木曽鼓動。生まれたての木曽の野外フェス。

非常に手づくりでいい。


イベントが排出するCO2ぶんの植樹をということで
実にシンプルで基礎的なことなんだけど
種を植えるというワンアクションすら遠のいてた俺はナンダカンダで都会男。
ドングリ木曽講座Ⅰ。

まだ青い団栗をひろって、プランターに土敷いて、団栗寝かせて、土かぶせて水やって終わり。
あとは20年も待てばリッパな木になるという。

持ってかえったプランターはたまに水遣り、春には目を出す。

そしたら家の前に移してしまおう。
頑丈な団栗の木は逞しく育って、東京はまた緑に還るのだ。

若しくは山に植えに行っても良いということなんだが、
植生の分布や生態への影響など考えると植樹もよく勉強した人がガイダンスしていかないといけないのかもしれないね。

兎に角、植えないと始まらないのだ。


木曽の山々は、清として神々しかった。
この度は御嶽山には上れなかったが
是非とも次はのぼってから演奏にのぞみたいと思っている。

二日目のズクナシみたかったが、
東京に戻って東高円寺はグラスルーツにて犬式面子とQさんでDJやろうなんてな話になっていたから帰路についたが、
道中山梨は勝沼のほったらかし温泉入ってみたがあまりの混みっぷりにまったくリラックスできず、むしろ疲れてしまった。

秘湯、秘湯で有名になってしまうと連休なぞに寄ってみてもその良さは味わえないということで。満員電車を逃れるためのズレ勤もいいが、ズレ湯も肝要。というかズレライフが肝だね。スローライフの次なる時限はズレライフ。

DJし終わったあと朝方に力尽きてグラスルーツスピーカーの前の丸太の上にクッションを置いてガン寝していたが、
丸太はひんやりと気持ちが良かった。
QさんのDJも寝心地がよくて。

やはり、木はすばらしい。
山々から遠く離れた東京のど真ん中で、死んだ木の遺骸はなお人を癒してくれるのであった。


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[[[ 虎バターナイト ]]]

9/20(木曜夜)@吉祥寺のbar Cheeky

-acoustic live- 24:30からだよ。
三宅 洋平 (犬式 a.k.a Dogggystyle)
ラティール・シー(Flying Rhythms/AfricaSunuxelcom)

-DJ-
三宅 洋平(犬式 a.k.a Dogggystyle)
MA-BOUW (SUPREMACY)
コスガ ツヨシ (cro-magnon)

open/start 22:00
Charge:1000yen

是非とも!
いいとも!
Cheeky is good ◎

http://www.bar-cheeky.com/


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ぼくは犬のように生きることを選択した。

だから、犬でありつづけよう。

ぼくは貧乏でありつづけるだろう。

そうして、絵を描き続け、

ー自然の胸深くへ向ってー

人間でありつづけたい。



要するにパンクな感性というのはいつの時代も、真摯な芸術家には宿っていたということです。僕の世代だとそれはグランジと呼ばれ、偶像化されたイメージを辿っていくにつれて明らかになるカート・コバーンの性分というのや、もう少し社会性を持っていたが故に敬愛するカート先輩に嫌われてしまってからのエディ・ヴェダーの本性回帰っぷりなどが(とりわけカートコベインの自殺という決定的な回答をつきつけられてから以降)、はたまた90年代初期のシアトルから東京の練馬の僕まで直球で届いた時代に対する喪失感と脱力感と怒り、そこから生まれる退廃性の逆ギレ的肯定を代表するアリスインチェインズやサウンドガーデンなどのあの頃のテンション。それらは一過性のものでしかありえず、多分に私自身もその後はむしろルーツロックレゲエやダブ、ファンクやソウル、ヒップホップなどの黒人音楽における「怒りと絶望を通り越したファンクネスと踊り」によって大きく軌道修正を図りました。が、やはり根本にあるのはある種の「もうどうでもいいや」感、つまりグランジなのです。そうした意味では、明るくて暗いじゃがたらというバンドの存在をその後知ったときに、江戸アケミという仲間をみつけた気がしたのは確かです、が既に彼も此の世にいませんでした。この日本人的暗さと、その真逆の黒人的ファンクネスに救いを求めた結果のない交ぜ感は、19歳から働いた吉祥寺SPCのマービンから享受したものであることは間違いなく、そういう意味で彼は僕に多大なる影響を与えています。むろん、その突き抜けたファンクネスの裏にある国立生まれのサウダージに気付くようになるのは、その後何年も経って僕がモ少し成熟してからです。
当然ですが、まともな神経を携えていたならば、現行の世の中(私の存在の届く限りの世界)は正視に堪えず、そうしたバビロン観の果てに己を見つめ返すと、やはり自身の中にも多分に血肉と化した過ちと人間の罪の数々を認めざるを得ず、ただしかしカート先輩やゴッホ先輩が散らした死に花のその半歩先をみてみたい一心で、ミッドナイトランニングしたり座禅組んだりサーフィンしたりしながら必死で、理想を追い求めることを諦めないで居ようとし続けています。
生きるか死ぬか、というテンションで「まっとう」の本当の姿を世に示したい一心なのです。
近頃、美大生やアパレル、美容師やファッション系の「ちょっとキレテル」人たちから反響をいただくことが多いと実感する場合があるのですが、感性がソリッドに研ぎ澄まされた、それでいてちょっと世の中的にそういう人が気を遣わなくてはならないから弱冠自身の本性とサヴァイブ上の在るべき姿のギャップの間で悶絶しているからこそそういう世の中の在りかたにやはり窮屈さや矛盾を感じている人々だからこそ、僕の示したいことがわかってもらえるのだと思っています。
いや、今の世の中の在りかたは少しおかしいよね。どう考えても。
美を追求する抗いがたい使命のもとに生まれた人々は、世の中的な「ただ綺麗な」美 に対してすら、ある種の幻滅を抱いているはずなのです。
そうした部分で、ガウディやゴッホやフンデルトヴァッサーの作り出した「直線と平行と垂直と均等に抗ういびつな曲線と不均衡」な世界にこそ「自然」を感じられ、人間の生き様においてもむしろそうした在りかたを体現したいと思うのです。
近代的な、いわば新宿のビル群のようなパキパキ感、それらに象徴される現代人のプラスチックな生き方や価値観、のほうがむしろ「イタイ」と断じざるを得ず、如何な少数派であってもそれら不快な文化に対するヴァンダリズムを遂行せざるを得ないのです。ヴァンダリズム=創造的破壊、という文字を己のギターに書きなぐったカート・コバーンの気持ちも同じところにあったと容易に想像できます。
創造的破壊の果ての再生の重要性、とその難しさは、パンクとグランジが僕に教えてくれました。大衆は一時的に、様々な個人的欲求や抑うつからの解放と重ねて、破壊に手を貸すムーブメントには参加しますが、其の後のカオスの中で真実を見つけ出そう、新しい価値観を積み重ねよう、という気運からは一気に手をひきます。
80年代のパティスミスやトーキングヘッズ、日本でいうところのじゃがたらやボガンボス、個人的にはミュートビートなども入れたいのですが、それらが所詮は文化的セレブリティたちの持ち物に限定されてしまっている現状がそうした事実を物語ります。人々のインスタントな感性は、結局変わらなかったのです。
グランジの示したかった「創造的退廃性」とは考え、感じつくした先にある絶望から生まれていたのですが、結局は考えも感じることも途中でやめた多くのあきらめっぽい象徴的な現代人たちにすがりつかれたそれは「ただの退廃性」へと堕し、そのエネルギーの意味を失ってしまったのです。無論、今もおおかたの流れはその繰り返しにあります。無意味による無意味の増産。もはやそうした圧倒的な物量の無意味の量産は俯瞰したときに美しくすらある、と感じたのがアンディウオーホールだったのでしょう。

何を言いたいのか?それはこの程度の文章では言い切れないので、次のアルバムに全てを込めていきたいと思っています。

ただ、個人的には、僕の向かう先は上記、ゴッホ先輩の文章に、完璧に全てが要約されているのであります。この文章に出会えたことは、今年一番の哲学的喜びだったかもしれません。


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下記ブログで以下のようなコメントがきた。
とんぼ丸さんなのか君なのかもわからないが
非常に私のエモーションに触るものがあったのでここで大々的にとりあげさせてもらうことにする。
ご当人は落ち着いて読んで欲しい。
これは現代人のコミュニケーションにおける大いなる欠陥だ。
相手を思って物申すか、
独り善がって物申すか。
特にネット上の意見ってのは気をつけたほうがいい。


Unknown (とんぼ丸)

2007-09-19 17:17:41

三宅さんには喜納昌吉が何者かを知っておいてほしい。
今回のブログのそれには、何かを知っていないあなたがいる。
念のために言っておくが、喜納昌吉の素晴しき部分をわたしは知っているが、ひとはそれだけではない。
それで、の、質問だ。
あなたにとって喜納昌吉とは何ものだ。

応援はしているが、ただではすまない。



トンボ○よ。
あんな。
こういう口調で俺に物申したいならな、直接俺の顔見て言いにこいよ。
こういうことを聞きたいならな、吉祥寺のバーなりライブなりに来て言えよ。
いくらでも相手するぜ。

お前さんにとっての喜納昌吉と俺にとっての喜納昌吉が違うのは当たり前だろ。
貴様の尺度を押し付けるんじゃないよ。

まず貴様が何者で、喜納氏との関係が何で、どういう論拠で、
上のようなリスペクトの欠けたコメントをぶちつけてきたのかが
全然わからねえな。

だから俺の顔みて物言いに来なさい。

当然だが、きちんと初対面の挨拶をしてから俺に近寄れよ。
じゃないと機嫌次第じゃしらねーぞ。

ついでに軽く答えておくよ。

喜納さんのことなんてこれっぽちもしらねーよ。
CD1枚。
DVD1枚。
ライブで一回対バン。
あとは喜納さんを手伝ってる人々何名かに何度か世話になってるよ。
だから彼らから氏の活動内容などについては彼らから聞いている。

で、お前さんの言いたいことがさっぱりわからねーんだがよ

表現者が表現者として
楽屋で一度挨拶をした瞬間に
お互いが何者なのかを悟ることってのがあるんだよ。

細かい素性、思想、遍歴じゃなくて
お互いの出してるオーラにお互いが気付くのさ。

で、ビリっと緊張した空気が流れた後にガッチリ握手して
何故か其の日のライブはお互いにいつも以上の力が入って
ライブの最後に共に「花」を唄って
「お前さんは声が強いね」
とか言われて
「あなたも相当。。。」とかひっそり思って

嗚呼、これが喜納昌吉か。
と認めたわけだよ。

最後に打ち上げで喜納さんにこう伝えたよ。
「仲間みつけた」


それ以来ずっと気になっているが
俺も俺という職業において多忙を極めるからね
喜納さんのことをファンみたいに追いかけやしないよ。
ただね、その存在をずっと感じてるんだよ。

そして、俺も相当面倒くさい人間なんだが
喜納さんも相当面倒くさそうだから
少し気の質が似通っているから
磁石のSとSみたいな部分があるから
別にしょっちゅう顔つきあわしてる必要は
今のところ感じないんだよ。

いずれ力をあわせるときがくるのかこないのか
それは知らない。時に任せる。

俺と喜納さんが出逢ってから一年経って、
俺たちが競演したライブがまたやってきたが
犬式は出なかった。

「西東京の山猿は元気にしてるか」
と関係者に尋ねていたという話をきいて
「サルじゃねえよ。犬だよ」
と思ったが、やはり喜納さんも俺たちのことを覚えていてくれたのかと
嬉しかった。

喜納昌吉は俺が今、日本で一番気にしてる表現者だということは明言しておく。
俺は知識からではなく、まずその存在の実体からみる。
俺、という人間と喜納昌吉という人間の付き合いとして、付き合いの門をくぐる。
例えばアナーキーの仲野茂とだってそうやって、20歳の歳の差を一秒でこえた。
だから仲良くなれた。アナーキーも何も知らなかったが、肩書き以前に1対1の人間の付き合いとして、始まればそれでいい。ジョーストラマーと出逢ったときも、彼のことは愚か、クラッシュも知らなかった。だから仲良くなれた。仲良くなってからその作品に触れて、ぶっとばされた。

俺より長生きしているとか、芸歴が俺より長いという意味でのリスペクトは絶大に抱えているが、いやそれ以前に1対1の人間としてのリスペクとは莫大に抱いているが、
楽屋でへコヘコしてるだけの「若手」にはならない。

そうしてミュージシャンという域を越えた、霊的な何かを感じた。
それでいて、政治というリアリティに足を突っ込むバイタリティから、何かを学ぼうとしている。
彼を取り巻く組織の在りかたに興味をもっている。
その最終目的は知らない。

で、10月13日に沖縄桜坂セントラルでライブしにいくから
ライブ前日に今だ訪れたことの無い喜納氏のお店チャクラに顔を出そうと思っているから、そのために飛行機の便を少し早くしてもらった。



これで全部だよ。

トンボ○よ。
知ってる、知らない。なんていうレベルで人を問い詰めるもんじゃない。

お前さん、俺の何を知っている。

今日はすこぶる気分が悪くて、昼寝して覚めたらいきなりこういうコメントだ。

最後にもう一度いっておく。

「ただじゃすまない」なんてな啖呵を切るならね、
俺の顔みて直接いえっての。
ここは2チャンネルじゃないんだよ。
俺のブログだ。
なめちゃいけないよ。

少々口を荒らさせてもらったがね、
原因はお前さんの最後の一文だ。
俺ぁ演歌歌手じゃないんだよ。
ファンは神様じゃないんだよ。
ヘッズは犬人で共に生きてる人間同士なんだよ。
「応援はしているが、ただじゃすまない」?
ふざけるんじゃないよ。
応援を人質にただじゃすまさねーってのか。

生意気なのも反骨精神溢れるのもおおいに結構。
俺が推奨してるくらいだ。

ただね、礼儀は守らないといけないよ。
じゃないと損をするのはお前さんだ。
口の聞き方には気をつけたほうがいい。
ルールも決まりもない。
そのとき、その場合にその人間が言って「在り」なのか「なし」なのかだよ。
今回のは「なし」だ。
せいぜい本名さらしてメール先を添付してたら俺の感情もちがっただろうね。
いや面倒だから携帯の番号をつけてこいっての。別にさらしゃしないよ。

匿名性にあぐらかいて
喧嘩にならない喧嘩を、売ってくる奴が俺は大嫌いなんだ。
次からはキッチリ正面玄関から入ってきな。

あばよ★


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経済に長けた起業家の友人が以下のような見解を述べています。
彼とは智と知を交換しあって血を交えている仲です。

賢人たる犬人の皆様には政治や経済にうとい私の感情論にふりまわされず、彼のような視点も意識して欲しいなと思い、当人の許可をいただいてここに掲載します。要約文を載せようと思いましたが、文章のニュアンスを汲み取ってもらうために、ほぼ原文のまま掲載することにしました。

意見の賛否に踊らされるのではなく、バリエーションに富んだ視点を築くために知識は在るのだという思いです。



>ここで 麻生はもったいない。

 とにかく、今回は 福田で決まりだろう。

 
 今回の政権、 総裁に任命されたとしても、
 その一秒後から、11月に期限切れになる
 自衛隊の給油活動について、衆院、参議、衆院という形で
 荒れる。

 
 もっと言うならば、小泉氏がスタートした改革により、
 官僚達の利益を害し始めたから、
 今まで、官僚達が握っていた 自民党代議士達の
 弱みを マスコミにリークし始めている。
 この流れは、 「改革」 というイメージを出す
 政権では ストップがきかない。


 最近 漏洩している 政治と金の問題は、
 昔から存在していた事なのだが、
 官僚の既得権益にメスを入れたゆえに 表にでてきた。


 このタイミングで麻生氏を使うのは、
 非常にもったいない。


 まずは 穏健イメージの福田氏で 政治を遂行する事に
 全力を注いで欲しい。


 これ以上滞ることなく早期に、
 ・消費税の導入
 ・年金問題の調査
 ・給油活動の再開  等を遂行してほしい。


 このような政策は 
 反対しようが、賛成しようが、自分自身に利益があろうが
 損があろうが、 決まる法律なのだから、早期に
 やってしまって欲しい。


 福田氏は 名官房長官として鳴らした
 調整能力に長けているから、適任であると思っている。



 麻生の出番は?
  麻生氏は、「セレブ」である。
   つまり、金に汚くない数少ない政治家の一人である。
   又、現役代議士の中で 唯一といえる アフリカを
   はじめとした 第三世界を経験した人材で、貴重だ。

  『オタク人気』等のとらえ方で
  彼を伝播する マスコミは 本気で低脳だと断じざるを得ない。


  麻生氏という人間は、 次の選挙までとっておいた方が
  良い。


  アジア諸国との協調という面では 最悪かもしれない
  麻生氏だから、 
  福田氏(親アジア外交派)に地均し
  してもらい、 そこから 万を持して
  太郎の出番となれば良い。


  その間に 民主党の小沢氏が 頑張ればもっと良い。


  おそらく、 自民党のシミュレーションも
  福田で 壊れかけた 官僚との絆を修復し、
  麻生で 離れかけた 有権者の信頼と関心を掴みなおす

  
  これで行く予定だろう。


  カードは 使う順序とタイミングが大切。


私のコメント

「なるほどね。
しかし自民総裁=首相という構図はもう壊れれてほしいね。

小沢がどうとは思わないけれど、民主に一度頑張って欲しいね。なんなら喜納さん主将でいいよ。音楽家としては。 」


友人の返信

  >そうだね。
  政治に対して 民意を反映できる世の中になってほしいね。

  このままでは、アメリカのように、
  民衆が政府を恐れる世の中になってしまうな。

  国債発行型の財政運営を続ける限り、
  官僚>政治家>企業>国民
  という ヒエラルキーは 変革できない。

  本当の敵は 表に顔と名前がでてくる政治家ではなく、
  カスリを生業にしている 官僚なのだという事を
  多くの人が知って、それに対する 根絶策を練るしかない。

  このままでは 経済って尺度でいくと この国の未来は無い。
  経済ってものが 唯一 日本を 国際社会において
  日本 とたらしてめているのも事実。

  次の価値と それが生まれてくる仕組みを創りだしたいね。




私のコメント

「そのためにも、まずは我々全員が、「お勉強」し続けていくことだね。知らなきゃ始まらないことがあまりにも多いこの世界だから。」




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そもそも才能の無かった岸の孫が叩かれて辞めてどういうわけか今度は同情を集めているが、そういうところが日本の有権者とりわけ晋ちゃん饅頭買って喜んでるようなおばちゃんたちの阿呆さ加減の象徴です。政治家を馬鹿にしたのは、やはりこういう有権者たちでしょう。

で、今度は吉田の孫が「漫画読んでます」を売りに首相になろうとしているが、こんな奴に主将が任せられるわけがない。で、オタクや引き篭もりと呼ばれるようなこれまでの選挙で対象とされていなかった層に魔の手を伸ばしていこうとしているようなのだが、政治家たるものがこうした迷える若者たちに「漫画やゲームばっかりしてたらよくないよ」という当たり前の導きを示すことが出来ないのが、経済至上主義のこの国の大きな問題である。肝心の導き手(かつては)たる政治家のような連中がことごどくポリシーではなく「乗っかり」根性でやっているのが大きな問題である。皆が周りに気に入られようと気をつかって自分を殺しているうちに、結局主体が存在しないというパラドックスが生じている。でわ今の日本の時局は誰でもない集団というひとつの無意識が支配していることになる。

ゲーム脳障害というのは確かに存在するある種の精神病だと思うし、手塚治虫は「東西線の早稲田駅で学生たちが電車に乗るなり哲学書ではなく漫画雑誌を開くのを見たときに私は自分が必死になってやってきた漫画文化を後悔した」と述べている。

私はかつて若かりし頃に一ヶ月引き篭もって「サッカークラブをつくろう」中毒になったことがある。パンテーラ山形をセカイイチのクラブにすることが全てになってしまった一ヶ月は睡眠よりも食事よりもギターよりもゲームが大事になってしまい、最終的には天皇杯の決勝でまさかの敗退を喫したときにマシンをかなづちで叩き壊して中毒を脱したが、危ないから、ゲーム機器はそれ以来持たないようにしている。もはやファミコンなんて可愛いもんじゃなくて、プレステというのは確実にジャンキーを生み出すハードドラッグである。ヘロイン級のハードで、ヘロインよりもさらに非創造的なドラッグである。身体への害が目に見えにくい点がより邪悪である。

さらにいえば、オタクになるような比較的知能指数の高い若者たち、アニメにはまるような感性の鋭いナイーブな若者たち、にこそ此の世の中をサヴァイブする術を身に着けて世に出て欲しい。救世主になる全く現実味のない物語に己を投じる妄想と共に一生をマスターベーションして終わらすのではなく、勇気を出してシンドイこの現実においてファンタジーの楔を打ち込んで欲しいのである。

私自身、中学生までは漫画家になるのが夢だったし、いじめを経験した小学生の頃はノートに漫画書くことに没頭して己を保ったし、怒りも憎しみもキャラのパンチに込めていたころがある。歴史オタクで漫画家になるのが夢だった15歳頃なんて、今にして思えばちょっとオタクだったし。サッカーとロックがそれらと融合していたから今の私はこうなったけれど、オタク的なフィーリングは実はよく理解しているつもりだ。内向性に過ぎるオタクで終わらず、外に意識を向けたらそれはもっと凄い何かになるはずなのだ。


無論、自民党の時代は終わったから、麻生だろうが福田だろうが、首相にはならないのだと願うが、政治家一家で育った三世に、いったい庶民の何が分かるというのか。「漫画読んでます」くらいで「麻生さんはコッチだねww」なんて騙されてちゃいけないよ、オタクさんたち。麻生はカップラーメンにおにぎしで食いつないだ惨めな経験なんか一回もしちゃいないはずだよ。騙されちゃいけない。



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5月に渋谷ASIAで行われた坂田かよ・川村カオリ主催のHONEYHALLにて演った僕とラティールの二人セットが高い評価をいただき、ヤマモトヨージ氏の娘リミさんの手がけるLIMIfeu(リミフゥ)のパリコレクションのショー音楽を任されることになった。ライブによるショー音楽というリスクを越えて無謀にも僕らに任せてくれるというのだから、流石アヴァンギャルドを知る人はまとわりつくルールよりビューティフルゴールを優先するのである。そうでなくちゃ、アートなどと言ってはいけない。

これはラティールと僕のユニットにとって、その方向性を定め深度を増すための絶好の機会でもある。

といっても「いつもの吉祥寺」をパリでの15分間に撒き散らすだけなのだが。

「kichijooooooozeeeeee」の黒い雄たけびと黄色い雄たけびが、パリに木霊することであろう。

10/6。パリのとある地下駐車場がどうしようもなくドープでリアルなトーキョーと化すその一瞬のために、バクバクとソウルパワーを、ガツガツと演奏の深みを増していく所存であります。

来る9/20木曜日の虎バターナイトにて、24:30からパリコレ出演記念ライブを行います。


ところでさきほどメールにて、島根犬人会の会長である後藤健太君よりヴィンセント・ヴァン・ゴッホの文章というものをいただきました。永らく、文言を尽くしても端的に言い表せていなかった「私が犬式と名乗る理由」が此処にスパァと言い表されていました。いただきます。



ぼくは犬のように生きることを選択した。

だから、犬でありつづけよう。

ぼくは貧乏でありつづけるだろう。

そうして、絵を描き続け、

ー自然の胸深くへ向ってー

人間でありつづけたい。


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サンセット・日本最古の海フェス。

波浪々をソウルで演りたかったので、これはやりたかったことができて良かった。

例年の犬式とはちょっと違っただろうし、それは人生に巻き起こる色々なことがらが及ぼす影響を表しながら演奏していきたいという私の信念なので、毎回お約束のエンターテインメントは其の日其の時の感情と乖離していたりするので続けているうちに非常に嘘臭い気持ちになってしまうから、私には無理だ。

「本当の意味でのジャムとは何か。」

「そしてソウルが乗っかっている音楽ならジャンルを問わずそれはソウルだ。」

それがこの夏以降のテーマだ。

ロックが自由でなくなってしまったこの時代に改めて定義をしなおすなら
それはフリーロックである。

簡単で安易な外面的煽りにはいささか飽きてしまった。
もっと心の内側から突き動かされるような音楽がやりたい。

単純に過ぎる傾向がある昨今の世の中で、
「昨今」などと語るこの口すらいったい昨今以前の何を知り得ているのか分からないが、
何も知らないまま知った気になって全ての人があれこれ言うわけだが
全体の傾向としては無限の知識の海に飛び込む労を惜しんだままで何をか言わんや
という場合が多く
それがそのまま民意として反映された結果が日本の今の現状なのだろう。

「こころ」を失わない「知識家」が市井に溢れて
顔つき合わせて討論を繰り返して近所の人々を教育、啓蒙するような
そういう社会が来ないものかと思う。

現実や事実を獲得しようと奔走しない脳みそたちが
ミクシーの短文のニュースにあれこれ日記をつけているのを見てると
だいたいがあべこべなまま自己完結していて
そこにはデカルト的な自己懐疑が欠けている。
テレビや新聞は人に何も伝えられていない気がする。

哲学青年や政治青年の本みたいな文章にはエリート志向がギトギト感じられ
コミュニケーションが欠けている。

それでも開く頁開く頁、私の知らなかった知識が次々現れてくるインタルネツト。

生きているうちに修められる知識など、森羅万象のごく一部でしかないので、運命と使命の見極めが大切だ。

知識の裾野は膨大なり。
芸術の深淵も壮大なり。


日本の歴史、とりわけ歴史の物語性の裏に在る歴史的事実の勉強。
日本の知識人。明治から昭和の。
世界の歴史。日本から辿ってぶつかるもの。
感覚や感性、思想の地域格差。それらを生み出す背景。
人と人が通じ合うコミュニケーションの原理。
社会の倫理、道徳、宗教観の形成。

そうしたものとストリーツの現実とをぶつけ合って
新しいリリックを書こうでわないか。

この秋は、呑んだ暮れた狂騒の夏フェスシーズンを反省して
勉学と創作に勤しみたいと思います。

と思います。

バーデンパウエルとティナリウエンが、ここのところ頭の中で引っ切り無しに鳴っています。


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