思考の踏み込み

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時空9

2013-12-01 21:13:24 | 
ー だから時間の本質など考えることは無駄だ。

といってしまうと、神が作るまで時間などなかった、といったギリシアの哲学者と同じ逃げになる。

しかし彼の言葉は案外、真実かもしれない。
時間軸の幾つかの種類に迫り、そのバランスで人間が感じている "時間" が成立していることに触れてきたが、もともと宇宙にあった時間軸は一種類だけである。

それは空間の拡がりが生み出したものであり、時間とは空間の影 ー あるいは空間の軌跡 ー のようなものであるといっていいかもしれない。



とすると、彼のいうように神が世界 (空間、つまり物質) をつくるまで時間などなかった、というのはやはり真理に近い。

問題はその空間を物質的なものだと限定すると、またビッグバンに戻るだけなのだが、ビッグバン説自体にはそもそもあまり興味はない。

それが正しいとしてもそれは一つの宇宙の始まりでしかないからだ。

簡単にいって人体を一つの宇宙だと考えれば、その始まりの受精卵が何億倍にも拡がっていって人体となることはビッグバンと性質において同じだが、その人体を包む宇宙はさらにその外に拡がっている。

我々が見ている宇宙もビッグバン説が研究している宇宙も一つのものでしかない。

その外側には別の宇宙が拡がっていて別の時間軸が流れているのではないか?
逆に我々の体内の微少な細菌達の中にも宇宙があり、その宇宙内にもさらに微少な宇宙があるかもしれない。

極大と極小、宇宙の本質に迫るとここに最後はたどり着く。
だがこれは物理学者たちが最も嫌うものでもある。
無限が数式に表れると計算が出来ないからだ。物理学はここで限界にぶつかっている。


あるいはその限界を超え、無限の二つの極を繋ぐのが「螺旋構造」とか、「ブラックホール」とかであるかもしれない。



ブラックホールに入っていって "事象の地平線" というところまでいくと時間軸も歪むという。

膨張し、極大化した宇宙は無限の重量を持つ天体によって極小まで縮められ時間さえゼロに戻され、極小まで圧縮されると、再び拡がりだすのではないか。

ここから先に踏み込むことは本来人智の及ばないことかもしれない。今回の時空というテーマもこのあたりで一度やめておく方がよさそうだ。
宇宙の始まりについてはまた角度を変えて考えてみたい。

時空8

2013-12-01 20:53:03 | 
日常の時間軸の崩壊は持続しはしな
いー

人間の感覚は刺激に対して慣れるようにできているからだ。
それは生存のため必要なシステムだが、一方でそれはしかし思い込みと慣れであり、鈍さでもある。




つまり "日常" というものはそういうものである。
"日常" は我々を守ってくれていると同時に我々を縛りつけているものでもあるのだ。


本来の世界は一刻一刻変化し、新鮮で驚きに満ち、あまりに美しいものである。それは思考など追いつかない世界であるはずだろう。芸術の出発点はここにある。

芭蕉はいう ー
"乾坤の変は風雅のたね也…
時として留めざればとどまらず
止むるといふは見とめ聞きとむる也
…物のみへたる光、いまだ心にきへ
ざる中にいひとむべし ー "

"日常の時間軸" ー これを精神の安定と言い換えてもいいかもしれないが、それを崩すことなく、その代償である心の鎖を解きほぐすことができれば、瞬間は永遠となり、世界は楽土に変わることだろう。


これは人間の、というより命の本能なのではないか。
「永遠」とは永久的に長い時間の水平軸のことではない。

心理的空間が満たされきった垂直的な時間軸のことである。



本来、無機質の支配する世界であるはずの宇宙に何故に有機的な生命が存在するのか、その目的はこの垂直的な時間軸にこそ、見出せるのではないだろうか ー 。