素晴らしいドキュメンタリー。僕は、泣き続けながら観た。来月、映画館で上映が決まった。絶対、観て欲しい。http://wwwz.fujitv.co.jp/ichioshi06/061103nakinagara/index2.html
1989年、ある中国人男性が上海から日本へ渡ってきた。丁 尚彪(てい しょうひょう)さん。上海の街角で、とある日本語学校のパンフレットを目にしたのだ。そこには入学金と半年分の授業料、合わせて42万円と書かれてあった。それは、中国では夫婦二人が15年間働き続けなくては得ることのできない多額のお金。知り合いに頼み込んで借金をし、その年の6月、当時35歳だった丁さんは日本へと渡ってきたのだった。
丁さんは、文化大革命の嵐の中で育ち、学びたくても学ぶことのできない時代を生きてきた。日本語学校で学んだ後は、日本の大学へ進学することを目指していた。中国にいては果たすことのできない人生の再出発に賭けていたのだ。
しかし、丁さんが目指した日本語学校のあった場所は、北海道の阿寒町に位置する過疎化が進む町。働きながら借金を返して勉強をしていくつもりが、借金を返すどころか、仕事すらない。かつて炭鉱で栄えたこの町は、過疎化を打開したいという町の事情と思惑から、町民のかわりに中国人を入れればいい、と日本語学校が誘致されたのだ。
それでも、丁さんは借金を返さなければならない。このまま上海へ帰るわけにはいかなかった。覚悟を持って阿寒町を脱出し、列車を乗り継いで東京へ。しかし入国管理局は、“阿寒脱出者”にビザの更新を認めなかった。丁さんは、やむなく不法滞在者の身となってしまう。しかし不法滞在者になっても借金は返さなければならない。帰国したら再入国はできないため、東京で必死に働き続けた。そして再出発への希望が消えた丁さんは、自分が果たすことのできない夢を一人娘に託そうと決意する。娘を何としても海外の一流大学へ留学させたい。見つかれば即座に強制送還という身でありながら、借金を返し終えた後も、丁さんは東京で働き続けた。働いたお金はすべて上海の妻子へと送金した。
取材班が丁さんと出会ったのは、今から10年前の1996年。丁さん42歳、来日7年目の春のことだった。もちろん、7年間、中国へは一度も帰らず、3つの仕事をこなしながら都電が走る傍の豊島区の古い木造アパートで生活していた。壁には7年前に別れた、当時小学校4年生だった娘の写真。
年が明けて、1997年2月。取材班は丁さんの家族を訪ねるため、東京で働く丁さんの様子を撮影したVTRを持参して上海へ。そこには8年ぶりに見る夫の姿、8年ぶりに見る父親の姿が映っていた。娘の名前は、丁 琳(てい りん)。中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生。大学受験が目前にせまる中、アメリカへ渡り医者になりたいという夢を持っていた。それから半年後に、ニューヨーク州立大学に合格し、アメリカ留学が決定した。
出発の日の朝、上海空港で一人去っていく娘の後姿に、母親は号泣した。琳さんを乗せた飛行機はニューヨークへ向かう途中、東京で24時間のトランジットがあった。その24時間を使って、8年ぶりに父と娘は再会することになった…。
※ 丁 琳さん (てい りんさん) は、正確には 『 日ヘンに林 』 と表記します。この字は日本語にはないため、ここでは 「 琳 」 と表記させていただいています。
1989年、ある中国人男性が上海から日本へ渡ってきた。丁 尚彪(てい しょうひょう)さん。上海の街角で、とある日本語学校のパンフレットを目にしたのだ。そこには入学金と半年分の授業料、合わせて42万円と書かれてあった。それは、中国では夫婦二人が15年間働き続けなくては得ることのできない多額のお金。知り合いに頼み込んで借金をし、その年の6月、当時35歳だった丁さんは日本へと渡ってきたのだった。
丁さんは、文化大革命の嵐の中で育ち、学びたくても学ぶことのできない時代を生きてきた。日本語学校で学んだ後は、日本の大学へ進学することを目指していた。中国にいては果たすことのできない人生の再出発に賭けていたのだ。
しかし、丁さんが目指した日本語学校のあった場所は、北海道の阿寒町に位置する過疎化が進む町。働きながら借金を返して勉強をしていくつもりが、借金を返すどころか、仕事すらない。かつて炭鉱で栄えたこの町は、過疎化を打開したいという町の事情と思惑から、町民のかわりに中国人を入れればいい、と日本語学校が誘致されたのだ。
それでも、丁さんは借金を返さなければならない。このまま上海へ帰るわけにはいかなかった。覚悟を持って阿寒町を脱出し、列車を乗り継いで東京へ。しかし入国管理局は、“阿寒脱出者”にビザの更新を認めなかった。丁さんは、やむなく不法滞在者の身となってしまう。しかし不法滞在者になっても借金は返さなければならない。帰国したら再入国はできないため、東京で必死に働き続けた。そして再出発への希望が消えた丁さんは、自分が果たすことのできない夢を一人娘に託そうと決意する。娘を何としても海外の一流大学へ留学させたい。見つかれば即座に強制送還という身でありながら、借金を返し終えた後も、丁さんは東京で働き続けた。働いたお金はすべて上海の妻子へと送金した。
取材班が丁さんと出会ったのは、今から10年前の1996年。丁さん42歳、来日7年目の春のことだった。もちろん、7年間、中国へは一度も帰らず、3つの仕事をこなしながら都電が走る傍の豊島区の古い木造アパートで生活していた。壁には7年前に別れた、当時小学校4年生だった娘の写真。
年が明けて、1997年2月。取材班は丁さんの家族を訪ねるため、東京で働く丁さんの様子を撮影したVTRを持参して上海へ。そこには8年ぶりに見る夫の姿、8年ぶりに見る父親の姿が映っていた。娘の名前は、丁 琳(てい りん)。中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生。大学受験が目前にせまる中、アメリカへ渡り医者になりたいという夢を持っていた。それから半年後に、ニューヨーク州立大学に合格し、アメリカ留学が決定した。
出発の日の朝、上海空港で一人去っていく娘の後姿に、母親は号泣した。琳さんを乗せた飛行機はニューヨークへ向かう途中、東京で24時間のトランジットがあった。その24時間を使って、8年ぶりに父と娘は再会することになった…。
※ 丁 琳さん (てい りんさん) は、正確には 『 日ヘンに林 』 と表記します。この字は日本語にはないため、ここでは 「 琳 」 と表記させていただいています。