1時間ほどの作品。テネシーウィリアムズの作品「欲望という名の列車」とか「ガラスの動物園」を思い出した。演出家のいない役者だけの作品だったが~。主人公のジョーが英語のセリフのMiltos Beratlisさん、他の役者は一部英語で、他日本語の実験劇場の雰囲気、さて物語のイメージは?浮かび上がったのは記憶と追想、リアリティーは今古いアパートから出て行こうとする作家という設定。家族との関係性がリアルの現実、おさらばするアパートメントに侵入してくる。あの時、あの頃、死と、落ちていく家族の物語がイメージとして飛び込んでくる。太宰治のあの落ちる作品に重なるような痛みがにじんでくるような雰囲気。女性は精神が病んで、身体が侵されていく~。貧困が人間を蝕んでいくもの~。
以下は、Tennessee Williams作品、Long Good Byeの日本語訳です。
http://www.ilaboyou.jp/text/text_LongGB.html
テネシー・ウィリアムズ回想録(鳴海四郎訳 白水社 ISBN 978-4560046739)を持っている。英語英文科学部生の頃買った一冊だ。昨今だった。断捨離で部屋を片付けている時に見つけた。分厚い本で、鉛筆であちらこちら線が引かれていて、あの頃真面目に読んだのだということはわかった。大学時代にA Street car named Desire (1947)やThe Glass Managerie(1944) を授業で読んだ。戯曲を読む時、なぜか主人公たちの悲劇的な結末が予測できる時、なぜかそれ以上結論まで読んでいくのが、嫌な気分になったことがあった。『欲望という名の列車』にしても『ガラスの動物園』にしても女性たちの人生の悲惨さが描かれている。心理的なリアリズム演劇で、悲劇だと、その印象は変わらない。今回久しく意識に登ってこなかった「ロング・グッドバイ」を観ることになった。
作家らしいジョーは英語で演じる。英語と日本語のコラボだが、筋書きがわかる観客やテネシー・ウィリアムズの作品に馴染んでいる人には、十分想像できる舞台だ。「欲望という名の列車」は映画になっている。スミスさんの何かに憤っている雰囲気は伝わってきた。オリジナルの英語のセリフで演じるスミスさんと他の役者との関係性の隙間に、あまり違和感は感じなかったが、どこかスミスさんの独り相撲のような舞台。対抗する役者のことばと身体との拮抗が弱いと感じた。つまりジョーの英語のセリフに日本語のセリフが負けている感じは否めなかった。マイラーは崩れていった。恋人のビルが病で死んでいく母親のダブルキャスティングである。ビルは女を弄ぶ若い青年で、母は病の淵に~。父は?家族を捨てた父親。死んでいった家族と残されたジョー。
心理劇のリアリズムの結末は、暗い。否そこから未来はいくらかの光がさしているだろうか。ジョーの苛立ちに拮抗することばの弱さ、暗いアパートメントの雰囲気が伝わってきたのは事実だ。二人の運送屋の演技、小道具の使い方など、違和感はなかった~。背中を見せて舞台に臨む。その流れもなるほどで~。テネシー・ウィリアムズの作品は私小説のような要因が高いとも言われる。家族の関係性の彩りの陰影、家族関係の絶対性を逃れることができないわたしたちの実存がありそれゆえに今でもテネシー・ウィリアムの作品は読まれ、舞台化され続けるのだろう。
出演者:神田青、金城裕一、小池光津弘、たからみのる、鳥井由美子、Miltons beratlis
ショートメールで10年目の『わが街の小劇場』は幕を下ろすと福永武史から知らされた時、残念だとは思ったけれど、そういう締め(終わり)もありえると思った。10年間頑張ったのだ。11月に最終舞台が上演されるという。
以下は、Tennessee Williams作品、Long Good Byeの日本語訳です。
http://www.ilaboyou.jp/text/text_LongGB.html
テネシー・ウィリアムズ回想録(鳴海四郎訳 白水社 ISBN 978-4560046739)を持っている。英語英文科学部生の頃買った一冊だ。昨今だった。断捨離で部屋を片付けている時に見つけた。分厚い本で、鉛筆であちらこちら線が引かれていて、あの頃真面目に読んだのだということはわかった。大学時代にA Street car named Desire (1947)やThe Glass Managerie(1944) を授業で読んだ。戯曲を読む時、なぜか主人公たちの悲劇的な結末が予測できる時、なぜかそれ以上結論まで読んでいくのが、嫌な気分になったことがあった。『欲望という名の列車』にしても『ガラスの動物園』にしても女性たちの人生の悲惨さが描かれている。心理的なリアリズム演劇で、悲劇だと、その印象は変わらない。今回久しく意識に登ってこなかった「ロング・グッドバイ」を観ることになった。
作家らしいジョーは英語で演じる。英語と日本語のコラボだが、筋書きがわかる観客やテネシー・ウィリアムズの作品に馴染んでいる人には、十分想像できる舞台だ。「欲望という名の列車」は映画になっている。スミスさんの何かに憤っている雰囲気は伝わってきた。オリジナルの英語のセリフで演じるスミスさんと他の役者との関係性の隙間に、あまり違和感は感じなかったが、どこかスミスさんの独り相撲のような舞台。対抗する役者のことばと身体との拮抗が弱いと感じた。つまりジョーの英語のセリフに日本語のセリフが負けている感じは否めなかった。マイラーは崩れていった。恋人のビルが病で死んでいく母親のダブルキャスティングである。ビルは女を弄ぶ若い青年で、母は病の淵に~。父は?家族を捨てた父親。死んでいった家族と残されたジョー。
心理劇のリアリズムの結末は、暗い。否そこから未来はいくらかの光がさしているだろうか。ジョーの苛立ちに拮抗することばの弱さ、暗いアパートメントの雰囲気が伝わってきたのは事実だ。二人の運送屋の演技、小道具の使い方など、違和感はなかった~。背中を見せて舞台に臨む。その流れもなるほどで~。テネシー・ウィリアムズの作品は私小説のような要因が高いとも言われる。家族の関係性の彩りの陰影、家族関係の絶対性を逃れることができないわたしたちの実存がありそれゆえに今でもテネシー・ウィリアムの作品は読まれ、舞台化され続けるのだろう。
出演者:神田青、金城裕一、小池光津弘、たからみのる、鳥井由美子、Miltons beratlis
ショートメールで10年目の『わが街の小劇場』は幕を下ろすと福永武史から知らされた時、残念だとは思ったけれど、そういう締め(終わり)もありえると思った。10年間頑張ったのだ。11月に最終舞台が上演されるという。