志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

女性だけの組踊「執心鐘入」と「執心鐘入縁起」(少し追記)

2010-11-27 23:50:59 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
佐藤孝子先生演出の女性だけの「執心鐘入」は澄んだ声音の女性だけの地謡の歌・三線が、劇場を清らかな空気に、凛とした雰囲気に包んだ。シンプルな清らかな、女性ならではの艶、コミカルさ、呼吸が感じられた。

宿の女比嘉いずみのあの妖艶さ、蝋燭を吹き消し、自らの匂いを若松に注ぐかのようなしぐさ、着物の裾がそっとなでるように若松の足元に触れるさま、んんん、これは新しいセンスだと感服していた。そして女と男の応答の場面の間の置き方は、まるでことばで対手の心を探り合うかのような応対である。 なるほど、女性の感性や視線、視点はこのように差異がでるのだ、と感じさせた。

鬼になっていく女の心の襞が見えるような展開、般若面をかぶってからの僧侶や小僧たちとの闘いの場面もふと見るとそこにチーグーシがあったという設定で、もはや従来の解釈を超えている。 鐘が吊りあげられそこに従来の見せ場があるわけでもない、しかし、すべてがすんなりと流れるのである。女は僧侶たちの唱えによって身を清められ、一瞬我に返ったようなしぐさで去っていく。怒り狂う女、迷いの中に身をうずめる狂女ではない。

Simplicityの良さがあった!女の座主、小僧たちの唱えもなかなかピッチは高かったがそれでさわやかさが残る。このように女性だけでやれる組踊だと再認識できた。

一方「執心鐘入縁起」も大和の美に大和の姫への思いを抱いて海に果てる譜久村里之子の幻影と一道になる思いを、朝薫自らが過去を回帰する中で同化していくが、舟の上の二人の語りと踊り、歌は引き込んでいった。異文化に憧れる心、しかし、それはあくまで日本人の折口信夫が夢想した美、大和の心象風景である。「琉球の貴族たちは大和に恋慕してやまない」という折口の幻想が生み出した産物である。琉球は自然もまた大和に劣ったものとして立ち現われる。戦後の焼け野が原のイメージの島に戻るという枠組みには違和感が起こった。

それにしても使節団がお城の中の姫たちにまみえる間合いがあったのか、恋心は想像できたとしても、--、朝薫もまた姫に言い寄られた思い出を持っていた。踊りのご褒美にもらった大和の姫の着物を抱いて恋慕に泣く里之子の姿がある。譜久原里之子の思いを汲んで朝薫が創作するという物語の流れだが、「執心鐘入」の台詞が一部登場する。そして上り口説である。海の上の舟で奏でられる物語、クライマックスは最初からぼーっとした里之子の姿である。恋愛、幻想、追慕がテーマか?琉球をみすぼらしく、ただ海を眺めて暮らす凡庸な国と描いている。異論もあろうが、大和の学者の感性にそってみるのもまた、それが中央からみたオリエンタリズムの匂いがしても、それはそれで「なるほど」の空間だった。

組踊はまだ遠かった!やがて朝薫が5番を創作することになる。大和の国の芸能が与えた影響の大きさはあろう。道成寺のもどきのような「執心鐘入」である。大和の芸能をどう琉球の根におろすか、五感に記憶した華を舞台にどう生み出すか?朝薫の創造の闘いが江戸登りの中にすでにあったということは自然のことに思える。異なる文化と衝突することによりそこから芽生えたもの、それがまた組踊だった、というのはあながち嘘ではないだろう。

*************
以上は別のブログに書いたのを転載した。海の上の舟はすでに「山原船」でイメージができている。後は同じような舞台美術になった。憧れの世界、希望と失望の世界、幻想・幻影、「これだと組踊にしたら良かったね」といつも新作組踊が舞台化される時、「なぜ芝居ではだめかしら」と言う女性が言いきった。「何か子供じみて、最後の終わらせ方などちゃちね」と、彼女。テーマとしては美しい大和の美意識に心中する琉球の若衆ということで、文化の優劣意識があるのは確かだろう。折口は大和の人間だから、解説の方によると、道頓堀近くに住み、芸術の最大の表現は戯曲だと云いきったそうで、歌舞伎の舞台の美を既に堪能した方だったようでもある。

大和の折口の視点から見ると組踊創造の秘話はそういう事になる。大城立裕氏の「嵐花」の方がいいなー。踊りが物をいうのである。現実に政治の嵐の中で創造していく組踊である。しかし折口のは、恋、それも大和のお姫さまに代表されるもの総体に恋する若者の姿である。イントロで映像を流した。台詞にない日本の古典芸能に目を見張った朝薫を解説者のように登場させる。江戸立ちの面々が見たであろう風物など、逆に見られたであろう風物。このような解説があって成り立つ。しかし恋ゆえに入水自殺する男を黙って見逃していた朝薫でもあった。そうだ、朝薫の頭に次第に姿を現す雰囲気が「執心鐘入」らしい。歌と台詞が動き出してくる。

ところで、玉城朝薫を演じた大田守邦はかなりしっかりした朝薫役を演じきった。美しい若衆譜久村里之子役・佐辺良和は、あでやかだった。声も歌も舞踊も含め、女性美(女形)を、今最も華として演じることのできる舞踊家・男優である。それから地謡は比嘉康春氏を筆頭に氏の愛弟子の仲村逸夫のソロの下り口説や七尺節は聴きごたえがあり、新垣俊道と二人の上り口説などもうっとりと聞けた。創作曲はクライマックスを盛り上げていた!新作を見せる、聴きごたえのある空間(磁場)へと高めていく芸術創造のパッションを持った舞台芸術家のみなさんの今日から明日に拍手!

台詞を見ると、朝薫に「来年にもある冠船踊には、今の相舞を土台にして、琉球中を振い動かすようなものを書いてみよう」と言わしめる。「そうして琉球をだれもが誇りをもって生きる楽しい国にしようーー」と。その台詞に対して、ある女性は「おかしいね。組踊は、あくまで冊封使のための歓待芸能だったのでしょう。彼らのために創ったのであって琉球の民の誇りのためという思いはなかったはずよ」と、冷ややかなコメントがあった。なるほどである。しかし朝薫の思い(意図)を越えて国劇として重宝されたのでありました!そして現在に至ります。文化の潮流は人を変えるのです。

「僕らが若い頃書いた新劇みたいだったなー」と大城立裕先生のご発言でした。それもなるほどです。/FONT>





<多良間の組踊>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。