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ぽかぽか春庭「光太郎の『牛』その他」

2008-12-08 06:34:00 | 日記

2007/01/02 火
ことばのYa!ちまた>亥年に牛の詩

 「亥」
 娘が年女です。猪突猛進娘?いえいえ、巣穴にひきこもっています。冬眠中。
 あれ?イノシシって、冬眠するんでしたっけ。
 引きこもりの猪にかわりまして、再来年の干支の「牛」が代わりにごあいさつ。

「牛」(高村光太郎 2006年12月31日をもって著作権切れにつきコピー)

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を堀り土を掘り石をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の道を味わって行く
ふみ出す足は必然だ
うわの空の事でない
是でも非でも
出さないではいられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後へはかえらない
足が地面へめり込んでもかえらない

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない
けれどもかなりがむしゃらだ
邪魔なものは二本の角にひっかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自身を強くする
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
どこまでも歩く

自然を信じ切って
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につっ込み食い込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思わない
牛は自分の孤独をちゃんと知っている
牛は食べたものを又食べながら
じっと淋しさをふんごたえ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く
牛はもうとないて
その時自然によびかける
自然はやっぱりもうとこたえる
牛はそれにあやされる

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思い立ってもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡知にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるおいのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の眼だ
牛は自然をその通りにぢっと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角も立てない
牛が自然を見る事は自然が牛を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力じゃない
牛にとっての当然だ

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争わない
争はなければならない時しか争わない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしている
生命をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機ではない
ねじだ
阪に車を引き上げるねじの力だ
牛が邪魔者をつっかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりっこい
邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも
十本二十本の槍を総身に立てられて
よろけながらもつっかける
つっかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力ははうも偉大だ

それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥やす
利口で優しい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた鳴き声と
すばらしい筋肉と
正直な涎を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く

00:29 |

2007/01/03
ことばのYa!ちまた>冬、三日

 酒少し剰し三日も過ぎてけり(石塚友二)
 あたたかし三日の森の弱音鵙(もず)(星野麦丘人)
 はや不和の三日の土を耕せる(鈴木六林男)
 三日はや雲おほき日となりにけり(久保田万太郎)

 一月三日の東京は万太郎の句のように、雲が多くなってきました。
 今年も箱根駅伝を娘息子とテレビ応援しながらの正月がすぎています。

 「あたたかいお正月でありがたい」と、日中はストーブもつけずにすごせるほどです。

 12月半ばになってようやくいちょうが黄金色になり、冬が来たという気分にきっぱりとはなれないまま正月をむかえました。

 「きっぱりと冬」という気分も、すてがたい、とはいうものの、「刃物のような冬」は、詩のなかで味わうだけにしておいて「寒がりぐうたらの冬」でおわる、三が日 

[冬が来た]高村光太郎


きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒(はうき)になつた

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た


09:34 |

2007/01/04 木
ことばのYa!ちまた>道

 娘の焼いたナッツクッキーをぼりぼりかじりながら、2日3日の箱根駅伝往路復路を応援しました。
 トップ争いや激しいシード権争いが続き、中継から目を離せないレースでした。

 見る方は、お茶飲んだりお菓子つまんだりしながらのんびりの見ているだけですが、冬の道をひたすら走り抜けていく若者の姿は、年のはじめにみんなに元気をわけてくれる気がします。

 競り合う激しいかけひきのシーンも、山登りの道をもくもくと独走していくシーンも、選手たちがひたむきに前進する姿をとらえていました。中継地点で、満面の笑顔でたすきをつなぐ者、足をいため、くずおれるように走り込む者。

 果てしなく続くように思える道の一歩一歩を、自分の足で踏みしめていくほか、前へ進む方法はありません。
 私の道も、まだまだ凸凹道やら急な登り坂やら下り坂やら、苦しい道のりばかり続くように感じますが、一歩一歩、はってでも進むほかなさそうです。

 高村光太郎の第一詩集「道程」。
 若い頃、「道程」は求道的で、「道徳の教科書」っぽくて、あまり好きになれない、などと生意気にも思っていました。

 「道」のなかの、「ああ、自然よ 父よ」というフレーズも気に入らない一節でした。
 農耕民族にとって「ああ、自然よ」ときたら、次は「母よ」と発想するほうが、素直な言語感覚なんしゃないかと感じ、「ああ、自然よ」のつぎに「父よ」と呼びかけるのは、キリスト教文化を意識したフレーズなんじゃないか、と思っていました。

 今は、光太郎がこの第一詩集を書いたときの年齢31歳よりも、その当時の高村光雲の年齢に近づいて、詩への印象も変わりました。
 父光雲と同じ「彫刻」という仕事を選んだ光太郎にとって、父から自立していくためには、父と対峙し、客観視することが必要だったのだろうなあと、思います。

道程(高村光太郎)

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

00:00 |



2007/01/05 金
ことばのYa!ちまた>朔太郎の「こころ」

 2日から4日まで続けて高村光太郎の詩を掲載しましたが、急に光太郎ファンになったというわけでもなく、光太郎の著作権がきれて、2007年1月1日から自由につかえるようになったので、遠慮無く引用した、という次第。
 著作権は、著者が亡くなった年の50年後の12月31日できれる。光太郎は1956年4月2日になくなったので、2006年12月31日に著作権消滅。

 「無料、タダ、ご自由にお持ち帰り下さい」などが大好きな春庭、いつものクセで「自由に使えるものなら、つかっちゃえ」というセコい精神でのコピーペーストです。
 引用した作品「牛」「冬よこい」「道程」は、「小中学校の教科書への掲載が多い光太郎の詩」のベストスリー。なじみの作品です。

 昨年の春庭コラム「文学の中の猫」連載で、で萩原朔太郎(1886~1942)の「青猫」や「猫町」を引用しました。
 朔太郎は1942年に亡くなっていますから、とっくに著作権はきれています。
 だれでも自由に自著のなかに引用することができるし、リメイクも節度を守れば、自由に行ってさしつかえないと思います。さて、ここで、「節度」ってのが問題になるみたい。

 昨年末、アニメ映画宮崎吾朗監督『ゲド戦記』のなかで歌われた劇中歌「テルーの唄」が、萩原朔太郎の「こころ」のパクリか、と話題になりました。
 
 「こころ」は、1925年発行の詩集『純情小曲集』愛憐詩篇の中、「夜汽車」につづく第二番目の詩として発表されました。

「こころ」萩原朔太郎

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり

 「パクリ」だと糾弾されている部分は、以下の通り。
こころ「こころをばなににたとへん」/テルー「心を何にたとえよう」
こころ「音なき音のあゆむひびきに」/テルー「音も途絶えた風の中」
こころ「たえて物言ふことなければ」/テルー「絶えて物言うこともなく」など。

 スタジオジブリは「今後、テルーの唄には、必ず萩原朔太郎へのオマージュをいれる」と、発表しました。
 年末の歌番組をみていると、テルーの唄が流れている画面には「萩原朔太郎から着想を得て作詞された云々」というおことわりがでていました。

 朔太郎が亡くなって64年以上たって著作権はとうに切れており、リメイクも自由にできるとはいうものの、やはり作品に敬意を示す必要はあると思います。
 最初から「テルーのうた・朔太郎のこころによせて」というタイトルにしておけば、「パクリ」だ、「盗作だ」と、いわれることなかったのに、と思います。

 次回は「時間は夢を裏切らない」について

<つづく>
00:39 |