思考の踏み込み

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蔵六19

2013-12-15 03:02:58 | 
上野の彰義隊攻めの際、最も激戦の予想される黒門口に彼は薩摩兵を配備した。

彼は西郷にだけはこの計画を伝えたという。



西郷、本気か冗談か ー
「薩摩兵ヲ皆殺シニ為サルオツモリカ?」

"防長回天史" は伝える。

「 ー 大村ハ 静カニ扇子ヲ開閉シ、 天ヲ仰ギテ言ナシ。
既ニシテ曰ク 然リ、ト。」


この話には尾ひれがつき、さらに付け足して蔵六は 「左様、貴殿をも殺すつもりでござる」 と言ったとか言わぬとか。
しかしこれはこの場面のこの展開においては蛇足といえよう。



だが蛇足ついでに申せば、この防長回天史はあくまで長州側の資料で実際はどうだったかはわからない。
西郷が派遣した桐野利秋にいったともいわれる。(人斬り半次郎にそれを言ったとしても凄い話だが)

そしてこの西郷と大村の対峙は今日なお続いている。



靖国神社の大村益次郎像は上野の西郷隆盛像を向いて屹立しており、なおかつ両者の目線の高さは同じに作られているといわれる。



これらが事実かどうかなど詮索することは野暮であろう。
歴史を楽しむ上での一つのアクセントとしてこういった伝説が生まれてくることも日本史の豊かさの証であるからだ。

蔵六18

2013-12-15 03:01:52 | 
従って蔵六を見出した功はけして桂にはない。

やはり "歴史" という演出家が幕末という物語を締めくくるに足る役者を配した、と考える方が後世の我々には腑に落ちやすい。

歴史は実際時々そんな劇的演出をするものだ。



桂の功はその前後で蔵六を政治的に守り続けた所にある。

蔵六、大村益次郎という男はそうして自らの歴史的役割を終えるやいなや、あっさりと ー 見事というしかない程に ー この世を去っている。

後には、彼の残した仕事 (新政府初期の根幹を方向付けた) と彼の余韻だけが残った。

それはあたかも「能三日」という言葉があるように、一流の能役者の演技を観て、その演技における周辺の集中密度の高さに心奪われ、彼去りし後も、しばし呆然とするが如きである。



現代の我々はこういった景色を、今となっては永い日本史における歴史的風景として、単純に楽しむことができる。

村田蔵六という、この、人と対座しても平気で一、二時間無言でいるような男の生き様は、どんなに多弁な詩人より、どんなに勇壮な士よりも、魅力ある景色を日本史上に残したといっていいだろう。


蔵六17

2013-12-15 03:01:36 | 
蔵六の駆け抜けた時代は文明と文化がぶつかり混ざり合う時代だと書いたが、不思議なことに彼個人にあっても
合理性と日本の身体文化による胆力や美意識といった二つの要素が渦巻きながら混在している。
しかしそれは彼のなかでは見事に安定して矛盾していない。



蔵六と同門の福沢諭吉などは、蔵六のこの一面性しか観えずに彼を危険視し騒いだが、こんにちになって比較すれば若き頃の福沢の軽率さ ー いい意味での ー となって見える。


その点でいうと、本来翻訳者程度にしか蔵六を見ていなかったのに、いきなり軍事のトップに据えた長州藩というのは大したものといえる。

"突如現れた" というのは多くの志士たちの蔵六への印象だが、実際 "突如"であった。

実質上は桂小五郎の独断だったとは思うが、軍事の才の無い桂が (おそらく蔵六の兵書の翻訳の内容の高さを見て判断したのだろうが) 蔵六を最も真価を発揮しうる地位に置いたということは、やはり偶然性の方を強く感じざるを得ない。



少なくともあそこまでの結果が蔵六一人の頭脳から出るとは、桂も思っていなかったであろう。
桂はそれよりも蔵六の異様な胆力を買い、人材の出尽くした長州藩の顔にしたかったのだと思う。


蔵六16

2013-12-15 03:00:55 | 
ここで前途した文明と文化の問題に少し戻る。
あるとき蔵六は鉛筆を使っているところを攘夷主義者に見られ、理由を問われ小気味よく答えている。

"便法ノミ ー "

一歩間違えば鉛筆を使っているという、ただそれだけのことで切って捨てられてもおかしくない時代である。
このセリフは容易には言えない。

人斬り彦斎


蔵六の合理的な頭脳は西洋文明というものの価値をその合理性においてのみ認め、必要な部分だけを使い残りはむしろ遠ざけた。

西洋の文化的要素まで纏おうとすれば
どうしても似合わず、美しくない。
だから兵達には洋服を着せたが、自らは絶対に着なかったのである。

蔵六のホンネは 「そんなヘンテコな服着てたまるか」もしくは、俺に似合うもんか!といったところだろう。
美意識に対する繊細さと強い自信が伺える。

彼の面白いところは、こうした事を思想によってではなく、その感覚で貫いた点であろう。
そのストイシズムも、ナショナリズムも、彼の強烈な美意識から出ている。



それは思想ではないから、人には説明し得ない。従って当然誤解される。
だが誤解されることより、誤解されようが何だろうが己がスタイルを貫くというストイシズムの方が彼には大事だったのではないか?


「お暑うございます」といわれ、「夏はこんなものです」という彼の神経はこうして考えるとよく分かるような気がする。

要するに普通人ではない。