思考の踏み込み

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蔵六6

2013-12-10 20:48:21 | 
堂々と生きるには文化が必要である、という言葉はこうして理解することができる。
ただより表現を正確にするならば、"正当な" とか "連続性のある" という前文が必要になる。



不可分なものである文化はどんな時代であってもその民族にはついてまわるから無くなりはしないが、連続性や正統性は失われることがある。

特にワンワールドを目論む勢力にとって文化は邪魔らしい。
これは一人日本だけの問題ではない。世界中で文化の問題が起きていることを知るべきだろう。

我々日本人は近現代において、世界史の潮流に有無を言わさず巻き込まれ、混乱のまま、あわてて自ら纏っていたものを脱ぎ捨て、違うモノを纏おうと努力してきた。

世界はこれを長い間、猿真似だと笑ったが当時の状況としては止むを得ない選択だったと思う。
それはその後の世界各国の変化をみてみれば明らかであろう。



むしろ、明らかな違和感を日本人自らが一番感じていながら、それを先駆けて纏い続けた近代日本人の可憐さを、せめて後世の同民族である現代の我々は知ってやらねばならない。

中には彼らの "猿真似" と揶揄された行為によって、日本は "文化" を断絶してしまった、と嘆く声もある。
あるいは非常に頭の良い、一部の世界史を動かし得る程の権力者が、日本人が文化的背景をバックボーンにした時の恐ろしさに気づき、その背景を断絶させる陰謀があったとみる意見もある。

いずれもある程度真実であろう。

蔵六5

2013-12-10 18:33:55 | 
そもそも尊厳とか侵されざるモノとかいったことは全て相手があって成り立つものだ。
従ってその相手と対峙したとき、全存在を掛けて闘う気迫があれば何人もその尊厳を侵し得ない。



ではその尊厳や誇りが文化とどういった関係があるのだろうか?

正統性のある連続的な文化的環境に無意識の内に暮らす者には、その環境はむしろ邪魔臭くて重苦しいだけのモノであるかもしれない。

しかし一歩その外に出た者は無意識の中で纏っていたその環境も含めて自分を形作っている、という事に気づかされる。

それは他者の存在を知り初めて気付くことであろう。
つまり、別なモノを纏った者に出会う事でようやく自分の纏っているものに気付くのである。

この時、当然その差異に心は動く。
あるいは相手のモノが素晴らしく見え、それを纏いたいと思うかもしれない。
この時それが 「文明」であれば、誰にでも纏える様に作られているから問題はない。

しかし、厄介なことに 「文化」はその文化を生み出した人々にしか "似合わない" ようにできている。


こうして人間はただの環境 (物理的空間) に過ぎないと思っていた文化的環境が、あたかも生まれてから死ぬまで、自らについてまわる "影" の様に、その身体と不可分の関係にある事に向き合わされるのである。



そのときに強いショックを受ける者もいれば、強烈に誇りを抱く者もあるだろう。もちろん何も感じない人間もいる。あるいは"似合わない" ことに気づかずに他の真似をして悦に入るものもいる。

だがいずれにせよ、それが自らの身体と切り離せないものである以上、それについて誇りをもっている者の方が無いものより堂々とできるという事は間違いないだろう。


蔵六4

2013-12-10 12:27:59 | 
大村益次郎という人物がかつて居た。

あらゆる日本史的風景の中で、彼とその周辺の景色は自分にとって最も好きなものの一つである。



しかしせっかくなので彼について触れる前に文化と誇りについてしっかりと考えてみたい。

堂々と生きるためには文化が必要である、という。
このことはよくわかる。
しかし何故だろうか?

個人の人格や自信と、民族的な文化的背景とどんな関係性があるというのか。

堂々と生きるということは人間としての尊厳と誇りを持つということであろう。
誇り= プライドとは尊厳を持つからこそ生まれる感情であろう。
では尊厳とは何か?
他者が容易に侵し得ないもののことである。果たしてその正体は何か?
まだ核心から遠い。

例えば、いじめられてばかりいる子が何らかの事で、ある自信を持つとする。そうするとその子には一つの侵し難いモノが生まれ、いじめは止む。

こうしたことはよくあることだ。
それは単なる力関係の上下の問題ではない。
非力な者でもある気迫を備えていればその尊厳は侵されることはない。

これは国家間の外交で考えるとわかりやすい。国際社会において発言力の強い国に必要な条件はいつの時代も軍事力とそれを支える経済力である。



つまり戦える能力と意思である。その是非はともかく、小国であってもこれは同じであろう。
確固たる尊厳を持った国であれば、他国に容易に侵されることはないはずである。それはこれからの時代、軍事と経済の強化ばかりではなく、文化の質に寄り添って行われるべきである。

蔵六3

2013-12-10 12:06:36 | 
つまり、それだけの人材が日本史には
"居た" という事をこの歴史家の言葉から読み取れる。

偏りのない角度から歴史を捉えうる者であればこんな事は当たり前のことなのだが、その当たり前のことを当たり前に捉えられない時代が長く続いた。

それほどにこの島国の外からやってくる"文明" の圧力は強く、この150年、日本人はその波に危うく飲み込まれてしまいそうになった。



ようやくにしてそんな時代は少しずつ過ぎ去りつつあるが、国粋と海外崇拝。この極端なバイオリズムはこの国の持つ条件反射的な性質であり、それもまたこの国の繰り返された "歴史" なのだが、そろそろそうした反射作用から抜け出すような新たな思想を伴ったバランス感覚を我々は身につけるべきではないだろうか。

さて ー 前置きが長くなり過ぎたが、そうした日本史の中にあって、様々な歴史的風景が、少なくとも文献が残っている時代から見たとしても、二千年近い歴史の集積の中に (この歴史の連綿とした "永さ" も日本史の重大な特徴だが) 目をみはるような景色がある。



その景色の主人公たちはまぎれもなく我々と同一民族であり、他民族に理解されようがされまいが、後世の我々がその景色を愛で、何事かを感じ取るということは意義ある事であるといえるし、別に意義などなくても楽しいことといえる。

蔵六2

2013-12-10 09:29:35 | 
自由や平等を生んだ思想すら、"人間の行為" の一形態といえる。



日本人が生み出した思想、 (欧米における"思想"に当てはめようとすると齟齬が生じるが) 例えば、神道的態度に根ざす自然崇拝。
あるいは武士道倫理、または茶道における侘びやさび。

これらは必ずしも普遍性と強い伝播力を持つものではないが、具眼の者なら人種を問わずして一定の理解と尊敬をもって接しうるモノといえるだろう。

つまり高度な「文化」を有している、ということである。
文化とは「文明」と違って普遍性という点で大きく異なる。

しかし文明がその歴史的役割を終えると価値が半減してしまうことを考えると文化にはそうしたことはない。

従って日本が一級の歴史を有しているといえる根拠はその文化が一級といえる内容を持つからであろう。

歴史が人間の行為の集積であるとすれば、"文化" とはその集積の密度が極端に高まり、形式化され、かつ伝承されたものといえるのではないか。



もっと端的にいえば、一級の歴史を生み出すには優れた人間がそれだけ必要であり、その者たちの行為や思想が現代社会において普遍性を持っていようがなかろうが、ヒューマニズムという揺るぎない人類の共感覚から焦点を合わせたとき、地理、文化的特殊性に目を曇らされなければ、どこの誰であれ、優れた人間の優れた行為は共感できうる、という事である。