芸術の分け方に、時間芸術と空間芸術という分類があります。
分類したからって、どうなるわけでもありませんけれど、一応、知識の整理です。
時間芸術は、演劇、映画、小説、音楽のように、時間の流れの中で、変化の美しさを表現する芸術です。
音楽は音の変化、小説は文字による想像の世界の変化、映画は映像の変化です。
そのうち、「時間とはなんだろう」という本の感想をブログに書こうと思っていますが
時間とは、簡単に言うと、物質の動きです。動きがなければ時間はない。
だから、時間と動きの法則としての物理は、密接な関係にあるわけです。まあ、後で話します。
空間芸術とは、二次元(絵画・写真)もしくは三次元(彫刻)の空間において、美しさを表現する芸術です。
変化ではなく、静止した状態で、美しさを瞬間的に表現します。
ところで、感動について、小林秀雄は講演の中で、こう言っています。
「僕の場合、最初に、ある一つの感動がある。何かを言って何かに達するわけではない。漠然としているけど非常に明瞭な感動がある。そういうものに出会ってきた。これを何とか明瞭化しなくてはいけないと思う」
「いつでも感動からはじめた。感動したときには、世界はなくなるものです。世界がなくなるとは、自分自身になるということです。自分自身になるということは、それはパーフェクトな自分ということです。バカはバカなりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なものです。その感動というものが、個性というものです。これは天与の知恵だね。これは天がそう決めたんでしょう」
「僕の書くものは、感動からはじめた。だから、そこに僕というものがいるんでしょ。僕は自分というものを語ろうとしたんじゃないんです。感動はどこかからやってきたんです」
ここにいう感動を「美」と言い換えてもいい。
小林秀雄の文章は、難しいけど、そこにはある種の美が感じられる。
それは、誰にも書けない小林秀雄特有のものです。
そして、小林秀雄が繰り返し言っているのは、文章からはじめたのではなく、最初に感動があるということです。
これはどういうことなんでしょうか?
道に一輪の花が咲いていますよね。その花を美しいと感じる。心が動かされる。
道を歩いていると、真っ赤な夕日が見える。その夕日に感動する。
まず、感動があります。心の中に美しいと感じる何かがある。
僕たちは、その感動を掴まえて、固定したいんです。なぜか?
好きな人に「私、あのときすごくキレイな花を見たんだよ」って伝えたいからです。
心の中にある感動を、愛する人に伝えたいからです。
じゃあ、その美しさをどう伝えますか? 写真があれば写真を撮るかもしれません。
写真もただ撮るだけではなく、美しさをきちんと表現できていないといけません。
もし、写真がなければ、絵を描きますよね。絵もきちんと美しさが伝わるように描かなくてはいけません。
このように、感動を、美を、人に伝えていくのが、芸術です。
だから、先に感動がなければいけないんです。
心のなかに、美しさを感じなければ、芸術は生まれません。
そして、それを伝えたい誰かがいなければ、芸術は不完全なものになるでしょう。
愛のないところでは、本当の芸術は育たないんですね。