思考の踏み込み

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蔵六12

2013-12-11 13:55:06 | 
自己を無私にもってゆくことなどは、いつでも死と向かい合えるという覚悟と、欲心を統御していくという日常的な作業を続けることでしか得られない。

"修練を積み抜いた禅坊主の様な"といったが、蔵六の経歴に特別な精神的な鍛錬や身体的な訓練の時期は見当たらない。



ではいかにして彼はその胆力を練り上げたのか?
ー まさにそれこそ"無私" である事を己に課し続けた結果なのではないだろうか。

その出発点はどこで、蔵六の何がそうさせたのかは興味深い問題だが、そのことよりも当時の日本の風俗習慣における日常の身体生活 (和服や正座など) というものが、特別な修練を行わなくとも心がけ次第で胆力を練ることが可能であった、ということを我々は蔵六の例からみるべきであろう。
文化が大切である理由もまたここからハッキリしてくる。

非常によく似たケースに大久保利通がいる。



彼はいわゆる文官的人間で本来、武に携わった男ではないが、当時の荒ぶる歴戦の薩摩隼人どもでさえ、大久保がわずかにたった一瞥をしただけで居竦んだ、というから容易ならざる気魄を纏った人物だったのだろう。

彼もまた強烈に無私な男であった。


蔵六11

2013-12-11 13:41:14 | 
蔵六はその頭脳において、卓越した構想力と計算力と想像力を一分の隙もなく構築し、それを気力の充実しきった胆力をもって現実化させた。

多くの者たちは、この構想と現実化の間に乖離が生じるものだが、 (とゆうより神でもなければそれが当然なのだが)
彼にかかるとそんな事は起きない。

机上が空論にならないのである。
しかも、本来想定外のことの連続であるはずの軍事においてさえ、彼の想定から外れることなく現実が進んでしまう。

彰義隊を殲滅させるとき、蔵六は二日前に軍の情報統一の目的で新聞の様なものを作っているが、戦いはその内容と一字も異ならずに進行した。



しかも火災の起こりやすい江戸の町にあって、まったく火を起こさせないという難事まで成し遂げている。

智力と胆力によって蔵六はこれらを可能にした、と前途したがそれだけではないだろう。

もう一つ、絶対的な要素として "無私"
である、ということがあげられる。
私情が絡めば人は判断を誤るものであるが、限りなく透明に近づく程にまで
己を無私にもってゆくとき、未来の視界は大きく開ける。



というと簡単だが "無私" であることなど本来、生身の人間に出来うることではない。

蔵六10

2013-12-11 13:27:05 | 
大阪適塾における修行時代から、蘭学者としての成功を収めた時代、その地位を捨て百姓扱いする故郷に敢えて戻った時代。

そして革命戦の時代と凱旋将軍としての時代 ー どの時代にあっても彼は蔵六のままであり、ここまで一貫してブレないという事は普通人では行い難い。

よほどの胆力がなければ成し得ないことといえよう。
この "胆力" こそ、大村益次郎村田蔵六という男の真髄ではないだろうか。



一般的には蔵六という男は非常に頭がよく計数に明るく、その頭脳において全ての構想が一分の隙もなく描きうる人物という、つまり大脳型の人間というイメージが強い。

それはその肖像画の額が盛り上がった姿からも間違いではない。

本来こうした人物は、その頭の良すぎることに引きづられがちで、一方の胆力などは育ちにくいものなのだが、蔵六においては、修練を積み抜いた一流の禅坊主の様な胆力を併せ持っているのである。

このことをわからねば大村益次郎という人物の真の評価はできない。

蔵六9

2013-12-11 13:14:32 | 
村田蔵六という男は後世の歴史家達からでさえ、そうした変物の目で見られている。

「お暑いですね」と挨拶され、平然と
「夏は暑いものです」といい放つ神経。
徹底した合理主義から弾き出した計算を冷厳と相手に告げ、感情を逆なでするような態度。
当時すでに英雄であった薩州の大西郷をまったく無視し、その取り巻き達を憤慨させる言動。
有村俊斎


確かに世間には人間関係を円滑に行い得る能力が欠如したものがいるが、果たして蔵六を単純にその型に嵌めてよいものだろうか?

いや、そもそも或る型に嵌めて歴史を観ることは誰もが陥りやすい事とはいえ、歴史解釈そのものを歪めることである。
(というより正確には、人はある型に嵌めずにはなかなかものごとを理解し得ない。必ず主観が入る。歴史解釈も必ず多少の歪みは存在する。従ってここで大事になることはその歪みを一度分解し、整理してみるという作業である。それでも歪みは消えはしないが、その作業をなされているかいないかで、歴史解釈の信用度は変わる)




思想的発言も著作も一切無いからといって蔵六が無思想な単なる合理主義者と決めつけることはいささか乱暴といえよう。

むしろ彼がその死の瞬間までなお、貫き続けたそのスタイルにこそ、言葉にしていないだけにより強烈な、彼の思想があったと言えるのではないだろうか?


蔵六8

2013-12-11 10:08:57 | 
" 蔵六" とは "蔵(クラ)六ツ"
即ち亀のことである。


"我ハ亀ナリ" といい放つこの男の大胆さはどうであろう。

文明という海流と、文化という淡水のぶつかる河口ー 渚のような時代の狭間で、彼は亀の如くあろうと欲したのだろうか?



恐ろしく無口な男であるから何を考えていたのか、そんな思想的な思考をしたのかどうかさえ、同時代の人達でもよく分からなかったようだ。

「なんだかよく分からないお人だった」 というのは、彼の身近にいた者たちでなお言っていることである。

日本史における彼の位置づけは "突如
現れ、幕末の革命戦を完全遂行させた天才的な軍師で、かなりの変物であり、その事が遠因をなして暗殺された"

といった感じになるだろう。
彼の凄みは何といってもこの 「変物」
たる所にある。

もっとも変物といってもいろいろなケースがいる。
日本史はいくつかの時代時代で変物を愛し、許容する時期があるが、それ以外のほとんどの時代にあっては平均的な常識あるもの以外を疎んじてきた。

阿保陀羅経

変わり者どもは、よほど既成概念を打ち崩すような明確な思想や意思のもとに"狂" を行っているものでなければ、ただの人間としての何らかが欠如した者としてみなされるだけであった。