小林秀雄の講演で、柳田国男の「山の人生」という本の話が出てくる。それを紹介しよう。
西美濃の山の中に炭焼の男がいた。
女房はとっくに死んで、あとに13歳の男の子がいた。
そして、同じくらいの歳の女の子をもらってきて、炭焼小屋に一緒に暮らしていた。
ある日、里へ降りても、炭が売れず、一合の米も手に入らなかった。
飢えて食べ物を待っている子どもたちが不憫で、小屋の奥に入ってこっそり昼寝していた。
時は秋の末で、目が覚めると、小屋いっぱいに夕日が差していた。
二人の子どもがしゃがんで斧を研いでいた。
「おとう、これで私たちを殺してくれ」と男の子が言った。
そして、入り口の材木を枕にして、二人は仰向けに寝たそうだ。
男は、クラクラして、前後の考えもなく、二人の首を斧で打ち落としてしまった。
それで、自分は死ぬことができなくて、警察に捕まって牢に入れられた。
男が60近くになり、特赦を受けて、世の中に出てきた。
この話を読んで、どう思いましたか?
僕は、腹が立ちました。なんで子どもを殺さなければならないんだ。
かわいそうだし、あまりにも身勝手じゃないかと。
でも、小林秀雄は違うんです。全然違うとらえ方をする。
子供の視点から話を読むんです。
なぜ、子どもが斧を研いで、自ら「殺してくれ」と言ったのか?と問うのです。
僕も、一週間くらい山に入ることがありました。本当に厳しい世界です。
僕は十分な食べ物と熱源(ガス)を持っていました。
もし、それがなければ、簡単に死んでいたでしょう。
僕の知識では、山の中で食べ物を得ることはできませんから。
炭焼ってすごい重労働です。それに加え、山を下って里に降りなければならない。
それで一合ポッキリの米です。それを、三人で分ける。
生きていくには、あまりにも厳しい現実がそこにあります。
食い扶持を減らさなくては、つまり、誰かが死ななければ、生きていけないわけです。
現在の価値観から話を読んではいけないと小林秀雄はいいます。
それを間違えると、子どもたちの美しい魂を見逃してしまう。
子どもたちは、父親を愛するがゆえに、自分たちを犠牲にしたのです。
美しい自己犠牲の精神です。
「美しい魂」に触れるということは、それなりの見識が必要とされるのでしょうね。
僕は、この話を読んだとき、子どもたちの気持ちがまったく分かりませんでした。
さすが、小林秀雄といったところでしょうか。
そして、彼は死んだあとの子供たちの魂の存在を信じています。
それが、客観的に、科学的に正しいかどうかは別として。
ただ、それを信じている。
小林秀雄 講演 信じることと知ること