キャンディーズ(Candies)は、1970年代の日本のアイドル歌手グループである。ラン(伊藤蘭、1955年1月13日 - )、スー(田中好子、1956年4月8日 - )、ミキ(藤村美樹、1956年1月15日 - )の3人組。渡辺プロダクション所属。多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版社員であった松崎澄夫(元アウト・キャスト)のプロデュースによるものである。
年表
1973年9月1日、「あなたに夢中」でデビュー。
1975年12月31日、紅白歌合戦初出場。
1977年7月17日、解散宣言。
1978年4月4日、解散。
略歴
3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。1972年NHKの新番組「歌謡グランドショー」のマスコットガールに3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「キャンディーズ」と名付けられた。翌年1973年歌手デビュー。
デビュー前から人気バラエティ番組「8時だョ!全員集合」にレギュラー出演するも、しばらくはヒット曲に恵まれなかった。当時の人気アイドルは妹的イメージで売り出すことが多く、キャンディーズも初めはハイトーンボーカルのスーをセンターでメインボーカルに起用し、この路線で売っていたが期待したほど売れず、5枚目のシングル「年下の男の子」(1975年発売)で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターのランをセンターでメインボーカルに据えて前面に出し、これが当たって初ヒットとなった。以降のシングルでは、「わな」がミキのセンターである以外はすべてランがセンターを務めた。ランをセンターに据えたのは当時のマネージャーである諸岡義明の提案によるものである。
その後も、個性の違う3人という組み合わせや、「8時だョ!全員集合」や、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により幅広い人気を獲得した。
遅れてデビューしたピンク・レディーとはライバルともいえる関係になったが、デビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を獲得したピンクレディーに対し、レコード売り上げ等は劣勢だった。
1976年に入った頃には全員楽譜が読め、コーラスなどにも積極的に取り組むなど音楽レベルも向上。さらにはメンバーの作詞作曲による作品も多く、当時のアイドルシーンには珍しく音楽に対して前向きに取り組んでいた。後期のアルバム『早春譜』に至っては、作曲こそプロ作家との合作であったものの、全曲メンバーオリジナル(伊藤蘭名義7曲、藤村美樹名義7曲、田中好子名義6曲)による作品であった。
人気絶頂時の1977年に突如解散を発表。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートでの発言「普通の女の子に戻りたい」は非常に有名で、流行語になっている。3人は1977年9月末で解散する意思を固めていたが、事前に所属事務所の正式な了承を得ずに発表したこともあり、事務所の説得と話し合いの末、解散は半年間先送りされることになった。
この解散発表によってキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では初めてオリコン1位を獲得した。このためキャンディーズは解散によって人気を盛り上げたと言える。
1978年4月4日、後楽園球場に5万5千人を集めての解散コンサートが行われ、4年半の活動に終止符を打った。この模様は全国にテレビで中継され、高視聴率を獲得している。最後に述べた「私たちは幸せでした」の口上も有名。その後は一度も再結成をしていない(この点では事務所の先輩であったザ・ピーナッツも同じである)。
解散後
3人とも芸能界に復帰していた時期があった。
伊藤蘭は、俳優水谷豊と結婚。現在は女優として活動中。
田中好子は、復帰後ソロでの音楽活動を行いシングル「カボシャール」などをリリースしたが、現在はおもに女優として活動中。既婚。
藤村美樹は1983年にソロ歌手として期間限定で復帰し、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表、マスコミにも取りあげられ、ザ・トップテンにも10位にランクインしスマッシュヒットとなった。以降、芸能界の表舞台には出てきていない。復帰当時実業家と婚約中で後に結婚。
音楽
シングル
発売順 A面タイトル 発売日 作詞 作曲 備考
1 あなたに夢中 1973.9.1 山上路夫 森田公一
2 そよ風のくちづけ 1974.1.21 山上路夫 森田公一
3 危い土曜日 1974.4.21 安井かずみ 森田公一
4 なみだの季節 1974.9.21 千家和也 穂口雄右
5 年下の男の子 1975.2.21 千家和也 穂口雄右 キャンディーズ初のBEST10入り
6 内気なあいつ 1975.6.1 千家和也 穂口雄右
7 その気にさせないで 1975.9.1 千家和也 穂口雄右
8 ハートのエースが出てこない 1975.12.5 竜真知子 森田公一
9 春一番 1976.3.1 穂口雄右 穂口雄右
10 夏が来た! 1976.5.31 穂口雄右 穂口雄右
11 ハート泥棒 1976.9.1 林春生 すぎやまこういち
12 哀愁のシンフォニー 1976.11.21 なかにし礼 三木たかし
13 やさしい悪魔 1977.3.1 喜多条忠 吉田拓郎
14 暑中お見舞い申し上げます 1977.6.21 喜多条忠 佐瀬壽一
15 アン・ドゥ・トロワ 1977.9.21 喜多条忠 吉田拓郎
16 わな 1977.12.5 島武実 穂口雄右
17 微笑がえし 1978.2.25 阿木燿子 穂口雄右 事実上のラストシングル、有終の美を飾りNo.1獲得
18 つばさ 1978.11.21 伊藤蘭 渡辺茂樹 キャンディーズの意向に反して発売されたもの
アルバム
発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 あなたに夢中 / 内気なキャンディーズ 1973.12.5 12
2 危い土曜日 / キャンディーズの世界 1974.6.21 12
3 なみだの季節 1974.12.10 12
4 年下の男の子 1975.4.21 12
5 その気にさせないで 1975.10.1 12
6 Candies' Carnival For 10000 People 1975.12.21 10 1975.10.19 蔵前国技館LIVE
7 春一番 1976.4.1 12
8 夏が来た! 1976.7.21 12
9 キャンディーズ・ライブ 1976.12.5 18 1976.10.11 蔵前国技館LIVE
10 1 1/2 1977.4.21 18 2枚組
11 Candy Label 1977.9.1 16 2枚組
12 1676 DAYS 1977.12.5 58 5枚組
13 早春譜 1978.3.21 20 2枚組
14 FINAL CARNIVAL Plus One 1978.5.21 39 1978.4.4 後楽園球場LIVE、3枚組
レギュラー番組
8時だョ!全員集合 (TBS系)
みごろ!たべごろ!笑いごろ! (NET→テレビ朝日系)
レッツゴーヤング (NHK)
GOGO キャンディーズ (文化放送)
CM出演
旭化成 レオナ66
ハウス食品 ククレカレー
森永製菓 チョコフレーク、他
三洋電機 カラーテレビ、エアコン
TDK カセットテープ
エピソード等
引退までの期間に全国をコンサートツアーした。これはいわゆる引退記念興行路線であり、これは後の山口百恵を始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(この形式での興行は1975年のザ・ピーナッツが最初と言われる)。リリースするレコードも刻々と迫る引退を視野に入れた内容になっていった(「微笑がえし」はその例である)。この時、ずっとメインボーカルの機会がなかったミキに、1曲のみとはいえメインの座が与えられた。
キャンディーズの妹分として結成されていたキャンディーズjrというグループがあったが(同じ事務所)、キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったとして、キャンディーズ解散後にトライアングルに改名する一幕もあった。
日本初の、全国組織型ファンクラブ(全日本キャンディーズ連合(略称・「全キャン連」))を持ったアイドルとしても知られる。
同一事務所に所属していた太田裕美もキャンディーズのオーディションに参加しており、メンバーになる可能性もあった。もし実現していれば、ラン・スー・ミキに倣って「ヒロ」と呼ばれていたであろうと言われている。
同一事務所に所属していたザ・ピーナッツから衣装をプレゼントされたが、2着しかなかったのでもう1着をザ・ピーナッツ側が作成して用意したという逸話もある。
アイドルではあったが女性人気も高くファッションリーダー的な面もあり当時はポルノの女優までもが髪型を真似ていた。当時のファンには学生運動崩れの武闘派も多数いたという。
僕は「ミキちゃん」が好きだった。高校に行く道の途中に「ミキちゃんの親戚」の家があり、いつか「ミキちゃん」に会えないかなぁ~と夢みていた。
年表
1973年9月1日、「あなたに夢中」でデビュー。
1975年12月31日、紅白歌合戦初出場。
1977年7月17日、解散宣言。
1978年4月4日、解散。
略歴
3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。1972年NHKの新番組「歌謡グランドショー」のマスコットガールに3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「キャンディーズ」と名付けられた。翌年1973年歌手デビュー。
デビュー前から人気バラエティ番組「8時だョ!全員集合」にレギュラー出演するも、しばらくはヒット曲に恵まれなかった。当時の人気アイドルは妹的イメージで売り出すことが多く、キャンディーズも初めはハイトーンボーカルのスーをセンターでメインボーカルに起用し、この路線で売っていたが期待したほど売れず、5枚目のシングル「年下の男の子」(1975年発売)で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターのランをセンターでメインボーカルに据えて前面に出し、これが当たって初ヒットとなった。以降のシングルでは、「わな」がミキのセンターである以外はすべてランがセンターを務めた。ランをセンターに据えたのは当時のマネージャーである諸岡義明の提案によるものである。
その後も、個性の違う3人という組み合わせや、「8時だョ!全員集合」や、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により幅広い人気を獲得した。
遅れてデビューしたピンク・レディーとはライバルともいえる関係になったが、デビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を獲得したピンクレディーに対し、レコード売り上げ等は劣勢だった。
1976年に入った頃には全員楽譜が読め、コーラスなどにも積極的に取り組むなど音楽レベルも向上。さらにはメンバーの作詞作曲による作品も多く、当時のアイドルシーンには珍しく音楽に対して前向きに取り組んでいた。後期のアルバム『早春譜』に至っては、作曲こそプロ作家との合作であったものの、全曲メンバーオリジナル(伊藤蘭名義7曲、藤村美樹名義7曲、田中好子名義6曲)による作品であった。
人気絶頂時の1977年に突如解散を発表。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートでの発言「普通の女の子に戻りたい」は非常に有名で、流行語になっている。3人は1977年9月末で解散する意思を固めていたが、事前に所属事務所の正式な了承を得ずに発表したこともあり、事務所の説得と話し合いの末、解散は半年間先送りされることになった。
この解散発表によってキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では初めてオリコン1位を獲得した。このためキャンディーズは解散によって人気を盛り上げたと言える。
1978年4月4日、後楽園球場に5万5千人を集めての解散コンサートが行われ、4年半の活動に終止符を打った。この模様は全国にテレビで中継され、高視聴率を獲得している。最後に述べた「私たちは幸せでした」の口上も有名。その後は一度も再結成をしていない(この点では事務所の先輩であったザ・ピーナッツも同じである)。
解散後
3人とも芸能界に復帰していた時期があった。
伊藤蘭は、俳優水谷豊と結婚。現在は女優として活動中。
田中好子は、復帰後ソロでの音楽活動を行いシングル「カボシャール」などをリリースしたが、現在はおもに女優として活動中。既婚。
藤村美樹は1983年にソロ歌手として期間限定で復帰し、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表、マスコミにも取りあげられ、ザ・トップテンにも10位にランクインしスマッシュヒットとなった。以降、芸能界の表舞台には出てきていない。復帰当時実業家と婚約中で後に結婚。
音楽
シングル
発売順 A面タイトル 発売日 作詞 作曲 備考
1 あなたに夢中 1973.9.1 山上路夫 森田公一
2 そよ風のくちづけ 1974.1.21 山上路夫 森田公一
3 危い土曜日 1974.4.21 安井かずみ 森田公一
4 なみだの季節 1974.9.21 千家和也 穂口雄右
5 年下の男の子 1975.2.21 千家和也 穂口雄右 キャンディーズ初のBEST10入り
6 内気なあいつ 1975.6.1 千家和也 穂口雄右
7 その気にさせないで 1975.9.1 千家和也 穂口雄右
8 ハートのエースが出てこない 1975.12.5 竜真知子 森田公一
9 春一番 1976.3.1 穂口雄右 穂口雄右
10 夏が来た! 1976.5.31 穂口雄右 穂口雄右
11 ハート泥棒 1976.9.1 林春生 すぎやまこういち
12 哀愁のシンフォニー 1976.11.21 なかにし礼 三木たかし
13 やさしい悪魔 1977.3.1 喜多条忠 吉田拓郎
14 暑中お見舞い申し上げます 1977.6.21 喜多条忠 佐瀬壽一
15 アン・ドゥ・トロワ 1977.9.21 喜多条忠 吉田拓郎
16 わな 1977.12.5 島武実 穂口雄右
17 微笑がえし 1978.2.25 阿木燿子 穂口雄右 事実上のラストシングル、有終の美を飾りNo.1獲得
18 つばさ 1978.11.21 伊藤蘭 渡辺茂樹 キャンディーズの意向に反して発売されたもの
アルバム
発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 あなたに夢中 / 内気なキャンディーズ 1973.12.5 12
2 危い土曜日 / キャンディーズの世界 1974.6.21 12
3 なみだの季節 1974.12.10 12
4 年下の男の子 1975.4.21 12
5 その気にさせないで 1975.10.1 12
6 Candies' Carnival For 10000 People 1975.12.21 10 1975.10.19 蔵前国技館LIVE
7 春一番 1976.4.1 12
8 夏が来た! 1976.7.21 12
9 キャンディーズ・ライブ 1976.12.5 18 1976.10.11 蔵前国技館LIVE
10 1 1/2 1977.4.21 18 2枚組
11 Candy Label 1977.9.1 16 2枚組
12 1676 DAYS 1977.12.5 58 5枚組
13 早春譜 1978.3.21 20 2枚組
14 FINAL CARNIVAL Plus One 1978.5.21 39 1978.4.4 後楽園球場LIVE、3枚組
レギュラー番組
8時だョ!全員集合 (TBS系)
みごろ!たべごろ!笑いごろ! (NET→テレビ朝日系)
レッツゴーヤング (NHK)
GOGO キャンディーズ (文化放送)
CM出演
旭化成 レオナ66
ハウス食品 ククレカレー
森永製菓 チョコフレーク、他
三洋電機 カラーテレビ、エアコン
TDK カセットテープ
エピソード等
引退までの期間に全国をコンサートツアーした。これはいわゆる引退記念興行路線であり、これは後の山口百恵を始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(この形式での興行は1975年のザ・ピーナッツが最初と言われる)。リリースするレコードも刻々と迫る引退を視野に入れた内容になっていった(「微笑がえし」はその例である)。この時、ずっとメインボーカルの機会がなかったミキに、1曲のみとはいえメインの座が与えられた。
キャンディーズの妹分として結成されていたキャンディーズjrというグループがあったが(同じ事務所)、キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったとして、キャンディーズ解散後にトライアングルに改名する一幕もあった。
日本初の、全国組織型ファンクラブ(全日本キャンディーズ連合(略称・「全キャン連」))を持ったアイドルとしても知られる。
同一事務所に所属していた太田裕美もキャンディーズのオーディションに参加しており、メンバーになる可能性もあった。もし実現していれば、ラン・スー・ミキに倣って「ヒロ」と呼ばれていたであろうと言われている。
同一事務所に所属していたザ・ピーナッツから衣装をプレゼントされたが、2着しかなかったのでもう1着をザ・ピーナッツ側が作成して用意したという逸話もある。
アイドルではあったが女性人気も高くファッションリーダー的な面もあり当時はポルノの女優までもが髪型を真似ていた。当時のファンには学生運動崩れの武闘派も多数いたという。
僕は「ミキちゃん」が好きだった。高校に行く道の途中に「ミキちゃんの親戚」の家があり、いつか「ミキちゃん」に会えないかなぁ~と夢みていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます