自己を無私にもってゆくことなどは、いつでも死と向かい合えるという覚悟と、欲心を統御していくという日常的な作業を続けることでしか得られない。
"修練を積み抜いた禅坊主の様な"といったが、蔵六の経歴に特別な精神的な鍛錬や身体的な訓練の時期は見当たらない。
ではいかにして彼はその胆力を練り上げたのか?
ー まさにそれこそ"無私" である事を己に課し続けた結果なのではないだろうか。
その出発点はどこで、蔵六の何がそうさせたのかは興味深い問題だが、そのことよりも当時の日本の風俗習慣における日常の身体生活 (和服や正座など) というものが、特別な修練を行わなくとも心がけ次第で胆力を練ることが可能であった、ということを我々は蔵六の例からみるべきであろう。
文化が大切である理由もまたここからハッキリしてくる。
非常によく似たケースに大久保利通がいる。
彼はいわゆる文官的人間で本来、武に携わった男ではないが、当時の荒ぶる歴戦の薩摩隼人どもでさえ、大久保がわずかにたった一瞥をしただけで居竦んだ、というから容易ならざる気魄を纏った人物だったのだろう。
彼もまた強烈に無私な男であった。
"修練を積み抜いた禅坊主の様な"といったが、蔵六の経歴に特別な精神的な鍛錬や身体的な訓練の時期は見当たらない。
ではいかにして彼はその胆力を練り上げたのか?
ー まさにそれこそ"無私" である事を己に課し続けた結果なのではないだろうか。
その出発点はどこで、蔵六の何がそうさせたのかは興味深い問題だが、そのことよりも当時の日本の風俗習慣における日常の身体生活 (和服や正座など) というものが、特別な修練を行わなくとも心がけ次第で胆力を練ることが可能であった、ということを我々は蔵六の例からみるべきであろう。
文化が大切である理由もまたここからハッキリしてくる。
非常によく似たケースに大久保利通がいる。
彼はいわゆる文官的人間で本来、武に携わった男ではないが、当時の荒ぶる歴戦の薩摩隼人どもでさえ、大久保がわずかにたった一瞥をしただけで居竦んだ、というから容易ならざる気魄を纏った人物だったのだろう。
彼もまた強烈に無私な男であった。