16日 山形SANDINISTAにて Cro-magnonドラムス・シゲと山仁 SANDINISTA主宰ヤクア率いるギリギリボーイズと文字通り「無から有へそしてまた無へと戻る」奇跡のジャムセッション。平日の夜中にも関わらず、山形クラブカルチャーの「夜明け」SANDINISTAへと集いし70名ほどの感性に、この街の未来を託す。吉祥寺よりDJ JTa.k.a.JAHTOMEもスピンに駆けつける。
3月でみっつになる娘・風雅とシゲおじ、山仁と俺を乗せた車の道中はヴィムベンダースかジムジャームッシュによる「人生の線が淡々と濃密に交錯し、そしてまた別れていく白線とアスファルトのロードムービー」であったことは言うまでもない。
5年ぶりに蔵王の実家へと帰省。昨年バンドをめぐって、そして私個人をめぐって起きた色々なことを直視し受け入れる時間を家族として共有する必要を感じたので、世話になりながらもいまひとつ不和な関係であり続けてきた両親のもとへと孫の顔を見せに帰る。喜びと一抹の空虚を抱えたジジとババの三日間。(いまひとつ説明しきれていない部分は、僕の中でいまだ説明しきれないためであり、また地球の大きな時局に比べれば実に大したことでもないので、まだ明らかにしません。なにがしかの不可解感を与えている場合は容赦ください。プライベートと表現を限りなく同一化したケルアックスタイルの信奉者ですが、そこから「真実」の表現を目指せば目指すほど、その難しさに苛立ちます。ただ、僕が伝えられる真実は「私自身の感性と人生」以外にはあり得ないはずなので、やはりこの道を歩き続けるしかないと思っています。)
19日 岩手県安比高原スキー場にて 二年目にして早くも東北の新春風物詩 東北クラブカルチャーの殿堂 APPI JAZZY SPORT 2008。40分のところを60分やって2曲。 今年はよりいっそう、自分たちの中の天然なサイケデリズムを解放していく所存。 短い時間の中である程度の曲数を詰めたショーケーススタイルと、悠久の時の流れの中で感覚の無限を宇宙旅行するジャムスタイルの使い分けの必要を感じたのが、本年一発目のライブの早くも収穫か。 懇意にする主催者ゆえにお咎めはさしてなかったが、モンタレーポップフェスティバルのジミヘンドリックスが40分でギター炎上まで持ち込んだ「計算」と「テンション」は常に見習いたい。 「時間厳守」か「解放」か。我々を御呼びくださる主催者の意向に限りなく添う形を(今年は)目指すので、お望みのスタイルを予め「明示」くださればやりやすいかと。よろしくお願いします。「ショーケース」か「悠久スタイル」か。どちらにも同等の感動を携えていけると思っています。
父と娘の子連れ狼ツアーは、周囲の暖かいまなざしと娘の驚異的な逞しさに支えられながら、無事東京へと帰還。
皆様ありがとうございました。
今年は秋田、青森、福島とライブで行ったことのない3県を含める「大東北ツアー」をブチ行いたいと強く思っています。各地の文化豪族の方々、手はずよろしくお願いいたします。
東北道をはしって つくづく思わされたことが、 戦後の混乱から立ち直るために藁をもつかむ思いで先人たちが追い求めて来た経済という名の諸刃の剣によって蝕まれて来た日本文化のバビロン化からいまだ逃れている雪深いこの地にしんしんと息づく 伸びやかで厳しい自然のあり様と そこで育まれて来たある種「無垢」でひたむきな人々の生活と精神性を 強い意志と確かな行動とでハッキリと進歩的に「守って」いかなければならないということでした。それは経済的発展と無縁のものではなく、むしろ無秩序でただ欲望の形に添って来た既存の経済発展の土台に中央ほど依存していないからこそ、より「愛のある」清らかな土壌を築き上げることが容易であるようにみえるからです。
経済においても政治においても、一人一人の人生においても同じ事がいえると思うのですが、ビルマ(現ミャンマー)の軍事政権によって永らく軟禁状態にある非暴力民主化運動の指導者
アウン・サン・スーチー女史が、政治的手練手管を用いて自身の状況を改善できるのではという記者の質問に対して「私は彼らと同じ手法は用いない。私が彼らと同じ手法を用いてビルマの民主化を成し遂げたとしても、腐った根の上には腐った木しか生えないからだ。」と応えたそうですが、東北の文化的な人々にはぜひ、腐った根のはびこる前に、自分たちの自分たちらしい文化を築くために意識を高く持ってほしいと思うのです。
山形・蔵王には昨年3万人を集めた龍岩祭というすげー祭りが誕生しています。
安比にはJAZZYSPORT。
日本各地で演奏して思うのは
環境問題や文化に対して心の開かれたすばらしい聴衆たちと文化的リーダーたちが相当数存在するにも関わらず
この国の大きな流れがいまだに高度経済成長やバブルを生み出したマテリアルな欲求に従って下り坂を猛スピードで駆け降りているのは何故だろうか?ということです。
現代の日本文化に完全に欠如してしまっている、或いは形骸化してしまって根無し草の様式へと成り果てているスピリチュアルな要素を重んじながらも、いたずらに狂信的にならず、戦後に築かれた既存の社会とのコミュニケーションを図りながら既存の価値観を壊すのではなく共生と融合を目指し、破壊ではなく融和の革命を「なんとなく」志す人々が、そろそろKY国家ジャパンにおいて「浮いてしまう」ことを恐れずに、己の態度を「ハッキリ」とさせる時期がきているのではないでしょうか。
2008年は、そうした態度をはっきりさせることが、何かしら大きな力によって求められている、そういう年なのだと感じています。
犬式というバンドは、そういう時代を彩る空気で在りたいと、幾多のライブで使い古してきた言葉ですが相も変わらずそう願っているのであります。
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