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琉球史劇「火城」(かじょう)を観た!雨の中、大勢の観衆!

2016-01-17 23:21:11 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

歴史をなぞった舞台だった。王府の官吏として有能だった朝薫が描かれた!新しさは近松門左衛門に会い、曽根崎心中の浄瑠璃を見た朝薫を冒頭に持ってきた。近松と面談し琉球国劇への思いを発する朝薫の姿が描かれる。そして終幕の冊封使とのやり取りの場面で、昆劇と北の劇?との合体の中で北京に京劇が創作されるという対話が挟まれたところなど、歴史の推移は感じられるが、果してそのような対話がなされただろうか?

場面毎の暗転、そしてなぜか場面毎に尻切れのようなつながりにも思えた。火城である。冒頭のスクリーンと音楽は映画の始まりのようでひきつけられた。映像をもっとうまく連鎖劇のように展開したらもっと面白みが出たかもしれない。大人数のキャストで豪華、首里城の幕も迫力があった。松明がとうとうに闇の中の宝石のように輝く。首里城から天使館までずらりと火が灯っていたのである。

ナレーションが北村三郎さんのようにうまい語り口のウチナーグチだったらもっと味わい深かっただろうと思う。物語と台本のできばえが良かったかどうか、新しい発見はあったが、もっと練り直されるべき舞台に思えた。演出や台本の練り直しでまたもっとスピード感がでてくるのかもしれない。

那覇市文化協会の野心的な舞台でした。民衆劇と芸術性、再演を期待したい。この舞台で興味深かったのは台本の中のやはり近松門左衛門と朝薫の関係、そして叙葆光が芸術の力について語ったことと北京オペラへの言及である。福州で人気のあった昆劇などが北京で上演され新しい劇形態が誕生したことなどー。

 演技に関するならば玉城朝薫役の玉城盛義の独り舞台のような舞台構成に見えなくもなかった。那覇港浚渫脇奉行の実績を舞台で見せるための場面展開(歴史上、6万人以上の労役を得て為されたという)は、朝薫の人物像を描く意味で面白いと思ったが、那覇港がどう整備されていったのか、わかりにくかった。庶民の労苦は見えたがー。

京劇の歴史←ウィキペディアから(確かに組踊の1719年より後ですね。1790年です)

清朝乾隆55年(1790年)、中国南方の4つの徽劇班「三慶班」「四喜班」「和春班」「春台班」(四大徽班)陸続と北京に来訪。まず“二黄”声腔を持ち味とする「三慶班」が北京で人気を博し、それに続いて「四喜班」「和春班」「春台班」が北京に進出した。北京には「秦腔」という演劇があったが安徽省の劇団に人気を奪われる形となり、両者の融合が自然と行われた。

道光8年(1828年)前後、湖北劇団が北京に進出し漢調(楚調、西皮調)を特色とした演劇は安徽省発祥の劇団にも影響を与え、独自の演劇へと発展して行った。このように北京の外の劇団が担ってきた北京の演劇であり上演は南方方言で行われてきたが、北京での人気を得るに従い北京語での演劇の需要が高まり、北京語での演劇が考案、上演されるようになった。この時代には道光時代鼎甲と呼ばれる3人に名優・程長庚、張二奎、余三勝が活躍した。

その後太平天国の乱などで南方の政情が不安になると南方の劇団が北京に集まり、さらに西太后の手厚い庇護を受け北京独自の演劇として一層の発展、熟成がなされた。この時代には同治帝光緒帝の2帝の治世の当たり「同光十三絶」と称される13人の名優、すなわち郝蘭田、張勝奎、梅巧玲、劉趕三、余紫雲、程長庚、徐小香、時小福、楊鳴玉、盧勝奎、朱蓮芬、譚鑫培、楊月樓の13人が大いに京劇を盛り上げた。

昆劇のウィキペディアです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%86%E5%8A%87
京劇のウィキぺディアです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E5%8A%87

http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-bd56-1.html←琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏と近松門左衛門の関係性が浮かび上がってきます。

 

 

 

 

 


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