1719年の再現舞台への疑問:Ⅰ、舞台の設定と観客をオープンステージの三方から観劇できる空間にしなかったこと。
正殿の二階には高貴な神女や王妃などの席もあるようだ。上の絵図を見ると獅子舞である。その再現を!しっかり三方から観劇できる舞台だということが分かる。国立劇場おきなわは、その考慮をしていない。なぜ?多良間や他地域の舞台形態が首里王府の舞台構造を模倣したことが伺えるし、そこに原型が見られる。再現舞台はオープンステージになっていなかった。
上は『華風』10月号9,10ページからの引用だが、上の絵図を見ると今回観客は北殿側に着席した。しかし十分舞台右側と左側にも観客席が準備できなかったはなぜだろう?「国立劇場おきなわ」の組踊の張り出し舞台も十分なオープンステージになっていない。欠陥を是正する方向ではなく、現況を再現していることになる。
2、当時、すり足はなかったはずで、茣蓙の上で上演された戌の御冠船の記録があり、ひょっとしたら茣蓙の上で上演されたのか?図表からは明確ではない。
以下の新聞記事は『華風』10月号で「御冠船踊と執心鐘入」、「御冠船踊と銘苅子」の解説を書いた茂木仁史さんの説に沿って紹介しているが、確かに興味深いのは橋掛かりが出入りの一本になって「執心鐘入」の宿の女と若松の位置が松含型になっているところは注目だ。従来の「盛重型」優位が崩れたとも言える。初源の形態からすると新垣松含型をもっと見直す必要があることを意味する。琉球舞踊でも「盛重型」が優位に歴史は推移しているが、「琉球舞踊国の保持者認定問題」でこのブログで100人以上がコメントを寄せた7つの舞踊の系統への配慮の重要さを際立たせている。
それから橋掛かりが出入りの一本なので、演出に変化が伴うのは必然だが、当時、「すり足」があったのか、また「がまく」のような舞踊所作があったかも疑問で、しかし実演家の所作は現在と変わりなかった。所作まで初源の形態を追求する姿勢は見られなかった。なみ足ではなかったのか?茣蓙の上で上演された組踊の記録もある。またなぜ、絵図に描かれている獅子舞を再現しなかったのか、疑問だ。