志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

鄭 義信≪焼肉ドラゴン作・演出≫と伊波雅子さんも御一緒の『冬の夜雨』でした!

2014-06-07 22:50:09 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

                             (平良進さん 田岡美也子さん、鄭 義信さん、金城真次さん)

明日の深夜までに仕上げなければならない英文論稿(発表のため)が、やっと6枚目できわめて厳しいゆえ、観劇をやめようかと思っていたが、途中で、やはり見なければ、と思い立ち、連絡に記された電話をかけると、平良とみさんが電話に出られてびっくり、かろうじて夕方5時からの舞台の予約を入れた。玉城貞子さんが新唄大賞を受賞した民謡を平良 進さんが沖縄芝居の作品に仕上げた作品は台詞、歌、連ねがあり、初演を見た時の印象が辻の街を歩く種豚と共に、「辻情話」ともことなる筋立てが思い出された。悲恋劇だが、いい作品だと、今回この作品が平良 進さんの代表作になるのだと、感じていた。つまり結論から先に書くと、いい作品で涙腺が緩くなった。鼻水をすするような感動の音があしびなーの劇場からけっこう聞こえてきた。涙腺が緩くなる舞台だった。なぜか、幸地里之子とチルーの恋の真摯さゆえであり、残された親の息子を思う真摯な思いゆえである。偽りのない心と心が真向からぶつかった物語の筋ゆえである。主人公の里之子=金城真次とチルー=小嶺和佳子が凛々しく演じきった。父親の平良進が真剣に自らの命をかけて息子を首里に取り戻さんとする思いの深さが際立った。首里王府時代、首里の士族層と辻のジュリとの結婚はご法度だった。島流しもよしとする婚姻の厳しさが法として、世間の掟としてあった時代、二人の相思相愛の愛の行方は暗雲がかかっていた。

いつかはこうなるかもしれない。予見の中でしかし、貧しい田舎下り(駆け落ち)の中で慎ましく、睦ましく生きる二人に村人たちの眼差しは優しい。しかし一人息子を失い、里之子の母親は病死し、父親は三年間、じゅりむちりして蒸発した息子を探しもとめていたのである。首里に戻らなければ、俺を殺してくれ、殺せないのならば、この場で自害すると父親は訴える。社会の掟があり、規範がある。その中で生きるために、どうするか?チラーを捨てて首里に戻る決意をしてもあの世までもと誓った愛の深さが、胸を引き裂くような痛みと共に残される。きっと一目でもいい、立身した姿を見せてください。チルーは自らの運命を覚悟していたかのように、赤火の言葉を出す。いわゆるタマダマ、死後のたまがいとなっても里之子と一目逢いたいと最後のことばを残すのである。1年、2年と里之子を待ち焦がれて海を眺め次第に痩せて病弱になっていったチルーがいる。

立身出世して、(具体的なことばがほしかった。つまり難関登用試験に受かってとか)チルーに着せる着物をもって里之子は村に戻ってくる。しかしチルーはすでに死んでいた。言い残したように立身した里之子と霊になったチルーはたまさかの再会を喜ぶ。あの世でお待ちしますとチルーの連ねが響くなか着物を抱いて悲嘆にくれる里之子の姿で幕が降りる、と書くと重たい悲劇のようだが、そこは沖縄芝居の面白さ、間の者たちが登場する。冒頭の種豚と小禄ことばの豚の種付けの男の登場は笑わせた。種付けをして利潤を得る男の得意顔、対称的にジュリ小と愛を交わして通りで出くわす男女がいる。「やーや銭を損するが、わんねー種つけてもうけた」と対比が面白く笑わせる。ジュリの立ち姿も、対比されている。チルーは立ち振る舞いに品のある女性である。その品性のよさが一層悲哀を深めるが、「泊阿嘉」のように一図な男女の悲恋のような味わいのある作品になっている。なぜか、それは宿命のような真摯な思い、に尽きる。

物語を引き付けるのは、人間の真剣な情念のありかである。それがあるかぎり、物語は人の心をつかむ。陳腐さや偽善には人は振り向かない。どちらも真剣な思いと思いが真正面から向き合う時、ドラマが生まれる。社会の規範と真剣に向き合うとき、人はその壁が高ければ高いほど、またその確執が深いほど、引き付けられる。根にあるのが真実の思いで相手を思うこころ、立身出世などの世俗的価値を越えようとしてそこで新たな壁に向き合う者たちに、エールを送りたくなる。そんな物語だった。首里王府時代の規範≪世俗≫があり、それを越えようとして超えられなかった者たちがいた。しかし彼らの愛は破局に至ったが(表向き)、彼と彼女は壁を超えたのである。悲劇が希望でもあるゆえんが、そこに漂っている。

玉城貞子さんの新民謡が流れる。冒頭では幸地里之子とジュリのチルーがその歌にのせて愛の賛歌のような舞踊を披露する。美しい創作舞踊になっている。相思相愛の愛のきらめきはいつでも陶酔感にあふれている。お互いの愛を信じ合える関係性ー美があり、その破局がある。しかし愛は永遠に灯り続ける。と書くと素朴な平板なイメージもするが、そうではない。壁や淵が取り囲んでいる。その中で互いの愛を生きる縁にしてきた男女の愛の全うできない道の行方がドラマになる。関係の絶対性、父母の愛、親・家の義務、先祖の位牌を引き継ぐ責務など、世俗の義務が鷲掴みにしていく。その中で人はどう生きるか?身分違いの愛と、辻のあんまーも口に出す。愛に生き、愛に死ぬのは、女性が多い、と言われる。男が愛に生きた時、「思案橋」になり、その結末は自害だった。彼や彼女の存在がその対の愛が絶対であるかぎり、対の対象の生死が己の生死を決めていく。死すべき存在ゆえにそこに様々なドラマが編み込まれていく。

        (「オムツ党走る」の作者伊波雅子さん)

 楽屋で伊良波さゆきさんや小嶺和佳子さんと少しお話しした。「結構現代劇のような心理劇になっていますね」「いろいろな役柄を演じているのですが、台詞をまた次々覚えるのはたいへんですね」に和佳子さんは「すぐ皆忘れてしまうのですよ」と話した。以前玉城盛義さんも同じように話していた。目いっぱい一つの役柄をやり終えると、それをチャラにしてまた次の役に挑んでいくのである。小嶺和佳子さんは「でいご村」の主役を演じ終わったばかりだった。次は「人類館」の女の役柄である。すごいね。さゆきさんは「泊阿嘉」の舞台が待っている。「ぜひ全身全霊で役を演じていくことについて、演じる時のいろいろな思いなど、少しでも書き残してほしいですね」などと話していた。

鄭さんのすごさは私は『焼き肉ドラゴン」で感じた。その鄭さんが伊波さんのお友達で佐藤信の黒テント以来というから、その御縁の深さにまた感銘を受けた。ぜひ「オムツ党走る」は見なければ、です。


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