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伊江島ハンドー小、名作琉球歌劇の面白さ!女の勝利?

2012-05-11 03:54:59 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
     (一言もなく立ち去った恋人(加那)に食い下がるハンドー小、二人の愛を永遠だと信じた)

琉球歌劇の叙情の世界に惹かれる。先日リハを見て、その文献資料など読んでいて、男の道徳の勝利が「執心鐘入」で女の道徳の勝利が「伊江島ハンドー小」だとの見解を仲程昌徳先生が紹介しているのが面白いと思った。理〈知)性=男、自然=女のような二頁対立もあり、情動が女の執心という形で表出される。それは嘘である。男の論理から女の論理へと近代の扉は女が主人公として躍り出た、の考えは時代を捉える視点はユニークであると思う。しかし「執心鐘入」は必ずしも男の論理の勝利ではなく、女の情念、執心そのものが物語のコアになっている。その軸に関係性の綾があり、一夜の出会いに全存在をかけた女のたぎる思いがあり、美の象徴の若松を追いかけるその情動そのものがドラマを惹きつける源である。エロスとタナトスが呼応しあう。

生きる上でのパッションの激しさは皮肉にも命を燃焼させる稲妻のように光りそして消え果てる。自我の輝きこそが人生と言い切ったランボーがいた。
対の関係に愛にあの世までもと全存在をかける、その凄まじさが人をしてひきつける。一直線に上り詰める感情の高ぶり、それが狂気に至るほどの執心が激しい命の燃焼に見えるゆえに目をそらすことができない。それもそのとおりである。

オペラのもつ叙情の世界は生きる炎の秘密そのもので、その炎ゆえに、人は自らの限られた命の陽炎を生き得る。それがどのような彩りであろうとーー、死に至る病ではないけれどーー。

しかし新しい切り口が見つからないままにいる。悲劇の可能性はすでに書いた。境界、越境、は鍵になりえる。境界を超えるゆえの美しさ、究極的な悲劇があり、カタルシスがある。リベンジは怨念を晴らすということでわかり良すぎると面白みはなくなるね。

ありんバチあたいしやあたりめーやさ、と芝居フアンのおばーが言う。踏みにじられたゆえに復讐することの哀れさがあり、自殺してリベンジすることが女の道徳の勝利とは、言えない。

それにしても組踊も仇討ち物が圧倒的に多いということはリヴェンジ劇である。リヴェンジして元の秩序に戻る構造に琉球・沖縄の感性は呼応したことになる。

情念は悪と描かれる組踊の中で唯一恋愛賛美の組踊が「手水の縁」である。自然な恋情を肯定する物語が近代以降の沖縄の芸能の大きな流れになった。愛と死は常に実存そのものだからであろうか?

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