き、『百合祭』の優れた官能表現もなしえた。

「まっピンク!カラミからまれ水蜜の果肉の中に染まる指はも」<春庭から浜野監督へのオマージュ>


2005/03/18 09:32
風傷「道浦母都子の短歌」

 受験シーズンもそろそろ終盤。「入試終わりました」「合格です」などのコメントが残されているのを見ると、他人事ながら、終わってよかったね、とほっとする。

 受験のお守りとして「きっと勝つ」ために、おやつは「キットカットチョコ」。お弁当は「敵に勝つ」ためにステーキとカツ。心強く試験を乗り切るためには、語呂合わせでも駄洒落でもすがりつきたい。言霊が今も生きていることは、キットカットチョコの売れ行きでも納得できる。

 台風のあと、木から落ちないでがんばっていた林檎を「落ちない林檎」と名付けて、合格祈願のお守りに売り出したら高値で売れたという。
 りんごが風のために傷ついていようと、「風にも傷も負けないで落ちないでいた」と思えば、価値があるのだ。

 台風その他の大風のため、収穫まえの果樹が痛めつけられ、果物に傷がついてしまう、それを「風傷」という。風のため傷んだ果物は「風傷果」。一般の市場では風傷果は商品価値が下がってしまう。

 「風傷」一般の辞書にはないが、みかん柿りんごなどの栽培をしている果樹農家では、よく使われるだろうし、果物の流通販売に関わる人々にも身近な言葉なのかも知れない。

風傷の林檎一顆(りんごいっか)をもてあまし独りの夜を存う(ながらう)われか<道浦母都子>

 今月読んだ、道浦母都子の短歌エッセイ『食のうた彩事記(1995年発行)』の「りんご」の章に、上の一首と、作歌の経緯が書かれている。
 道浦は、「せっかく身を育みながら、風で傷み、商品価値を失ってしまうりんご。そんなりんごが何とも哀れで今の私の心境にピッタリだったからだ」と、この短歌を作った頃を述懐する。
 
 この部分を読んで思い出した。1997年に買った道浦の歌集『夕駅』の最初の章のタイトルが「風傷」であった。久しぶりに『夕駅』をひもとく。
 自らを「風で傷み商品価値を失ったりんご」のように感じた、という道浦の述懐。この『食のうた彩事記』が書かれた1994年ころ、道浦は2度目の離婚を経て一人暮しをしていた。

 水の婚 草婚 木婚 風の婚 婚とは女を昏(くら)くするもの<道浦母都子>

からタイトルがとられた歌集『風の婚』から7年を経て『夕駅』が編まれた。『夕駅』の中で、「風傷の林檎一顆をもてあまし独りの夜を存うわれか」の次に並んでいる一首は
「アルバムにいまだ残れる元夫の写真は不治の火傷のごとし」

 そして2頁あとには
「夫子無く生きる自在さ 卓上をまろび転がる鶏卵のよう」<道浦母都子>

 風によって傷つき商品価値を失ったりんごのように我が身を感じる。そして、夫も子もなく自由に生きているように見えていて、それはテーブルの上をころがる卵が、いまにもテーブルから転がり落ちそうなあやうさをはらむ、ギリギリスレスレの存在であることを、道浦は凝視する。
 一人生きていく自分をみつめ、うめきのように唇のはしからことばがこぼれるとき、歌が生まれる。

 たとえ子があっても、台所で毎日の食事を作りながら茶碗をあらいながら、自分の存在はキッチンテーブルの上をころがる卵のようだと思う。くるくるとまわりながら日々をおくり、明日はテーブルの端から墜落していくのかもしれない。

 一房の卵(ラン)とし生きた日も遠く 黙(もだ)して食す朝のオムレツ<春庭>

2005/03/19 10:28
風傷②

 2年前、道浦はまったく短歌が作れないスランプに陥ったという。ことばが声にならず、字も書けない。連載も断り、ことばの仕事から離れて過ごした。
 ことばを求めながら、ことばにはじき出されてしまうような、焦燥の日々。

 asahi com 大阪のウェブコラムから、インタビューに答える道浦のことば

 「ある時代の象徴のように語られ、歌人・物書きになりたいと思ったことがないまま、いつの間にか生業(なりわい)になっていた。そのことがどこか重荷になっていたんですね。新聞や雑誌を見るのもいやで、半年ぐらいぼんやり過ごしました。
 そうするうちに、ある日突然、歌を詠みたいという衝動が自然に起きてきたんです。
 言葉から一度離れたことで、その怖さと大切さを教わったんです。

 今は言葉の混乱期。子どもたちは「ぶっ殺す」とか「キレた」とかすぐ言うけど、言葉にしてしまうことで言霊となって現実になってしまう。道端の草花も、雑草としか思わなければ踏んでしまう。でもスミレとかハコベとかちゃんと名前を知っている草花は踏まないでしょう。地名ひとつにも、歴史や街の空気、生活している人の息遣いが染み込んでいる。
 言葉を粗末に扱うことは、その人の心も粗末にし、人間関係も粗末にすることだと思うんです。」(2005/03/11)

 歌を詠むことについての道浦のことば、もう一度繰り返す。
 「歌を詠むというのは、二度とないその瞬間に選び抜いた一語を、自分の中に引き込んで体温を与え、もう一度外に手放すこと。言葉に体重をかけたり、光やにおいを与えたりして、血の通った言葉にすることが大切なんです。そうすれば31文字というピンホールから世界を見ることができる。(略)詩は志(し)をうたうもの。人間のあるべき姿を、一生賭けて問うことです。」

 道浦母都子。同時代を生き、私が最も心寄せてその歌を読み続けてきた人。
 道浦は68年国際反戦デーのデモ参加で逮捕され不起訴。その後病身となり1年休学した。
 道浦の3年あとに上京した私は、2年間すれ違う可能性があったことになるのだけれど、私が入学してからの2年間は、学生スト、キャンパスロックアウトなどでずっと閉鎖状態。授業はほとんどなかったので、たぶん学内で姿を見ることはなかったろう。
 しかし、上京してから下宿していた杉並下井草に、道浦もいたことを最近知った。西武線下井草駅ですれ違っていたのかも。

 『無援の抒情』以来の歌集やエッセイを読んできて、今月は『食の彩事記』のほか、道浦がNHKの講座で語ったことをもとにした『女歌の百年』を読んだ。篠弘『疾走する女性歌人』と前後して読んだので、同じ歌や歌人への視線のちがいなど、とても面白かった。

 道浦が、言葉を失ってすごした2年の歳月を経て、ふたたびことばの世界に帰ってきたこと。風に傷ついても、台風に落っこちても、「落っこちたって、不揃いだって、りんごは林檎。私は私」と言っているようにも思う。

 私も「風傷果」のひとつとして、傷ついたままの心をもてあましながら、それでも言葉を探して歩こうとおもう。ことばのひとつひとつを大切に拾い集めて歩きたい。

 子どものころ当時の流行にのって、切手もコインもコレクションとは言えない程度に集めたことがあるが、大人になってから熱中して集めたものはない。だから、「ことば」を集めるのが私の趣味、と思うことにしている。
 昨日は知らなかった言葉を、今日知ることがとても嬉しい。見たはず読んだはずなのに忘れていたことばを思い出すことで、今日一日の心満たしてすごせる。

 「風傷」けっして穏やかでなだらかな響きのあることばではない。厳しく痛ましい思いもこもる。
 でもね。まったく無傷のつるつるまるまるで桐箱におさまっている高級果物じゃなくても、味わい深い風傷果もあると思うよ。<終わり>


2005/04/18 15:49 月
大村はま先生の国語教室

 どの分野にも「神様」と呼ばれる偉大な先達がいる。
 「映画の神様」とか「野球の神様」とか、その分野では第一人者であることはもちろん、後輩たちの目標になっているような人

 私が中学校の国語教師になったとき、「国語教育の神様」みたいに思えた偉大な教師のひとり、大村はまさんが2005/04/17に亡くなった。享年98歳。
 私が国語教師になったとき、すでに大村先生は67、8歳。一般の教師の退職年齢はすぎてなお現役の区立中学校教師を続ける「伝説の教師」だった。

 「単元学習」という大村先生の授業方法は、いまでいう「国語を中心とした総合学習」にあたる。多くの中学生を育て、1963年にはペスタロッチ賞を受賞、「生涯一教師」として教壇に立ち続け、1980年74歳まで現役の中学校国語教員だった。

 私は中学校の現場には3年しかいなかったので、公立中学校退職後は大村先生の著作を読みかえすこともせず、国語教育界からは遠ざかっていた。現在本棚にある大村はまの著作は1989発行の『授業を創る』のみ。

 苅谷剛彦夏子夫妻と大村はま共著『教えることの復権』(2003)の著者名を見て、「わぁ、大村先生、まだ生きていたんだ」なんて、失礼なことを思ったほど。さっそく『教えることの復権』を読んだ。
 『教えることの復権』の感想は下記ページに掲載。(ちえのわ七味日記2003/03/22)
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0303c7mi.htm

 大村先生は1980年に区立中学校を退職してからも、「大村はま国語教室16巻」の編集、全国各地での講演活動、日本国語教育学会常任理事など、多岐にわたる活動を続けてきた。

 2005年3月11日には目黒区内の中学校で講演し、4月12日にはテレビ番組の録画収録で、国語教育について語った。それから1週間のち17日にくも膜下出血で死去。
 ほんとうに見事な生き方。

 1985年3月に99歳でなくなるまで、現役作家として書き続けた野上弥生子さん。96歳のとき『私何だか死なないような気がするんですよ』(海竜社)という著作を出版し、その翌年1996年6月に亡くなった小説家、宇野千代さん。2003年9月に101歳で亡くなる1週間前まで、銀座のバー「ギルビーA」の現役ママさんだった有馬秀子さん。それに、大村はまさん。

 仰ぎ見る四人の先達。及ぶべくもないだろうが、あこがれつつ、牛のあゆみの歩を進めていこう。


2005/05/30 月 08:59
新緑散歩>あしかがの藤

 あしかがフラワーパーク、今年はじめて訪れた。
 天然記念物に指定されている樹齢130年の大長藤や、八重黒龍藤など。
 一本の木から300畳分の広さに枝が広がり、150cm以上にも及ぶ長さの藤の花が滝のように花房をたれている。薄紫のムラサキフジ(野田藤)の大藤が3本、それに紫の色が濃い八重黒龍藤。
 4株の大藤の花房が数百万も咲き競う。

 また園内には290株の庭木仕立ての藤があって、うす紅色の藤、うす紫、濃紫、赤紫の藤、さまざまな色合いを見せている。
 園内はクレマチス(テッセン)やつつじも満開で美しかったが、大藤の見事さは、ほんとうにすばらしいものだった。  

 足利市内にあった古藤。土地整備のため、植え替えなければならない。しかし、「幹の太さ60cm以上の藤の移植は無理」とされており、移植成功は危ぶまれていた。

 樹木医の塚本こなみさんが移植の相談をうけ、さまざまに研究を重ねた。2年の歳月をかけ、創意工夫の作業の末、移植に成功した。
 フラワーパークに移植された藤は、塚本さんらの手厚い世話をうけ、今年も華麗な花を見せている。

 「樹木医」は、1991年から2004年までの13年間に1081名が認定されている。樹木の保護・樹勢の回復等に関する実務経験7年以上ある人が受験できるが、認定を受けるのが難しい資格のひとつ。
 毎年600人前後の実務経験者が一次筆記試験を受け、二次試験は二週間の研修を受けて、毎朝、前日研修分の試験がある。毎年合格者は80名前後。合格率20%前後の難関である。

 塚本こなみさんは女性最初の樹木医。フラワーパークのガーデンデザインを手がけた園長さんでもある。
 塚本さんは、あしかがフラワパーク園長のほか、自分で設立した会社「グリーンメンテナンス」の代表も続けており、環境緑化コンサルタントとして、各地で活躍している。
 
 塚本さんは、静岡県生まれ。私と同年!
 高校卒業後、ごく普通に会社で働き、そのころは、樹木と関わる人生になるとは思ってもいなかった。
 22歳で結婚したお相手が、日本庭園などの造園を手がける造園家だった。造園の基礎も「夫とともに仕事をするうちに学んできた」
 1985年には、自分自身で株式会社を設立し、樹木と関わるようになった。1993年に、女性第1号の樹木医の認定を受けた。

 塚本さんは、1996年、足利市堀込町の早川農園からあしかがフラワーパークへの大藤移植を成功させた。
 従来、藤の移植は幹径60cmまでなら移植できるが、それ以上は難しいとされていた。早川農園の大藤は幹径90cm以上もあった。幹周りは3メートル以上にもなる。

 移植の相談を受けた塚本さんは、藤の研究と植え込む土壌の研究をつづけた。藤は蔓性の枝をもち、他の樹木より幹が弱い。クレーンでつり上げたりトラックで移送すれば、必ず幹を傷つけてしまう。傷がつけばそこから樹木のくされが広がる。
 塚本さんは藤と向かい合い、人と話し合うように対話し続けたという。一番いい方法は、きっと見つかると信じて。

 人間なら、弱い足腰で移動する場合、どう保護してやったらいいのだろうか。試行錯誤の末、塚本さんは、人が怪我をしたときに用いられる「石膏包帯」で幹を保護する方法を考案した。樹木用のギプスで養生した上で移動するという画期的な方法である。

 根元の保護も慎重にすすめ、移植前の土壌と同じ環境を保てるようにする。2年の歳月をかけて、あしかがフラワーパークに移植した。(つづく)

2005/05/31 火 15:35
新緑散歩>女性樹木医第一号塚本こなみさん

 フラワーパークの場所は、従来は湿地帯で、植物の生育はむずかしいとされていたが、塚本さんは、土壌を研究し、園内一面に木炭を敷き込むなどの工夫を重ねた。
 移植した樹木への細やかな世話をつづけ、現在、4株の大藤は、一本の木から枝が300畳~400畳分にも広がって、それぞれが花房150~170cmの見事な花をつけるようになった。

 あしかがフラワーパークのキャッチフレーズは「花の芸術村」
 「観光地のキャッチフレーズ」を信じて見物にでかけると、「キャッチフレーズとはずいぶん違う」ということが多いが、このフラワーパークの大藤は、本当に芸術的な美しさを見せていた。

 去年、カメラの新聞広告でこのフラワーパークの藤を映した写真を見て、なんてきれいなんだろう、でも、カメラワークというのは、実物を「より美しく」見せるアングルを選んで撮るからなあ、実物を見てがっかりするかも、と思っていた。
 でも、実際の花は、写真以上に美しかった。

 私がフラワーパークに行った日は、大藤の前で「ハーフムーン」というご夫婦デュオのコンサートが行われていた。琢磨仁さん啓子さんのユニット Half Moon 。
 湘南の風のような啓子さんののびやかな歌声、仁さんのウクレレやベースの伴奏。藤の前に集まった人々が足を止めて、聞き入っている。

 ハーフムーンのミキシング機械の横に、黒いエプロンをつけ、帽子をかぶった女性が立ち、音にあわせてリズムをとったり歌を口ずさんだりしている。
 「前に新聞記事で顔写真を見たことがある、たぶんこの人が塚本さんだろう」と思った。

 歌が続くなか、塚本さんはときどきそっとその場を離れる。業務連絡のケータイがかかってくるらしい。塚本さんは観客の目の届かない脇に離れて、静かに連絡をとっている。

 連絡が終わってコンサートの場所に戻りながら、塚本さんはツッと植木の間に手を伸ばし、雑草やゴミを片づけている。目立たないように動きながら、確実に園内をきちっと整備しているようす、とてもさりげなくてステキだった。

 ハーフムーンが次の歌のために楽器をとりかえているあいまをみて、塚本さんに声をかけた。
 「大藤、ほんとうに見事ですね。移植成功のニュースを見て以来、ずっと見たいと願ってきたんですが、今年ようやく見に来ることができました。ほんとうにすばらしいお仕事です。感激しました」と、お話した。
 
 塚本さんは、「お声をかけていただいて、ありがとうございます。花をよろこんでいただけて、うれしいです」と、丁寧にことばを返してくださった。
 笑顔がすてきな、美しい人だ。

 樹木医は、樹木や土壌への膨大な知識と研究、我が子をいたわるように樹木に対応していく繊細な心遣いも必要とされるが、大胆な決断力や、体力も必要。ときには大きな木を移動するために力仕事もこなす。
 塚本こなみさん、これからも花や樹木の命を育む仕事を生き生きと続けて行かれることだろう。

 藤の花のうつくしさにも圧倒される一日だったが、塚本さんのさわやかな笑顔にもふれることができて、心楽しい花散歩ができた。

 園内を歩く人々がそれぞれに感嘆しながら「ああ、きれいだねぇ」「見事だね、こりゃあ一生に一度は見とかなきゃあ」などと話しながら、花を見ていく。
 一生に一度とは言わず、来年もまたこの藤に会いたいなあと思う、そんな藤の花だった。
(藤めぐり終わり)



2005/12/05 月 
WAM・松井やよりの仕事と「ナヌムの家」のハルモニたち

 3日土曜日、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館(略称WAM)」へ行ってきた。
 WAMは、早稲田奉仕園内のアバコビル2階にある。アバコビル1階2階は結婚式場。隣にレンガのチャペルがある。

 前回、ここ「早稲田奉仕園」の中に入ったのは、初夏。5月21日に奉仕園50人ホールで、大好きな写真家長倉洋海さんのスライドトークショウを聴講した。
 アフガニスタンとコソボの写真を見ながら、長倉さんのお話を聞いた。
 まだ、この「女たちの戦争と平和資料館」は、開館前だった。

 ジャーナリスト松井やよりさんの遺志を引き継いで、このアクティブ・ミュージアムが開館したのは、今年夏。戦時性暴力の被害と加害の資料を集めた日本初の資料館として、2005年8月1日オープン。
 ビル内2階の一室、小さなスペースではあるが、大きな志をもってのオープンだった。
 
 とは言っても、私は、このオープンをまったく知らなかった。テレビ新聞などで話題になっているのを見聞きしたことがない。
 戦時性暴力の問題をカフェ日記に提起し、韓国の「ナヌムの家」を紹介しているみつばさんのお知らせによって、知ったのだ。

 私は松井やよりさんに心ひかれ、彼女の新聞記事を読み、著作を読んできた。松井さんは、厳しくかつ温かい視点でアジアの女性たちを見つめ、報道を続けてきた人。定年まで新聞社で記者として記事を書き続けた信念の人である。

 2002年12月死去。死後もなお、右派勢力からの執拗なバッシングを受けているが、たぶん、やよりさんは「何をどう叩かれようと、ジャーナリストは真実を伝えていけばいいだけ」と、言うだろう。

 ミュージアムの中に、このWAM提案者だった松井やよりさんの著作コーナーがある。
 松井さん愛用の机と椅子本箱がそのまま資料館の備品として使用され、本箱には著作の数々と、新聞切り抜きスクラップブックが整理されている。

 スクラップブックは、松井さん自身の手できちんと整理され保存されていた。(閲覧用はそのコピー)
 署名記事が新聞にあったときは、名前を確認して読んできた。が、無署名の記事に関しては「この記事、松井さんが書いたみたいだなあ」と思うだけで、新聞社に問い合わせして書いた人を確認することまではしてこなかった。スクラップには無署名の記事もきちんと整理されているので、いつか、スクラップをひとつひとつ辿ってみたいと思う。

 みつばさんが紹介していたのは、「ナヌムの家 絵画・写真展」。
 韓国の「ナヌムの家」で暮らしているハルモニ(おばあさん)が描いた絵と、ハルモニたちの写真を展示している。
 「ナヌムの家」は、「従軍慰安婦」として戦時性暴力にさらされた韓国女性たちが共に晩年を過ごしているホームである。

 ハルモニの絵は、とても心うつ作品だった。絵の専門家から見たら、「遠近法も光と陰によって立体感を出す絵画技法も、何も学んだことのない、素朴な絵」と言われるのかもしれない。
 しかし、そこに描き出されていたハルモニたちの絵は、「どうしても、なにがなんでも、死ぬまでに表現し、人々に伝えないではいられない、ぎりぎりの表現」の迫力に満ちたものだった。

 展示されている絵の点数は少ないが、圧倒される表現力であった。
 金順徳(キム・スンドク)さん、姜徳景(カン・トッキョ)李玉善(イ・オクソン)さんらが、ナヌムの家(わかちあいの家)で暮らしながら描き出した、「強制連行」「ナシを取る日本軍」などの絵と、ナヌムの家に研究員として住み込んでいる写真家矢嶋宰さんのハルモニたちの写真が展示されている。
 小さなスペースではあるが、心の中にしみこんでくる展示であった。

 「看護婦として働く」「仕事をしながら学校へ通わせてもらえる」などの、募集のことばによって、韓国から中国やアジア各地に連れて行かれ、自身の運命を変えられたハルモニたちの心の叫びが、悲しみと怒りのあふれる表現となっている。
 その悲しみの中にも、人の尊厳を思わずにいられない人間性を感じさせるものであった。

 「悪夢」と題された作品。青い海の渦の中に、引き込まれていく恐怖を画面に表現している。つらい過去の記憶をこうして表現することによって、ハルモニたちは今を生き、残り少ない人生をかけて「記憶の真実」を後世に伝えようとしている。

 「ナヌムの家 絵画・写真展」は、4日で終了。次回WAM企画展示は、「松井やより全仕事」展である。
 
☆☆☆☆☆☆
春庭 今日の一冊
松井やより『女たちがつくるアジア』岩波新書1996年 

<おわり>

ぽかぽか春庭「生きていく女たち2003・2004」

2008-12-09 07:18:00 | 日記





日付2004 生きていく女たち2004

04/01 加藤ちか(birma)・染色作家「牡丹色」
04/22 遠藤志げの・女大関若緑
08/25 アギダ・アマラル 心の金メダル
10/01 若桑みどり『女性画家列伝』
10/05 ジャクリーヌ・ロック・ピカソ
11/23 樋口一葉・一葉忌



日付2003 生きていく女たち2003

09/27 有馬秀子・100歳銀座のバーマダム
10/06 澤地久枝・早稲田の先輩
10/08 須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』
10/09 瀬戸内寂聴『余白の春』ほか
10/11 高橋たか子・『ロンリー・ウーマン』
10/13 森下由美・だるま食堂
10/14 津島祐子『寵児』
10/17 おくめ婆さん・ルーツ私の曾祖母
10/20 野上弥生子・70歳の恋
10/21 畑中幸子・ニューギニア高地人
10/23 関礼子『姉の力樋口一葉』
10/24 平塚らいてふ『元始女性は太陽であった』
10/31 向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』
11/05 長沼はん・私の祖母
11/11 吉野せい『洟をたらした神』
11/12 江馬細香・江戸の漢詩人
11/15 長澤信子『主婦こそ夢の自由業』
11/15 吉田ルイ子『ハーレムの熱い日々』


ぽかぽか春庭「光太郎の『牛』その他」

2008-12-08 06:34:00 | 日記

2007/01/02 火
ことばのYa!ちまた>亥年に牛の詩

 「亥」
 娘が年女です。猪突猛進娘?いえいえ、巣穴にひきこもっています。冬眠中。
 あれ?イノシシって、冬眠するんでしたっけ。
 引きこもりの猪にかわりまして、再来年の干支の「牛」が代わりにごあいさつ。

「牛」(高村光太郎 2006年12月31日をもって著作権切れにつきコピー)

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を堀り土を掘り石をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の道を味わって行く
ふみ出す足は必然だ
うわの空の事でない
是でも非でも
出さないではいられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後へはかえらない
足が地面へめり込んでもかえらない

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない
けれどもかなりがむしゃらだ
邪魔なものは二本の角にひっかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自身を強くする
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
どこまでも歩く

自然を信じ切って
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につっ込み食い込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思わない
牛は自分の孤独をちゃんと知っている
牛は食べたものを又食べながら
じっと淋しさをふんごたえ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く
牛はもうとないて
その時自然によびかける
自然はやっぱりもうとこたえる
牛はそれにあやされる

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思い立ってもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡知にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるおいのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の眼だ
牛は自然をその通りにぢっと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角も立てない
牛が自然を見る事は自然が牛を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力じゃない
牛にとっての当然だ

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争わない
争はなければならない時しか争わない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしている
生命をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機ではない
ねじだ
阪に車を引き上げるねじの力だ
牛が邪魔者をつっかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりっこい
邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも
十本二十本の槍を総身に立てられて
よろけながらもつっかける
つっかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力ははうも偉大だ

それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥やす
利口で優しい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた鳴き声と
すばらしい筋肉と
正直な涎を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く

00:29 |

2007/01/03
ことばのYa!ちまた>冬、三日

 酒少し剰し三日も過ぎてけり(石塚友二)
 あたたかし三日の森の弱音鵙(もず)(星野麦丘人)
 はや不和の三日の土を耕せる(鈴木六林男)
 三日はや雲おほき日となりにけり(久保田万太郎)

 一月三日の東京は万太郎の句のように、雲が多くなってきました。
 今年も箱根駅伝を娘息子とテレビ応援しながらの正月がすぎています。

 「あたたかいお正月でありがたい」と、日中はストーブもつけずにすごせるほどです。

 12月半ばになってようやくいちょうが黄金色になり、冬が来たという気分にきっぱりとはなれないまま正月をむかえました。

 「きっぱりと冬」という気分も、すてがたい、とはいうものの、「刃物のような冬」は、詩のなかで味わうだけにしておいて「寒がりぐうたらの冬」でおわる、三が日 

[冬が来た]高村光太郎


きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒(はうき)になつた

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た


09:34 |

2007/01/04 木
ことばのYa!ちまた>道

 娘の焼いたナッツクッキーをぼりぼりかじりながら、2日3日の箱根駅伝往路復路を応援しました。
 トップ争いや激しいシード権争いが続き、中継から目を離せないレースでした。

 見る方は、お茶飲んだりお菓子つまんだりしながらのんびりの見ているだけですが、冬の道をひたすら走り抜けていく若者の姿は、年のはじめにみんなに元気をわけてくれる気がします。

 競り合う激しいかけひきのシーンも、山登りの道をもくもくと独走していくシーンも、選手たちがひたむきに前進する姿をとらえていました。中継地点で、満面の笑顔でたすきをつなぐ者、足をいため、くずおれるように走り込む者。

 果てしなく続くように思える道の一歩一歩を、自分の足で踏みしめていくほか、前へ進む方法はありません。
 私の道も、まだまだ凸凹道やら急な登り坂やら下り坂やら、苦しい道のりばかり続くように感じますが、一歩一歩、はってでも進むほかなさそうです。

 高村光太郎の第一詩集「道程」。
 若い頃、「道程」は求道的で、「道徳の教科書」っぽくて、あまり好きになれない、などと生意気にも思っていました。

 「道」のなかの、「ああ、自然よ 父よ」というフレーズも気に入らない一節でした。
 農耕民族にとって「ああ、自然よ」ときたら、次は「母よ」と発想するほうが、素直な言語感覚なんしゃないかと感じ、「ああ、自然よ」のつぎに「父よ」と呼びかけるのは、キリスト教文化を意識したフレーズなんじゃないか、と思っていました。

 今は、光太郎がこの第一詩集を書いたときの年齢31歳よりも、その当時の高村光雲の年齢に近づいて、詩への印象も変わりました。
 父光雲と同じ「彫刻」という仕事を選んだ光太郎にとって、父から自立していくためには、父と対峙し、客観視することが必要だったのだろうなあと、思います。

道程(高村光太郎)

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

00:00 |



2007/01/05 金
ことばのYa!ちまた>朔太郎の「こころ」

 2日から4日まで続けて高村光太郎の詩を掲載しましたが、急に光太郎ファンになったというわけでもなく、光太郎の著作権がきれて、2007年1月1日から自由につかえるようになったので、遠慮無く引用した、という次第。
 著作権は、著者が亡くなった年の50年後の12月31日できれる。光太郎は1956年4月2日になくなったので、2006年12月31日に著作権消滅。

 「無料、タダ、ご自由にお持ち帰り下さい」などが大好きな春庭、いつものクセで「自由に使えるものなら、つかっちゃえ」というセコい精神でのコピーペーストです。
 引用した作品「牛」「冬よこい」「道程」は、「小中学校の教科書への掲載が多い光太郎の詩」のベストスリー。なじみの作品です。

 昨年の春庭コラム「文学の中の猫」連載で、で萩原朔太郎(1886~1942)の「青猫」や「猫町」を引用しました。
 朔太郎は1942年に亡くなっていますから、とっくに著作権はきれています。
 だれでも自由に自著のなかに引用することができるし、リメイクも節度を守れば、自由に行ってさしつかえないと思います。さて、ここで、「節度」ってのが問題になるみたい。

 昨年末、アニメ映画宮崎吾朗監督『ゲド戦記』のなかで歌われた劇中歌「テルーの唄」が、萩原朔太郎の「こころ」のパクリか、と話題になりました。
 
 「こころ」は、1925年発行の詩集『純情小曲集』愛憐詩篇の中、「夜汽車」につづく第二番目の詩として発表されました。

「こころ」萩原朔太郎

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり

 「パクリ」だと糾弾されている部分は、以下の通り。
こころ「こころをばなににたとへん」/テルー「心を何にたとえよう」
こころ「音なき音のあゆむひびきに」/テルー「音も途絶えた風の中」
こころ「たえて物言ふことなければ」/テルー「絶えて物言うこともなく」など。

 スタジオジブリは「今後、テルーの唄には、必ず萩原朔太郎へのオマージュをいれる」と、発表しました。
 年末の歌番組をみていると、テルーの唄が流れている画面には「萩原朔太郎から着想を得て作詞された云々」というおことわりがでていました。

 朔太郎が亡くなって64年以上たって著作権はとうに切れており、リメイクも自由にできるとはいうものの、やはり作品に敬意を示す必要はあると思います。
 最初から「テルーのうた・朔太郎のこころによせて」というタイトルにしておけば、「パクリ」だ、「盗作だ」と、いわれることなかったのに、と思います。

 次回は「時間は夢を裏切らない」について

<つづく>
00:39 |

参照文献

2008-12-07 08:45:00 | 日記
参照文献

池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館
池上嘉彦(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫
稲村すみ代(1995a)「再帰構文について」「東京外国語大学 日本語学科年報 第16号」
稲村すみ代(1995b)「現代日本語における再帰構文」『日本語の教育と研究(窪田冨男教授退官記念論文集)』(専門教育出版)
佐佐木幸綱2007『万葉集の<われ>』角川選書
小柳昇2009「<所有>の意味概念をもつ他動詞文の分析」(関東日本語談話会 第103 回研究発表会 2009.3.14学習院女子大学での発表論文)
藤野寛、「主体性という理念とその限界」高崎経済大学論集第48号203-211
紅林伸幸1989「<主体性>概念の検討 : 行為の「主観性」と「独立性」をめぐって」東京大学教育学部紀要28
松本伊瑳子2003「主体、性(ジェンダー)、文化 」名古屋大学大学院国際言語文化研究科『言語文化論集』第XXV
吉田一彦2000 「日本語の非明示的主語に関する一考察」東京外国語大学修士論文
山路平四郎1977『記紀歌謡評釈』東京堂出版
アーレント,ハナ1951『全体主義の起原』新装版1981(翻訳)大島通義,大島かおり みすず書房
イリヤガイ,リュス1987『ひとつではない女の性』(翻訳) 棚沢直子、中嶋公子、小野ゆり子 勁草書房
カラー,ジョナサン1997『文学理論』(翻訳)荒木映子、富山太佳夫2003
ギリガン,キャロル1986『もうひとつの声』(翻訳)生田久美子,並木美智子 川島書店
シクスー,エレーヌ1993『メデューサの笑い』(翻訳)松本伊瑳子, 藤倉恵子, 国領苑子
ライアンズ,ジョン1987『言語と言語学』(翻訳)近藤達夫 岩波書店
Hall, Donald E. 2004 "Subjectivity" New York: Routledge, より、「序」:松岡・稲村共訳2009
Lyons,John 1982“Deixis and Subjectivity: Loquor, ergo sum?”, in R. J. Jarvella & W. Klein (eds.), Speech, Place, and Action, John Wiley & Sons, 1982.


内田樹のブログ2009/08/20写文

2008-12-04 17:33:00 | 日記
内田樹(2009/09/26)
「ぱらりとめくって読む。こ、これは凄い。蓋し名文と言うべきであろう。
    「戦後の日本を、世界有数の大国に育てた自負があります。
    しかし、その手法がこの国の負の現状をつくってしまったことも、
    近年の行き過ぎた市場原理主義とは決別すべきことも自覚しています。
    これからは、『国をメンテナンスしていく』時代。現実を正しく変えるのは、
    現実を直視するリアルな政治。改める。これが自民党の決意です。」
  なるほど、マニフェストがなかなかできあがって来なかった理由もわかる。これは彫  心鏤骨の名文だからである。これを起草するためにどれほど細心の注意が払われたか、  行間から窺える。
主語がないのである。最初の文を見よ。
「戦後の日本を、世界有数の大国に育てた自負があります」
この主語は当然「自民党は」でなければならない。しかし、それを書くと、次の文  の「その手法」は「自民党の手法が」と解されるおそれがある(当たり前だが)。しか  し、「自民党の手法がこの国の負の現状をつくってしまった」とは書けない(書けよ)。
 それゆえ、「負の現状」の有責性は「その手法」という、誰のものとも知れぬ、非  人称的、抽象的なものに帰されることになる。
 同じ操作は次の文でも行われる。「近年の行き過ぎた市場原理主義とは決別すべきことも自覚しています」。
 ここでも当然のように主語が言い落とされている。「近年の行き過ぎた市場原理主義」はあたかも一個の生物のように、勝手に日本に入り込んできて、さんざん悪さをして、当の自民党もそれにはたいへん迷惑をしているのだと言わんばかりである。
 事態の有責性は「市場原理主義」という抽象概念に帰される。
 もちろん、この世に「私が市場原理主義です」などと名乗って出る人間はひとりもいないので、「主義」を有責主体に名指すということは、現実的には誰の有責性も追究しないということを意味している。そして、念の入ったことに、この邪悪なる「市場原理主義」との決別の喫緊であることは「自覚」という動詞によって受け止められている。先の文の動詞は「自負」であり、今回は「自覚」である。どちらも「自ら・・・する」を意味する。
このような動詞のことを文法的には「再帰動詞」という。
 主語を示すことができない(する必要がない)ときに、再帰動詞は用いられる。「自負」というのは、「誰からの負託がなくても、誰からも信認されなくても、私は私に負託し、私を信認する」ということである。「自覚」というのは、「誰に教えられなくても、誰に示されなくても、私は自分で自分に進むべき道を指し示すことができる」ということである。
 ものごとを「決める」主体がないままに、ものごとは「決まって」ゆく。誰がそれをなしたかが問われぬままに、既成事実が積み重なってゆく。「空気」だけが場を主宰しており、行動の主体が明示されない。
 このような風儀をかつて丸山眞男は「超国家主義の論理と心理」において剔抉してみせた。
 東京裁判で、日独伊三国軍事同盟についての賛否の態度を問われたとき、木戸幸一元内大臣も、東郷茂徳元外相も口を揃えて、「私個人としては、この同盟には反対でありました。」「私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事にはなり行きがあります」と答えた。けれども、彼らはその「個人的意見」を物質化するための努力は何もしなかった。大日本帝国最高首脳たちのあまりの無責任ぶりに苛立った検察官は小磯国昭元首相に対して、意地の悪い質問を向けた。
 「あなたは1931年昭和6年の三月事件に反対し、あなたはまた満州事件の勃発を阻止しようとし、またさらにあなたは中国における日本の冒険に反対し、さらにあなたは三国同盟にも反対し、またあなたは米国に対する戦争に突入することに反対を表し、さらにあなたが首相であったときにシナ事件の解決に努めた。(・・・)すべてにおいてあなたの努力は見事に粉砕されて、かつあなたの思想及びあなたの希望が実現されることをはばまれてしまったということを述べておりますけれども、もしもあなたはほんとうに良心的にこれらの事件、これらの政策というものに不同意であり、そして実際にこれらに対して反対をしておったならば、なぜあなたは次から次へと政府部内において重要な地位を占めることをあなた自身が受け入れ、そうして(・・・)自分では一生懸命反対したと言っておられるところの、これらの非常に重要な事項の指導者の一人とみずからなってしまったのでしょうか。」
 小磯はこう答えた。
 「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、われわれはその国策に従って努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり、また尊重せらるる行き方であります。」
 「個人的意見」より「も国策」は上位次元にある。だから原理的に「国策の決定」は個人とは無縁の出来事なのである。どのような政策を採用しようと、それが「いやしくも国策」であるとされる限り、政治家には「努力する」以外に何の選択肢もない。だから、その国策がどれほどの災厄を国にもたらしたとしても、政治家個人には何の責任もない。
 東京裁判のときの戦犯たちのエクスキューズはほとんどそのままのかたちで今日のマニフェストに繰り返されている。
 裁判記録の引用のあと、丸山はこう結論している。
   「ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出されて
   行くものと考えられないで、作り出されしまったこと、いな、さらにはっきり
   いえばどこからか起って来たものと考えられていることである。『現実的』に
   行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということに
   なる。」(丸山眞男、『現代政治の思想と行動』、未來社、2006年、109頁)
 丸山が60年前に記したこの言葉はそのまま「現代政治」に適用することができる。
 わがマニフェストに横溢する「主語の欠落」は、単に「自民党的なもの」を超えて、この国の政治風土の本質的なものを指し示している。どのような政治的過失についても反省の弁を口にせず、すべての失態を他責的な言葉で説明し、誰に信認されなくても自分で自分を信認すれば足りる。そういうわが風土病的欲望が行間から露出している。わずか数行でそれを開示しえた力業を私は「蓋し名文」と呼んだのである。病は深い。

主体性

2008-12-02 09:17:00 | 日記
研究テーマ:日本語言語文化における主体性の研究 

1 テーマ選定の理由・根拠
 「日本語言語文化における主体性の研究」は、日本語の統語構造の分析のもとに日本語言語文化の<主体>また<主体性>を見ていきます。本論は、日本語が「話者と聞き手が<コミュニケーション成立の場>を形成していることを前提として表現する言語であり、事態事象の推移を表現することを中心とする言語である」と述べます。
 日本語文において主語を表現しないことをもって、日本人のメンタリティに関して、「責任を負うことを忌避する」という類の日本語論、日本人論があります。主体・客体、また主語・述語、という印欧語文法の枠組みの中で研究されてきた近代以後の日本語文法は、印欧語文法の見方そのままで日本語を解釈し、主語が表面にでていないことをもって、「主語のない文は行為主体を明確にしていない」という判断をくだす見方が出され、今なおこの見方は多くの言説の根拠になされています。(注1)
 「日本語言語文化における主体性の研究」は、日本語における<主体・客体><主語・述語>の構造を俯瞰した後、日本語言語文化の中に現れる<主体性>の表現を探っていき、印欧語の<個人>とは異なる<共同主体>が言説の主体となっていたことを『万葉集』『古事記』の表現に確認し、現代日本語表現の中の<主体性>を見ていきます。

2.当該テーマに関連する先行研究の総括
 デカルトのコギト以降、「主体・客体」については、主客二元論、主客一体論など、論議が続けられてきました。デカルト以降の近代の哲学は、この「主体としてのコギト(思惟するワレ・自己意識)」という理念との関係の中で展開されてきました。そののち、「後期近代」また「近代の終焉」と呼ばれる現在の時代にあって、この自己意識の行き詰まりから、欧米を中心として<主体性>の捉え直しが試みられてきました。本論は、印欧語の側からも主体・客体について、従来とは異なる枠組みのなかで捉えていこうとする考え方が提出されてきているという面を重視します。
 これまでに提出されてきた先行研究を俯瞰すべきことは当然となりますが、発表者は、<主体性>についての論究に多くを負いながら、本論としての<主体性>を認定しながら考察を進めていくつもりです。ジョン・ライアンズ、D・E・ホールらの<主体性>についての論をふまえつつ、日本語言語文化に表現された<主体性>を論じていきたと思います。
ホールは、ガニエによる<主体性>の概念を次のように紹介しています。
   第1に、ある主体とはそれ自体の主体であり、「私」である。他者がその視点から、また、自身の経験において、これを理解するのは困難であり、不可能でさえある。
   同時に、ある主体は他者に対しての、そして他者の主体でもある。事実、それはしばしば他者にとっての「他者」であり、このことは他者自身の主体性の感覚にも影響を及ぼすものである。
   第3に、主体は認識の主体でもある。おそらく最も解かりやすく言えば、主体の存在を取り囲む社会制度の言説の主体ということだ。
   第4に、ある主体とは、―妊婦と胎児の場合をのぞいて―、他の人体と区別される肉体である。そして、その肉体とは―それゆえに主体であるが―物理的環境に密接に依存する。 (Gagnier 1991:8)

ジョン・ライアンズのいう<主体性>とは、「主観性=主体性」であり、ライオンズの<主体性>は、以下のようにまとめることができます。
「自然言語がその構造と通常の作用の仕方において発語の行為者による彼自身と彼の態度と信念の表明=表出のために提供する,その仕組み」をさしている。「非命題的・非確言的な要素」をライアンズは<主観的>ととらえ、「言語の構造・使用で表明される内容のうち,話し手の自己を表現する非命題的・非確言的な要素」=<主観性=主体性>であるとしている。(ライアンズ『直示とsubjectivity(主観性・主体性)、我発語するゆえに我あり』)

 <主体性>というtermは、ひとつの意味に限定されないことは承知した上で、本論としての追求をしていくつもりです。

3.当該テーマに関する研究史の中での発表者自身の研究(新研究)の位置づけ
 従来行われてきた<主体性>の論考には、たとえば、第二次大戦直後、文学・哲学の分野を中心に主体性の意義をめぐって起こった、いわゆる「主体性論争」などがあります。近代的自我の確立を主張する人々と客観的・歴史的法則性を重視する人々とに分かれてのマルクス主義の解釈論争であったり、教育学の中で<主体性のある学び>、<主体性を育てる教育>などの論が提出されてきました。
 発表者は、日本語学とくに日本語教育の実践のなかで得られた知見を土台として、日本語それ自体の中に表現されている<主体性>をどのように受容していくかを中心に、日本語言語作品読解における、作品受容、読みの問題のなかでの主体性のとらえ方などを考察し、日本語母語話者でない人々の日本語言語文化受容の可能性をさぐっていきたいと考えています。

博士論文構成
序章 
  主体・客体、主体性の定義
  本稿の論点
  先行研究
第1章
  日本語の中の「ワレ」「私」と、主体
  他動詞文における他動性と行為主体
  自動詞文に準ずる再帰的他動詞文
  事象の推移を表す自動詞文
第2章
  集合的主体
日本語言語文化に表現された「主体」の受容
 第3章
  日本語学習者の誤用文と日本語の自他
  非日本語母語話者の日本語言語文化受容
  翻訳と日本語の主体
 結語

4.新研究における考察視点の設定
 発表者が20年従事してきた日本語教育において、日本語言語文化の受容に関し、しばしば「日本人でなければ、この文章の味わいはわからないだろう」という日本語話者からの否定的言説を受けてきました。日本語話者でない者が日本語を読んで、翻訳でなくそのまま日本語として理解し、いわゆる日本的情緒や人情の機微を理解することは不可能といわれてきたのです。発表者は、日本語教育の立場から、日本語読解において、教授者の適切な助言があれば、非日本語話者であっても、日本語を日本語として受容する場合の困難は取り除くことができると考えます。
 そのための考察視点として日本語統語構造における<主体・客体>、<主語・述語>の問題と<主体性>の関わりについて取り上げます。
 筆者の考察視点のひとつとして、「ワ」「我」「私」などの、主体を表現している語がどのように言語表現の中に表現されているかを上げてみます。
 日本語は、モンゴル語などが属するウラルアルタイ系の言語に近縁しているであろうとされていますが、決定的な系統が不明なままの言語とみなされています。同じく系統が不明なままのアイヌ語や朝鮮語韓国語との対照比較は、アイヌ語の古語、韓国語の古語が文書として存在していないためになしえません。アイヌ語は音声の語りのみで伝えられてきており、古代の言語像が不明であるし、朝鮮語韓国語は、古代文書の中には記録されていません。朝鮮半島での公式文書は漢文(中国語)でのみ記録されたからです。したがって、日本語研究は日本語のみの範囲で行わざるを得ません。
 日本語言語表現のうち、初期の作品群、『古事記』『万葉集』『源氏物語』などから、<ワレ>、<ワタシ>という語の現れ方を見ていきます。
 古今集、新古今集において<われ>が歌中に詠まれているのは、全体の1割程度にすぎません。<われ>を読み込んだ歌であっても、作者と作中の主人公<われ>は別人格化しており、作者は演劇の役者のように<われ>を表現しています。
陸奥の忍ぶもぢずり誰ゆゑに 乱れ染めにし我ならなくに
の「われ」も、作者源融本人であると捉えてもよいし源融がだれかの姿を借りて表現したと受け取ることもできます。歌会に出た人々にとって「我」は文学上、言語表現上の主体であるとみなされていたのであり、ワレという語を作者本人とは受け取らなくては、表現が成立しない、という歌ばかりではありません。しかるに、万葉集の時代においては、総歌数4500のうち39.5%に<われ>をよんだ歌があります。佐佐木幸綱は、『万葉集の<われ>』において、約4割の1780首に<われ>が表現されていると、数え上げています。(佐佐木2007,42)
 万葉の時代のほうが、自我意識が強かったからでしょうか。そうではないと佐佐木が述べていることに発表者は賛同します。万葉時代までの<われ>とは、集合的主体であり、集団的アイデンティティを持つ存在だったと思われます。歌を文字に書くこと、文字にされた歌を通信文としてやりとりするというのは後代の形です。文字が入ってくる以前において、歌とは、共同体の中で朗唱し、共同体全体が味わうものでした。歌が朗唱されるその場にいる者たち全体、あるいは朗唱するものが属するコミュニティ全体の表現として表す言葉でした。このひとつが歌垣であり、中国雲南省などでは現代までこの形式の歌が少数民族文化として残されています。(注2)
 山路平四郎(1973)は、『万葉集巻二95』の藤原鎌足の「吾はもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見児得たり」や『古事記歌謡46』の大雀命の「道の後(しこ)古波陀嬢子(こはだおとめ)を雷(かみ)のごと聞こえしかども相枕まく」の歌について、「初体験の喜びを歌った民謡風の謡い物が原歌」と、見ています。早くから、記紀歌謡や万葉集の長歌短歌の中には、「共同体=ワレ」の表現が残っていたことは指摘されてきました。
 現代語では<ワレ>が複数であることを特に強調したいとき<われわれ>と畳語にしたり<ワレラ>と表現します。この畳語の<我々>が出現するのは、後代に至って御伽草子などからです。現代語でもしばしば<ワレ>は単数としても複数としても用いられるし、関西弁などでは<ワレ>や<自分>が、一人称としても二人称としても用いられています。相手に向かって「ワレ、どっからきたんや」「ジブン、名まえなんや」などと言います。
 古語の一番古い層の<ワ>また<ワレ>も、発話者本人も、相手をも指し示すことができ、単数でも複数でも表現することができました。岩波古語辞典には『宇治拾遺』での用例として、「オレ(汝)は何事を言うぞ。我が主の大納言を高家と思うか」という例を挙げています。
佐佐木幸綱は『万葉集の<われ>』において、歌は状況を詠むものではなく、意思を言葉にして朗唱することで、その力によって状況を変えることを願うものだった、と述べています。この<状況の変化を望むワレ>は、歌を詠む個人ひとりを<ワレ>と言っているのではなく、自分自身を含むこの場にいる状況全体に関わる者たちを<ワレ>と言っているのだと、発表者は考えています。
 万葉集の<ワ>、<ワレ>は、集団的アイデンティティを持つ共同体の、<全体的集合的主体>を表していると見なすことができます。この場合の<共同体的集合主体>とは、ジョルジュ・ルカーチらがプロレタリアートを念頭に置いて使用しているような限定された階級的集合主体を意味するのではありません。ドイツ語のゲマインシャフト(Gemeinschaft)、英語ではコミュニティー(community)に当たる共同体であり、日本的共同体労働集約型の農業を基礎に「協働型社会」を形成し統一された意思のもと相互互助的秩序維持を保っていた村社会の<共同体として主体>を意味しています。
この<共同主体>は、以下の歌の<ワ>が、近代以後の一人称とは異なるものであることを感じさせることにもあらわれています。
万葉集冒頭、雄略天皇を作者に擬する第一首。

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持
此岳尓 菜採須兒 家吉閑名告<紗>根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居
師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母
「籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち 
この岳(おか)に 菜摘ます児 家聞かな 告(の)らさね 
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ 居れ
しきなべて われこそ座せ われにこそは 告(の)らめ家も名も」

 この歌の<われ>も、作者に擬されている雄略天皇の一人称というより、「この国を統べようとしている大王家の人間である」という集団的アイデンティティを<われ>によって表現しています。
 記紀歌謡の中に見える「埴生坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家のあたり」という履中天皇の作歌とされる歌は、難波の宮を住吉仲皇子によって焼かれた履中天皇が、波邇賦坂に至って、なお燃えさかる宮を望見して詠じたという説話の中にあてはめられています。しかし、歌そのものを見れば、春、陽炎のたつ妻の郷里を眺めての、大和の為政者大王(オホキミ)による、国ほめの歌、国見歌と受け取ることもできます。この場合も<ワ>は、大王個人を表すというより、朗唱されクニを言祝ぐ大王と、大王の統べる国土全体を含んでの<ワ>方が自然です。
 <ワタシ>は、どのように文脈にでているでしょうか。現代日本語の<ワタシ><ワタクシ>は、語源的には<公(オホヤケ大宅)>に対する<私>から発しています。「私雨」が、広く全体に降る雨でなく、有馬や鈴鹿など山地に局地的に降る雨をさし、「私歩き」が、公用でなく私用で歩くことを表すなど、<個人>を意味するより、公に対する私的なことがらを意味しています。
 源氏物語桐壺において桐壺帝が靫負命婦を桐壺女御の里に使いにだす場面で、幼い若宮の祖母(桐壺女御の母)が命婦に向かって「私にも心のどかにまかでたまへ」とあるのは、「公の勅使としてでなく、気楽な私用の使いとしてこの里においでください」と言っているのであって、やはり公との対比で用いられています。<ワタシ>が個人を示すようになるのは、御伽草子など中世以後の用例となる。<ワタシ>という語が「一人称・個人」を示すようになる平安後期から中世以後となるまで、日本語にとっての「行為主体としての個人」は、表現しにくいものであったろうと考えます。
 「ワタシ」が印欧語的な一人称を表すようになったというのは、西欧的な視点で見ようとする見方の中でのことであって、日本語話者の「ワタシ」は「近代社会の個人」とは異なる内容によって使われてきたことを無視することはできません。日本語の古層での<ワレ>すなわち、「共同体=ワレ」が現代まで日本語話者に続く感覚であることを、阿部謹也は一連の「世間」に関する著作で指摘し、山本七平は「日本教」また「空気」という言葉で言い表しています。「世間」論、また「空気」論には賛否両論が出されていますが、現代まで日本語話者が「共同体と一体のワレ」によって生きる部分を持ち続け、明治以来論じられている「西欧的、近代的個人」とは異なる「主体」として存在してきたことは、否定できないと思われます。<ワ>、<ワレ>、<ナ>、<ナレ>などは、「相互関係性の中での存在」「主客未分の存在」を表しているのです。
 一方では「近代的個人」であることが「現代社会」に生きていく<主体>であるとされながら、一方では「共同体=ワレ」の存続の中に生きて、いわば引き裂かれた疎外の中に放り投げ込まれたあげく、ハンナ・アレントがいう「疎外による公的領域の疲弊を通じて、人々はアイデンティティの不確実性を埋め合わせる集合的イデオロギー、すなわち内側で大衆に共通の危機意識を植え付け外側に敵を作り出し、集団の意識を敵に集中させる全体主義」に埋没したのが、日本の「近代的個人」でした。
 内田樹(2009年08月20日)は、「自民党マニフェスト」についての感想をブログに述べています。この論の中で、内田は日本語文の「主語の欠落」を「行動責任の存在を見えなくするため」という従来の日本語論日本人論を採用しています。与党であった政権担当者のマニフェストが欺瞞に満ちたものであると内田が感じたとしても、印欧語文法での主語=行為主体が書かれていない文のせいだという論法をそのまま肯定することはできません。日本語は日本語の統語構造において解釈すべきであるからです。日本語は日本語の言語構造をもって成立しており、いわゆる<主語無し文>が日本人の無責任性を表すというような論は浅薄でしかないと言えます。内田は、「主語の欠落」は、「すべての失態を他責的な言葉で説明するため」に使われているということのあらわれと解釈しており、従来の「日本語主語なし文」の通説に沿った言説を行っています。内田は自民党マニフェストの主語無し文のほか、東京裁判における小磯国昭元首相の答弁をあげ、行動の主体が明示されない、ということの例証としてあげています。(内田ブログの言説は別記)
 発表者は、小磯の答弁と連合国側検察官の追求の論に、別の面を見いだします。小磯らは、近代的個人的自我と村落共同体的集団的アイデンティティのふたつを矛盾したまま抱えた存在であったことが、彼らの弁明に見えます。そして、そのような自我のあり方は連合国側検察官には理解できないものであっただろうということもわかります。
 「日本語は主語を表現しないから行為主体の責任を明らかにしない」と内田の論は、西欧的な「行為主体=主語」という解釈で物事を判断する見方が広く浸透していることのひとつの例といえましょう。
 「全体の推移」「事象の移り変わり」を描写するのが日本語の表現のあり方であって、行為主体が非明示化されているとしても、それが印欧語のいう「行為主体」の欠落とは別の論理であることを見て行かなくてはなりません。印欧語の論理のまま日本語をみていくなら、「日本語表現の主体性」も見えにくいものとなるでしょう。
 リュス・イリガライ1977『ひとつではない女の性』の試みは、日本語統語の方法を意識化するためにも有効と思われます。イリガライは、文法・統辞法を支配してきた男性的語りへの従属から離れようと、「主語の省略、名詞句・不定詞句・現在分詞の多用、アナグラム・類音・同音異義語の活用、脚韻効果によるリズム感の創出」によって「男性的統辞と異なる女性的な語り方」を実践してきたと述べています。イリガライの試みた「男性原理=西欧語の統辞法を逃れる語り」に現れている言語技法は、従来日本語が「印欧語に比べてあいまいで、論理的ではない」表現であるからと否定されてきた諸特徴を取り込んだものです。
 エレーヌ・シクスーの主張する「女性的主体=間主観的主体」やキャロル・ギリガンのいう「他者との相互依存関係において、他者とのネットワークの中において捉える自己」「他者との関係の中で発揮され涵養される<他者共感的主体>」は、日本語が本来表現してきた「主体と客体とが一体となって事態の推移を担う」という表現の中に表出してきたものに共通しています。男性中心的な知の見方から抜け出ようとするとき、フェミニズム論の主導者をその一例とする被抑圧的存在であった人々の見方が、東洋的、主客一体的な見方を採用していることは、主客一元的、あるいは男性的論理による主体性のとらえ方を打破するために、必要であると、西欧側も気づいてきたことの現れだと思います。
 日本語は、「行為主体を表現していないからあいまいな表現しかできない」のではなく、日本語が日本語の統辞法を自覚しながら表現していくことで、行き詰まりを露呈している西欧的思惟に対して、イリガライが試みたのと同じように、「もうひとつの語り方」を示し、シクスーやギリガンらのいう<他者共感的主体>を提示できると発表者は考えます。<共感的主体>、<自他混在型意識>、<間主観的自我・主体>、<人間関係のネットワークの中で自己を考える主体>等の、西欧論理が追求してきた<主体・客体>論とは異なる<主体性>の表現を、日本語言語文化の中に再構築する必要性があると思います。
 以下、他動性と他動詞文、再帰的他動詞文など、2008年9月、2009年7月に発表した稲村の論も重ね合わせ、考察を続けるつもりです。
 なお、小柳昇は「<所有>の意味概念をもつ他動詞文の分析」(関東日本語談話会 第103 回研究発表会 2009.3.14学習院女子大学での発表論文)において、稲村1995を参照文献のひとつとしてあげ、筆者が「自動詞相当の他動詞文」として分析した他動性を持たない他動詞文について、「所有の意味概念を持つ他動詞文」と再定義しているが、主要な観点について、筆者の分析と異なるものではないことを確認しました。


(注1)
<金谷2003>
  日本語に自動詞文が溢れている最大の理由は、存在文として表現することで行為者を消すことができるからなのだ。こうした言語を母語とするわれわれは、積極的行為をとろうとしない。何か問題が起きたとき、英語話者ならなんとか手を打って対処してしまおうとする状況下で、日本語話者は多くの場合諦めてしまう。

(注2)
岡部隆志1973「繞(めぐ)る歌掛け--中国雲南省白族の2時間47分に渡る歌掛け事例報告 (共立女子短期大学文科紀要17号」
田主誠1977「中国雲南省少数民族の歌と踊り 国立民族学博物館.・民博通信1号」

(注3)
 リュス・イリヤガイは『ひとつではない女の性』で次のように考えた。「これまでの想像界についての理解、女についての理解は、常に男性の視点からなされてきた。結果、私たちが唯一知っている女性とは、「男性的女性」すなわち「男から見た女」に過ぎない。たとえば、特にフロイトの理論に見られるように、「常に価値を独占する唯一の性である男性の性の欠落、萎縮、裏面として描写」とされてきたのである。そこで、イリヤガイは、想像界や女について別の視点から考えることで、《女性的なもの》を表現しようとした。その中で、最も有効なストラテジーとして提示されているのが、第三のストラテジーである「模倣」、すなわち「歴史的に女性的なものに割り当て当てられてきた(中略)役割を故意に引き受けること」である。これにより従属は主張へと転じ、そのことによって、従属の裏をかくことができる、とイリガライは考えている。



ぽかぽか春庭「翻案とパクリー朔太郎とジブリ」

2008-12-01 22:31:00 | 日記
2007/01/05 金
ことばのYa!ちまた>朔太郎の「こころ」

 2日から4日まで続けて高村光太郎の詩を掲載しましたが、急に光太郎ファンになったというわけでもなく、光太郎の著作権がきれて、2007年1月1日から自由につかえるようになったので、遠慮無く引用した、という次第。
 著作権は、著者が亡くなった年の50年後の12月31日できれる。光太郎は1956年4月2日になくなったので、2006年12月31日に著作権消滅。

 「無料、タダ、ご自由にお持ち帰り下さい」などが大好きな春庭、いつものクセで「自由に使えるものなら、つかっちゃえ」というセコい精神でのコピーペーストです。
 引用した作品「牛」「冬よこい」「道程」は、「小中学校の教科書への掲載が多い光太郎の詩」のベストスリー。なじみの作品です。

 昨年の春庭コラム「文学の中の猫」連載で、で萩原朔太郎(1886~1942)の「青猫」や「猫町」を引用しました。
 朔太郎は1942年に亡くなっていますから、とっくに著作権はきれています。
 だれでも自由に自著のなかに引用することができるし、リメイクも節度を守れば、自由に行ってさしつかえないと思います。さて、ここで、「節度」ってのが問題になるみたい。

 昨年末、アニメ映画宮崎吾朗監督『ゲド戦記』のなかで歌われた劇中歌「テルーの唄」が、萩原朔太郎の「こころ」のパクリか、と話題になりました。
 
 「こころ」は、1925年発行の詩集『純情小曲集』愛憐詩篇の中、「夜汽車」につづく第二番目の詩として発表されました。

「こころ」萩原朔太郎

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり

 「パクリ」だと糾弾されている部分は、以下の通り。
こころ「こころをばなににたとへん」/テルー「心を何にたとえよう」
こころ「音なき音のあゆむひびきに」/テルー「音も途絶えた風の中」
こころ「たえて物言ふことなければ」/テルー「絶えて物言うこともなく」など。

 スタジオジブリは「今後、テルーの唄には、必ず萩原朔太郎へのオマージュをいれる」と、発表しました。
 年末の歌番組をみていると、テルーの唄が流れている画面には「萩原朔太郎から着想を得て作詞された云々」というおことわりがでていました。

 朔太郎が亡くなって64年以上たって著作権はとうに切れており、リメイクも自由にできるとはいうものの、やはり作品に敬意を示す必要はあると思います。
 最初から「テルーのうた・朔太郎のこころによせて」というタイトルにしておけば、「パクリ」だ、「盗作だ」と、いわれることなかったのに、と思います。

 次回は「時間は夢を裏切らない」について

<つづく>
00:39 |

2007/01/06 土
ことばのYa!ちまた>「時間は夢を裏切らない」

 昨年、「創作と盗作」について、いろいろ考えてみました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0203b7mi.htm

 創作とは、大なり小なり先行作品の影響や模倣を含みつつ成立するものであること、しかし、真にオリジナリティにあふれた作品は、先行作品を越えて輝くものであるということを考察したつもりです。

 2006年、槇原敬之「約束の場所」作詞中、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」という部分が、「銀河鉄道999」の「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」というフレーズに「そっくりだ」と、松本零士が槇原に抗議して騒動になったこともありました。

 短いフレーズのつづく唄の歌詞に、さまざまな引用や、他の作品から着想を得たフレーズが入ることは多いし、槇原の「約束の場所」の中に、銀河鉄道999のほかに、いろんなところからの「インスパイア」が入り込んでいるだろうと思います。

 この抗議に対して、当初、槇原が「999だって、宮沢賢治の銀河鉄道をパクってるじゃない、盗作というなら、法的に訴えてみればいい」と、開き直ったというのは、ちょっと傲慢に聞こえました。

 銀河鉄道999が賢治の「銀河鉄道の夜」から着想されたものであることは、松本本人も認めています。宮沢賢治は1933年に亡くなり、1983年に著作権が切れたので、松本が漫画雑誌に「999」連載を開始した1977年には、まだ宮沢賢治の著作権が切れていなかったのも確かです。
 しかし、当時著作権者もこの作品を「盗作だ」などと言っておらず、賢治の童話とは異なる松本独自の世界を築いた作品であると認められています。

 松本は、著作権法違反とか、盗作とか、責め立てたいのではなく、自分の作品から着想されたフレーズであることを認めてほしかった、無断で使用したことに、ひとこと謝ってほしかったのだ、と言っています。
 CDを制作したレコード会社社長らが松本さんを訪ね謝罪したものの、槙原敬之が同席しなかったことに対して、松本は不快に思い、「創作家同士のプライドの問題。男同士なら分かってほしい」と本人の謝罪を要求した、ということのようです。

 現行の著作権の法的解釈範囲内で争うなら、たしかに「盗作」「著作権侵害」にはあたらない範囲の引用ではあるのでしょうが、ことの経緯を報道された範囲内でみた限りでは、槇原の態度は気持ちのよいものではなかった。

 スタジオジブリが即座に「今後テルーの唄をだすときには、必ず萩原朔太郎の名を出す」としたのは、大人の判断でした。もともと著作権が切れているので著作権料などの問題は発生しないことがわかっているからすぐに謝罪会見できたのだと思うけれど。

 槇原は、多くの人に受け入れられた「ひとつの花」などを送り出した才能豊かなシンガーソングライターと思うのに、なぜ、こんな開き直りをしたのか、わかりません。

 作詞した段階では松本の「銀河鉄道999」のことを思い出さずに、自然に自分の頭のなかに思い浮かんだフレーズとして作ったのだとしても、現実に先行作品が存在し、自分がそれを見聞きした可能性があったなら、記憶のなかに「999」の名がなかったとしても、素直に「松本零士の『銀河鉄道999』」に対して敬意をあらわすべきだったのじゃないかと感じます。
 
 これからも「インスパイア」だの「オマージュ」だの「そっくりさん」だの、と騒動は繰り返されそう。
  インターネットの発達により、コピー&ペーストは、今後ますます増えていくことでしょう。
 敬意をもちつつ引用し、節度を守りつつリメイクして、言語文化の多様な広がりを楽しみたいと思っています。

<おわり>