(性を装う。英国演劇はなぜ少年たちに女性を演じさせたのか?)
政体の状況との関わりは大きいに違いない。辻や仲島の存在は官選ジュリに見るように王府の統治形態の一つになった。強固な監視体制があったのかどうか、国体を維持するために様々な施策がなされていった近世王府の有り様は興味深い。
女装する少年たちをみて同性愛への偏向が懸念されたとする論もある。美しい少年たちや一般女性は交換可能な存在だった。つまり少年たちはエロスを喚起させる存在であった。女優が禁じられたイギリス近世において、なぜ少年だったのか?と問いかけている。劇場なり祭祀空間が女性を媒体として家父長制度を不安化させるものでありえたー。
琉球・沖縄はまた異なるところがある。信仰(祭祀)の「有り様は、女性を中心になされた。もちろんその信仰の対象はニライカナイであり、ミルクや獅子であり様々、首里親国そのものが信仰対象でもあったのだ。王が権威の中枢であったように。
「女性が舞台から締め出されている事実こそ、演劇のもつ病因を垣間見せる。ーー男と女を区別せず、男を女に還元するセクシュアリティー。ピューリタンの演劇排斥運動が恐れたことー観客席の女たちが云々ではなく、男性観客がみんな女になってしまうことに対する怖れである。この不安のなかにおいてみれば、女装した少年など枝葉末節にすぎない。問題は模倣としての芸術、人を女性化するものとしての芸術、という芸術概念全体にかかわるー」
少年の女装=女役がメインのシェイクスピア劇である。舞台上の美しい女性=少年=同性愛の危険もあったという論である。なるほどである。