お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「冗談じゃない!」(TBS)を観た。

2007年04月15日 | テレビ番組
織田裕二、久々の主演ドラマだが、僕は上野樹里ファンとして観た。脚本は伴一彦。大竹しのぶが出ているのだが、この三人の関係性とドラマのテンポが良かった。拡大版の第一話だったが、「どうなるの・・・どうなるの・・・」と思っているうちに、エンドロールが出ていた。来週も観よう。

冗談じゃない! (出演 織田裕二、上野樹里)



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内容(「BOOK」データベースより)
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強烈なキャラクターの音大生たちがクラシック音楽に真摯(しんし)に向き合う姿をギャグ満載に描いたそのギャップ感が意表を突く、音楽ドラマの快作。音楽一家に育った千秋真一(玉木宏)は桜ヶ丘音楽大学のピアノ科に在籍しながらも、密かに指揮者を目指している。しかし、子どもの頃のトラウマから飛行機にも船にも乗れないため、ヨーロッパに留学して音楽を学ぶ道は閉ざされている。絶望にさいなまれるままに泥酔してしまった千秋はその翌日、気まぐれに歌うようなピアノの音色に惚れ惚れと目覚めるが、意識が鮮明になってくるとそこはゴミ溜めと化した同じくピアノ科の後輩・野田恵、通称のだめ(上野樹里)の部屋だった。
それぞれに個性の強い演奏者たちが一堂に会するのがクラシックのオーケストラ。そんな誇り高き面々と独裁者たる指揮者がぶつかり合う場ゆえに、オーケストラのリハーサルはめっぽうおもしろい。当然、世界的巨匠・フランツ・シュトレーゼマン(竹中直人)が選りすぐりの風変わりな学生たちを選抜して組織したSオケを、千秋が指揮することになる展開がおもしろくないはずがないのである。

実写の強みをフルに生かしたクラシック音楽の魅力は全編に散りばめられており、コミック的な映像処理をほどこしたドタバタやベタギャグがどれだけ連打されようとも、音楽はすばらしいという世界観が揺らぐことがないのは頼もしい限り。ドラマ中のBGMが基本的にクラシックのみという徹底ぶりも潔い。とりわけ、テーマ曲としてベートーヴェンの交響曲第7番をピックアップしているところが、まさにこの作品のスタンスを物語っている。つまり標題のある「運命」や「第九」といった有名曲に比肩する名曲をドラマの中心に据えているのだから、クラシックになじみのない視聴者へのフレッシュなインパクトはいっそう強いはずだ。この物語が非クラシックファンへのクラシックの訴求を任としているとすれば、これほどに真っ当な選択肢はないのである。

コンスタントに奇声を発するその日常ともども、エキセントリックなまでにピアノに熱狂するその弾き姿が天才肌のそれっぽくて説得力満点なのだめ役の上野樹里と、ひやっとするほどにクールな千秋役の玉木宏とのバランスも絶妙。クラシック音楽とコミカルな笑いとを融合させた大変貴重なドラマである。なお、第1話には千秋の音楽の恩師・指揮者のセヴァスチャーノ・ヴィエラ役で、人気指揮者のズデニェク・マーツァルが登場する。(麻生結一)

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久光製薬、5季ぶりの優勝 バレーのプレミア女子

2007年04月15日 | 健康・スポーツ
JTをフルセットの末に破り、優勝を決めて大喜びする久光製薬チーム=さいたまスーパーアリーナ
 バレーボールのプレミアリーグ決勝ラウンド最終日は15日、さいたまスーパーアリーナで女子の決勝を行い、久光製薬(レギュラーリーグ1位)がJT(2位)をフルセットの末に退け、5シーズンぶり2度目の優勝を果たした。

 久光は初優勝を狙うJTの好サーブに苦しんだが、成田と佐野らを中心とした粘り強い守りから攻勢に転じた。第5セットは狩野の好打と成田のブロックなどで突き放した。先野が2度目の最高殊勲選手に選ばれた。

 真鍋政義監督は男子の新日鉄を優勝に導いており、日本女子を率いる柳本晶一氏に続く男女での優勝監督となった。

 3位決定戦はパイオニア(4位)が武富士(3位)を3-1で下した。



昨季の悔しさばねに

 長いラリーの末に大村が鮮やかな速攻を決め、久光製薬がリーグ制覇につながる最後の1点を奪った。JTの好サーブに守備を乱されても、セッター橋本がベテランを使い、持ち前の多彩な攻めを最後まで繰り出した。

 レギュラーリーグから安定した成績を残した要因の一つに、悔しさがあった。昨季の決勝でパイオニアに敗れた思いをばねにした。真鍋監督は「この1年は4月15日に勝って(地元の)神戸に帰ることが合言葉だった」とうれしさに浸った。

 技術面では堅守からの幅広い攻めがあり、堅実な選手育成も見逃せない。今季、22歳の橋本が正セッターになった。アタッカーが豊富なチームの中で不安視されたポジションだったが、日本男子で長く司令塔を務めた真鍋監督がつきっきりで指導した。

 コート内外で多くの助言を与えた成田は「今季初めてレギュラーになった若手を伸び伸びやらせたかった」と気遣った。急成長した橋本は「周りの助けに感謝しています」と笑った。

 バレーで最も経験が必要とされるセッターを育成しつつ好結果を出した。2季目の真鍋監督は「自分で育てて勝てたことが非常にうれしい」と顔をほころばせた。

(2007/04/15 産経新聞より)



5セットに及ぶ激闘で、どちらのチームもボールに喰らいついていっていた。僕はJTを応援していたが、とっても興奮し、感動した。
大山加奈が故障でほとんど出場できず、木村と荒木、始め、チームが一つになり、頑張っていた「東レアローズ」に決勝ラウンド進出して欲しかったが、来年に期待しよう。

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「運」の量は決まってはいないだろうか・・・

2007年04月15日 | エッセイ・日記・意見
1981年、僕は就職先にある「旅行代理店」が「内定」していた。当時、4年生の10月1日が「就職活動」の表向きの解禁日で、しかしながら、「内定」はその前に出て、10月1日~3日、企業に拘束されるという大学生から見れば「売り手市場」だった。

その年の夏休み、大学の同級生と福井県小浜の方の海水浴場に遊びに行き、2日間で3回も「役満」をあがってしまった。そして、9月のある日、大学の最寄り駅で降りたら、お腹が痛くなり、駅前のパチンコ屋でトイレを借り、借りっぱなしも悪いので、「アレンジボール(16個のランプの縦横一列を並べるとコインが出てくる)」をやったら、フィーバー。9月だけで8~9回フィーバーする事になる。つまり、行けばフィーバーしていたのだ。そこで「自分の運」を使い果たしたのだろうか、10月3日に内定取り消しになってしまった。別に僕が悪い事を何かした訳ではない。その後、NHKを受けて落ち、僕は「ゼミの単位」を落として貰い、就職浪人する事になった。

一週間に1コマだけのゼミに行き、「家庭教師のバイト」以外は「家に引き籠っていた」。

1982年2~3月にかけて、僕は27日間の「学生ツアー」に参加した。元々、海外など自分が行けると思っていなかったのだが、同級生4人がそのツアーに申し込み、そのうち1人がどうしても「決まった会社の行事」と重なり行けなくなった。学生ツアーなので、ホテルの部屋はツイン。3人だと、知らない大学生と一緒になる事を嫌ったと同級生が僕を誘ってくれたのだった。親に就職したら、旅行代金は返済するという事で、僕の初めての海外旅行が決まった。

エジプト→ギリシャ→イタリア→オーストリア→西ドイツ→スイス→オランダ→ベルギー→フランス→イギリスと、同じ年齢の男女20数名が旅をした。旅行の直前、日航機が羽田空港で逆噴射して事故を起こしたり、ホテルニュージャパンが消失する火災があったりして、ちょっと不安になったりもした。

旅行に行く前、かなりふさぎ込んでいた僕を見かねて、「家庭教師以外のバイト」にも行ってみたらという事で西宮にあった「新明和工業」で「小型ダンプカーの油圧機」を製造する工場でアルバイトする事になった。「新明和工業」の下請けをやっていた「山田工業」という山田さんというおじさんが一人でやっている仕事場だった。12個がひとかたまりで、電動ねじ回しでねじを締めたり、ゴムのパッキンを油まみれになりながら取り付けたりしていった。昼ごはんは「会社の食堂」。メニューは日替わり定食しか無く、午前中、電動ねじ回しで痺れた手で、ご飯のお椀を持とうとして床に落とし、辛い目にもあった。社長の山田さんに聞くと、「競馬に溺れて借金まみれになり、会社を辞めていく人」など、結構人の出入りが多いとの事。山田さんもお子さん(女の子)が生まれたてで、可愛くてしょうがないみたいだったが、医者からお酒を飲み続けていると、あと半年の命と言われていた。それでも、給料日には西宮のスナックに行き、そのまま店の女の子を連れて神戸・三宮まで繰り出していたというから、仕事のストレスが強かったのだろう。あれから25年以上が過ぎ、山田さんも、あの時、まだ生まれたてだった女の子も元気だろうか?何年か前、工場のあったところを通ったら、工場そのものが無くなって「更地」になっていた。

ヨーロッパ旅行の友達とはクリスマス・カードや年賀状のやり取りをしている位だろうか?

翌年の1983年、僕は今のテレビ局に入った。
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