思考の踏み込み

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虹2

2013-12-28 18:18:31 | 
茶道という文化があるが、これもある種仮想の文化といえる。

世界中どこにいっても金や宝石といったきらびやかなものに価値を置いているのに、日本人だけは土をこねただけの器に破格の価値を与えたのである。



日本人の美意識と価値観の中だけからみていると、このことはそれほど気にならず、ことさらに気づきもしないが、世界的な視野から眺めるとやはり独特でバーチャルなものに見えてしまう。

もちろんそれは茶道の一要素に過ぎないし、文化としての高尚性もいわゆる現代のジャパニメーションとは比べるべくもない。
だが共通している点は現実世界との距離というところだろう。

戦国乱世において完成された茶道は一期一会などの言葉 (これは幕末に拡がった言葉だが ) にみられるように、いつ訪れるかわからない現実世界の "死" に対する緊張感から、美を敷き詰めた仮想世界において抜け出すためのものというのが本来の姿だったのではないだろうか?

その点ではアニメ文化も似てはいる。
が、現実から仮想への移行の仕方が消極的であるところが決定的に違う。
茶道が文化と呼ばれ、アニメがサブカルチャーといわれる差はそこにある。



とはいえ、アニメ漫画に限らず小説や映画も仮想の世界であるし、そこに入り込み過ぎると人間は現実を忘れがちになってしまう。

おもしろいことは、それほどこうした媒体の無い時代にドン キホーテという物語が書かれ、それが人気を呼んだということである。

それはこの "仮想" と "現実" というテーマやはりが古くから人間の関心を集めるものであるということなのかもしれない。

2013-12-28 17:54:50 | 
「ドン キホーテ」という17世紀に書かれた物語は、世界中で翻訳され聖書の次に多く読まれた本であるとさえいわれている。



主人公のドン キホーテは老い先短い現実から逃れたいあまり、次第に仮想の世界と現実の区別がつかなくなってゆくという話である。

当時の人々はその滑稽さを面白がって読み、また作者の意図もそこに留まっていたように思われる。

しかし実は意外に深いテーマを内包し、問題を提起した物語なのではないか ー 。

そもそも、仮想と現実の区別というが、果たしてそんな区別など存在しうるのであろうか?

近年、日本のアニメ文化が世界的に拡がりをみせ、サブカルチャーどころか日本を代表する文化として認識されそうな勢いがある。

アニメや漫画はもちろん仮想の世界である。
たしかにそこにのめり込んでいる人々、いわゆるオタクと呼ばれる人たちはどこかいびつさを感じさせる。

それが世界に拡がるほどのものとはまだ思えないのだが、世界中に似た性質の人間が多いのであろう。

だがよく考えると日本の文化の多くは仮想とは切り離せないモノかもしれない。
閉ざされた島国故に、昔から外から入ってくる書物だけをたよりに想像力を働かせて文化を作り上げてきた民族である。( もちろん独自に創造されたモノもある )



だとすると、オタと呼ばれる人々はむしろきわめて正統な日本人の姿なのかもしれない。

酒5

2013-12-28 17:18:38 | 
心は常にぶれている。

感情に左右され、生理的な身体状況に左右され、環境で左右される。

人の苦しみも悩みもこのブレにふりまわされている所にある。



その問題と向き合うとき、ブレそのものを受け入れ達観するか (達観と呼べるところまで行けず、諦観に陥るケースの方が多いだろう )、ブレを感じないほどに感性を鈍らせるか ー つまり酒や薬物や快楽に逃げるか。

果たして他に手段はないのか?

それはバランス感覚を養うことである。だがこれは、鍛錬することでしか得られない感覚である。

経験を積み、身心を整え、呼吸を深くし、己れを真正面から見つめ律する。

即ち鍛錬である。
本当にできた人間というものはそういうものであろう。かつて東洋の英傑たちはそうした揺るぎない感覚を"正気" と呼びその心胆を練り上げた。

鍛錬によって重心が安定し ー つまり腰が決まり肚が座れば、もはや外的な酒成分にも内的なそれにも頼る必要はなくなるだろう。

もちろんそのためには健全な身体が必要になるが、たとえば拷問だとか、天災だとか、催眠や洗脳といった心理操作を受けるなどの極限の状態やバランス感覚を崩しかねない外的変化に出くわせば、生半可な鍛錬では崩れてしまうのが人間の精神である
(前出、"音羽の城戸"は激しい拷問にも口をわらなかったという。やはり半端な人物ではない)

拷問器具 ヘッドクラッシャー

さて今回のテーマ、主題を変えてもう少し続けたいと思う。

酒4

2013-12-28 16:11:39 | 
たとえば逆境に追い込まれたとき、無意識に人は悲壮感を出したり、不幸な自分を悲しんでみたりする。

これは精神的なシラフの状態ではない。
だが悲壮感に酔うことで力が湧いてくることも不思議なことだが事実である。
そうすることで苦しみに耐えることができる。これは誰もが経験していることだろう。



だが、他人に必要以上にそれを見せつけるとこれは不快なだけであろう。

足を怪我したものがビッコをひく姿にはどんなに勝気な者でも、よく観察すると他者に同情を求めるアピールがみえる。
街でたまにみかけるケガをした野良猫のビッコにはその要素は皆無である。

いってみれば人間という集団生物はそうやって互いに甘えあって、かばい合うことで生きているのだが、本当に強くなろうと思う者はこの甘えの構造と真正面から向き合わねばならない。

失恋して一人失恋ソングを聞き、自らを慰めることは適量なアルコール摂取の範囲である。
しかし失恋ソングの主人公になりきり周囲にそのアピールをはじめればこれは余分な酔い方といえよう。



良い酒飲みは正しい酔い方を知っているものだ。

まあその余分な部分が人の世を彩っているという面もたしかではあるが…。

酒3

2013-12-28 15:45:59 | 
そもそも人間が集団生物でなければ、いわゆる "正常" とよばれる状態であろうがなかろうがどうでもよく、そんな概念すら生まれないだろう。

ということは集団で暮らしている状態や心理的空間といった、共有し合わざるをえない様々なものを壊さないようにやれる人間であれば、多少の差異はあれど、常識的とされ正常としてみることができるのかもしれない。



ただこれはあくまで統計的な大多数の数の上でのひとつの考え方に過ぎない。
人間の社会だけを対象にした目安ということである。

もっと宇宙の心理に近い場所に立てば、そんなものは大して価値はないかもしれないし極端な話、麻薬中毒者の方がよりそうした場所の近くに立っているかもしれないではないか。

さて、自分自身をみてみるとどうか。

最近はそれほどでもないがセンチメンタリズムという安っぽい発泡酒に酔いやすく、思想や名文句といった麻薬物質に近い危険性を持つ成分を好む傾向がある。

またアドレナリンという興奮剤とそれが作用している状況がわりと好きだし、子供のような純粋さを求める一種の偏り、といった意外とアルコール度数の高いものも嫌いではない。
ストイックという名の蒸留酒も定期的に欲しくなる。

これらのものは本当の酒がそうであるように、適量でさえあればむしろ人間の活動に対して力をくれるものである。

神の酒ロマーノ レヴィ

大事なことはその適量を保つことのできる精神力の強さと、心に作用している偏りの内容を分析できる力である。